愛について──符合の現代文化論(6) 符合のショートサーキット(1)|さやわか

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初出:2020年10月23日刊行『ゲンロンβ54』

 過去3回にわたり、70年代以降の少女漫画について考察してきた。いずれも旧来的な固定観念からの脱却を目指すもので、記号と意味の1対1の符合に齟齬をもたらすことを目指した作品だった。

 齟齬を推し進める少女漫画は、日本人のジェンダー意識や恋愛観、結婚観の変化に伴って見られるようになった。しかしその進歩的な意識は、やがて新たな問題に直面する。恋愛や結婚について自由な考え方を持てるようになった結果、人々はかえって何を基準に恋愛や結婚をすればいいのかわからなくなってしまったのだ。

 1987年に出版された村上春樹の小説『ノルウェイの森』(講談社)以降、「純愛」をテーマにした作品が絶えず人気を集めるようになったのも、何をもって純愛とするのかがわからなくなったことの裏返しだと言える。現代人は自分の行うセックスや結婚に愛情が伴っているかどうか、常に内省し、また不安を感じるようになった。その結果、彼らは、恋愛や結婚について虚しさをおぼえたり、あるいは無軌道な振る舞いをするようになる。橋爪大三郎はこれを「性的無規範状態(アノミー)」と呼んだ。

 性的アノミーは、前述したような先進的な少女漫画の中では、その作品が試みる、齟齬の戦略の限界として表れることになる。

 たとえば大島弓子『バナナブレッドのプディング』の主人公・三浦衣良は、結婚や恋愛への自由な考え方によって、周囲と豊かな人間関係を築いた。しかしその半面、彼女は結婚や恋愛、さらにはセックスに対してどのような態度を取ればいいかわからないがゆえの精神的ストレスを、物語の最後まで抱えている。それはまさに性的アノミーそのものを表現している。

 また、神尾葉子『花より男子』では、主人公・牧野つくしがいかにも「王子様」然とした花沢類ではなく、三枚目風の道明寺司と恋愛することを選ぶ。これは齟齬の戦略によって、少女漫画にありがちな展開の打破を目指すものだ。だがつくしは最終的に、道明寺司を選ぶことは「自分らしさ」なのだと宣言してしまう。つまり旧来的な価値観を脱し、恋愛や結婚においてあらゆる選択が可能になったにもかかわらず、物語は最終的に主人公の選択した符合こそが真正だと強弁して、1対1の符合へと回帰しようとする。

 これが、性的アノミーに陥った現代人の抱える困難だ。結婚や恋愛への固定観念から解放されると、何が正しい恋愛なのか、自分の結婚やセックスに愛情が結びついているのかが、わからなくなる。その結果、人々は衣良のように不安に苛まれるか、つくしのように自分の選択こそが正しいと言い募り、再び1対1の符合を求めようとする。

 



 社会学者の宮台真司は、1994年に『制服少女たちの選択』(講談社)を著した。この本は2部構成で、前半パートでは援助交際(売春)やブルセラ(使用済み下着の売買)を積極的に行う、90年代に社会問題化した女子高生の生態を論じている。後半パートでは、新人類やオタクなど、80年代に登場した新時代の若者類型について書いている。

 現在はすっかり鳴りを潜めたが、4半世紀前には、日本社会の全体像を語る評論において、同時代の若者文化を題材にすることが有効な手段だった。しかし現在から振り返れば、興味深いのは女子高生や新人類、あるいはオタクなど個別の若者類型の内実ではない。むしろ、若者たちが記号とどうかかわっているのかを議論の焦点にする宮台のアプローチ自体だ。

 宮台は、日本の女子学生たちの意識の変遷を次のように整理する。70年代に彼女たちは、極端な少女趣味に傾倒した「乙女ちっく」系の少女漫画などをきっかけに、彼女たちが「かわいい」と思うものへの認識を共有する、一種の自閉的なコミュニティを築くようになった。つまり記号と意味のあいだに、自分たちだけが理解できる1対1の符合を作り出し、その価値観を共有することで仲間意識を高めるようになった。

