愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論|さやわか

初出:2022年2月25日刊行『ゲンロンβ70』
日本の人口が減少局面を迎える中で、男女の婚姻と生殖による従来の家族像だけを尊ぶことは時代に合わなくなっている。だから「家族」という言葉に別の意味を符合させ、その概念を拡張すべきである。前回はこの一例として、同性カップルが養子を迎えられる制度への改革を挙げた。
では、その実現にとって、障害は何か。ひとつには、国の積極性のなさが挙げられるだろう。
ただし国も、同性婚を全否定しているわけではない。2018年の国会答弁で「同性婚を認めるべきか否かは、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要する」と述べている[★1]。これは消極的ながら、議論の余地を残した態度だと言える。
その流れを受けてか、同性婚の成立を望む人々は2019年に国を相手取り、全国四都市で裁判を起こした。その結果、国が同性婚を認める立法を怠ったとする原告の賠償請求は棄却されたが、同性婚を認めないのは憲法14条に違反するとの判断も示された。これは日本の憲政史上で初のことだ。
しかし興味深いのは判決そのものより、被告側の国の主張だ。同性婚の反対派はしばしば、憲法が婚姻を「両性の合意のみに基いて」成立するとしていることを根拠にする。この「両性」が、憲法制定時に男女を想定していたのは間違いないと思われるからだ。だが国は、これを論拠にしたのではない。代わりに「婚姻制度の目的は自然生殖の保護にある」と述べ、さらには婚姻できる者の範囲が「生物学的な自然生殖可能性」によって確定されている、としたのだ。
筆者はここで、「自然生殖」という文言が用いられた理由を考えてみたい。そこには、少子化問題への懸念があるに違いない。国は同性カップル自体に悪感情を抱いているわけではなく、「自然生殖」が減り、社会の維持がいっそう難しくなるかもしれないと気がかりに思っているのだ。
では、その実現にとって、障害は何か。ひとつには、国の積極性のなさが挙げられるだろう。
ただし国も、同性婚を全否定しているわけではない。2018年の国会答弁で「同性婚を認めるべきか否かは、我が国の家族の在り方の根幹に関わる問題であり、極めて慎重な検討を要する」と述べている[★1]。これは消極的ながら、議論の余地を残した態度だと言える。
その流れを受けてか、同性婚の成立を望む人々は2019年に国を相手取り、全国四都市で裁判を起こした。その結果、国が同性婚を認める立法を怠ったとする原告の賠償請求は棄却されたが、同性婚を認めないのは憲法14条に違反するとの判断も示された。これは日本の憲政史上で初のことだ。
しかし興味深いのは判決そのものより、被告側の国の主張だ。同性婚の反対派はしばしば、憲法が婚姻を「両性の合意のみに基いて」成立するとしていることを根拠にする。この「両性」が、憲法制定時に男女を想定していたのは間違いないと思われるからだ。だが国は、これを論拠にしたのではない。代わりに「婚姻制度の目的は自然生殖の保護にある」と述べ、さらには婚姻できる者の範囲が「生物学的な自然生殖可能性」によって確定されている、としたのだ。
筆者はここで、「自然生殖」という文言が用いられた理由を考えてみたい。そこには、少子化問題への懸念があるに違いない。国は同性カップル自体に悪感情を抱いているわけではなく、「自然生殖」が減り、社会の維持がいっそう難しくなるかもしれないと気がかりに思っているのだ。
したがって論点となるべきは、国が結婚した男女による自然生殖しか出生率を上げる手段を想定していない、ということだ。だからこそ筆者は養子制度の導入に積極的なのだ。「同性婚を認めても出生率が上がる、人口が増える」と言えるなら、国はもう少し積極的に同性婚の実現に取り組めるかもしれない。
にもかかわらず原告側の弁論は、自然生殖は法の定める婚姻の要件ではないとの指摘をはじめ、被告の論理破綻をあげつらうことに終始した。裁判は論点を広げるためのものではないので、それは妥当な戦略かもしれない。しかし、国のそもそもの誤りは、「家族」の古い形式にこだわること、その旧来の意味に固執していることではなかったか。
もちろん、出生率が下がり続けている状況を同性婚が助長するかもしれないと思えば、国が前向きになれないのは理解できる。そして同性婚を推進する人々の主張は、残念ながら国の、そしてそれを支持する保守層の不安を解消できるものにはなっていない。推進派は「同性婚ができないのは不平等だ」とか「欧米諸国はうまくいっている」とか、「民法や戸籍法を変えるだけだから、日本社会が大きく変わることはない」などと主張する。
