愛について──符合の現代文化論(2) なぜポルノは百科事典でないか|さやわか
初出:2019年12月27日刊行『ゲンロンβ44』
ホリエモンこと堀江貴文は、証券取引法違反の容疑で2006年1月23日に逮捕された。いわゆるライブドア事件だ。拘留期間中、彼は幼少時に愛読書だった百科事典の差し入れを要求し、留置所内で読書にふけったという。そのエピソードを、当時のメディアは面白おかしく報じた。
そこで注目された百科事典について、堀江は著書『ゼロ』で次のように書いている。
文化が欠落していたのは、八女の町だけではない。堀江家もまた、文化や教養といった言葉とは無縁の家庭だった。
たとえば、うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人である。
そんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。
当時は百科事典の訪問販売が盛んで、日本中の家庭に読まれもしない百科事典が揃えられていた。きっと、百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだったのだろう。わが堀江家も、その例外ではなかったわけだ。[★1]
「百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだった」とは、もはや理解しにくい感覚かもしれない。
日本最初の本格的な百科事典は、1907年より刊行された三省堂書店の『日本百科大辞典』だ。これは1冊あたり当時の値段で10円以上する高価なもので、売れ行きが十分でなかったせいもあり同社は刊行を中断。カンパを集めながら完結にこぎつけたというエピソードが残っている。
その後、日本ではじめて百科事典を世に普及させたのが平凡社の『大百科事典』(1931-35年)で、こちらは大衆をターゲットにしたものだった。これに先立つ経緯として、日本の出版業界を沸かせた「円本」ブームがあった。関東大震災を期に経営難となった改造社が起死回生の策として、1冊1円、全巻予約制の『現代日本文学全集』(1926年)を出版し、大ヒットしたために他社が追随したのである。
平凡社の『大百科事典』は、この円本ブームから派生して生まれた。1冊の値段を下げつつ全巻予約購入させる薄利多売のビジネスモデルが踏襲されたのだ。
ところが、やがて日本文学全集や百科事典を持つことは、経済的余裕や教養、知的な趣味を意味するように変化していく。戦後の高度成長時代に「百科事典ブーム」が訪れ、60年代には各家庭のリビングに百科事典を並べることは、一種のステータスシンボルとなった。
なお堀江少年が幼い頃に読みふけり、そして後に留置所へ差し入れさせたのは『学習百科大事典アカデミア』だ。タイトルから推測できるように、学童向けの内容である。版元のコーキ出版は児童書を中心とする出版社で、代表の鷺沢祥二郎は、のち1987年に史上最年少(当時)で文學界新人賞を受賞し「現役女子大生作家」という触れ込みで作家デビューする鷺沢萠の実父だった。
コーキ出版は、この事典を1975年から1982年にかけて刊行した。全巻配本後はすぐに新訂版の刊行にも踏み切っている。こうした積極的な販売姿勢の理由には同社の資金繰りの苦しさがあったようだ。自転車操業的な百科事典ビジネスを行っていたのは、大衆向け百科事典のルーツにある改造社の『現代日本文学全集』も同じだ。それ自体は必ずしも責められない。
しかし1984年にコーキ出版が倒産し、そこで悪質なセールス営業とそれに伴う大規模なクレジット名義貸しが明らかになる。これは「コーキ出版事件」として大きな話題となり、国会でも議論されるにいたった。
むろん堀江少年は、そんなこととは関係なく、熱心に『学習百科大事典アカデミア』を読んだ。前掲書によると、1972年生まれの彼がこの百科事典を読んだのは小学生の頃で、たしかに刊行時期と重なっている。堀江は、事典を拾い読みするのでなく、第1巻から最終巻までひとつの読みものとして通読した。学校の図書室に置いてあるような児童文学が苦手だった彼は、「よくできた『お話』ではなく、網羅的な『情報』」を求めていたのだという。
さやわか
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