 宮台はこの自閉的なコミュニティを「かわいい共同体」と呼び、みんなで何を「かわいい」と呼ぶかの「お約束」を守っていれば「ありうる齟齬を永久に回避しつつ戯れつづける」★1ことができるようになったとする。

 互いに「お約束」を守りあい、何をかわいいと呼ぶかにまつわる「齟齬を永久に回避」するとは、つまりコミュニティが生み出した記号と意味の1対1での符合に固執することだ。それは筆者がこの連載で「愛」と呼んでいるものに他ならず、進歩的な考え方ではないように思える。

 だが宮台は、80年代以降により大きな変化が訪れたとする。


 さらに80年代に入ると、「かわいい」の適用範囲が拡大してくる。80年代後半には、禿げたオジサンや容貌怪異な爬虫類までが「きゃっ、かわいい」となった。「かわいい」が適用範囲を問わない「無害化ツール」へと発展したのだ。女の子たちの世界認識のモデルが、どんなに「変な物」でも「無害なかわいさ」として登録できるように進化したのである。90年代に入ると、無害化のためのモデルは「かわいい」という媒介項さえ不要にしはじめる。たとえば教師との恋愛・レイプ・近親相姦・同性愛など何でもありのドラマ『高校教師』。女の子たちは、自分に将来起こるかもしれないあらゆる「変」について、メディアを使って「それってあるかもしれない」というパッケージのなかで無害化することを覚えたのである。★2


 80年代以降の女子高生たちは、あらゆるものに「かわいい」という意味を符合して、もともと記号に符合されていた意味を解除、つまり「無害化」できるようになった。

 だからこそ彼女たちは、性的アノミーの時代を生き抜くことができる。宮台はそのように主張する。彼女たちが売春をしたり使用済み下着を売ったりできるのは、性に愛情が結びつかなくても不安を抱くことがなく、自分たちの「女子高生」という記号がセクシャルに消費されうることを積極的に受け入れられるからなのだ、と。

 宮台にとって、80年代以降の女子高生とは、すべてが記号化して固有性を失った「なめらかな平坦さ」で成り立つ現代の都市に順応すべく、自らも固有の内面を求めず「女子高生」という記号に埋没しようとする存在だ。たとえばテレクラで出会った男性と行きずりのセックスをする女子高生について、彼は以下のように書いている。


 記号としての都市になめらかに埋没しようとする電話少女に見いだせるものは、ブルセラ女子高生の身軽なロールプレイングの裏側にあるものと、基本的には同一である。記号をロール(役割)といいかえてみればいい。あたかもタマネギのように、どこまで皮をむいてもロールであるような存在への強迫。いずれにしても彼女たちは役割の「こちら側」を――つまり役割をになっている「内面」を――消去しようとしている。役割の向こう側(相手の内面)や役割のこちら側(自分の内面)をいっさい問わないコミュニケーションへと、徹底的に「純化」したがっているのだ。★3


 宮台は、このような女子高生像を賞賛するわけではないが、また否定もしないとした。しかし彼は、女子高生を、記号と意味の分かちがたい符合が失われた現代社会を淡々と生きられる人種として、少なくとも肯定的に扱っている。記号には本質的に意味がないことに気づきながら、それをやり過ごすことができる人間像。それが当時、宮台真司が女子高生に見たものだ。

 



 宮台は同様の議論を、翌年の著作『終わりなき日常を生きろ』(筑摩書房)でも大きく展開している。しかし彼はさらに後には、女子高生たちが性的アノミーに不安を抱かないで生きていけるとした主張について、部分的に撤回することになった。

 売春などに励む女子高生たちも、やがて記号化された自分の意味のなさ=内面の空虚さに耐えきれず、病んでいくことがわかったからである。

 宮台は、少女漫画について70年代の「乙女ちっく」系が「かわいい共同体」の母体となったとしていたが、その当時から多くの女性向け漫画が性的アノミーに向き合っていたことには全く着目していなかった。むしろ彼は、少女漫画の提供するような少女趣味を脱した存在として、80年代以降の女子高生たちを捉えていた。しかし結局は彼女たちも、先行していた少女漫画と同じく、性的アノミーの問題に直面することになったのである。

