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    小さな符合を引き受けること 愛について──符合の現代文化論(最終回)|さやわか

    webゲンロン 2023年10月31日配信
     この連載では古今東西のポップカルチャーを扱ってきた。とりわけ、日本の作品を多く取り上げた。だがいま連載を振り返り、改めて思わされることがある。それは日本の作品が、世界市場でかつてほど興味を持たれていない、ということだ。 
     昨今のエンタテインメント産業はグローバル経済の渦中にあり、各国発のポップカルチャーが、世界中で人気を集めることは珍しくない。だがそうした現状にあって、とりわけ日本発の作品に注目が集まっているとは言いがたい。連載では日本のヒット作品にもいくつか触れたが、それらですら、国際的に圧倒的な知名度を誇るわけではない。 
     1990年代、アニメや漫画、音楽など、まさに日本のポップカルチャーが世界に注目されはじめた時代には、それらがグローバルな存在になると、多くの人が予感していた。だが30年経った現在、当時の予感に反して、世界を席巻しているのはむしろ日本以外の国のポップカルチャーだ。  
     もちろん現状でも、日本のポップカルチャーが、世界から全く興味を持たれていない訳ではない。2022年のアニメ映画『ONE PIECE FILM RED』は世界中で上映されたし、各国メディアは好意的なレビューを数多く寄せた。また音楽サブスクリプションサービスのSpotifyには、最近になって「Gacha Pop」、すなわち日本のポップカルチャーで馴染みのある「ガチャ」という語を冠した、邦楽ポップスのプレイリストが創設された。現在の音楽産業で強い存在感を示すサービスが、日本を意識した動きを見せたとは言える。 
     だが、それらはいずれも散発的な動きだ。個別の事象はあっても、世界のカルチャーシーンが、日本アニメや邦楽ポップスの動向を追い続けているとは言えない。 
     日本のポップカルチャーの動向が、そもそもグローバルな関心と一致していないという意見もある。記憶に新しいところでは、2023年にアニメ『範馬刃牙』が、日本の作品として史上初めてNetflixで全番組トップの視聴数になったことがウェブ上で報じられた。しかしその記事では同時に、この作品が格闘を主題としており、現在日本で主流の作風とは全く異なることも指摘されている。日本人は「海外で日本のアニメが人気」と聞くと、自分たちが関心を持つ作品を、海外の視聴者も楽しんでいるのだと思いがちだ。しかし、実際はそうではないということになる。 
     ドメスティックな興味関心で作られた作品をそのまま持っていっても、世界市場から理解されないのは当然だという人もいる。だがタイのBLテレビドラマはそのままの内容で世界規模の人気になったし、韓国のポピュラー音楽や映画は、国内市場での人気を維持したままビルボードやアカデミー賞で躍進した。つまり、日本以外の国は、国内向けでありつつ、国際的な文脈にも沿った作品を作っているのだ。なぜ日本の作品群は、そうではないのか。 
      