しかしそれは「出生率がさらに下がるかもしれない」と懸念している人々が欲する回答ではない。反対派の不安解消につながらない主張を繰り返していれば、当然ながら賛意を得ることは難しいだろう。また、たとえ裁判に勝てたとしても、仮にその後出生率の低下に歯止めがかからなかった場合、同性婚の認可が主たる要因としてやり玉に挙げられないとも限らない。
したがって同性婚の実現を願う人々は、出生率の低下という問題に向き合う必要がある。家族の概念を拡張し、時代に即した家族像を築くならば、私たちはそのイメージの元で社会を持続させることもまた引き受けなければならない。「家族」を新たな意味へ符合させるなら、その変化への責任を持たねばならないのだ。
同性婚と同様に、新しい家族像の実現を求める人々が非難を浴びているケースがある。いわゆる選択制夫婦別姓についての議論だ。これは本論の言葉で言えば、他人からある記号(この場合は姓)を強制され、固有の人格を否定される「キャラクター化の暴力」を回避する手段だと言える。だから筆者としても積極的に推したい改革だ。しかし、一時は議論が進んだものの、最近では停滞気味になっている。やはり保守層からの「伝統的な家族像が崩壊する」「子供が犠牲になる」などの批判が根強いからだ。
こうした批判に対して、推進派であるサイボウズ社の社長・青野慶久は著書で次のように書いている。
どうやら、「家族の絆」や「伝統」といった言葉を大切にする人たちが政治の中心に陣取っていて、夫婦別姓の家族が増えることによって、なし崩し的に戸籍制度まで破壊されてしまうことを恐れている。たとえ選択的であれ絶対に許さん、とガードしているというのです。[★2]
言うまでもなく、この「政治の中心」にいる人々の「恐れ」とは、前述した同性婚への不安と同根のものである。これに対して青野は、同性婚を実現しようとする人々と同様に、「困っている人がいるのだから、制度を変えるべきだ」と訴える。
それは正義感に基づく主張だし、妥当にも思える。だが、その姿勢には、反対派が「日本の社会が変わるかもしれない」という不安をシリアスに抱いているかもしれないと、つまり彼らもまた「困っている」のかもしれないと、相手を慮るところが窺えない。
さらに青野は「夫婦別姓を選択するカップルが増えたところで日本は壊れたりしません。家族は家族のままですし、子どもも変わらず健やかに成長するでしょう」と述べる。これも、同性婚の支持者たちが「制度を変えても日本社会が大きく変わることはない」と述べるのと同じだ。
ところが青野は、同書の別の箇所では次のように述べる。
「夫婦同姓は日本の伝統だ。伝統は守らねばならない!」
じゃあ、お前、明日からチョンマゲな。
──と、言いっぱなしも失礼なので具体的にお話ししましょう。
これまでの日本社会を振り返ってみても、すべての伝統を残してきたわけではありません。社会の変化やそこで生活する人の声を受け、ときに伝統と呼ばれるものや昔からの風習を捨てたり、変えたりしてきました。
現に、もし服装や食事、住居などを江戸時代やそれ以前に戻されたら……困りますよね。「日本の伝統は一日二食だから」と言われたら、そちらに回帰するのか。僕は嫌です。もっといえば、反対派の方が大事にしている日本の家制度も、明治維新のタイミングで社会がガラッと変化したからこそ生まれたのであって、それ以前は「伝統」ではなかったのです。
「じゃあ、お前、明日からチョンマゲな」は明らかな冗談だとしても、その後の部分に書いてあるのは、伝統は必ずしも守られ続けるわけではない、という意味のことだ。これは先ほどの「日本はこれまでと変わらない」との主張とは全く異なる。
もし「社会がガラッと変化」する可能性があるならば、「日本は壊れたりしません」とも言い切れないはずだ。むしろ、「日本は変わるし、変わらなければならない」あるいは「変わるかどうかはわからないが、変わっても大丈夫だ」などと言うべきだろう。
つまり青野もまた、同性婚の支持者たちと同じく、「家族」を別の意味に符合させることに対して、十分に責任を持とうとしているようには見えないのだ。それとなく責任を回避しつつ「明日からチョンマゲな」などと相手の不安を一笑するだけでは、反対派の態度が硬化するのは当然のように思える。
繰り返すが、筆者は同性婚や選択的夫婦別姓が実現すべきだと思っている。しかし記号と意味との符合に齟齬をもたらすことは、そこから生じる変化に責任を持ってなされるべきだ。そうでないと、その齟齬は誰からも承認されないまま、身勝手で無意味なものとされて潰えてしまう。