『制服少女たちの選択』の刊行とほぼ同時に、インターネット時代が本格的に到来し、同じ性向を持つ人々がつながりを持つことはますます容易になった。少女売春もテレクラなどの時代に比べてやりやすくなったはずだが、だからといって性的アノミーにさらされた人々にポジティブな影響は及ぼさなかった。なぜならネットは各ユーザーを同列の存在として扱う仕組みであるため、人々はそれを使うことで、自分固有の存在の意味をいっそう剥ぎ取られてしまうからだ。

 自分が人格として扱われず、他人にとってただの性愛の対象となり、常に別の誰かと代替可能な流動的存在にされてしまう事態は、テレクラを通じた売春でも起こりえた。だが宮台は、ネットがその流動性をより過剰にしたため、人々は不毛感に耐えられなくなっていったのだという。2002年、当時の妻である速水由紀子との共著で上梓された『不純異性交遊マニュアル』(筑摩書房)のあとがきで、宮台はこうした人々の不毛感が「性的コミュニケーションからの退却を生む」とした★4

 実はこのあとがきの内容は、今日の社会を考える上で極めて重要なものになっている。この「性的コミュニケーションからの退却」という指摘には、のちにコラムニストの深澤真紀が2006年に提唱し、2009年には流行語大賞のトップテンにまでなった、恋愛に対して消極的な昨今の男性の類型「草食男子」(草食系男子)のルーツを見ることができる。性的アノミーとネット時代が相まった結果、日本の恋愛や結婚に何が起きるのか、宮台は2002年の時点で早くも指摘していた。

 宮台はそれに抗するかのように、この本の中で、なおも愛情と紐付けられないセックス、つまり記号と意味の1対1での符合の切断を求めて、スワッピング(性的パートナーの交換)や出会い系サイトの活用を試行錯誤する人々を紹介している。だがその試行錯誤は前途多難であり、あとがきには次のように書かれている。


 しかしこうした試みは、過剰流動性の「諸悪」の根元であるネットこそが一般人が選びうる試行錯誤の選択肢を準備したという意味で、まだ始まったばかりなのだ。と同時に、周辺の誤解どころか、試行錯誤に携わる当人らの思惑も必ずしも一致せず、不安定である。
 そうした不安定さの中で、実は本書の共同製作中に、速水由紀子と私の離婚が決まった。一部の雑誌で報じられているのでご存じの読者も多く、「こんな本を出すくせに」と思われる向きもあるかもしれない。でも私たちは「こんな本を出すからこそ」だと思うのだ。★5
 厚生労働省の統計によると、日本の婚姻件数は1973年の約110万件をピークとして基本的に減少傾向となり、2018年には60万件を割り込んだ★6。ところが実は1988年から1998年まで、つまりほぼ90年代を通しては、いったん増加に転じている。ただし、この時期は同時に離婚件数も急増した。

 この統計データは、宮台の議論を裏付けている。90年代に性的アノミーが臨界点に達し、人々が結婚や恋愛の意味を見失ったからこそ、婚姻件数と離婚件数がともに上昇する、逆説的な事態は生まれうる。

 ゼロ年代以降、離婚件数は逆に減少していった。だがそれ以上に婚姻件数の減少に歯止めがかからないため、結婚した人々の離婚率は2018年時点でも35パーセント、つまり3人に1人以上が離婚する計算となっている。これも、ネットの普及によって人々が過剰流動性に過敏となった結果、草食系男子のような「性的コミュニケーションからの退却」を志向する人々が増えたことを理由に求めうる数字だろう。

 そもそも他ならぬ宮台真司自身が離婚したと報告するこのあとがきは、さきほど提示した統計データと考え合わせると、昨今の日本社会の困難をまさに体現するものになっている。その困難を打破するためにこそ宮台は、記号の本質的な無意味さに気づきながらもそれをやり過ごすロールモデルを必要とした。彼はかつて女子高生やスワッピングに見出そうとしたそのモデルを、その後も別のかたちでたびたび提案し続けている★7

