愛について──符合の現代文化論(15) 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)|さやわか

この作品は、偽装結婚した女性主人公・みくりと男性会社員・津崎のカップルが、後に愛し合い、正式に結婚するというあらすじになっている。これは少女漫画における同居ものや疑似家族ものではありふれた筋書きだ。だが同作は、その定型を逆手に取って、結婚を就労契約の一種として捉えたのが秀逸だった。この連載の用語で言えば、このドラマは「結婚」という記号に従来と異なる意味を符合させ、多様性と少子高齢化の時代に相応しい新たな結婚像へとアップデートさせたのだ。ここには古い伝統にこだわらず近代の実情を重視して「前進すればいい」と力強く言い放った、坂口安吾の精神が感じられる。それが前回の結論だった。
ただ、このテレビドラマにも瑕疵は存在する。まず作中でセクシャルな話題はロマンティックにしか描かれない。少女漫画の定型をいったん受け入れる作品ゆえに、みくりたちの愛情表現は、男女が同室で寝るか否かなど、大時代的な価値観を中心に繰り広げられる。これは今の現実に即して結婚像を更新した作品にしては極端にプラトニックだと言える。
同様の保守性は、LGBTQの扱いのぞんざいさにも表れている。とりわけ問題なのは、津崎の会社の先輩である沼田という登場人物をめぐるエピソードだ。というのも沼田は、いかにも「物語に登場する定型的なゲイ」のような言動を繰り返すのだ。
たとえば原作漫画だと、みくりと津崎が偽装結婚をする直接のきっかけとなるのは、津崎が会社のエレベーター内で沼田から思わせぶりに肩を触られ、迫られるシーンだ。その際、津崎は「まさか独身だからって体を狙われることがあろうとは…!!」と独りごちている。これには、ジェンダーについての社会一般の固定観念が、二重に表れている。まずゲイの男性なら、社内で誰彼となく肉体関係を求めるだろうとの考えがある。そしてまさしく津崎の独白のとおり、「妙齢の男性が独身のままなら、彼はゲイだと推測されることがある」という固定観念もある。
たしかに「ゲイは男女の価値観を併せ持つ」とする俗説は今なおポピュラーである。しかし最近はトランスジェンダーやXジェンダー、アセクシャルなど、二元論では語り得ない性別や性愛も注目されるようになった。また「第三の性」という新たなカテゴリや、誰もが「男性らしさ」と「女性らしさ」の間をグラデーションのように行ったり来たりする性スペクトラム説が注目されている。
津崎はエレベーターでの沼田との接触を通して、自分が男性やゲイについての旧来的な記号性で捉えられることに嫌気が差した。だから新しい家族の構築を試みる、みくりとの結婚に踏み切ったのだ。それがこの作品の優れた設定を生んだ。しかし他方、性愛については作品の端々に固定観念を残しているのである。それは、作品が少女漫画の定型を逆手に取ろうとしつつも、かえってその古い範疇に囚われた結果のように見える。
どういうことか。『逃げるは恥だが役に立つ』の試みは、恋愛結婚という少女漫画的な記号と意味の結びつきをいったん受け入れつつ、「就職」という別の意味へとすげかえることだった。今日の視聴者に広い共感を生んだことからも、これが符合に齟齬を発生させる戦略として効果が高かったことは明らかだ。この戦略は今後も、カルチャーを通して社会の規範意識をポジティブに変えていく際に、多くの作品が採用するだろう。ただ、記号と意味の旧来的な結びつきを受け入れると、作り手はいつのまにかその価値観に馴致され、作中でそれを無批判に追認してしまうことがある。
振り返って考えると、みくりは自分がやっているのは恋愛や結婚ではなく就職なのだというレトリックを用いながらも、やがて津崎に恋愛感情を抱き、それゆえに本当に結婚する。もちろん前回見たように、この作品はその結婚についても独自の描き方をしている。しかし意地悪な言い方をすれば、彼女は最終的に旧来的なロマンティックラブを受け入れ、結婚に至ったようにも見えるのはたしかだ。だとすれば、否定するはずだった旧来的な価値観が、結局は追認されていることになる。
この問題はどのようにして解消できるだろうか。それを探るために『逃げるは恥だが役に立つ』よりもさらに新しい家族像を提案したテレビドラマ『恋せぬふたり』(NHK、2022年)について考えたい。
