愛について──符合の現代文化論(4) 少女漫画と齟齬の戦略(中)|さやわか

初出:2020年4月17日刊行『ゲンロンβ48』
前回の内容を簡単に振り返ろう。日本の古典的な少女漫画は、恋愛、結婚、出産の三つをセットとする保守的な社会規範、ロマンティックラブ・イデオロギーに沿った物語を描くものとして発達した。しかし一九七一年、山岸凉子がバレエ漫画『アラベスク』を描いて以降は、異なる潮流が生まれた。
山岸はこの作品を、当時の少女漫画にとっては異例の絵柄で描いた。いかにも漫画的な丸みをおびた体つきではなく、ごつごつした筋肉を持つ、リアルなバレエダンサーを描いたのだ。山岸は『アラベスク』の絵を従来の少女漫画が求める記号性から脱却させることで、より本格的なバレエ漫画を描くことに成功した。すなわち、記号と意味の関係に「齟齬」を生むことで、少女漫画はロマンティックラブ・イデオロギーを描くものという定型を脱したのだ。
前回も述べたように、「齟齬」とは「符合」の対義語である。噛み合わせを意味する「齟」と、互いに入れ違うことを意味する「齬」から成る二字熟語で、つまり食い違いを意味する。「符合」が記号と意味を結びつける行為だとすると、「齟齬」はその結びつきが一対一の形にワンパターン化するのを阻む行為だ。筆者は『アラベスク』の身体描写を、一対一の符合に固執しがちな記号と意味の関係に齟齬をもたらすものとして捉え、それが社会の固定観念を攪乱するものだとした。
実際、山岸凉子は『アラベスク』以後、評論家の村上知彦が言う「〈家〉とのたたかい」、つまりロマンティックラブのくびきを逃れた愛情関係や家族像を題材にした作品を数多く手がけるようになる。しかし、そうした作品を描くようになったのは山岸だけではない。『アラベスク』以後の時代には、山岸と同世代の少女漫画家たちも、恋愛、結婚、出産によって愛情ある近代的家族が生まれるという、記号と意味の符合の無根拠さ、ロマンティックラブ・イデオロギーの持つ「執着的な愛」を攪乱する、すなわち齟齬を生む作品を描くようになる。それが七〇年代以降、山岸と同世代の「二四年組」と呼ばれる作家たちが少女漫画にもたらした変革だった。
二四年組とは昭和二四年前後に生まれた、それ以前の世代とは異なる作風の少女漫画家たちを指す言葉だ。彼らは一九六八年から一九六九年ごろにデビューし、SFやファンタジーの要素を積極的に採り入れたほか、同性愛や近親愛を好んで描いたこと、また近代的家族の不和と崩壊をシリアスに描いたことなどが、特徴として挙げられる。その特徴から、彼らの作品は七〇年代を通して人気を集め、村上のような男性をはじめ、他分野の評論家や作家にも好意的に読まれた。
ただ、男性たちが二四年組を評価することは、当初からしばしば批判の槍玉に挙げられている。たとえば漫画評論家の米澤嘉博は一九八〇年の著作で 、二四年組の作家である萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子が男性読者の人気を集めるようになった七〇年代半ばの状況について次のように書いている。
米澤は、萩尾や竹宮と違い、大島の表現は少女漫画直系のものであると指摘している。それがゆえに、以前からこのジャンルを読んでこなかった男性読者は表現技法へのリテラシーを持っておらず、正しく評価しえない。米澤が言うのはそういうことだ。
また、ここでは大島のストーリーが「ドラマチックですらない」と評されているが、言い換えれば大島の作品は、少年漫画や劇画、あるいは二四年組と同じく六〇年代末にジャンルとして成立した青年漫画で多く見られるような、筋書きの起伏や意外性を求めて読むタイプの漫画ではなかった、と言える。
たしかに大島の作品では、プロットが起承転結のように明快に展開するとも限らない。また現実のものではない幻想的な出来事や登場人物の見た夢の描写などが差し挟まれ、作品のリアリティレベルを見失いやすくもある。加えて、米澤が指摘する「乱舞する花びら」のように心象風景とおぼしき事物が描かれるほか、多数の台詞(発語)とモノローグ(内語)が並行して配置されもする。これらの錯綜した表現 をもとに登場人物の心情をうまく掴むことが求められる。
それゆえ二四年組の中でも、大島については、少女漫画に触れていない読者が難解に感じたり、読みにくく感じることもあったようだ。にもかかわらず、その難解さを切り捨てて、男たちは自分たちの都合のいいように作品を解釈し、二四年組の作家を選別し、評価している。これが米澤の主張である。
同様の批判は二四年組がブームだった七〇年代当時から、今日まで繰り返しなされている。漫画研究者の宮本大人が二〇〇〇年に、二四年組のブームについて「すでに相当の厚みと幅を持っていた、少女マンガの中から、ある種の作家・作品群のみが、言わば、語るに足る、語るべき対象として、切り出され」[★2] たとしているのも、同様の姿勢から男性読者の独善を指摘したものだろう。