     こうした疑問に、いわゆる「日本異質論」で答えることは可能だ。この言葉は、元々は1980年代の日米貿易摩擦をきっかけに、欧米社会から日本人の姿勢が批判される文脈の中で誕生した。すなわち、日本人の考え方は閉鎖的かつ集団主義的であり、それは自由経済を重んじる国際社会からすれば非常識で、異質なのだ、というのである。 
     さらに遡れば、60年代以降の日本は、欧米社会から文化的に好奇の眼差しで見られるようになっていた。それはイギリス映画『007は二度死ぬ』(1967年)での荒唐無稽な日本描写などにも表れているし、エドワード・ホール『文化を超えて』(1976年)の「日本文化はハイコンテクストだ」という議論や、ロラン・バルト『表徴の帝国』(1970年)の「日本は意味なき記号の溢れかえる国だ」といった主張にも見て取れる。 
     欧米によるこの種の日本理解は、総じて欧米人が日本のことをよく知らないからこそ生まれた、根拠薄弱なものだった。だが日本人は欧米の日本理解に違和感を持ちつつも、どこか誇らしい気持ちでこれを受け入れ、内面化していった。エドワード・サイードが『オリエンタリズム』(1978年)で指摘したように、東洋世界は西洋が与えたレッテル張りを内面化し、自らをそのイメージに合わせていく。日本の場合も「日本は他の国とは異なる」という欧米からの指摘に、自ら傾倒していった。 
     日本異質論は、敗戦後の日本が国際舞台で注目され、奇異なものとして受け入れられた時代の最後に登場したものだった。バブル景気の絶頂に向かう80年代後半にあって、日本の論客の多くはこれを国際社会による難癖として退けたが、同時に多くの日本人は「自分たちが世界の中で特殊である」という考えを優越感とともに受け入れていったのである。 
     こうした背景もあって、この時期に大きく市場を拡大した日本のポップカルチャーもまた、それがグローバルな価値観によって作られておらず、むしろ世界的に見てキッチュだからこそ尊いと主張されるようになっていった。たとえばバブル時代を経た日本のポップカルチャーの爛熟期に、岡田斗司夫はいわゆる「オタク」の行動様式について次のように書いている。 

    「子供騙し」の番組を大人になってからあえて見る、というのも相当無意味な行為だ。ましてやそれに本気になる、なんて相当な粋人でなければ出来ない。「粋」はオタクに必要不可欠な要素なのだ。★1

     「あえて」「相当無意味な行為」をするという言葉から、岡田がオタク文化を酔狂なものだと考えていることがわかる。そしてそれを「粋」だと述べているように、岡田はオタク文化が、日本庭園や茶道などと通底する思想を持った「日本文化の正統後継者だ」と主張する。さらには、それが「キリスト教とギリシャ哲学を源流とする西洋メインカルチャー」や「そしてその最終兵器としてのサブカルチャー」と覇権を争いうるものなのだとも言う。 
     つまり岡田は、日本のポップカルチャーが国際的に見て異端であることがむしろ美点であり強みだと捉えている。それは日本異質論を経てバブル景気の上で成り立った、爛熟した日本のポップカルチャーを語るのに似つかわしい論調だった。 
     だが、日本人が日本異質論をも誇らしく思えたのは、まさに空前の好景気があったからこそだろう。つまり、他国は日本が異質だなどと言っているが、それは独自の優れた発想があるということで、だからこそ我が国はうまくいっているのだ、と自画自賛できたのである。 
     ところがその時代が終わってみると、他国とは異なる特殊なものが、単純に世界市場に受け入れられもせず売れ残っている、という事態になる。それでも、90年代の岡田斗司夫のような、日本のポップカルチャーは特殊であるからこそ優れているという主張を繰り返す論者は今でも後を絶たない。今なお国際的な競争力を保っていると強弁する向きすらある。 
     しかし、子供だましのような日本のポップカルチャーにあえて価値を見出す考え方が優れていて、その転倒した価値観が世界を席巻するのだという理屈は、各国のポップカルチャーが着々とグローバル市場へ広がってしまった現在、どれほどの意味を持つだろうか。 
     そもそもそうした主張は「あえて」という理路を通す以上、それが世界はもちろん日本社会においても、ふつうは支持されないことを前提にしている。だが、それは正しいことだろうか。つまり、日本のポップカルチャーが世界に単純に受け入れられないのは当然のことであり、またそうあるべきなのか。 
     筆者の考えは違う。なぜならこのタイプの主張は、常に、日本のポップカルチャーでありながら世界から正当に評価され続けている、あるジャンルを無視することで成り立っているからだ。そのジャンルとは、コンピュータゲームだ。 
     日本のゲーム市場は、それが成立した当初から圧倒的な輸出超過で、2020年代の今でも、その傾向は続いている。しかも国内での販売数が多いゲームソフトほど、海外での売り上げも多い。これらは、他のジャンルには見られない、ゲームだけの動向である。つまり日本のポップカルチャーで、ゲームだけが、国際的な文脈と一致している。 
     言い換えれば、日本のポップカルチャーで国際的な競争力をかつてより持ち得ていたのは映画でもなく、音楽でもなく、もちろん小説でもなかった。アニメや漫画ですらない。ゲームなのである。しかし日本異質論を語っていた人々は、興味がないからという理由か、または無意識からか、ゲームを視野の外に追いやっていた。そのジャンルに目を向けることで、日本のポップカルチャーが国内の需要を満たしつつグローバルになるための、ヒントを得られるはずだ。 
      