ここで社会学者の上野千鶴子と千田有紀が論集『脱アイデンティティ』で展開した、アイデンティティとポジショナリティについての議論を参照してみよう。
ポジショナリティとは何だろうか。アイデンティティに比べれば馴染みのない言葉だが、近年は差別や労使など、権力関係が根底にある問題が語られる際に耳にする機会が増えている。千田による簡潔な説明によると、ポジショナリティとは「他者が私を何者であると名指しているのか」を意味する言葉で[★3]、「自分自身が、私を何ものであると思っているか」を指すアイデンティティと対比される。
たとえば、ある男性が、自身は女性差別的な考えを持っていないと思っていたとする。しかし彼は男性中心社会においては強者であり、差別者たりえるポジショナリティを持っている。そのポジショナリティに無自覚であると、彼の言動は思わぬところで被差別者を傷つけることがある。
つまり青野もまた、同性婚の支持者たちと同じく、「家族」を別の意味に符合させることに対して、十分に責任を持とうとしているようには見えないのだ。それとなく責任を回避しつつ「明日からチョンマゲな」などと相手の不安を一笑するだけでは、反対派の態度が硬化するのは当然のように思える。
繰り返すが、筆者は同性婚や選択的夫婦別姓が実現すべきだと思っている。しかし記号と意味との符合に齟齬をもたらすことは、そこから生じる変化に責任を持ってなされるべきだ。そうでないと、その齟齬は誰からも承認されないまま、身勝手で無意味なものとされて潰えてしまう。
ここで社会学者の上野千鶴子と千田有紀が論集『脱アイデンティティ』で展開した、アイデンティティとポジショナリティについての議論を参照してみよう。
ポジショナリティとは何だろうか。アイデンティティに比べれば馴染みのない言葉だが、近年は差別や労使など、権力関係が根底にある問題が語られる際に耳にする機会が増えている。千田による簡潔な説明によると、ポジショナリティとは「他者が私を何者であると名指しているのか」を意味する言葉で[★3]、「自分自身が、私を何ものであると思っているか」を指すアイデンティティと対比される。
たとえば、ある男性が、自身は女性差別的な考えを持っていないと思っていたとする。しかし彼は男性中心社会においては強者であり、差別者たりえるポジショナリティを持っている。そのポジショナリティに無自覚であると、彼の言動は思わぬところで被差別者を傷つけることがある。
具体的な例を挙げよう。最近、ツイッター上である男性が、育児の現場における「男性の透明化」に苦言を呈したことがあった[★4]。育児教室などは「ママが」「ママは」と母親主体で話すことが多く、また男性が参加できないものもあると述べたのだ。この意見には多くの批判が寄せられ、その中には「これまで男性が子育てに参加してこなかった自業自得であり、文句を言うに値しない」などの声もあった。これはポジショナリティに基づく批判の例だと言える。
要するにポジショナリティへの批判とは、自分の立場を逃れて生きようとするのは無責任である、というものだ。だとすれば、同性婚や選択的夫婦別姓の支持者の立場についても考えを変える必要が出てくる。彼らは、たしかに現在のポジショナリティとしては社会的マイノリティであるし、弱者でもありうるだろう。しかし新制度を勝ち取った後は、相応のポジショナリティによって、伝統の変化や少子化問題について責任ある言動が必要とされるのだ。
一方で、ポジショナリティによる批判は諸刃の剣でもある。その考え方を用いて、符合に齟齬をもたらすための戦略の多くもまた、無責任だと批判できてしまうからだ。
前々回、筆者はジェンダークィアやノンバイナリーなど、男女二元論にとらわれない流動的な性的アイデンティティを主張する人々の増加について述べた。この現象を筆者は、「キャラクター化の暴力」を拒否する風潮として、肯定的に評価した。
しかしポジショナリティを重んじるならば、性的流動性の表明もまた逃避であり、無責任だと批判される可能性が出てくる。実際、上野は千田の議論をまとめながら、次のように述べている。
ここで上野は、アイデンティティは自己のものだから変えることができ、ポジショナリティはそうではないという明確な対立を導入している。上野は別の箇所でも、「アイデンティティは自己に属し、したがってコントロールできる」として、「他者に属し、自分の意思だけではコントロールできない」ポジショナリティと区別している。つまり上野は、アイデンティティとは違い他者との相互作用のうえに成立することをもって、ポジショナリティには一貫した主体性が生じると肯定的に評価しているわけである。
