愛について──符合の現代文化論(7) 符合のショートサーキット(2)|さやわか

初出:2021年1月29日刊行『ゲンロンβ57』
高度消費社会が成立した20世紀後半以降、日本では、あらゆるものを記号として捉える風潮が一般化していった。社会学者の宮台真司は『制服少女たちの選択』(1994年)の中で、この記号化のプロセスが繰り返されることで、記号と意味の符合が短絡化し、複雑だった意味が単純化していくと分析した。
以後の時代では人間関係においても、他者を短絡的に判断することが増え、その結果固有の人格や内面などが顧みられなくなっていった。個人が人格として扱われず、身体的・社会的な特徴によって記号的に判断されてしまうことで、人々が必要以上に傷つけ合い、社会のあちこちで軋轢が生まれる結果になっている。たとえばセックスを不毛なものと感じてしまう性的アノミー状態も、人々が互いを性の対象としか考えない短絡化によって引き起こされる。
宮台はこのように記号化し皮相的になった社会を淡々とやり過ごせる人間像として、売春などを物おじせずに行う、90年代の女子高生たちを挙げていた。しかし、ゼロ年代以降は彼女たちもやがて性的アノミー状態に陥り、次第に病んでいくことになった。宮台はその後の著作でも、記号化される自分の意味のなさ=内面の空虚さを受け流して生きることを推奨したが、有効な処方箋として万人に浸透したとは言いがたい。
ある人について記号的に捉え、固有の人格ではなく類型的な特徴による理解を優先すること。これを筆者は「キャラクター化の暴力」だと考える。
もともと「キャラクター」という言葉は、日本ではアニメやマンガ、ゲームなどのポップカルチャーの登場人物を指す言葉だ。それがゼロ年代以降、人間を語るのにもよく使われるようになった。ときには「そのキャラらしさ」に沿って行動することが同調圧力的に強要され、そこからはみ出そうとすれば「キャラと違う」などと諫められる。
ポップカルチャーの分野でも、ゼロ年代以降にアイドル界隈が盛況となった結果、これに起因するトラブルが頻発するようになった。2010年代になるとその傾向には拍車がかかり、「恋愛禁止」というグループの規則を破ったアイドルが精神的に追い詰められて自ら坊主頭になったり、ストーカー化したファンが刃傷沙汰を起こすなどの事件は、社会的にも大きな波紋を呼んだ。こうしたトラブルは、まさにアイドルが、ステージやメディア上のキャラクターとしてのみ生きることを強要され、プライベートを尊重されるべき個人と見なされていないことから生まれている。
記号化が進む社会において、人々が病まずに、また軋轢に苛まれずに生きるには、人間をキャラクターとして捉えるプロセスに介入し、短絡化を阻む必要がある。
以後の時代では人間関係においても、他者を短絡的に判断することが増え、その結果固有の人格や内面などが顧みられなくなっていった。個人が人格として扱われず、身体的・社会的な特徴によって記号的に判断されてしまうことで、人々が必要以上に傷つけ合い、社会のあちこちで軋轢が生まれる結果になっている。たとえばセックスを不毛なものと感じてしまう性的アノミー状態も、人々が互いを性の対象としか考えない短絡化によって引き起こされる。
宮台はこのように記号化し皮相的になった社会を淡々とやり過ごせる人間像として、売春などを物おじせずに行う、90年代の女子高生たちを挙げていた。しかし、ゼロ年代以降は彼女たちもやがて性的アノミー状態に陥り、次第に病んでいくことになった。宮台はその後の著作でも、記号化される自分の意味のなさ=内面の空虚さを受け流して生きることを推奨したが、有効な処方箋として万人に浸透したとは言いがたい。
ある人について記号的に捉え、固有の人格ではなく類型的な特徴による理解を優先すること。これを筆者は「キャラクター化の暴力」だと考える。
もともと「キャラクター」という言葉は、日本ではアニメやマンガ、ゲームなどのポップカルチャーの登場人物を指す言葉だ。それがゼロ年代以降、人間を語るのにもよく使われるようになった。ときには「そのキャラらしさ」に沿って行動することが同調圧力的に強要され、そこからはみ出そうとすれば「キャラと違う」などと諫められる。
ポップカルチャーの分野でも、ゼロ年代以降にアイドル界隈が盛況となった結果、これに起因するトラブルが頻発するようになった。2010年代になるとその傾向には拍車がかかり、「恋愛禁止」というグループの規則を破ったアイドルが精神的に追い詰められて自ら坊主頭になったり、ストーカー化したファンが刃傷沙汰を起こすなどの事件は、社会的にも大きな波紋を呼んだ。こうしたトラブルは、まさにアイドルが、ステージやメディア上のキャラクターとしてのみ生きることを強要され、プライベートを尊重されるべき個人と見なされていないことから生まれている。