ただ、ここでは米澤が男性読者を、少女漫画を読みこなす「少女達」と対比して扱い、その無理解を論っていることに注目したい。この後の文章でも彼は「大島弓子は『風景』を創りあげる。その風景の中に入り込んでいけるのは、少女マンガの甘やかな夢に酔える読者達であった」と書いている。つまり彼は単に「このジャンルを読み慣れていない者には理解できない」のではなく、「そのジャンルを読みうるものにしか理解できない」ひいては「男性は少女漫画が理解できない」と主張しているのに近い。
米澤は男性だが、こうした論調は、女性からの意見ではよりはっきりと示されることが多い。たとえば漫画家のやまだないとは、同じく漫画家のよしながふみ、菓子研究家の福田里香との鼎談で次のように語っている。
山岸はこの作品を、当時の少女漫画にとっては異例の絵柄で描いた。いかにも漫画的な丸みをおびた体つきではなく、ごつごつした筋肉を持つ、リアルなバレエダンサーを描いたのだ。山岸は『アラベスク』の絵を従来の少女漫画が求める記号性から脱却させることで、より本格的なバレエ漫画を描くことに成功した。すなわち、記号と意味の関係に「齟齬」を生むことで、少女漫画はロマンティックラブ・イデオロギーを描くものという定型を脱したのだ。
前回も述べたように、「齟齬」とは「符合」の対義語である。噛み合わせを意味する「齟」と、互いに入れ違うことを意味する「齬」から成る二字熟語で、つまり食い違いを意味する。「符合」が記号と意味を結びつける行為だとすると、「齟齬」はその結びつきが一対一の形にワンパターン化するのを阻む行為だ。筆者は『アラベスク』の身体描写を、一対一の符合に固執しがちな記号と意味の関係に齟齬をもたらすものとして捉え、それが社会の固定観念を攪乱するものだとした。
実際、山岸凉子は『アラベスク』以後、評論家の村上知彦が言う「〈家〉とのたたかい」、つまりロマンティックラブのくびきを逃れた愛情関係や家族像を題材にした作品を数多く手がけるようになる。しかし、そうした作品を描くようになったのは山岸だけではない。『アラベスク』以後の時代には、山岸と同世代の少女漫画家たちも、恋愛、結婚、出産によって愛情ある近代的家族が生まれるという、記号と意味の符合の無根拠さ、ロマンティックラブ・イデオロギーの持つ「執着的な愛」を攪乱する、すなわち齟齬を生む作品を描くようになる。それが七〇年代以降、山岸と同世代の「二四年組」と呼ばれる作家たちが少女漫画にもたらした変革だった。
二四年組とは昭和二四年前後に生まれた、それ以前の世代とは異なる作風の少女漫画家たちを指す言葉だ。彼らは一九六八年から一九六九年ごろにデビューし、SFやファンタジーの要素を積極的に採り入れたほか、同性愛や近親愛を好んで描いたこと、また近代的家族の不和と崩壊をシリアスに描いたことなどが、特徴として挙げられる。その特徴から、彼らの作品は七〇年代を通して人気を集め、村上のような男性をはじめ、他分野の評論家や作家にも好意的に読まれた。
ただ、男性たちが二四年組を評価することは、当初からしばしば批判の槍玉に挙げられている。たとえば漫画評論家の米澤嘉博は一九八〇年の著作で 、二四年組の作家である萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子が男性読者の人気を集めるようになった七〇年代半ばの状況について次のように書いている。
この頃、萩尾、竹宮を求めて男性の少女マンガファンが増えつつあった。が、それは少女マンガらしからぬ世界を描く女流という把え方であったことは、後々の萩尾を誉めあげる男性達の言辞を見ればいい。少女達はHOT[引用者註:萩尾、大島、竹宮]に魅せられたのだが、男達にとっては大島弓子だけは許容できなかったのだ。それは、大島弓子について語る時に「とにかく、ネームがすごい」の一言だけであったことからもわかるだろう。
わたなべまさこの流れにある絵。乱舞する花びら、無造作に描かれた木の葉、西洋趣味の調度、古びた洋館――それは少女マンガの装飾そのものだった。ましてや、SFでもミステリーでもヘッセでもなく、大島弓子が描いたのは少女マンガの世界そのものだった。たしかに、詩的ネームと文学趣味に彩られたペダントリーは、「高尚」さを感じさせたが、それ以上ではなかった。話は類型的であり、ドラマチックですらなく、虚構空間のリアリティもドラマツルギーも希薄なのだ。[★1]
米澤は、萩尾や竹宮と違い、大島の表現は少女漫画直系のものであると指摘している。それがゆえに、以前からこのジャンルを読んでこなかった男性読者は表現技法へのリテラシーを持っておらず、正しく評価しえない。米澤が言うのはそういうことだ。
また、ここでは大島のストーリーが「ドラマチックですらない」と評されているが、言い換えれば大島の作品は、少年漫画や劇画、あるいは二四年組と同じく六〇年代末にジャンルとして成立した青年漫画で多く見られるような、筋書きの起伏や意外性を求めて読むタイプの漫画ではなかった、と言える。
