チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記(8)|セルゲイ・ミールヌイ 訳=保坂三四郎
初出:2014年6月1日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.14』
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第4章 エンタメ
親愛なる同志!
チェルノブイリ原発ゾーンの住民・労働者のための文化振興本部は、文化会館で開催されるキエフ演芸団のショーをご案内します。ショー開始 7月17日19:00
チェルノブイリ市の掲示
1986/7/17 夜。テントで横になっている。
すぐ隣で曹長が飽きもせず延々としゃべっている。
最初は酒。次は女。
開いたまま置かれた本。
ミハイル・ステリマフ[☆1]全集。全5巻のうちの第3巻〈大いなる家族〉。第2章と第3章。チェルノブイリ船舶修理工場責任者の押印とともに以下のようなメッセージが添えられていた。
「チェルノブイリ原子力発電所の有志一同から親愛なるイーゴリに捧ぐ。1986年6月1日。人生は君の期待したほど多くを与えてくれなかった。チェルノブイリ原発。」
「2週間も読んでいるのに、いまだに読みきれない」とジェーニャが愚痴をこぼす。
放射能偵察小隊長の作業ノートより
第26話 バーニャ
人間とは歩く水溶液である。
──コロイド化学教科書の銘句
バーニャ[☆2]とは、実践的な入浴法のことである。とくに軍隊のバーニャは平時に得られない特別な清潔感、解放感、高揚感、爽快感をもたらす。〈崇高な儀式〉と呼んでもよいくらいだ。
バーニャでは身体から〈皮膚の死細胞、汗と分解物、皮脂腺の分泌物、さらに付着した埃やその他の汚れ〉を洗い落とす(汚れは放っておけば、あくせく動き回る自分の体に何日間どころか何週間もまとわりついている)。と同時に、バーニャは水との神聖な戯れでもある。ほんの一瞬だけ物理的に存在する場所を離れ、記憶の奥底の果てしない大海原に旅立つ。太古の昔、冷徹に荒れ狂う海からわれわれ生物の祖先、コアセルベートと呼ばれる蛋白質の小さな塊が現れ、数十億年かけてちょっぴりの知能とこれだけ立派な身体を発達させたという……
水は人間を薄い皮膜で包みこみ、その純粋な起源と結合させる…… どんな人でも、ろくでもなしでも、人間の3分の2は清く透き通った水からできている……
全身が洗い清められ、復活を遂げる……
それがバーニャの醍醐味……
技術的解説に移ろう。
野外の環境ではどうやって隊員の身体を洗うのか。
「簡単なことだ。DDAを使うんだ」兵役上がりなら誰もがそう答え、ちょっと考えてからこう付け加えるだろう。「でもそれにはARSも必要だな……」
こんなの基本中の基本だろ?
ARSとは自動注水ステーションのこと。世間では散水車と呼ばれている(軍のやつはカモフラージュの塗装が施されている)。ARSはタンクから配管を通じて消毒シャワー車(DDA)に水を供給する。DDAは、オフロードトラックの車台に金属製の小部屋が設置されていて、水をボイラーで温めてホースを通じて〈シャワー装置〉へと送る。ここで隊員が体を洗う。
私は幸運にもチェルノブイリ以前に2度このようにして体を洗ったことがあった。あの独特な感覚。それにしてもこんな〈幸運〉、皮肉をこめて語らずにはいられようか。
セルゲイ・ミールヌイ
1959年生まれ。ハリコフ大学で物理化学を学ぶ。1986年夏、放射能斥候隊長として事故処理作業に参加した。その後、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で環境学を学び、チェルノブイリの後遺症に関して学術的な研究を開始。さらに、自分の経験を広く伝えるため、創作を始めた。代表作にドキュメンタリー小説『事故処理作業員の日記 Живая сила: Дневник ликвидатора』、小説『チェルノブイリの喜劇 Чернобыльская комедия』、中篇『放射能はまだましだ Хуже радиации』など。Sergii Mirnyi名義で英語で出版しているものもある。チェルノブイリに関する啓蒙活動の一環として、旅行会社「チェルノブイリ・ツアー(Chernobyl-TOUR)」のツアープランニングを担当している。
保坂三四郎
1979年秋田県生まれ。ゲンロンのメルマガ『福島第一原発観光地化計画通信』『ゲンロン観光地化メルマガ』『ゲンロン観光通信』にてセルゲイ(セルヒイ)・ミールヌイ『チェルノブイリの勝者』の翻訳を連載。最近の関心は、プロパガンダの進化、歴史的記憶と政治態度、ハイブリッド・情報戦争、場末(辺境)のスナック等。