要するにポジショナリティへの批判とは、自分の立場を逃れて生きようとするのは無責任である、というものだ。だとすれば、同性婚や選択的夫婦別姓の支持者の立場についても考えを変える必要が出てくる。彼らは、たしかに現在のポジショナリティとしては社会的マイノリティであるし、弱者でもありうるだろう。しかし新制度を勝ち取った後は、相応のポジショナリティによって、伝統の変化や少子化問題について責任ある言動が必要とされるのだ。
一方で、ポジショナリティによる批判は諸刃の剣でもある。その考え方を用いて、符合に齟齬をもたらすための戦略の多くもまた、無責任だと批判できてしまうからだ。
前々回、筆者はジェンダークィアやノンバイナリーなど、男女二元論にとらわれない流動的な性的アイデンティティを主張する人々の増加について述べた。この現象を筆者は、「キャラクター化の暴力」を拒否する風潮として、肯定的に評価した。
しかしポジショナリティを重んじるならば、性的流動性の表明もまた逃避であり、無責任だと批判される可能性が出てくる。実際、上野は千田の議論をまとめながら、次のように述べている。
多様で流動的なアイデンティティという議論をするたびに、かならず持ち出される批判がある。そうなれば一貫性のある「責任主体」はどこへ行ってしまうのか、という批判である。もっとかんたんに言えば、誰が責任をとるのか、と。アイデンティティは自由に変えられるかもしれない、だが、あなたのポジショナリティは自由には変えられない、そのとき、自由で多元的なアイデンティティを語ることは、ポジショナリティからの逃避と責任回避になってしまうのではないか、と。
ここで上野は、アイデンティティは自己のものだから変えることができ、ポジショナリティはそうではないという明確な対立を導入している。上野は別の箇所でも、「アイデンティティは自己に属し、したがってコントロールできる」として、「他者に属し、自分の意思だけではコントロールできない」ポジショナリティと区別している。つまり上野は、アイデンティティとは違い他者との相互作用のうえに成立することをもって、ポジショナリティには一貫した主体性が生じると肯定的に評価しているわけである。
だがはたして、そもそもアイデンティティは上野の言うように自由に変えられるものだっただろうか。右に挙げた上野の記述は、千田の議論をまとめながら論点を提示した部分だが、実は千田の主張とは、微妙な、しかし決定的な違いがある。千田自身の記述を見てみよう。
自己が社会的に構成されるものであるというこの主張は、チャールズ・クーリーの鏡映的自己論をはじめ、社会学では定番のものだ。上野もそれを知らないはずはない。ところがなぜかポジショナリティとの比較において、上野はアイデンティティが他者との相互作用によって成り立つ側面を切り捨てている。その結果千田の議論のまとめとしても誤った内容になっている。
上野がそのように整理した理由はわからない。だが、アイデンティティもまたポジショナリティと同様に他者との相互作用で形成される。したがってアイデンティティが変化すれば、それに相応して新たなポジショナリティが生まれると考えるべきである。ここまでの議論の言葉で言えば、符合に齟齬をもたらすならば(新たなアイデンティティを作れば)、その変化に伴う責任が生じる(新たなポジショナリティも生まれる)、ということだ。
このような考えに基づけば、アイデンティティが流動的だからこそ、その都度新たなポジショナリティを自覚して行動することが必要になってくる。前々回で、性的流動性を主張する人々は、ウェブ2.0の都度的かつ機会的なページ生成の仕組みと親和性が高いと述べたことを思い出そう。彼らは性的アイデンティティを、参加するコミュニティの状況や、関係を築く相手に応じて、機会的に切り替え、それに適した応対をする。そこにアイデンティティの、他者との相互作用で成り立つ流動的な側面がある。
筆者は、そうした性的アイデンティティには、テプフェールや東浩紀の言うキャラクター的な側面があるとも述べた。すなわち、新たな意味を付け加えられたり、違うものに変化したりしながら、しかし彼らのアイデンティティは履歴を持ち連続しているのだ。流動的なアイデンティティを生きる者は、その連続性に責任を持たねばならないのである。それが新たなポジショナリティということである。
もちろん、アイデンティティは真空状態のなかで獲得されるのではなく、他者との関係のなか、社会関係のなかで作り続けられるものである。エリクソンによれば、アイデンティティは自己の斉一性、時間的な連続性と一貫性、帰属性によって定義されるが、この一貫した自己、連続した自己という想定自体を支えるものは、他者との関係である。