記号化が進む社会において、人々が病まずに、また軋轢に苛まれずに生きるには、人間をキャラクターとして捉えるプロセスに介入し、短絡化を阻む必要がある。
そこで筆者は、短絡化を電気回路における短絡の比喩で捉え直すことを提案する。電気回路の短絡、いわゆるショートとは、十分な抵抗となる装置を設置せず回路上の2点をケーブルでつないだ結果、その部分へ電流が過剰に流れる不具合だ。これが電気機器の故障や事故のもととなる。
これを回避する最も単純な方法として、ショートしている回路を排除する、すなわち2点間の接続を絶つことが挙げられる。キャラクター化の暴力の例に置き換えて考えるなら、そもそも生身の人間をキャラクターに直結させて考えることが妥当でないことを確認し、両者を切り離せばいいことになる。
ただ、ここで筆者が言いたいのは、アニメやマンガなどの登場人物はいわゆる二次元の、すなわち虚構上の存在だから、生身の人間であるアイドルを同列に扱うのは間違いだ、ということではない。そもそもマンガやアニメにおけるキャラクターが現実を参照していないことが重要なのだ。
どういうことか。今日のストーリーマンガの起源を作ったとされる19世紀の風刺画家ロドルフ・テプフェールは、彼が「版画文学」と名付けたこの新しい芸術ジャンルの方法論を『観相学試論』(1845年)という短いテキストにまとめている。これはいわばキャラクター論の古典と言うべき内容だが、特に注目すべき論点がふたつある。ひとつは版画文学が写生的に、つまり現実との正確な対応を目指して描くものではないとしていること。もうひとつは、版画文学は無駄を省いた線で描かれることで言葉のように意味を生成する、つまり記号的なものだとしていることだ。
テプフェールはこのテキストの中で、18世紀的な観相学を「物質主義」だとして批判する立場を取る。彼は人間の顔や体つきから人間性を判断できるとする従来の観相学の考えを否定し、人物の姿を正確に絵に描けば感情や性格が表現できるとは考えなかった。
代わりにテプフェールが注目したのは、紙の上に、目鼻口のある顔の絵をいくつも描き連ねていると、いずれの顔も、なにがしかの感情があると思わせるものになるということだった。現実の参照先を持たずとも、簡略化された顔のようなものが描かれていれば、人間は自然に何らかの感情や性格を想起してしまう。しかもこれは、たとえでたらめに描いた写実的でない顔でも、あるいは描き手がどれだけ下手であっても関係ないという。彼はそこに、物質主義とは異なる、版画文学の記号性を見ている。
版画文学の人物図像は、細部を省いて、現実そのものではないように描いたほうが、むしろ読者に現実を想起させる。このテプフェールの理論は原始的だが、本質を捉えている。現在の漫画技法やキャラクター造形術も、基本的には現実を描写する方法ではなく「どのような表現をすれば、どのような感情や意味を読者に与えられるか」という、形式的な表現の操作を重んじるものになっている。そのことはテプフェールの時代とさほど変わらない。
これを回避する最も単純な方法として、ショートしている回路を排除する、すなわち2点間の接続を絶つことが挙げられる。キャラクター化の暴力の例に置き換えて考えるなら、そもそも生身の人間をキャラクターに直結させて考えることが妥当でないことを確認し、両者を切り離せばいいことになる。
ただ、ここで筆者が言いたいのは、アニメやマンガなどの登場人物はいわゆる二次元の、すなわち虚構上の存在だから、生身の人間であるアイドルを同列に扱うのは間違いだ、ということではない。そもそもマンガやアニメにおけるキャラクターが現実を参照していないことが重要なのだ。
どういうことか。今日のストーリーマンガの起源を作ったとされる19世紀の風刺画家ロドルフ・テプフェールは、彼が「版画文学」と名付けたこの新しい芸術ジャンルの方法論を『観相学試論』(1845年)という短いテキストにまとめている。これはいわばキャラクター論の古典と言うべき内容だが、特に注目すべき論点がふたつある。ひとつは版画文学が写生的に、つまり現実との正確な対応を目指して描くものではないとしていること。もうひとつは、版画文学は無駄を省いた線で描かれることで言葉のように意味を生成する、つまり記号的なものだとしていることだ。
テプフェールはこのテキストの中で、18世紀的な観相学を「物質主義」だとして批判する立場を取る。彼は人間の顔や体つきから人間性を判断できるとする従来の観相学の考えを否定し、人物の姿を正確に絵に描けば感情や性格が表現できるとは考えなかった。