この作品は主題としてアロマンティック・アセクシュアル、つまり他者に恋愛感情や性的欲求を抱かない人々を直接的に扱っている。設定においてロマンティックラブを否定している点で、『逃げるは恥だが役に立つ』とは全く異なっている。
にもかかわらず『恋せぬふたり』は、『逃げるは恥だが役に立つ』と同様、少女漫画における同居ものや疑似家族ものの定型を採り入れている。つまりこの作品は恋愛や性愛のような愛情関係を描くことをせず、しかも同居ものとして成立させるという、必然的に新たな家族像を要請する構造になっているのだ。
物語は次のような内容だ。スーパーマーケットの本社で勤務している主人公・咲子は、昔から恋愛や性愛に興味がなく、友人や家族、同僚などと会話する際にどこか違和感を覚えていた。そんな中で、たまたま出会った自社スーパーの店員・高橋がアロマンティック・アセクシュアルであると知り、自分もそうなのではないかと考える[★1]。そこで彼女は同じ性指向の者同士で「家族(仮)」になることを提案し、高橋の家で同居しはじめる。
ここで彼らが「(仮)」というラベルを用いたことが注目に値する。なぜならこれは「家族」という言葉に従来から紐付けられた意味を疑いつつ、二人の同居を呼称の上でのみ家族とするに留めるためのものだからだ。その上で、作品はこれ以降、この言葉の新たな意味の模索を開始するのである。
それはどのようにして行われるのか。二人の同居には、独身でいることで周囲から奇異に思われるのを避ける目的もある。そのため、まず二人は結婚を前提にした同棲だと装うことにする。このようにして物語は、二人の関係に同居ものの定型を持ち込むのだ。ところが咲子の両親や親類は、当然のことながら彼らを「普通」のカップルとして扱いはじめる。これに不快感を覚えた彼女は、あっさりと自分たちはアロマンティック・アセクシュアルであるとカミングアウトし、高橋との同居も愛情に基づかないものだと言ってのける。
つまり咲子は、少女漫画的な定型を演じようとするものの、それを受け入れることができない。ところが『恋せぬふたり』が優れているのはここからで、それでもなお物語は少女漫画的な定型にのっとって、視聴者を楽しませようとするのである。たとえば、かつて咲子が性的な接触に違和感を覚えて別れた元彼が転がり込んできたり、咲子の妹が夫婦喧嘩をきっかけに子供を連れて居着いてしまったりする。これらは、いかにも同居ものにありがちな、共に住まう人間が次第に増えていく展開だ。どちらかというと人間関係を避けていた高橋が、クライマックスにかけて次第に皆へ心を開いていくのも、このジャンルでは定番の、人間ドラマとして欠くべからざる部分だ。
しかし咲子と高橋は最後まで、みくりや津崎のように恋愛感情を抱いていくことはない。主人公たちが愛情関係にならなくとも同居ものの面白さは描けると、『恋せぬふたり』は暗に訴えかけている。これは『逃げるは恥だが役に立つ』でみくりが、自分のやっているのは就職だと言いつつ、少女漫画の定型通りに、偽装結婚を経た愛情ある結婚、すなわちロマンティックラブを完遂するのとは対照的なことだ。
咲子のカミングアウトを受けて、家族は二人の同居に否定的になる。母親は「恋愛感情のない男女が家族になる理由はない」と言う。これは言うなれば愛情関係という意味がなければ同居ものをやるべきではないとの、このテレビドラマの物語自体への異議申し立てになっている。
母親に自分たちの関係を否定され、何も言い返せなかった咲子は落ち込む。彼女が何も言い返せないのは、自らの同居を「家族(仮)」と名付けたものの、さりとてこの言葉に「家族」からの離脱以上の新たな意味を与えてもいないためである。その空虚さゆえに、母親から「家族になる理由はない」と言われれば、咲子は「たしかにそうだ」と思わざるを得ず、言い返すことができない。しかし、だからこそ物語はこのシーン以降から「家族」という言葉の意味の再考を開始するのである。高橋は、落ち込んだ咲子に対し次のように言う。
高橋「でも僕らを表す適切な言葉って他にないですし」
咲子「まあ、たしかに」
高橋「しいていえば一番近いのは味方かなと」
[中略]
咲子「(嬉しい)あ、それでいうと私あれ嬉しかったですー 幸せな家族になるって言ってもらえて」
高橋「あれは少しムキになっただけですが……では僕らのこと、もう一歩踏み込んで考えてみましょうか」
咲子「それって、例えば家事分担のこととかですか?」