 ただ筆者の興味は、宮台の思想のその後を追うことにはない。女子高生であっても、スワッピングであっても、その後に宮台が提示しようとするどんなロールモデルであっても、結局のところ自分自身の意味のなさには耐えられないからだ。誰しもが、齟齬の戦略を志した少女漫画が陥ったのと同じ、性的アノミーの空虚さにとらわれるようになる。

 



 要するに、記号の無意味さに耐える強靱さを人々に求めるのは、あまり現実的とは言えない。そこで筆者は、人々が記号を無意味なものだと感じるようになっていったそもそものプロセスを、『制服少女たちの選択』の記述まで戻って再検討したい。とりわけ筆者は、ここまで触れてこなかった同書の後半部分、つまり新人類とオタクという、80年代に登場した新時代の若者類型についての記述に注目する。

 新人類とオタクは、それぞれ80年代の前半と末期に、従来と異なる、新しい若者類型として論じられた。

 前者は、グルメや洋楽、アウトドアなどに詳細な知識を持って活発に楽しむ、コミュニカティブな若者像を指している。宮台いわく、彼らは田中康夫の小説『なんとなく、クリスタル』(河出書房新社、1980年)に登場するような人間で、衣服やクルマのブランド、あるいは付き合う人間までも「オシャレかどうか」「モテるかどうか」を基準に、記号的に判断する。
 これに対してオタクのイメージは、2020年現在とはやや異なり、新人類とは対照的にコミュニケーションへの消極性で特徴づけられ、アニメやゲーム、SFなどのメディア体験に熱中する人々というものだ。

 両者は別々のものとするのが一般的な考え方だ。しかしオタクであっても、自らが没入するメディアについては詳細な知識を持ち、また記号的に価値を判断する点では、新人類と変わらない。つまり所属するコミュニティも文化の嗜好も異なるが、実は両者の行動様式は同じなのだ。

 ふたつの若者類型の行動様式が似通っていることは、あまり不思議なことではない。なぜなら、のちに多くの論者が指摘したことだが、新人類とオタクはもともとは未分化な、同じコミュニティに属する人々だったからだ。それについては宮台も言及しており、自分の学生時代を振り返りながら、なぜ両者が分化したのかを推察している。
 彼によれば、当初は、新しい文化に敏感なリーダーたち、いわゆるアーリーアダプター層が、新人類的なものとオタク的なもの両方を嗜なみ、彼らに追従するフォロワーと共に未分化なコミュニティを形作っていた。しかしその後、マスメディアが新人類的な文化だけを喧伝し、多数のフォロワーが流れていった結果、未分化だったコミュニティから新人類という若者類型が独立して誕生した。そして、そのブームについていけない者たちは、新人類的な文化自体に敷居の高さを感じるようになり、アニメなどのオタク文化のほうだけに居残るようになった。こうしてオタクという若者類型が別個のものとして成立したというのだ。

 この推論はごく単純なもので、さほど優れているとも言えない。ただ、ここで重要なのは、その分化のプロセスで、フォロワーたちがどう振る舞ったかについての宮台の記述である。以下、引用してみよう。


 一般に、分化したサブカルチャーは、一定の条件の下でみずからを純化させることになるが、この純化のプロセスが多数のフォロワーの巻き込みをともなう場合には、「高踏化」ではなく「短絡化」が生じる。その結果、他のサブカルチャーとの差異は、きわめて単純な表象へと還元されてしまい、その「単純さ」がじつにさまざまな副次的問題を派生することになる。80年代後半の新人類文化をおそったのは、まさにそうした事態だった。
 新人類文化は、この時期、フォロワーを大規模に巻き込みながら、みずからをどんどん純化していった。記号性(カッコよさ!)と結びついた対人関係が他の人びとへの敷居になったことはすでに述べた通りだが、こうした純化が進むにつれて、記号性は短絡化され、戯画的な様相を呈することになった。★8