     では日本のゲームクリエイターたちは、国際標準となるべきソフトを、どのようなスタンスで開発しているのか。『スーパーマリオブラザーズ』など世界的なヒット作の生みの親として知られる任天堂の宮本茂は、次のように語っている。 

    「日本から発信とか言っている時点で『ローカルだな』と思うんですよ。はじめは『ドンキーコング』も、アメリカで売れるためにどう作ろうかというよりも、アメリカの人たちをモニターしながら作ったんですよ。だからグローバルというのはあまり意識していないんです。最初から世界向けに作っているんです」

    「日本で売るかとか、過去にどんなものが売れたとか関係なく、『ここがおもしろいんですよね』という、自分の中にある、おもしろいものを一生懸命分かってもらうためにゲームや映画を作っていけば、それはおのずとグローバルに通じるので、肩に力を入れずに好きな物を作ったほうがいいと思うんです」★2

     ここで宮本は「自分の面白いと思うもの、好きなものを作っていれば、うまくいく」と取り澄ましたような理想論を語っている訳ではない。よく読むと彼が言っているのは「自分が面白いと思うものを、できる限り多くの人が理解できるように作るべきだ」ということでしかない。だがそうだとしても、そもそも宮本は、なぜ「最初から」世界標準の作り方を志したのか。それは、日本のゲーム産業が世界市場を重視するしかなかったからである。 
     繰り返すが日本のゲーム産業は、初期から圧倒的な輸出超過だった。宮本の言葉にもあるが、彼の処女作である『ドンキーコング』(1981年)は任天堂のアメリカ現地法人の期待に応えて作られた作品だったし、その一年前に発売されていたナムコの『パックマン』が予想外の大ヒットを飛ばしたのも北米だった。 
     一方日本では、70年代末以降に社会問題化した青少年の非行問題とゲームが関連付けられ、激しいバッシングを受けていた。たとえば深夜営業が許されていたゲームセンターが「不良の温床」と呼ばれて批判を集め、業態変更を余儀なくされていったことなどはよく知られている。 
     その影響は長く尾を引き、80年代後半以降も、ゲームに対する日本の世論は厳しかった。『スーパーマリオ』がどれだけ売れようとも、大人がそれなりに面白いと感じようとも、基本的にゲームは低俗で、それこそ「子供だまし」のものだという前提が長く共有された。そうした考え方をしている人は、今なお多い。 
     漫画やアニメ、ポピュラー音楽など、ゲームに先行するポップカルチャーは、70年代にはファン層が高齢化し、また80年代には大量消費社会に後押しされて作品数が膨大となり、シーンは非常に成熟していった。岡田斗司夫が90年代になってアニメや漫画を高度な文化として語れたのも、そうした前史を経たからこそである。 
     翻って考えると、同時期のゲーム産業は日本国内で軽んじられ、冷遇されたと言っていい。ゆえに80年代から90年代にかけて、ゲームは先行するポップカルチャーのようなシーンの成熟を経験できなかった。売り上げがどれだけ伸びようとも、質を伴ったファンダムや批評メディアが育たなかったのである。 
     こうした時代状況を考えると、宮本が「最初から世界向けに」作ったこと、つまり、日本はもとより世界中の誰もに「一生懸命分かってもらう」、支持してもらうソフト作りを目指したのも自然な流れで理解できる。ゲームへの考え方が歪められておらず、また最初から日本のゲームを好意的に受け入れる土壌のあった世界市場を念頭に置くのは、当然のことだったのだ。 
     当時、同様の考え方で世界市場を意識していた日本のゲーム開発者は多い。たとえば『ストリートファイターⅡ』(カプコン、1991年)で対戦格闘というジャンルを生んだカプコンの岡本吉起が、北米のスタッフからの要請に基づいて同作を設計したことなどは、非常によく知られている。 
      