高橋「まあそういうことも入りますね……一個一個、暗黙の了解を潰していこうかなと」
咲子「あ、じゃあ早速、私達のことを説明する時は『家族』じゃなくて『味方』って紹介しますか?」
高橋「いや、言葉にするとこそばゆいので却下で」
咲子「じゃあ高橋さんが家族っていう時、脳内、味方に変換しておきます」
高橋「はい、それで」[★2]
高橋はここで、自分たちの関係が従来の意味での「家族」ではないと認めつつ、この言葉に「味方」という意味を新たに符合させている。ほか「一個一個、暗黙の了解を潰していこう」「家族っていう時、脳内、味方に変換しておきます」という台詞も含め、このシーンの台詞は極めてストレートに、言葉に符合された旧来的な意味をパージし、新しい意味へすげかえることを語っている。
こうして二人は「味方」としての家族となり、周囲からも次第に理解を得ていく。だが、この作品はそこで終わらない。物語は、咲子たちが新たに生み出した家族の弱点にも迫っていくのである。弱点とは何か。それは意味をすげかえられた記号が、新たな固定化を招くことにまつわる。
というのも実は、咲子と高橋が同居する家は、半年前に死んだ高橋の祖母が残したものなのである。一方で高橋にはそこを離れて「大きな畑で野菜に囲まれて暮らせる王国」に住むという夢もあった。しかし彼は育ての親である祖母の家を守る気持ちで、物語の開始時点から一人で住んでいたのだ。咲子と同居することで、祖母の家は今後も守られることが確約された。この暮らしを続ける限り、高橋は自分の「野菜王国」の夢を諦めることになるが、咲子との新たな家族像に満足した彼は、そのことを受け入れようとする。だが咲子は、それに反対する。そして自分が祖母の家に住み続け、高橋は夢を叶えるために家を離れるという選択肢を提案する。高橋は、このアクロバティックな解決法に驚く。
高橋「別に暮らしたら、一人になったら、僕らの関係性……家族カッコ仮は終わりになると思うのですが」
咲子「いや、なりませんよ、終わりに」
高橋「え」
咲子、力強く高橋を見て、
咲子「私達は別々に離れて暮らしたって一人じゃないし、家族じゃなくなったりしません」
[中略]
咲子「もし、この家に住みたくないってなったら……その時また一緒に考えましょうよ」
高橋「え」
咲子「高橋さんも野菜王国頑張ってみて、駄目ならやめちゃえばいいんです」
高橋「えっと、それは(どういうこと?)」
咲子「なんにも決め付けなくて良くないですか? 家族も、私達も、全部かっこ仮で」
高橋「!」
咲子「言葉にすると、それに縛られちゃうんですよ……周りが決めた普通に縛られたくない私達でさえも」
高橋「……」
咲子「考え方や大事な物だってどんどん変わってくんだからその時のベストを考えればいいし。その時もし二人のベストが全く逆方向で、色々話し合って、それでも無理なら……」
高橋「……無理なら?」
咲子「無理に家族でいる必要もないんです」[★3]
右の咲子の意見は、やはり坂口安吾の「前進すればいい」という精神を思い出させる。「家族」という言葉以前に「共に住む」という実情が大事なのだとしているからだ。だが同時に彼女が言っているのは、離れて暮らしていても家族でいることはできるし、さらには家族を辞めたって構わない、ということでもある。突き詰めると咲子は、シンプルに「人生のひとときを共に過ごす相手がいる」という実情だけを認めているのだ。これは家族に関しての最も極端な態度だろう。だがその考えに従えば、人はもっと気楽に誰かと家族になることができもする。
しかしこうしたラディカルな考えの弱点は、関係の結びつきを支えるものの乏しさである。家族を、人生のひとときを他人と過ごすシンプルな実情へ還元するとして、最後にそれを象徴するものはあるだろうか。
実は『恋せぬふたり』は、それを的確に描いている。前記の引用で、咲子と高橋が「(高橋の)祖母の家」という物理空間の維持をめぐって議論していることが重要だ。そういえば坂口安吾も、社交を終えて帰宅した際に嫌でも目にする、家族なき自宅のがらんとした実情に「悔いと悲しさ」を感じていた。つまり物理的な家屋は、家族の実情をあけすけに見せつける、逃れ得ぬものなのだ。だが逆に言えば家屋をこそ中心に据えていれば、咲子と高橋は、たとえ共に暮らさなくとも、家族でいられる。誰か、この場合なら咲子が家屋を守ることが、そこに住んだ者を家族として結びつけてくれる。