たしかに大島の作品では、プロットが起承転結のように明快に展開するとも限らない。また現実のものではない幻想的な出来事や登場人物の見た夢の描写などが差し挟まれ、作品のリアリティレベルを見失いやすくもある。加えて、米澤が指摘する「乱舞する花びら」のように心象風景とおぼしき事物が描かれるほか、多数の台詞(発語)とモノローグ(内語)が並行して配置されもする。これらの錯綜した表現 をもとに登場人物の心情をうまく掴むことが求められる。
それゆえ二四年組の中でも、大島については、少女漫画に触れていない読者が難解に感じたり、読みにくく感じることもあったようだ。にもかかわらず、その難解さを切り捨てて、男たちは自分たちの都合のいいように作品を解釈し、二四年組の作家を選別し、評価している。これが米澤の主張である。
同様の批判は二四年組がブームだった七〇年代当時から、今日まで繰り返しなされている。漫画研究者の宮本大人が二〇〇〇年に、二四年組のブームについて「すでに相当の厚みと幅を持っていた、少女マンガの中から、ある種の作家・作品群のみが、言わば、語るに足る、語るべき対象として、切り出され」[★2] たとしているのも、同様の姿勢から男性読者の独善を指摘したものだろう。
ただ、ここでは米澤が男性読者を、少女漫画を読みこなす「少女達」と対比して扱い、その無理解を論っていることに注目したい。この後の文章でも彼は「大島弓子は『風景』を創りあげる。その風景の中に入り込んでいけるのは、少女マンガの甘やかな夢に酔える読者達であった」と書いている。つまり彼は単に「このジャンルを読み慣れていない者には理解できない」のではなく、「そのジャンルを読みうるものにしか理解できない」ひいては「男性は少女漫画が理解できない」と主張しているのに近い。
米澤は男性だが、こうした論調は、女性からの意見ではよりはっきりと示されることが多い。たとえば漫画家のやまだないとは、同じく漫画家のよしながふみ、菓子研究家の福田里香との鼎談で次のように語っている。
やまだ 男の人って大島弓子、分かりたがるよね。
よしなが 学者の先生とか好きですよね。なんでなんだろう。
やまだ [中略]私がゲイの人たちに、私、ゲイの気持ちが理解できるって少女マンガの感覚で言っちゃうみたいな居心地の悪さ、恥ずかしさを感じるのね、男の人が大島弓子を解き明かそうとするのを見てると。そりゃ無理だよ、女の子に生まれなかったんだからあきらめな、って思うんだけど。
[中略]
やまだ だって男の人が大島弓子を解き明かそうとするとさ、必ず『バナナブレッドのプディング』でしょ。それでセックスがどうのこうのって言い出すじゃん(笑)。[★3]
「女の子に生まれなかったんだからあきらめな」との言葉には、先に挙げた米澤の文章では潜在的なものだった「男性は女性でないから大島を理解できない」という主張が、はっきりと表れている。
性差にかぎらず、人間が究極的に他者の気持ちを理解できないのは当然だろう。だからこうした批判で注意すべきなのは主張そのものではない。 男性が大島弓子の作品を「解き明かそうとする」ことと、女の子(女性)の心情を理解しようとすることが混同されていることだ。
この混同は、大島の作品が女性に特有の感情や考え方を描いたものだとか、あるいはもっと単純に、女性ならではの感性で描かれたものと考えることで引き起こされている。つまり、大島の作品は女性心理を描いているのだから、彼女の作品を読み解くことは、女性心理を読み解くことと同じだという理屈だ。
大島の作品はしばしばそのように理解されてきた。写真評論家の飯沢耕太郎のように、七〇年代以降に極端な少女趣味に傾倒した「乙女ちっく漫画」が生まれた理由を、大島のいかにも少女漫画的な意匠が「わかりやすく通俗化され、シュガーコートされて、多くの読者に受け入れられるようになった」[★4]ことに求める論者も多い。
しかし、本当に大島弓子の作品は、そこまで女性性を強調するところに特徴があるのだろうか。米澤のように「乱舞する花びら、無造作に描かれた木の葉、西洋趣味の調度」などを描いているから大島は従来の少女漫画を単純に引き継いでおり、やまだのようにその内容は女性心理そのものなのだとするのは、それはまさに少女漫画的な記号をフェミニンな意味へと一対一に符合させる、「執着的な愛」に他ならない。
だが大島は山岸の『アラベスク』以降、同じ二四年組として七〇年代を牽引し、少女漫画に新しい価値観をもたらしたとされる作家である。ならば彼女が用いる少女漫画的な意匠が、単に女性性を強調するものだと考えることには違和感がある。
次のように考えるべきだ。山岸が『アラベスク』で少女漫画らしくない絵柄を指向したのと違い、大島はたしかに従来的な少女漫画らしい絵を採用した。ただし彼女は、その絵を従来のようなロマンティックラブ・イデオロギーではない、新しい愛情関係や家族関係を描く物語に用いたのだ。そうすることで、彼女もまた二四年組として、山岸と同じく、記号と意味の符合を一対一に留めようとする「執着的な愛」を、攪乱することを志したのだと言えるのではないか。