代わりにテプフェールが注目したのは、紙の上に、目鼻口のある顔の絵をいくつも描き連ねていると、いずれの顔も、なにがしかの感情があると思わせるものになるということだった。現実の参照先を持たずとも、簡略化された顔のようなものが描かれていれば、人間は自然に何らかの感情や性格を想起してしまう。しかもこれは、たとえでたらめに描いた写実的でない顔でも、あるいは描き手がどれだけ下手であっても関係ないという。彼はそこに、物質主義とは異なる、版画文学の記号性を見ている。
描線を用いると、模倣のために不可欠な線以外は容易に省ける。このことから、描線は書き言葉や話し言葉と共通点を持っているように思われる,言語による描写・物語の場合、表現力に富む特徴だけを残して、場面や出来事の一部をまるごと省くのは簡単だからである。別の言い方をすれば、描線は、模倣が完全でなくとも意味を明快に示せるので、付帯情報や細部をまるごと省いてもかまわないし、それが必要でさえある。[★1]
版画文学の人物図像は、細部を省いて、現実そのものではないように描いたほうが、むしろ読者に現実を想起させる。このテプフェールの理論は原始的だが、本質を捉えている。現在の漫画技法やキャラクター造形術も、基本的には現実を描写する方法ではなく「どのような表現をすれば、どのような感情や意味を読者に与えられるか」という、形式的な表現の操作を重んじるものになっている。そのことはテプフェールの時代とさほど変わらない。
以上を踏まえて、人間をキャラクターと見なすことについて再考しよう。ある人物の身体表現が記号的な意味を感じさせること、つまりキャラクター的な身振りに思えることは、日常でもありうる。また漫画だけでなくアイドルは、そうした記号的な身振りを意図的に、つまり演技として行う種類のカルチャーだ。
とはいえ、その記号の指し示す内容を目の前の人間に直結させるならば、それはキャラクター化の暴力になってしまう。それは回路上の2点間に十分な抵抗を設置せず短絡するのに等しい。
そこでテプフェールに由来するキャラクター論を援用すれば、2点間に挟むべき抵抗の存在に気づくことができる。キャラクターとは記号的なものであり、それ自体が現実であるというよりは、現実のなにかを想起させるもの、記号内容を思い起こさせるものである。したがって現実世界において相手の身振りや佇まいが記号的に感じられたとしても、それは目の前にいる人物から発せられたものではなく、受け手の側が想起してしまったものである、と考えることができる。
これは、「キャラクター」「キャラ」という言葉に自覚的になり、本来の意味を思い出すことで、記号と意味の短絡化を停止させる発想だと言える。ゼロ年代以降、「キャラクター」や「キャラ」という言葉は急速に一般化した。人間についてもキャラという言葉を使って安易に捉えるキャラクター化の暴力は、頻繁に見られるようになっている。その傾向自体は、現代社会においてすべてが短絡化していく一連の流れの中にあり、抗うのは難しい。しかし発想を変えると、「キャラクター」「キャラ」という言葉を使っているからこそ、むしろ人々はその本来的な意味に立ち戻れるのではないか。
筆者はこれを、電気回路の例で言う「遮断器」のようなことだと考える。ブレーカーとは、ショートや漏電など回路の異常を検知すると、電気の流れを遮断する、つまり回路の動作を停止する装置だ。
似たものに「ヒューズ」がある。これは普段、通電ケーブルの一部として動作し、過電流が流れた際には自ら焼き切れて、回路全体に障害が及ぶのを未然に防ぐ。一方ブレーカーはケーブルの過電流に反応する検知部を持ち、これが動作すると電力供給のスイッチがオフになる仕組みだ。ヒューズは焼き切れてしまうため交換が必要となるが、ブレーカーはスイッチを入れ直すだけで回路への電力供給が再開される。
ヒューズもブレーカーも、通常は回路の一部を成しているが、異常があったときには回路の動作をストップさせる。「キャラクター」「キャラ」などの概念は、短絡化の過程の中に組み込まれている。だからこそそのプロセスを監視し、人々へ内省を促すために使えるのではないか。
具体的に、ブレーカーとしてのキャラクター概念はどのように作動するべきか。これを考えるために、批評家の東浩紀がゼロ年代初頭に著した『動物化するポストモダン』(2001年)を参照したい。
これは当時、新奇な若者類型として注目されていた、いわゆる「オタク」を題材に書かれた書物だ。とりわけ、90年代以降のオタクの消費行動について紙幅を割いている。ただし東によれば、ここでオタクを扱うのは彼らが典型的な行動様式をしているからにすぎず、同じことは現代人全般にあてはまるのだという。それに留意しつつ、東の記述を読んでみよう。