自己が社会的に構成されるものであるというこの主張は、チャールズ・クーリーの鏡映的自己論をはじめ、社会学では定番のものだ。上野もそれを知らないはずはない。ところがなぜかポジショナリティとの比較において、上野はアイデンティティが他者との相互作用によって成り立つ側面を切り捨てている。その結果千田の議論のまとめとしても誤った内容になっている。
上野がそのように整理した理由はわからない。だが、アイデンティティもまたポジショナリティと同様に他者との相互作用で形成される。したがってアイデンティティが変化すれば、それに相応して新たなポジショナリティが生まれると考えるべきである。ここまでの議論の言葉で言えば、符合に齟齬をもたらすならば(新たなアイデンティティを作れば)、その変化に伴う責任が生じる(新たなポジショナリティも生まれる)、ということだ。
このような考えに基づけば、アイデンティティが流動的だからこそ、その都度新たなポジショナリティを自覚して行動することが必要になってくる。前々回で、性的流動性を主張する人々は、ウェブ2.0の都度的かつ機会的なページ生成の仕組みと親和性が高いと述べたことを思い出そう。彼らは性的アイデンティティを、参加するコミュニティの状況や、関係を築く相手に応じて、機会的に切り替え、それに適した応対をする。そこにアイデンティティの、他者との相互作用で成り立つ流動的な側面がある。
筆者は、そうした性的アイデンティティには、テプフェールや東浩紀の言うキャラクター的な側面があるとも述べた。すなわち、新たな意味を付け加えられたり、違うものに変化したりしながら、しかし彼らのアイデンティティは履歴を持ち連続しているのだ。流動的なアイデンティティを生きる者は、その連続性に責任を持たねばならないのである。それが新たなポジショナリティということである。
同性婚と選択的夫婦別姓についての議論、そしてアイデンティティとポジショナリティをめぐる議論を追うことで、記号と意味の符合を切断しながら、変化の責任を引き受けて生きる人間像がより明確になってきた。さらに、責任を持ちつつ流動的である人々が、どのように新たな家族を築けるかを考えたい。
近年は日本でもシェアハウスという言葉がポピュラーになってきた。シェアハウスとは、友人同士など複数人で賃貸物件を借りて住む居住形態や、その物件そのものを指す。家賃は居住者全員で分けるのが普通だが、それぞれの収入や専有スペースの広さなどで金額に差を付ける場合もある。生活必需品は共同購入することが多い。
大ヒットしたリアリティ番組「テラスハウス」(フジテレビ)も、複数の男女がシェアハウスで共に住むことをコンセプトにしたものだった。この番組が放映開始した2012年以降は、こうした居住形態が一般に知られるようになったと考えていいだろう。
それ以前に有名なものには、かつて「日本一有名なニート」として多くのメディアに紹介された pha が発起人の「ギークハウス」がある。ギークハウスはIT関係者やクリエイターを中心とした居住者が集うのが特徴で、この趣旨で運営されたシェアハウスならば、pha 以外の手による施設もギークハウスを名乗ることができるというコンセプトである。
pha は2008年に28歳で職を辞め、翌年に町田市で最初のシェアハウスを立ち上げた。以後、彼は2019年までずっとシェアハウスでの生活を続けた。ただその理由は、必ずしも経済的な理由ばかりではないと言う。むしろ、物件にもよるだろうが、家賃で言えばシェアハウスは割高になりがちなのだそうだ。それでもシェアハウスに住むメリットは何だろうか。pha の著書『しないことリスト』には、次のように書かれている。
外の人がちょくちょく遊びにくるようにしたり、出て行きたいという人は自由に出て行っていいようにして、人が出たり入ったりする「流動性」を保つ、というのが風通しのよい健全なコミュニティを維持していくコツだ。
僕がシェアハウスで友達を集めて住んでいる理由も、そういうところにある。
家族というのは入れ替わりがないけれど、シェアハウスはちょこちょこ住人が入れ替わる。そういうところがラクだ。もし酷い人間がいたとしても、出て行ってもらったり自分が出て行けばいい。
もちろん、「流動性が高い」というのは一長一短でもある。
シェアハウスに友達を集めて住むのは気楽だけど、みんないつ出て行くかわからないし、5年、10年後は一人になっているかもしれない。