では大島が従来的な少女漫画の絵を受け継ぎながらも、ロマンティックラブ・イデオロギーのくびきを逃れることを目指した作品とはどんなものか。具体的な作品に沿って説明しよう。ここでは先ほど、やまだないとが「男の人が大島弓子を解き明かそうとする」際に扱いがちだとした『バナナブレッドのプティング』を取り上げる。
やまだはこの作品について、男性が「セックスがどうのこうのって言い出す」と述べていた。また米澤の言う少女漫画的な絵柄や演出はこの作品でも多用されており、それゆえに筋がわかりにくく難解だと感じる読者もいるかもしれない。
だが大島が少女漫画的な意匠を用いつつもロマンティックラブ・イデオロギーから逃れることを意図して描いた作品だと考えれば、この作品は大島が女性性をこそ描いているのだという解釈とは全く違った内容を持つものとして、しかも極めて明快に、読み解くことができる。
大島は一九七七年から七八年 、この作品を『月刊セブンティーン』(集英社)で五回にわたり連載した。一九七八年に開始し八七年まで続けられた『綿の国星』と共に、初期長編の代表作と言える。
物語は主人公の三浦衣良が、転校先の高校で幼なじみの御茶屋さえ子と再会するところから始まる。衣良は姉の結婚を機に 精神が不安定になっており、幼児のような不安を口走る姿は実に弱々しい。ところがそんな彼女に対して、さえ子は「きっとボーイフレンドができればなおるわよ」と助言する。この物語発端のさえ子の提案は、男性との恋愛が少女を成長させるというロマンティックラブ・イデオロギーの規範意識を背景とした、典型的な少女漫画の価値観を意識したものだ。
しかし物語は、ロマンティックラブのようには展開しない。さえ子から「男性を紹介する」と言われた衣良は、自分の理想の恋人は「世間にうしろめたさを感じている男色家」だと答える。さえ子はうろたえるが、偶然も手伝ってプレイボーイである兄、峠を衣良に紹介することになる。こうして衣良は峠が男色家であると勘違いしたまま、彼に「形式上の結婚」をもちかけ、彼がさえ子と共に暮らす部屋に身を寄せることにする。自分を「妻」にして、男色家であることを世間から隠すためのカモフラージュとして使ってほしいと言うのだ。彼女はこの「結婚」をあまりにあっけなく実行し、周囲を驚かす。
ここで既に物語は、結婚、恋愛、同居など、いかにも少女漫画らしい趣向を散りばめつつも、それらをロマンティックラブを描く作品のようには扱っていない。そもそも衣良は、全くロマンティックラブ・イデオロギー的な恋愛や結婚が望ましいものだと思っていないのだ。むしろイデオロギーの存在を意識しつつ、峠をそこから逃れさせる手段として、恋愛や結婚を利用しようとする。衣良が言う「形式上の」とは内実が伴っていないという意味だ。つまり彼女は、結婚や恋愛などの概念が本質的には空虚であり、一対一で対応する意味などないと理解している。だからこそ、それらに別の意味を与えることで、齟齬をもたらし、同性愛者が安寧に生きられる環境を作ろうと目論むのだ。
一方、峠は自分が男色家であると衣良に信じさせるため、実際に男色家であることを公にしているサッカー部員の奥上を恋人役にして一芝居打つことにする。だが奥上は次第に峠への片思いを自覚するようになり、そのせいで交際相手である大学教授の新潟の怒りを買う。
その後、嫉妬深い新潟は、衣良の精神を回復させるとの口実で峠との「結婚」を解消させ、自分と同居させる。だが、本心では恋人である奥上の心を奪った峠への意趣返しを目的としている。また、実はさえ子も奥上に恋心を抱いていたため、峠に惹かれていく彼の姿にショックを受け、兄に変装してまで彼に近づこうとする[★5]。
物語はこのように、衣良と峠の「結婚」をはじめとして人間関係が複雑に絡み合い、人々の心に煩悶を生んでいく。重要なのはその人間関係が、同性愛、偽装結婚、疑似家族的な同居など、男女間の恋愛や性愛では全くない形として構築されていくことだ。絵柄や趣向は少女漫画的でありつつ、物語においてはあくまでもロマンティックラブを基調とした従来的な少女漫画とは違う展開が選ばれていると言えるだろう。より正確に言えばロマンティックラブ・イデオロギーによる抑圧を前提としながらも、物語はそこから逃れた場所で関係を築く人々の姿を描くものとなっている。
しかし登場人物たちの関係は、これ以上進展しない。ロマンティックラブを描かない以上、誰かが恋仲になって、恋愛や結婚をゴールとするラブストーリーとして物語が完結することはないのだ。大島弓子は物語がそこへ向かうことを拒否しているため、この複雑な関係は解消しないまま結末が訪れる。第三話のクライマックスで不意に「だれか/もつれた糸をヒュッと引き/奇妙でかみあわない/人物たちを/すべらかで/自然な位置に/たたせては/くれぬものだろうか」という文章が挿入されるが、これは登場人物の内語ではなく、作品全体を俯瞰的に説明したものとして読める。