 新人類は高度消費社会のブランドを記号として消費していた。しかしそのフォロワーたちは、自らが属する集団の独立性を高める過程で、その行動様式をどんどん単純化していった。その結果、彼らが消費する商品には、なんであろうと単に「モテる」「オシャレ」などの意味が繰り返し符合されるようになり、最終的には空虚な記号になってしまう。上に書かれているのはそういう話だ。
 宮台がこの指摘を、新人類に限定した話として書いていないことに注意しよう。ここでは、新人類と同じ行動様式を持つオタクのコミュニティでも、同じことが起こったと示唆されている。

 実際、オタクのコミュニティでもジャーゴンの空疎化は起こりうる。たとえばオタクのあいだで流通する、好ましい作品やキャラクターを指す「萌え」「尊い」などの言葉は、新人類にとっての「モテる」「オシャレ」などと同じく、繰り返し使われることで形骸化していく。「猫耳」「妹」「わんこ攻め」「王子」などキャラクターの特徴を指すあらゆる言葉(萌え要素)も、やはり過剰に繰り返して使用されることで、意味が単純化していく。

 



 以上を踏まえて、改めて本稿の前半で取り上げた、女子高生の話に立ち返ろう。

 さきに見たように、宮台は80年代以降の女子高生たちについて、あらゆるものに「かわいい」という意味を符合して、もともと記号に符合されている意味を解除できるようになったとしていた。これは実は、右に挙げた新人類フォロワーの例で語られていることと全く同じである。

「モテる」「オシャレ」などの言葉を「かわいい」に置き換えればわかりやすい。つまり女子高生もまた、若者類型として成立する過程でさまざまな記号に「かわいい」という意味を符合することを過剰に繰り返し、最終的にはすべての記号を空虚にしていったのだ。

 つまり『制服少女たちの選択』の分析は、個別の若者類型の事象についてのものではない。女子高生でも、新人類でも、オタクでも、どれでも同じなのだ。その意味でこの本は、前半も後半もすべて同じことを書いている。80年代以降の人々は、記号的に物事を扱い、その行動様式を際限なく繰り返したことで、それぞれのコミュニティに属するかたちで独立するようになった。そのことを、さまざまな例で書いているのだ。

 同書の結論は、各コミュニティが独立した結果、コミュニティ同士が没交渉的になる「島宇宙化」が起こるというものだ。島宇宙化は宮台の評論では非常によく知られた概念だ。ネットを背景にした日本社会のあり方を広く説明できるとして、90年代後半からゼロ年代にかけてよく参照された。

 しかしこれについては2010年以降、現状に合致しない部分が大きくなっているとの指摘がある。たとえば教育社会学者の本田由紀は、子供たちが親しい友達の集団だけで行動したがっていないことを挙げ、島宇宙化はたしかにあるが、「それはまったく互いに閉鎖的で交流のない世界がばらばらに併存しているというよりも、もっと緩やかなまとまりがクラスの生徒の間に成立しているというイメージに近い」★9と書いている。つまり、いまではコミュニティ同士が互いに接触を避ける傾向は弱まっているのだ。
 本田の分析は中学生の友人グループについてのものだが、政治や文化をはじめ多くのコミュニティについて同じことが言えるだろう。たとえばネット社会にしても、宮台が島宇宙化を唱えた90年代とは様相が変わった。SNSが普及し、考え方の似た人たちだけでのコミュニティ形成は、以前よりも進んでいる。実際、島宇宙化のような事態は「クラスタ」という言葉で、一般にも認識されるようになった。しかしやはり、コミュニティ同士が触れ合わないわけではない、むしろいまのネットでは、互いの考え方の対立から、コミュニティ間で頻繁に軋轢や不和が生まれるようになっている。そしてだからといって、コミュニティ同士が接触を回避しようとするわけでもない。

 したがって、宮台の議論が有効なのは、島宇宙化が起きるまでの過程に限られている。彼の著作は、島宇宙化が社会をどのように変え、人々がどう生きるかについては見通しを与えてくれない。彼の慧眼は記号と意味の符合の際限のない単純化、宮台の言葉で言えば「短絡化」を指摘したことにこそあった。