家族というのは流動性がなくてなかなか抜けにくいコミュニティだけど、抜けにくいからこそ、10年後も20年後も絆が切れないという期待ができる。
だから、どちらがいいとは単純に言えない。できれば、その両方をうまく利用して補完しあうのがいいだろう。[★5]
pha はここで従来の家族と対比しながら、シェアハウスが流動性の高いコミュニティであり、ゆえに健全さを保てると述べている。それは、従来の家族や住居は求めないが、流動的な新しい家族形態としてシェアハウスを求めたのだということだろう。
pha は前述のように、2019年になると不意に「飽きた」と言ってシェアハウスの運営を辞め、一人暮らしを始めた。物件からは全員が退去し、人々は離散した。それもまた、彼が想定するギークハウスの人間関係がはじめから固定的なものでなく、流動的だからこそできたことだ。
しかし、その気楽さをもって、彼にポジショナリティの意識や、責任感がないとは言えない。それどころか pha は、複数の著書で繰り返し「自己責任」のあり方について持論を述べている。「自分の身に降りかかる不幸が100パーセント自己責任になるのは苦しいので、50パーセントくらいになるといい」というのがその内容だ。ただ pha 自身も指摘するように、今の社会ではそれが難しい。不幸が起きた際に従来の社会制度は守ってくれず、個人が全面的に追い詰められがちになる。
pha が言うのは、要するに一人一人の自己責任を分け合い、誰か1人が100パーセント責任を負うことを回避するコミュニティを作ろう、ということだ。本来「自己責任」とは、個人が100パーセントの責任を負うという意味でしかない。だが集団になれば、つまり「個人」でなくなれば、みんなで責任をちょっとずつ肩代わりできるのではないか。シェアハウスはそのひとつの試みなのである。
ただし、シェアハウスで自己責任を分け合うことで、責任がゼロになるわけではない。流動性が高く、また自己責任率を下げたシェアハウスは、古くからある「家族」という言葉に符合した意味から逃れられる、新しいコミュニティ像だ。しかしだからといって、住人に求められるべき責任が全くないわけではない。責任がゼロになると考えることは、共同生活者であるというポジショナリティに無自覚だということになる。
しかし、その気楽さをもって、彼にポジショナリティの意識や、責任感がないとは言えない。それどころか pha は、複数の著書で繰り返し「自己責任」のあり方について持論を述べている。「自分の身に降りかかる不幸が100パーセント自己責任になるのは苦しいので、50パーセントくらいになるといい」というのがその内容だ。ただ pha 自身も指摘するように、今の社会ではそれが難しい。不幸が起きた際に従来の社会制度は守ってくれず、個人が全面的に追い詰められがちになる。
でも今は数十年前と違って、会社もそんなに社員の人生を全面的に面倒見るような余裕はないし、家族も結構破綻することも多くなってきていて、そうした昔ながらの保障がだんだんなくなってきている。じゃあ国とかがもうちょっとなんとかすべきだと思うんだけど、制度とか世の中の空気とかはなかなか変わらないもので、公的な支えはまだまだ不十分だと思う。まあとりあえずは国や自治体の福祉制度などで使えるものがあれば最大限利用するようにして、足りない分は自分たちでセーフティーネットを自作してしのいでいくしかないのだろう。[★6]
pha が言うのは、要するに一人一人の自己責任を分け合い、誰か1人が100パーセント責任を負うことを回避するコミュニティを作ろう、ということだ。本来「自己責任」とは、個人が100パーセントの責任を負うという意味でしかない。だが集団になれば、つまり「個人」でなくなれば、みんなで責任をちょっとずつ肩代わりできるのではないか。シェアハウスはそのひとつの試みなのである。
ただし、シェアハウスで自己責任を分け合うことで、責任がゼロになるわけではない。流動性が高く、また自己責任率を下げたシェアハウスは、古くからある「家族」という言葉に符合した意味から逃れられる、新しいコミュニティ像だ。しかしだからといって、住人に求められるべき責任が全くないわけではない。責任がゼロになると考えることは、共同生活者であるというポジショナリティに無自覚だということになる。
たとえば『しょぼい企業で生きていく』(えらいてんちょう著、イーストプレス、2018年)の対談でも語られているように、pha はシェアハウス内でトラブルがあればそれに対処する。彼もそのようにして、自分のポジショナリティに応じた責任を果たしている。作家の海猫沢めろんも、シェアハウスで子育てした経験から「実際のシェアハウスはそんな甘いものではない」と述べている。