ただ、これが「もつれた糸」を解消することを願う言葉になっていることは重要だ。大島は少女漫画的でありながらロマンティックラブに向かわず、結婚や恋愛の意味を攪乱させる物語を描いた。「奇妙でかみあわない」とは、まさしくその齟齬を意味する言葉だ。しかし齟齬が生み出された結果、人間関係は複雑になり、作中では誰もが思い悩んでいる。右記の言葉は、その苦悩を表したものだ。
衣良が志した「結婚」も、彼女が当初思ったようには進められない。彼女の理想は、いわば自己犠牲的に男色家同士の恋愛を守ることだったが、次第に峠へ惹かれていった結果、彼女は物語冒頭よりもいっそう精神のバランスを崩すようになる。
ロマンティックラブ・イデオロギーから解放された人々は従来になかったような人間関係を築くことができたが、それゆえに人間関係は複雑化し、新たな苦しみが生まれたのだ。恋愛や結婚、家族にまつわるこのような悩みは、セクシャリティや家族関係がより多様化した現代では、より一般的になったと言えるだろう。
では、こうした苦悩は乗り越えることができないのだろうか。『バナナブレッドのプティング』は前述のように、複雑化した人間関係の解消を願いはするものの、八方丸く収まる大団円を描くわけではない。しかし、それにもかかわらずこの物語の結末は、ロマンティックラブ・イデオロギーから解放された人々と、彼らの今後を肯定的に捉えて終わる。
物語は主人公の三浦衣良が、転校先の高校で幼なじみの御茶屋さえ子と再会するところから始まる。衣良は姉の結婚を機に 精神が不安定になっており、幼児のような不安を口走る姿は実に弱々しい。ところがそんな彼女に対して、さえ子は「きっとボーイフレンドができればなおるわよ」と助言する。この物語発端のさえ子の提案は、男性との恋愛が少女を成長させるというロマンティックラブ・イデオロギーの規範意識を背景とした、典型的な少女漫画の価値観を意識したものだ。
しかし物語は、ロマンティックラブのようには展開しない。さえ子から「男性を紹介する」と言われた衣良は、自分の理想の恋人は「世間にうしろめたさを感じている男色家」だと答える。さえ子はうろたえるが、偶然も手伝ってプレイボーイである兄、峠を衣良に紹介することになる。こうして衣良は峠が男色家であると勘違いしたまま、彼に「形式上の結婚」をもちかけ、彼がさえ子と共に暮らす部屋に身を寄せることにする。自分を「妻」にして、男色家であることを世間から隠すためのカモフラージュとして使ってほしいと言うのだ。彼女はこの「結婚」をあまりにあっけなく実行し、周囲を驚かす。
ここで既に物語は、結婚、恋愛、同居など、いかにも少女漫画らしい趣向を散りばめつつも、それらをロマンティックラブを描く作品のようには扱っていない。そもそも衣良は、全くロマンティックラブ・イデオロギー的な恋愛や結婚が望ましいものだと思っていないのだ。むしろイデオロギーの存在を意識しつつ、峠をそこから逃れさせる手段として、恋愛や結婚を利用しようとする。衣良が言う「形式上の」とは内実が伴っていないという意味だ。つまり彼女は、結婚や恋愛などの概念が本質的には空虚であり、一対一で対応する意味などないと理解している。だからこそ、それらに別の意味を与えることで、齟齬をもたらし、同性愛者が安寧に生きられる環境を作ろうと目論むのだ。
一方、峠は自分が男色家であると衣良に信じさせるため、実際に男色家であることを公にしているサッカー部員の奥上を恋人役にして一芝居打つことにする。だが奥上は次第に峠への片思いを自覚するようになり、そのせいで交際相手である大学教授の新潟の怒りを買う。
その後、嫉妬深い新潟は、衣良の精神を回復させるとの口実で峠との「結婚」を解消させ、自分と同居させる。だが、本心では恋人である奥上の心を奪った峠への意趣返しを目的としている。また、実はさえ子も奥上に恋心を抱いていたため、峠に惹かれていく彼の姿にショックを受け、兄に変装してまで彼に近づこうとする[★5]。
物語はこのように、衣良と峠の「結婚」をはじめとして人間関係が複雑に絡み合い、人々の心に煩悶を生んでいく。重要なのはその人間関係が、同性愛、偽装結婚、疑似家族的な同居など、男女間の恋愛や性愛では全くない形として構築されていくことだ。絵柄や趣向は少女漫画的でありつつ、物語においてはあくまでもロマンティックラブを基調とした従来的な少女漫画とは違う展開が選ばれていると言えるだろう。より正確に言えばロマンティックラブ・イデオロギーによる抑圧を前提としながらも、物語はそこから逃れた場所で関係を築く人々の姿を描くものとなっている。
しかし登場人物たちの関係は、これ以上進展しない。ロマンティックラブを描かない以上、誰かが恋仲になって、恋愛や結婚をゴールとするラブストーリーとして物語が完結することはないのだ。大島弓子は物語がそこへ向かうことを拒否しているため、この複雑な関係は解消しないまま結末が訪れる。第三話のクライマックスで不意に「だれか/もつれた糸をヒュッと引き/奇妙でかみあわない/人物たちを/すべらかで/自然な位置に/たたせては/くれぬものだろうか」という文章が挿入されるが、これは登場人物の内語ではなく、作品全体を俯瞰的に説明したものとして読める。