九〇年代のオタクたちは一般に、八〇年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それが伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に九〇年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた。この新たな消費行動は、オタクたち自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている。後述のように、そこではオタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。[★2]
東がここでいう情報とは「萌え要素」と呼ばれるもので、「メイド服」や「触角のように刎ねた髪」のように、あらゆるオタク系作品で普遍的に見られるキャラクターデザインの一典型を指している。
東によれば、萌え要素は「単なるフェティシュと異なり、市場原理のなかで浮上してきた記号」だ。90年代以降のオタクは、ある種の冷淡さをもって、つまり各作品のストーリーやキャラクターの人格を度外視して、この「記号」を作中に見出すことを楽しむようになった。テプフェールのキャラクター論を踏まえて言えば、もともとキャラクターは現実と紐付いていないのだから、オタクたちが記号そのものを好んで消費するようになったことは当然である。彼らは作品単体ではなく、その外部にある、オタク文化全体の記号のデータベースのようなものを消費の対象にしているとして、東はこれを「データベース消費」と名付けた。
東の議論はアニメやゲームなど、いわゆる「二次元」のコンテンツに耽溺する、90年代時点の「オタク」を対象にしている。そのため『動物化するポストモダン』はゼロ年代以降に台頭した、声優やアイドルなど「三次元」のコンテンツを消費するオタクについては触れていない[★3]。しかし東は、自身のデータベース消費モデルが、宮台による新人類や女子高生の分析と大きく重なる部分があるとしており、つまり人間もデータベース消費されうることを視野に入れた議論を行っている。
たしかに、流行アイテムに対して「おしゃれ」「モテる」などの記号的価値を短絡させる新人類や、自分たちが短絡的に性欲の対象と見なされることを受け入れる女子高生は、作品を冷静に眺め、その背景にあるデータベースとの関係を指摘しようとするオタクの姿と似通っている。
前述したように、東は『動物化するポストモダン』の議論はオタクに限ったものでなく、今日の社会全般について同じことが言えるのだとしていた。それを強調するためにこそ、東はここで自らの議論を宮台の女子高生論と接続したに違いない。だからこそデータベース消費は、人間を身体的・社会的な特徴で短絡的に捉えるキャラクター化の暴力にも通じているように感じられる。
ところが注意深く眺めると、東のデータベース消費モデルには、宮台のモデルと異なる点があるのがわかる。
そもそも東が「データベース」という言葉を使っていることに注目したい。『動物化するポストモダン』の説明する萌え要素のデータベースについて、宇宙のあらゆる事象や想念が完全に記録されている、アカシックレコードのようなものだと想像する論者は多い。しかしそれは誤解だ。データベースという言葉にはユーザーが情報を入出力できること、つまりデータの書き換えが可能であるとの含意が込められているからだ。
たとえば同書の中で、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)に登場した綾波レイというキャラクターについて、東は次のように書いている。
レイの出現は、多くの作家に影響を与えたというより、むしろオタク系文化を支える萌え要素の規則そのものを変えてしまった。その結果、たとえ『エヴァンゲリオン』そのものを意識しない作家たちも、新たに登録された萌え要素(無口、青い髪、白い肌、神秘的能力など)を用い、無意識にレイに酷似したキャラクターを生産するようになってしまった。このように考えたほうが九〇年代後半の現実には近い。レイにかぎらず、オタク系作品に現れるキャラクターは、もはや作品固有の存在なのではなく、消費者によってただちに萌え要素に分解され、登録され、新たなキャラクターを作るための材料として現れる。したがって、萌え要素のデータベースは有力なキャラクターが現れるたびに変化し、その結果、次の季節にはまた、新たな萌え要素を搭載した新世代のキャラクターたちのあいだで熾烈な競争が繰り広げられるのだ。