     最初から世界市場を意識しながら生き延びてきた日本のゲームは、現在でも世界で存在感を示せるジャンルであり続けている。ならば、グローバルに支持される日本の作品とは、一体どんなものか。一口に言えば、それは物語の定型性、つまり記号的なキャラクター造形や世界観を最大限に利用することで、世界中のプレイヤーが容易に理解できるものとして作られた作品だ。 
     具体例を挙げよう。ここでは任天堂の看板作品のひとつである『ゼルダの伝説』シリーズ、とりわけ2017年に発売された『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』を取り上げる。 
     この作品の売り上げは全世界で累計3000万本に達した。次作『ゼルダの伝説 ティアーズ オブ ザ キングダム』(2023年)は任天堂の作品で最も早く1000万本を売り上げ、ギネスブックに登録されたという。歴代2位の売り上げとされる『ゼルダの伝説 時のオカリナ』(1998年、2011年)が、発売後10年以上経って発売されたリメイク版の売り上げを合わせてようやく1000万本を超えるのを鑑みると、『ブレス オブ ザ ワイルド』以降、このシリーズには大きな転換があったと考えていいだろう。 
     シリーズの各作品は独立した内容になっているが、外伝的な作品を除けば、筋書きは同じだ。いずれも「剣士リンクが、最強の剣マスターソードを手に入れ、魔王ガノンを倒し、ゼルダ姫を救う」という物語になっている。 
     なぜ同じ筋書きで作られているのか。むろん、この筋書きがハイファンタジー調の物語では定番のもので、世界中のプレイヤーが理解できるからだ。しかし『ゼルダ』シリーズが独特なのは、筋書きだけでなくリンク、ゼルダ、ガノンなどの人物名や、彼らの服装、マップ上の地名、登場するアイテムの一部まで、シリーズをとおして共通していることだ。 
     ゲームの人気シリーズが、過去作と同じ設定やゲームシステムを使い回すことは、必ずしも珍しくない。たとえばスクウェア・エニックスの『ファイナルファンタジー』シリーズの各作品は独立した内容になっており、世界観も異なる。だが体力を回復させる魔法は、どの作品でも「ケアル」という名前だし、「フェニックスの尾」を使えば死んだ人間を復活させられる。 
     ところが『ゼルダ』シリーズは、魔法やアイテムの名前や効果にとどまらず、登場する地名や物語の筋書きまで一緒なのが大きな特徴となっている。プレイヤーはどの作品をプレイしても、いつも同じ名前の主人公を操り、別作品にも登場した場所へ赴き、同じ悪玉と戦うことになる。裏をかかれることはなく、どの作品でもガノンは必ず悪であり、ゼルダは常に善なる存在として描かれる。 
     このように定型的な物語を繰り返すやり方は、実は、あまり現代的とは言えない。むしろハイファンタジー調の物語では、20世紀半ばにJ・R・R・トールキン『指輪物語』が登場して以降、魔法や魔物など幻想的な設定を破綻のない世界像へと練り上げていくことが主流となった。簡単に言えば、この世ならざるファンタジー世界でも、ひとつの完結した世界として、近代的なリアリズムによって描かれるようになったのだ。 
     こうしたリアリズムの手法を採り入れたファンタジーは、ゲームでも黎明期から模索されている。近年でも、ベセスダ・ソフトワークスの大ヒット作『The Elder Scrolls V: Skyrim』(2011年)のように、種族の違いや地政学を伴う政治的駆け引きなど、どこまでも生々しく細部を作り込んだ物語を持つ作品が支持されている。 
     他方で物語の定型性を重んじる『ゼルダ』は、この路線とは異なるものだと言える。むろんこのシリーズでも、作品世界の自然環境や魔法などは体系化されている。ところが前述のように根幹を成す設定や筋書きはあからさまに記号化されており、リアリティが引き下げられている。 
     それゆえに、『ゼルダ』の物語が、それこそ子供だましなものだと指摘する者もいる。だがおそらく、そのような手法を採ることには理由がある。任天堂は、ファンタジー世界の体系を隅々まで整えてリアルさを装うより、重要な部分ほど、記号化されていた方がいいと考えているのだ。それはいわばピクトグラムのようなものだ。世界中の人からストレートに「分かってもらう」には、記号的な表現を用いるべき、というのが任天堂の考え方なのである。こうした姿勢は『ゼルダ』のみならず、任天堂のあらゆる人気作に共通している。 
     興味深いのは、『ゼルダ』シリーズに繰り返し登場する記号が、作品世界内の因果律で説明付けられていないことだ。たとえば各作品に「リンク」や「ゼルダ」がいるとしても、明確に過去作品の子孫や先祖として語られることは少ない。過去作品の「リンク」「ゼルダ」とは全く無関係な人物であることも多い。 
     これは、ポップカルチャーには珍しい設定である。一般的には、シリーズ作品が似通った設定で作られる場合、各作品の登場人物は別人であっても遠い血縁関係にあるとか、同じ人物の「別の可能性」を描いたものとされることが多いのだ。たとえば連載の第一三回で紹介した『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は後者の例だと言える。あの作品では、過去のシリーズで描かれてきたスパイダーマンを「マルチバース」というアメコミでは古くから見られるパラレルワールド設定で説明付けていた。 
     だが『ゼルダ』シリーズでそのような説明が行われるのは、一部の作品だけなのだ。基本的にはシリーズに登場する「リンク」や「ゼルダ」が血縁関係だとか、パラレルワールド上の同一人物などという設定にはなっていない。 
      