思い返せば『逃げるは恥だが役に立つ』の舞台は、元々は津崎の独居していた部屋だった。ところがこのテレビドラマの室内セットは、ITエンジニアである津崎らしさもさほどない、整いつつも人間性の反映されない調度で飾り付けられていた。それはみくりが同居してからも、さほど変化しない。「303カンパニー」と個性的に名付けられつつも、部屋はまるでモデルルームのように無個性なままだ。この事実は、あくまで「結婚」という言葉の扱いを捉え直すこと、つまり概念の操作に終始した、同作の限界を象徴しているように見える。
他方『恋せぬふたり』の舞台となる高橋の祖母の家は、アンティーク調の家具調度をはじめ、かつての住人の生活感を滲ませる居心地のいい空間として描かれている。その細微に至る作り込みは、ドラマスタッフが家族の空間として、往時の祖母の手触りを感じさせる古い家屋を重んじていることを、強く感じさせるものだ。
実はこれと同じ発想は、近年、鶴谷香央理『メタモルフォーゼの縁側』(KADOKAWA、2017年-2020年)や真造圭伍『ひらやすみ』(小学館、2021年-)など、相次いで漫画ジャンルでも描かれている。物語上のタイミングは異なるものの、どちらの作品も、若者がたまたま親しくなった老婆と彼女の住まう一軒家で交流し、彼女が去った後もその場所を守ることで関係を維持するという、『恋せぬふたり』と全く同じ筋書きを持っている。それは一見、連載12回目で紹介した、2010年代以降にポピュラーとなったシェアハウスにも似ている。だが、若者たちが祖父母世代の記憶が残る家屋に価値を感じ、それを継承して住まう点が大きく異なる。これらの作品のモチーフの共通は、家族という概念が、住人たちによって長期的に維持される家屋と紐づいたものとして、つまり言葉や定義に依らない形へ更新されつつあることを反映している。私たちは維持すべき場所さえあれば家族になれるし、また互いに関係があったことは、その場所によって証明され続けるのだ。
しかし咲子が言うように、人々はその家屋に固執する必要もないし、家族でなくなることすらできる。咲子は家族に対する高橋の、そして視聴者である私たちの固定観念をそのように指摘する。そのさまは若々しく前向きで、多くの視聴者に希望を与えうる。だが、それが若々しさと表裏一体の不安定さと繋がっていることは指摘せねばなるまい。
物語の結末、咲子は「でも、この大満足に、それでも、何かを言ってくる人達がいるかもしれない」「傷ついて腹が立つこともあるかもしれない」としながらも「私の人生に何か言っていいのは私だけ」「……私の幸せを決めるのは、私だけ」[★4]と自信を持って述べ、光の差す方に向かっていく。その彼女の笑顔を映して、作品は終わる。この楽天的なモノローグはいささか心許なく、美しいシーンを描くために現実的な問題を棚上げしたと言わざるを得ない。だが、それでもなお、記号と意味の結びつきに囚われてはいけないというこの作品の指摘には重んじるべきところがある。
筆者もまた、その指摘を突き付けられる。筆者はこの連載で、記号に分かちがたく紐付けられた意味を解除し、新たな意味を符合することについて長らく書いてきた。現代に相応しい、新たな家族像を模索する試みも、その方法論に従ったものだった。
だが『恋せぬふたり』の咲子は、そもそも「家族」という言葉に縛られる必要はないと言っているのだ。その意見は、この連載が繰り返してきた方法論もまた、繰り返されていつしか定型となり、自動化した思考へと収斂していくことを示唆している。だから筆者は、繰り返され、固定化しはじめたこの思考を、断ち切らねばならない。それに気づいた時点で、この連載は、既に終わりかけている。
★1 咲子は「さくこ」と読み、高橋の名前は「羽」と書いて「さとる」と読む。咲子はこの事実を知った際に「私達ちょっと変わった名前仲間でもあるんですね」と述べる。一般的な漢字の読みをさせない名付けには、二人を同居させて言葉と意味の関係に齟齬を生もうとする作品の思惑が重ねられている。
★2 『月刊ドラマ』、映人社、2022年3月号、29-30頁。
★3 『月刊ドラマ』、映人社、2022年8月号、62-63頁。
★4 以上の咲子の台詞はすべて前掲書より引用。67頁。


さやわか
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