宮台は、記号と意味の符合が短絡化することについて、水が高きより低きへ流れるように、一貫して物事が「単純化」していくと説明していた。しかし東がデータベースという言葉で意識しているのは、右に引用したようにクリエイターが(そして鑑賞者たちも)作品を通じて二次創作的にデータベースを書き換え、更新していくことだ。つまり東が重視しているのは記号と意味の符合それ自体よりも、符合に際してのデータの入出力という運動のほうである。これは、記号と意味の符合が短絡化へと向かい、不可逆なものだとした宮台とは全く異なっている。
したがって東の主張をまとめるには、90年代のオタクが作品の内容を度外視して、淡々とデータベースとの対応関係を見出すことに熱中するようになった、というだけでは十分ではない。それではデータベースが一方的にデータを引き出されるものとしてのみ、アカシックレコードのように静的かつ絶対的なものとしてのみ、捉えられてしまう。この考え方に基づくと、人間についても既存のデータに基づいて一方的にのみ判断する、短絡化がもたらすキャラクター化の暴力にもつながっていく。
だが、東の主張はより正確には、90年代のオタクたちは作品とデータベースの照合を淡々と行うが、しかし一方では記号表現に素朴に反応しつつ、場合によってはデータベース側を書き換えることもある、ということになる。『動物化するポストモダン』では、以下のように書かれている。
以上のような特徴から明らかなように、九〇年代のオタク系文化を特徴づける「キャラ萌え」とは、じつはオタクたち自身が信じたがっているような単純な感情移入なのではなく、キャラクター(シミュラークル)と萌え要素(データベース)の二層構造のあいだを往復することで支えられる、すぐれてポストモダン的な消費行動である。
実はこの二層構造と、それを「往復」するという運動性の重視は『動物化するポストモダン』の理論の根底を成すもので、同書では形を変えながら繰り返し論じられる重要な概念だ。しかしデータベースをアカシックレコードのようなものとして捉えてしまうと、この点を読み逃してしまう。
東のデータベース消費モデルでは、データの読み込みと書き出しが頻繁に行われ、そのプロセス自体の存在をユーザーが常に意識することが、短絡の検知部として機能する。つまりデータベースは、記号の回路のブレーカーになりうる。逆に言えばこの往復運動が失われたときに、記号と意味の符合が一気に短絡化する。前述したように、あるキャラクターについて、あるいは現実の人間について、その言動や佇まいに記号性を感じることは、十分にありうる。しかしそこで私たちはこの往復運動を意識することで、不断に記号とデータベースの照合を行い、あるいはデータベースを書き換えながら、記号と現実を切り離すことができるはずだ。それはテプフェールから一貫したキャラクターへの態度でもある。
東は『動物化するポストモダン』の中で、90年代的なオタクの行動様式について肯定も否定もしていない。だが少なくともデータベースという言葉で示唆した記号内容の書き換え可能性には、希望的なニュアンスがある。それは記号と意味の1対1による対応に執着すること、すなわち筆者がこの連載で「愛」と呼ぶものを回避するために提案されているのだ。
東の重視した往復運動が世の中で十分に意識されれば、つまり『動物化するポストモダン』が論じた90年代的なオタク像が高度消費社会以降のロールモデルとして一般化すれば、キャラクター化の暴力が蔓延することはなかった。だがゼロ年代以降、現実は東の考えたようにはならなかった。他ならぬオタクたちも、ゼロ年代以降に声優やアイドルなど「三次元」のオタク文化が台頭した際、躊躇なく人間をキャラクターとして捉えはじめ、前述したような陰惨な事件も数多く発生するにいたった。
つまりオタク自体が、東の示唆したデータベース活用の可能性を離れ、より単純な短絡化へと向かっていった。それと連動して、「キャラクター」「キャラ」概念も本来の意味を離れ、人間についてキャラクター化の暴力を働かせるものとして、世間一般へ広がっていった。
ただ、テプフェールや東が提示したキャラクター論は、ゼロ年代以降に必ずしも無効なわけではない。ゼロ年代以降に登場した概念を適切な補助線として与えることで、今日のキャラクター化の暴力へのブレーカー機構として人々に再認識させられると筆者は考える。次回はそれについて述べる。
次回は2021年3月配信の『ゲンロンβ59』に掲載予定です。


さやわか
1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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