     もっとも、任天堂はそのような関連付けをしてこなかったにもかかわらず、『ゼルダ』シリーズ全体が同じ時空で起きた出来事であるという設定を、後年になってから追加した。  
     この追加設定は、『ゼルダの伝説 スカイウォードソード』(2011年)が発売された際に作られた。小学館が発売した任天堂公式ガイドブック『ハイラル・ヒストリア ゼルダの伝説大全』(2011年)の巻頭で『スカイウォードソード』は「はじまりの物語」つまり過去作も含めたシリーズの舞台となる「ハイラル王国」の、創始の物語であると明記されたのだ。さらには「ハイラル全史」として、過去の全作品がひとつの時空にあった出来事として、時系列でまとめられている。
     これは奇妙なことである。わざわざ同じ世界の出来事だということにしつつ、ばらばらの時代に「リンク」「ゼルダ」「ガノン」などの人物が何度も存在し、何度も同じような戦いをするのは、不自然なことだろう。同じ名前の人物が登場し、同じような物語を演じながらも、それぞれは無関係だとするなら、はじめから別々の時空で起きた出来事であるとしたほうが違和感は少ないはずだ。 
     このような奇妙な設定は、何を意味するのか。その答えが『ブレス オブ ザ ワイルド』の中にある。作中で、ハイラルの歴史を口伝する老婆インパが、主人公リンクに次のように語るのだ。 

    ハイラル王国の歴史は太古の昔から 幾度もガノンという名の厄災に 見舞われてきた歴史 ……
    その度 勇者の魂を持つ者と女神の血を引く聖なる姫の活躍によって 平穏を取り戻して来た 繰り返しの歴史なのじゃ……