彼はかつて財産を失ったことがあり、その頃から現在に至るまで、15年近くシェアハウスで生活している。しかしそれだけ長く住んだ彼でも、自分以外の住人が子供をもうけた際には「他人の子供に興味が持てなかった」と言う。同様に、自分の子供が生まれた際も、他の住人が積極的に協力してくれるわけではなかった。
この経験をもって海猫沢は、シェアハウスは単に貧困ゆえに人が集まっただけで、新しい家族ではなかったと結論づけている。それはたしかにそうだろう。彼が言うように、貧困ゆえに為す術なくシェアハウスを選んだ住人なら、皆で自己責任率を下げ、流動性の高い新しい家族としてのコミュニティを作ろうなどとは思わなかったに違いない。
ただ『自分の子供は自分で面倒を見ろ!』という叱責は、子育てを行う責任が海猫沢にあるという周囲の認識によってもたらされている。言い換えれば彼は、他者と育児をシェアするようなポジショナリティを獲得していなかったのだ。子供の世話などをシェアできるかどうかは、結局それぞれの人間関係と、そこで築いた自身のポジショナリティに依拠している。
この連載は、記号と意味の強い符合に執着することを「愛」と呼び、その結びつきを切断し、新たな符合を生み出すことを志してきた。
しかし、新たな符合は他者との関係の中で定められるのだから、人々はその結果に対して責任を持たねばならない。シェアハウスに限らず、ゼロ年代後半以降、若者を中心としたコミュニティやコレクティブ、運動体は相次いで作られたが、責任の所在を明らかにせず運営した結果トラブルを起こしたり、潰れたりしてしまったものも多い。pha が言うように、人々は古い意味の符合にとらわれない、流動的なコミュニティを欲するようになったが、それは責任を回避できるという意味ではない。責任を持って、新しい符合を他者と分かち合う態度、それこそを、筆者は改めて「愛」と呼びたい。
次回は、この新しい「愛」について、筆者はもう一度MCUの作品を挙げながらさらに考察する。具体的には、アメリカで空前の大ヒットを記録し、日本でも今年1月に公開されて好評を博した『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』について書こう。
彼はかつて財産を失ったことがあり、その頃から現在に至るまで、15年近くシェアハウスで生活している。しかしそれだけ長く住んだ彼でも、自分以外の住人が子供をもうけた際には「他人の子供に興味が持てなかった」と言う。同様に、自分の子供が生まれた際も、他の住人が積極的に協力してくれるわけではなかった。
シェアハウスだからいつでも子供を任せられるだろう、というのは安易な考えだ。むしろ同居人だから距離感を見失うこともある。実のところぼくは最初の頃に、何の考えもなしに彼女たちに子供を預けすぎて、「自分の子供は自分で面倒を見ろ!」と一度キレられていた。それでも、なお預けざるを得ない状況もある。[★7]
この経験をもって海猫沢は、シェアハウスは単に貧困ゆえに人が集まっただけで、新しい家族ではなかったと結論づけている。それはたしかにそうだろう。彼が言うように、貧困ゆえに為す術なくシェアハウスを選んだ住人なら、皆で自己責任率を下げ、流動性の高い新しい家族としてのコミュニティを作ろうなどとは思わなかったに違いない。
ただ『自分の子供は自分で面倒を見ろ!』という叱責は、子育てを行う責任が海猫沢にあるという周囲の認識によってもたらされている。言い換えれば彼は、他者と育児をシェアするようなポジショナリティを獲得していなかったのだ。子供の世話などをシェアできるかどうかは、結局それぞれの人間関係と、そこで築いた自身のポジショナリティに依拠している。
この連載は、記号と意味の強い符合に執着することを「愛」と呼び、その結びつきを切断し、新たな符合を生み出すことを志してきた。
しかし、新たな符合は他者との関係の中で定められるのだから、人々はその結果に対して責任を持たねばならない。シェアハウスに限らず、ゼロ年代後半以降、若者を中心としたコミュニティやコレクティブ、運動体は相次いで作られたが、責任の所在を明らかにせず運営した結果トラブルを起こしたり、潰れたりしてしまったものも多い。pha が言うように、人々は古い意味の符合にとらわれない、流動的なコミュニティを欲するようになったが、それは責任を回避できるという意味ではない。責任を持って、新しい符合を他者と分かち合う態度、それこそを、筆者は改めて「愛」と呼びたい。