 ここに、もう一度注目すべきだ。短絡化を招くプロセスこそが、この連載の第1回から筆者が提示してきた疑問、すなわち「なぜ人々は記号を一意に解釈したがるのか」への解答であり、社会に軋轢と不和を招く符合のシステムの根幹なのである。

 前回まで見た少女漫画作品は、符合に齟齬をもたらす戦略で短絡化を回避しようとした。だが、それも最終的には1対1の符合を求めることへ行き着いた。一方、宮台は、そうした符合の短絡化は避けられないとした。したがって彼は、人々が短絡化の果てに記号の無意味さに直面することも避けがたいと考えているだろう。それゆえ彼は、前述したように、記号の無意味さに思い悩む社会を前提とし、それを受け流すよう人々を啓蒙しようとする。

 しかしそれでは、各人が各人に対して符合させる意味も短絡化させることになる。言いかえれば、人々は他人を類型化されたキャラクターとしてのみ見なすことになる。「お前を記号として扱うのでそれを受け入れ、個別の人格や生を否定されても耐えろ」と、互いに言い合うことに近づいていくのだ。

 つまり短絡化は、キャラクター化の暴力につながっている。宮台はそれを受け入れるよう呼びかけるが、今日の人々は、お互いに記号として見なし合うことによって、お互いに傷ついている。

 そこで筆者は、短絡化のシステムに介入することで、この暴力から人々が逃れる可能性を模索したい。宮台は短絡化について、符合が繰り返されることで、本来は複雑だった意味が単純化するのだとした。それは本来通るべきプロセスの省略、ショートカットだと言える。

 



 筆者はこれを、電気回路における短絡ショートサーキットの比喩で捉え直したい。符合の短絡化は人々の意識上で起こるもので、プロセスの省略は容易には避けがたい。しかし物理空間における電気回路のモデルを想定することで、私たちが符合の短絡化にどう抗うべきか、内省と対策が行えるようになる。

 電気回路のショートとは、どのようなものか。これは回路上の2点が、十分な抵抗がない状態で接続されることを指す。最もわかりやすい例で言えば、抵抗となる装置を全く挟まずに2点間をケーブルでつなぐと、その部分へ電流が過剰に流れ、ケーブルが熱を持ち、場合によっては発火する。

 これを回避する方法はいくつかある。まず最も単純なやり方として、ショートしている回路を排除すること、つまり2点間の接続を絶つことが挙げられるだろう。これは符合の短絡化で考えるなら、そもそも記号と意味の符合が妥当なものかを改めて検討し、場合によっては両者を切り離す作業にあたる。

 より具体的に考えてみよう。前述したキャラクター化の暴力とは、人間から、個別の人格や内面などの複雑な意味を捨象することだ。この短絡化した回路を切断するには、人間とキャラクターがそもそも符合できないものであることを再確認すればよい。

 そのために筆者は、人間をキャラクターと見なすことを反転させ、キャラクターを人間と見なすこと、すなわちキャラクターを人間として愛することは可能なのかを問いたい。人々がキャラクターを過剰に人間として扱おうとすることを通して、逆に人間をキャラクター化することの暴力を照らし出そうと思う。次回はそれについて書く。

★1 宮台真司『制服少女たちの選択 After 10 Years』、朝日文庫、2006年、53頁。
★2 同書、53‐54頁。
★3 同書、112頁。
★4 速水由紀子、宮台真司『不純異性交遊マニュアル』、筑摩書房、2002年、220頁。
★5 同書、221‐222頁。
★6 以下の統計データは、厚生労働省『平成30年(2018)人口動態統計の年間推計』より。
★7 たとえばウェブサイト「リアルサウンド」で2015年から連載している「宮台真司の月刊映画時評」でも、『LOVE【3D】』『愛しのアイリーン』などの作品を取り上げつつ、「性愛」と「愛」を切り離そうとする議論を繰り返し行っている。
★8 宮台真司、前掲書、265頁。
★9 本田由紀『学校の「空気」』、岩波書店、2011年、44頁。
 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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