     ここでまず目を惹くのは「繰り返しの歴史」という言葉だ。なぜなら「繰り返し」はポップカルチャーで定番の設定だからである。ありがちなのは、既に起こってしまった悲劇をなかったことにするため、主人公が時間旅行を行って過去に戻るという筋書きだ。つまり同じ時間を「繰り返し」て、悲劇が起こらないように「やり直す」のが作品の目的になる。2016年に大ヒットした新海誠のアニメ映画『君の名は。』や、連載の第1回で扱った映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』(2019年)などがこれにあたる。『ゼルダ』シリーズでいえば1998年に発売された『時のオカリナ』もそうした物語だった。 
     こうした作品の中には、主人公が時間遡行をしても問題を解決できず、何度も時間遡行を「繰り返し」て「やり直す」ことを目指すものも多い。それらは「ループもの」というサブジャンル名で呼ばれ、ノベルゲーム『STEINS;GATE』(2010年)やアニメ『魔法少女まどかマギカ』(2011年)などをはじめ、人気作は枚挙に暇がない。『ゼルダ』シリーズでは『時のオカリナ』の直接の続編である『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』(2000年)も、ループものの物語だった。 
     ところが、『ブレス オブ ザ ワイルド』でインパの言う「繰り返し」は、『ゼルダ』シリーズで厄災ガノンとの戦いが繰り返されてきた、ということでしかない。『ブレス オブ ザ ワイルド』では、ハイラル王国はゲーム開始時点から100年前に、ガノンによって既に滅ぼされてしまっている。だが、インパが言うのは時間遡行をしてハイラル王国を滅びる前の状態に戻せということではない。つまり『ブレス オブ ザ ワイルド』は「ループもの」とは違い、「やり直し」の物語ではないのだ。 
     にもかかわらず、なぜこれは「繰り返し」の物語と言えるのか。注目すべきなのはインパがガノンを単なる悪ではなく「厄災」、つまり国を破壊するほどの強大な災いと呼んでいることだ。それを意識しつつ荒廃したハイラル王国の姿を見ると、かつて映画『ゴジラ』(1954年)が都市を破壊する大怪獣を原水爆の比喩として描いたことが思い起こされる。つまり『ブレス オブ ザ ワイルド』の厄災ガノンも、地震や津波などの災害、あるいは戦争など、今日の私たちの日常生活を破壊する災害の記号として存在するのだ。 
      
     思えば人類は、何度も厄災に襲われ営みを破壊されながら、「繰り返し」復興してきた。個人の生活でも、私たちは失敗を「繰り返し」ながら、何とか人生を維持している。その過程に、起きた出来事をなかったことにする「やり直し」は存在しない。 
     『君の名は。』や『魔法少女まどか☆マギカ』をはじめ、主人公が「やり直し」を志す目的が、地震や津波などの災害の回避とされる作品は多い。それらの人気作に私たちの潜在意識が反映しているとするなら、私たちは自分の人生を変えた災害や事故を、もう一度「やり直し」、逃れたいと考えていると言えるかもしれない。実際、その気持ちがあったからこそなのか、日本が不況となった1990年代から東日本大震災後の2010年代まで、ループものの作品は非常に多く作られ続けた。 
     だが、ループものの根底にはヒロイックな運命論がある。周囲から理解されなくとも、自分だけがあらゆる時空の中で不変の、特殊な存在で、そんな自分が「やり直し」によって事態を好転させうるという考え方だ。それはこの連載で筆者が書いてきた、一対一の符合に固執する愛だし、結局のところ歪んだ形で日本特殊論を内面化した好景気の日本人と表裏の考え方でしかない。 
     私たちが意識すべきなのは、現実に「やり直し」は起こらないということだ。それぞれの時代にそれぞれの厄災があり、それぞれの時代の人々が事態の収拾にあたろうとするだけなのだ。『ゼルダ』シリーズの「リンク」や「ゼルダ」や「ガノン」が時空を共有しながらも無関係な存在だというのは、その比喩になっている。各時代の人々は、勇者の血縁者だからではなく、運命的なものがあるわけでもなく、たまたまそこにいた者として「リンク」「ゼルダ」という記号を、つまり「ガノン」を退ける者としての意味を、責任をもって果たさねばならなくなる。 
     この物語構造は、ゲームそのものの比喩にもなっている。私たちは「リンク」ではなく、むろん彼と縁もゆかりもない。たまたまプレイヤーとしてコントローラーを握っただけなのだが、しかしゲームが始まると、ハイラルを救うことを求められる。そのことと、たまたまそこにいただけであるにもかかわらず「リンク」として戦う主人公の役割が、重ね合わされているのだ。 
     そもそも私たちは生きるうえで、コントローラーを握る必要はない。別のゲームをプレイすることもできる。ゲームというのはそのくらいのものだ。しかし、ひとたび演じるキャラクターを決めたなら、つまり自らに新たな意味を符合させたなら、その記号としての責任を果たすことが求められる。偶然そこにいたような人が、その責任を引き受けるかどうかに、かかっている。 
      