次回は、この新しい「愛」について、筆者はもう一度MCUの作品を挙げながらさらに考察する。具体的には、アメリカで空前の大ヒットを記録し、日本でも今年1月に公開されて好評を博した『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』について書こう。
次回は2022年4月配信の『ゲンロンβ72』に掲載予定です。
★1 「衆議院議員逢坂誠二君提出日本国憲法下での同性婚に関する質問に対する答弁書」。2022年2月14日閲覧。URL= https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b196257.htm
★2 『「選択的」夫婦別姓 IT経営者が裁判を起こし、考えたこと』、ポプラ社、2021年。電子版より引用。以下、同書の引用はこれに準ずる。
★3 『脱アイデンティティ』、勁草書房、2005年。電子版より引用。以下、同書の引用はこれに準ずる。
★4 「育児の現場で父親が透明化する現象について」。2022年2月14日閲覧。URL= https://note.com/yoppymodel/n/nab77713d97ce
★5 『しないことリスト』、大和書房、2016年。電子版より引用。
★6 『持たない幸福論 働きたくない、家族を作らない、お金に縛られない』、幻冬舎、2015年。電子版より引用。
★7 「シェアハウスで恋愛→結婚→出産でわかった疑似家族の「甘くない現実」、『FRaU』。2022年2月14日閲覧。URL= https://gendai.ismedia.jp/articles/-/65893?page=3


さやわか
1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
愛について──符合の現代文化論
- 小さな符合を引き受けること 愛について──符合の現代文化論(最終回)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(15) 古くて新しい、疑似家族という論点について(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(14) 古くて新しい、疑似家族という論点について(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(番外編) 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(13) スパイダーマンにとって責任とは何か|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(12) 新しい符合の時代を生きる(2)符合の責任論|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(11) 新しい符合の時代を生きる(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(10) 性的流動性、あるいはキャラクターの自由|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(9)「キャラクター化の暴力」の時代(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(8)「キャラクター化の暴力」の時代|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(7) 符合のショートサーキット(2)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(6) 符合のショートサーキット(1)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(5) 少女漫画と齟齬の戦略(後)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(4) 少女漫画と齟齬の戦略(中)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(3) 少女漫画と齟齬の戦略(前)|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(2) なぜポルノは百科事典でないか|さやわか
- 愛について──符合の現代文化論(1) 記号から符合へ 『エンドゲーム』の更新はどこにあるのか|さやわか