ただ、これが「もつれた糸」を解消することを願う言葉になっていることは重要だ。大島は少女漫画的でありながらロマンティックラブに向かわず、結婚や恋愛の意味を攪乱させる物語を描いた。「奇妙でかみあわない」とは、まさしくその齟齬を意味する言葉だ。しかし齟齬が生み出された結果、人間関係は複雑になり、作中では誰もが思い悩んでいる。右記の言葉は、その苦悩を表したものだ。
衣良が志した「結婚」も、彼女が当初思ったようには進められない。彼女の理想は、いわば自己犠牲的に男色家同士の恋愛を守ることだったが、次第に峠へ惹かれていった結果、彼女は物語冒頭よりもいっそう精神のバランスを崩すようになる。
ロマンティックラブ・イデオロギーから解放された人々は従来になかったような人間関係を築くことができたが、それゆえに人間関係は複雑化し、新たな苦しみが生まれたのだ。恋愛や結婚、家族にまつわるこのような悩みは、セクシャリティや家族関係がより多様化した現代では、より一般的になったと言えるだろう。
では、こうした苦悩は乗り越えることができないのだろうか。『バナナブレッドのプティング』は前述のように、複雑化した人間関係の解消を願いはするものの、八方丸く収まる大団円を描くわけではない。しかし、それにもかかわらずこの物語の結末は、ロマンティックラブ・イデオロギーから解放された人々と、彼らの今後を肯定的に捉えて終わる。
注目すべきなのは、この作品の登場人物の言動が、いささか行き当たりばったりなことだ。もともと大島弓子は『バナナブレッドのプティング』を、全体の構想を練らずに連載開始したという。だからこそなのか、全五話を通して、それぞれの登場人物が誰とどんな関係を築きたがるかが、非常に移ろいやすい。
これによって、物語は記号と意味の関係の移ろい、すなわち齟齬を描き出すことができたが、しかしその移ろいゆえに人は苦悩する。そもそも衣良が物語冒頭で精神のバランスを崩していたのも、姉の結婚を契機として、それまで彼女と築いていた愛情関係が変化してしまうためだった。また衣良が物語後半で深刻に不安を抱くのも、自分の感情が不意に変化してしまうことに対してなのだ。
しかし結末で物語は、人々が感情の移ろいを受け入れ、なすがままに生きていくことにこそ希望を見出す。それはとりわけ峠の妹、御茶屋さえ子のエピソードにわかりやすく描かれる。もともと、彼女は奥上のことが好きだった。だが、やがて彼と関係を持つために兄の姿になりかわろうとする。つまり女性が男装して同性愛を演じるのだ。それだけでも当初のさえ子からすれば複雑な人間関係へと踏み出しているが、さらに最終話で、さえ子は不意に出会った哲学科の学生から、実は彼女の望みは近親相姦的な兄との一体化だと告げられる。兄の姿をして奥上に愛されることで「得恋のような甘さを味わった」のではないかと指摘されて、彼女は「暗示にかかったみたい」に峠への恋慕を自覚する。
さえ子の移ろいはそれに終わらない。彼女は、さらに兄への近親相姦願望は「胎内復帰後退性」であり、さらにそれは「同性愛思考に結びつく」のだとも指摘される。要するに、奥上を愛することは兄を愛することであり、さらにそれは胎内回帰の願望とも結びついており、また衣良を愛することでもあると言われるのだ。
このくだりは明らかに強引で、論理が飛躍している。ゆえにさえ子は「やだ!! しりめつれつじゃないの」「わたしは奥上くんを好きなのよ」と叫ぶが、哲学科の学生は「ぼくはこの考えかたをじゅずつなぎ思考と命名しているのです」と言い張り、さえ子はこれに不思議と納得してしまう。
さえ子に呆れさせてまで大島が主張するのは、何かを強く愛することは別の何かを愛することへと変化しうるという、愛をめぐる食い違い、齟齬を連続させていくことの価値だ。 大島が少女漫画的な記号を用いながら、女性性こそを強調しているのでないことは、ここにおいて疑う余地がない。むしろ彼女は、意味がひとつに限定されないこと自体を作品のテーマにしている。
改めて、大島が用いる意匠や表現に注目しよう。キャラクターの発語と内語が並行して書かれることや、米澤の指摘した「乱舞する花びら」に典型的なように、彼女の作品ではそれぞれの世界に属するはずの事物が、コマをまたいで容易に他の世界に侵入する。読者はその図像や文字を目で追いながら、リアリティレベルがいつの間にか現実から夢へ、あるいは観念の世界へ、さらにはそれらが同時に成り立つ世界へと移り変わっていくのを感じる。こうした表現技法は少女漫画にはよくあるものだが、大島はその図像や台詞の移ろいを躊躇せず氾濫させることで、人の感情が移ろい変わっていくこともまた肯定していたのだ。