     この連載では、愛とは何かについて考えてきた。新しい時代に求められる愛とは固執することではなく、しかし責任を果たすことなのだと、繰り返し書いてきた。それと同じ答えが『ゼルダ』にもあり、そして『ブレス オブ ザ ワイルド』にもある。 
     任天堂は、ゲーム内で繰り返される定型的な表現を、『ゴジラ』や『君の名は。』が描くような日本ならではの災害と「やり直し」のイメージへといったん接近させつつも、それを日本固有のものとしない。むしろ日本人にとってなじみ深いその表現が、普遍性のあるものだと考える。だから彼らは、「繰り返し」という言葉を、世界中のあらゆる場所に悲劇があり、多くの人が体験するという意味で捉え直したのだ。 
     近年、欧米とりわけアメリカのヒット作には、前述した『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』『アベンジャーズ/エンドゲーム』をはじめ、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』(2022年)やゲーム『スターフィールド』(ベセスダ・ソフトワークス、2023年)など、ループものの作品がよく見られるようになった。そこには今日、アメリカが自らを特異な存在と考えたり、歴史を「やり直し」たがる背景を想像したくなる。だが少なくとも言えるのは、ループものが専売特許のように日本のポップカルチャーを席巻した時代は終わったということだ。さらにそれとは無縁に世界で存在感を示し続けてきた日本のゲーム産業、そしてその代表格である任天堂は、既に「固執する愛」としてのループものには荷担していないということだ。 
     ゲームとは、たまたま与えられた記号を引き受けることだ。いま私たちが見直すべきなのは、任天堂が端的に示した、この普遍性である。人は運命や宿命、血のつながりがあるからこそ、困難を乗り越えると考えてはいけない。あるいは「ループもの」のように「やり直し」などできない。それに固執する時代は遠い昔に終わった。ただ、遠い過去や未来にも同じような出来事があることを思い、その事態に向き合う誰かとの間にささやかな符合、小さなつながりを感じつつ、自分は現在を為すことしかできない。新しい愛をもって、それをするだけなのだ。 
    ★1 岡田斗司夫『オタク学入門』、新潮文庫、2000年、187頁。単行本刊行は1996年。 
    ★2 「マリオ 映画化 ゲームとの違い なぜヒゲ?生みの親 宮本茂さんに直撃 | NHK | 京都府」、『NHK』2023年4月27日。URL= https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230427/k10014051081000.html

    さやわか

    1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。

    1 コメント

    • aike888g2023/11/06 15:20

      連載おつかれさまでした。単行本化も楽しみです。 さやわかさんの本やベストハンドレッド、カルチャーお白洲などに触れていると、さやわかさんのコンテンツ評価基準が多少なりとも分かってきます。またそこでは「単に『俺が好きだから良い』とかってことではない」というようなお話がたびたびされます。 やはり批評家としての倫理があるんだなあ、なんてぼんやり納得してしまうことももちろんできるのですが、「愛について」を読むと「じゃあなぜ評価基準がこのようになっているのか?」という背景の部分が分かるようになります。それこそ単なる好き嫌いではなく、コンテンツ史や世界の動向を踏まえ、「人類にとって」どう良いのか?ということを極限まで突き詰めた上での最終的なアウトプットとして、さやわかさんのあらゆる言説はあるのだと。 さやわかさんのお話はいつもそうですが、カルチャーの話をしているように見えてその実すぐれて普遍的な話をしているわけで、したがって今年で言うならたとえば東浩紀『訂正可能性の哲学』『訂正する力』を読んで面白かったような人はこの連載も読み漁ってみるという体験をおすすめします。

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