愛について──符合の現代文化論(10) 性的流動性、あるいはキャラクターの自由|さやわか

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初出:2021年8月30日刊行『ゲンロンβ64』
 前回までの内容を振り返ろう。ゼロ年代前半に、一部の論者はネット掲示板「2ちゃんねる」におけるコミュニケーションを、既存の社会システムが強制する記号と意味の符合から逃れようとする「シンボリックな挑戦」として注目した。

 しかしそうしたコミュニケーションは、やがて内輪の仲間で流通する符合に固執するようになっていった。内輪のコミュニケーションに耽溺する人々はコミュニティ外部に対し暴力的になっていき、ステレオタイプな人種差別や性差別すら行うようになる。既存の社会システムから逃れたように見えても、従来の社会と大差ない暴力性へと行き着いたのだ。符合から逃れようとしても、私たちは結局、従来の形であれ、別の形であれ、記号と意味を一対一で対応させはじめ、それに固執してしまう。その結びつきは恣意的なのだからこだわる必要がない、とは、なかなか考えることができない。

 今日のポップカルチャーの中に、私たちがそうした拘泥から逃れ得るヒントを探すことはできないだろうか。

 



 昨今のポップカルチャーには、LGBT、つまり性の多様性を意識した作品が多く見られるようになった。男女問わず一般層の鑑賞するサブカルチャー作品に、LGBT的な要素が盛り込まれていることが増えている。

 たとえば2010年からイギリスのBBCで放映されている人気ドラマ『SHERLOCK/シャーロック』には、ブロマンス(男性同士の非常に親密な友情関係)あるいはゲイの恋愛感情を描写したように見られるシーンが数多くある。視聴者はこの路線をおおむね歓迎しており、登場人物をゲイとして描いたファンフィクションも豊富だ。ドラマ制作サイドにも、そうした二次創作の多さは知れ渡っている。

 また日本のテレビドラマ『おっさんずラブ』(テレビ朝日、2016年)は、タイトル通り中年男性同士の恋愛を描く内容で、女性視聴者を中心にブームを巻き起こした。映画や続編が制作されるなど、人気は今にいたるまで続いている。

 LGBTと関連するコンテンツでは、女性同士の恋愛を描いた、いわゆる「百合」系作品の人気も根強い。ブームはジャンルを越えて広がっており、たとえば『S-Fマガジン』(早川書房)なども2019年2月号で百合特集を組み、大きな反響を呼んだ。この号は発売前に重版がかかるなど売り上げが好調だったため、同誌は2年後にも「百合特集2021」なる特集号を刊行している。
 ただ日本では、こうした傾向は必ずしも今に始まったことではない。日本のポップカルチャーでは、特に女性向けの漫画や小説において、男性の同性愛を情熱的なラブストーリーとして描く作品が根強く人気を博していた。この連載でも、男性同性愛者が登場する作品として大島弓子の漫画『バナナブレッドのプディング』などを取り上げたことがあるが、近年とりわけよく知られているのは、いわゆるBL(ボーイズラブ)と呼ばれるジャンルだろう。BLは、以前ならコアなファン向け、そして女性向けの印象が強かったが、『おっさんずラブ』などの例に見られるように、最近では支持層に広がりが出てきている。

「男はこうあるべきだ」「女はこうあるべきだ」というジェンダー規範は、記号と意味に一対一の符合を強く求めるものだ。LGBTを描いたポップカルチャー作品は、この規範から逃れるもの、すなわち分かちがたい符合を攪乱する進歩的なもののように思われる。では日本のBLをはじめ、LGBTを描いたポップカルチャーを、十把一絡げに歓迎すべきだろうか。

 たしかにそのような文脈で賞賛される作品は多い。だがLGBT的な恋愛を描いているならすべてが肯定されるとは、言うべきではない。そのような安易な姿勢は、個々の作品がジェンダー規範、すなわち記号と意味の符合に対してどのような態度を取っているかということを見えなくするからだ。

 



 実際、ポップカルチャーが多様な性を描いても、それらは必ずしも性の多様性を推していない、それどころか場合によっては旧来的なジェンダー観に基づくことすらある。たとえば溝口彰子は『BL進化論 ボーイズラブが社会を動かす』(太田出版、2015年)の中で、90年代のBL作品に典型的な内容として、メインキャラクターが多く異性愛者であり(少なくとも作中でそう語り)、にもかかわらず男性を恋愛対象とするという半ば矛盾した設定を挙げ、以下のように述べている。


 BL作品には、前述したノンケ宣言と同じくらい、「一緒に行こう。生きてゆける限り」といった「永遠の愛」を誓うセリフが多い。主人公たちは心身ともに完璧におたがいに夢中で、他の人間は性別を問わず性愛の対象として目に入らない。その意味においては、たしかにゲイではない。それどころか、ノンケですらない。彼らは、「ふたりだけの究極のカップル神話」のなかの住人であり、セクシュアリティは神話の内部で自己完結している。したがって、ここでの「ノンケ」の意味は、積極的な異性愛指向ではなく、異性愛規範ヘテロノーマティヴ社会における「ノーマルな」女性読者(と作者。以下同様)のファンタジーの演じ手たる資格としての「ノーマル性」だと設定されていると読むべきだろう。それゆえに、主人公たちのセックス・ライフとセクシュアル・アイデンティティの矛盾は、矛盾と認識されないのだ。
[中略]
 むろん、ここにも内面化されたホモフォビアが機能している。対外的な性欲という意味ではゲイでもノンケでもない神話の住人の主人公たちが、それでも「ゲイでない」と表明するということは、ファンタジーのなかですら、ゲイに自分を投影したくないという読者の意識を反映しているからである。★1
 さらに溝口は、こうしたBL作品に描かれるカップルは従来的な「男性的」「女性的」な容姿や性役割を追認する形で描かれ、時にその非対称的な関係を受け継いだ性暴力や権力が行使されていると指摘する。つまりこうした作品は、旧来的なジェンダー観に屈するものだというのだ。

 要するにこういうことだ。「ノーマルな」女性読者にとって、ヘテロセクシャルな恋愛物語は家父長制や異性愛を規範とする社会からの抑圧を想起させやすい。それらから逃れて恋愛や性の物語を快適に楽しむファンタジーとして、BL作品は求められている。しかし作品の内容面においては、現実的なゲイはむしろ作品から排除され、また女性読者たちが内面化している異性愛規範も、温存ないしは強化される。

 もっとも、このような作品が支配的だったのはあくまで90年代のことである。同書によれば、2000年代以降、BLにはミソジニーやホモフォビア、異性愛規範などに進歩的な考えを見せる「進化形」の作品が見られるようになった。しかし溝口の「現在ではBLが進化形作品を一定数生産するジャンルへと、ジャンル全体が少しずつ成長した」との控えめな記述からは、前述のような「発展途上の」BLも、いまだ根強く存在しているものと理解できる。

 溝口も示唆していることだが、そうした作品がBLに多い原因は、単にジャンルやその読者が未熟なことには求められないだろう。むしろ、旧来的なジェンダー規範が、いまだ日本社会に根強いことの率直な反映だと捉えるべきである。ゆえに、私たちはこれを社会全体の問題として考えねばならない。だからこそ溝口は「進化」したBL作品が社会の意識を変える糸口になるべきだと考え、前掲書に「ボーイズラブが社会を動かす」という副題を与えているのだろう。

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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