その感情の変化はさえ子の言うように支離滅裂に見えるため、衣良のように不安な気持ちになるかもしれない。しかし大島が哲学科の学生の口を借りて言うのは、それを積極的に受け入れるべきということだ。実は変化のひとつずつは支離滅裂ではなく、数珠つなぎのように連関している。大島は、その移ろいに身を任せていいのだと示唆している。 物語の最後、さえ子が海外へ留学することになったことで、峠は衣良に「いっしょに食卓をかこんでくれる人が必要なんだ」と誘う。つまり彼らが再び同居するにせよ、それはさえ子の留学という変化に応じて、成り行きのように行われるのだ。ロマンティックラブ・イデオロギーのような制度的、執着的な愛に端を発する家庭は、この物語からは生まれない。しかし、それでも衣良と峠は、共に食卓を囲む将来へ向かっていく。
七〇年代は、日本社会の基盤を成すイデオロギーが崩壊し、ロマンティックラブ・イデオロギーに支えられた従来的な恋愛や結婚、家庭を実現することにも無理が生じ始めた時代だった。漫画以外のジャンルでも、たとえば一九七四年にはまだ『寺内貫太郎一家』のような古い家父長制を感じさせるテレビドラマが作られていたが、七〇年代後半になると『となりの芝生』(一九七六年)、『岸辺のアルバム』(一九七七年)など、従来的な家族関係が成り立たず、家庭の崩壊すら描く「辛口ホームドラマ」が盛んに作られ始める。
少女漫画はもともとロマンティックラブ・イデオロギーに束縛されていたジャンルだからこそ、その時代性をいち早く感じ取り応答する形で、旧来的な恋愛、結婚、出産からの脱却を志す作品群が、あらゆる文化に先がけて生まれていた。二四年組の作品はその代表例と言える。今日にいたるまでその作品が人気を博しているのは単に彼女たちが女性性を描いたからではないし、男性読者が好意的に読んでいるのも、彼らが女性の心理を理解したがっているせいだとは言えない。男女を問わず考えるべき、新たな時代に対応した新たな人間関係のあり方を模索しているからだ。
日本の少女漫画はその流れを受け継ぎ、七〇年代以降も、時代に応じて新しい家族関係を提案していった。人口減少や性の多様化が進む昨今には、こうした少女漫画の蓄積から結婚や家族を考えることはますます意義深くなっている。次回ではそれを振り返りながら、筆者の少女漫画についてのここまでの議論を小括する。
これによって、物語は記号と意味の関係の移ろい、すなわち齟齬を描き出すことができたが、しかしその移ろいゆえに人は苦悩する。そもそも衣良が物語冒頭で精神のバランスを崩していたのも、姉の結婚を契機として、それまで彼女と築いていた愛情関係が変化してしまうためだった。また衣良が物語後半で深刻に不安を抱くのも、自分の感情が不意に変化してしまうことに対してなのだ。
しかし結末で物語は、人々が感情の移ろいを受け入れ、なすがままに生きていくことにこそ希望を見出す。それはとりわけ峠の妹、御茶屋さえ子のエピソードにわかりやすく描かれる。もともと、彼女は奥上のことが好きだった。だが、やがて彼と関係を持つために兄の姿になりかわろうとする。つまり女性が男装して同性愛を演じるのだ。それだけでも当初のさえ子からすれば複雑な人間関係へと踏み出しているが、さらに最終話で、さえ子は不意に出会った哲学科の学生から、実は彼女の望みは近親相姦的な兄との一体化だと告げられる。兄の姿をして奥上に愛されることで「得恋のような甘さを味わった」のではないかと指摘されて、彼女は「暗示にかかったみたい」に峠への恋慕を自覚する。
さえ子の移ろいはそれに終わらない。彼女は、さらに兄への近親相姦願望は「胎内復帰後退性」であり、さらにそれは「同性愛思考に結びつく」のだとも指摘される。要するに、奥上を愛することは兄を愛することであり、さらにそれは胎内回帰の願望とも結びついており、また衣良を愛することでもあると言われるのだ。
このくだりは明らかに強引で、論理が飛躍している。ゆえにさえ子は「やだ!! しりめつれつじゃないの」「わたしは奥上くんを好きなのよ」と叫ぶが、哲学科の学生は「ぼくはこの考えかたをじゅずつなぎ思考と命名しているのです」と言い張り、さえ子はこれに不思議と納得してしまう。
さえ子に呆れさせてまで大島が主張するのは、何かを強く愛することは別の何かを愛することへと変化しうるという、愛をめぐる食い違い、齟齬を連続させていくことの価値だ。 大島が少女漫画的な記号を用いながら、女性性こそを強調しているのでないことは、ここにおいて疑う余地がない。むしろ彼女は、意味がひとつに限定されないこと自体を作品のテーマにしている。
改めて、大島が用いる意匠や表現に注目しよう。キャラクターの発語と内語が並行して書かれることや、米澤の指摘した「乱舞する花びら」に典型的なように、彼女の作品ではそれぞれの世界に属するはずの事物が、コマをまたいで容易に他の世界に侵入する。読者はその図像や文字を目で追いながら、リアリティレベルがいつの間にか現実から夢へ、あるいは観念の世界へ、さらにはそれらが同時に成り立つ世界へと移り変わっていくのを感じる。こうした表現技法は少女漫画にはよくあるものだが、大島はその図像や台詞の移ろいを躊躇せず氾濫させることで、人の感情が移ろい変わっていくこともまた肯定していたのだ。
その感情の変化はさえ子の言うように支離滅裂に見えるため、衣良のように不安な気持ちになるかもしれない。しかし大島が哲学科の学生の口を借りて言うのは、それを積極的に受け入れるべきということだ。実は変化のひとつずつは支離滅裂ではなく、数珠つなぎのように連関している。大島は、その移ろいに身を任せていいのだと示唆している。 物語の最後、さえ子が海外へ留学することになったことで、峠は衣良に「いっしょに食卓をかこんでくれる人が必要なんだ」と誘う。つまり彼らが再び同居するにせよ、それはさえ子の留学という変化に応じて、成り行きのように行われるのだ。ロマンティックラブ・イデオロギーのような制度的、執着的な愛に端を発する家庭は、この物語からは生まれない。しかし、それでも衣良と峠は、共に食卓を囲む将来へ向かっていく。
七〇年代は、日本社会の基盤を成すイデオロギーが崩壊し、ロマンティックラブ・イデオロギーに支えられた従来的な恋愛や結婚、家庭を実現することにも無理が生じ始めた時代だった。漫画以外のジャンルでも、たとえば一九七四年にはまだ『寺内貫太郎一家』のような古い家父長制を感じさせるテレビドラマが作られていたが、七〇年代後半になると『となりの芝生』(一九七六年)、『岸辺のアルバム』(一九七七年)など、従来的な家族関係が成り立たず、家庭の崩壊すら描く「辛口ホームドラマ」が盛んに作られ始める。
少女漫画はもともとロマンティックラブ・イデオロギーに束縛されていたジャンルだからこそ、その時代性をいち早く感じ取り応答する形で、旧来的な恋愛、結婚、出産からの脱却を志す作品群が、あらゆる文化に先がけて生まれていた。二四年組の作品はその代表例と言える。今日にいたるまでその作品が人気を博しているのは単に彼女たちが女性性を描いたからではないし、男性読者が好意的に読んでいるのも、彼らが女性の心理を理解したがっているせいだとは言えない。男女を問わず考えるべき、新たな時代に対応した新たな人間関係のあり方を模索しているからだ。
日本の少女漫画はその流れを受け継ぎ、七〇年代以降も、時代に応じて新しい家族関係を提案していった。人口減少や性の多様化が進む昨今には、こうした少女漫画の蓄積から結婚や家族を考えることはますます意義深くなっている。次回ではそれを振り返りながら、筆者の少女漫画についてのここまでの議論を小括する。


さやわか
1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
愛について──符合の現代文化論
- 小さな符合を引き受けること 愛について──符合の現代文化論(最終回)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(15) 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(14) 古くて新しい、疑似家族という論点について(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(番外編) 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(13) スパイダーマンにとって責任とは何か|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(11) 新しい符合の時代を生きる(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(10) 性的流動性、あるいはキャラクターの自由|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(9)「キャラクター化の暴力」の時代(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(8)「キャラクター化の暴力」の時代|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(7) 符合のショートサーキット(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(6) 符合のショートサーキット(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(5) 少女漫画と齟齬の戦略(後)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(4) 少女漫画と齟齬の戦略(中)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(3) 少女漫画と齟齬の戦略(前)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(2) なぜポルノは百科事典でないか|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか|さやわか