愛について──符合の現代文化論(2) なぜポルノは百科事典でないか|さやわか

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初出:2019年12月27日刊行『ゲンロンβ44』

 ホリエモンこと堀江貴文は、証券取引法違反の容疑で2006年1月23日に逮捕された。いわゆるライブドア事件だ。拘留期間中、彼は幼少時に愛読書だった百科事典の差し入れを要求し、留置所内で読書にふけったという。そのエピソードを、当時のメディアは面白おかしく報じた。 

 そこで注目された百科事典について、堀江は著書『ゼロ』で次のように書いている。 

 


 文化が欠落していたのは、八女の町だけではない。堀江家もまた、文化や教養といった言葉とは無縁の家庭だった。 
 たとえば、うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人である。 
 そんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。 
 当時は百科事典の訪問販売が盛んで、日本中の家庭に読まれもしない百科事典が揃えられていた。きっと、百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだったのだろう。わが堀江家も、その例外ではなかったわけだ。★1 
 



「百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだった」とは、もはや理解しにくい感覚かもしれない。 

 日本最初の本格的な百科事典は、1907年より刊行された三省堂書店の『日本百科大辞典』だ。これは1冊あたり当時の値段で10円以上する高価なもので、売れ行きが十分でなかったせいもあり同社は刊行を中断。カンパを集めながら完結にこぎつけたというエピソードが残っている。 

 その後、日本ではじめて百科事典を世に普及させたのが平凡社の『大百科事典』(1931-35年)で、こちらは大衆をターゲットにしたものだった。これに先立つ経緯として、日本の出版業界を沸かせた「円本」ブームがあった。関東大震災を期に経営難となった改造社が起死回生の策として、1冊1円、全巻予約制の『現代日本文学全集』(1926年)を出版し、大ヒットしたために他社が追随したのである。 

 平凡社の『大百科事典』は、この円本ブームから派生して生まれた。1冊の値段を下げつつ全巻予約購入させる薄利多売のビジネスモデルが踏襲されたのだ。 

 ところが、やがて日本文学全集や百科事典を持つことは、経済的余裕や教養、知的な趣味を意味するように変化していく。戦後の高度成長時代に「百科事典ブーム」が訪れ、60年代には各家庭のリビングに百科事典を並べることは、一種のステータスシンボルとなった。 

 なお堀江少年が幼い頃に読みふけり、そして後に留置所へ差し入れさせたのは『学習百科大事典アカデミア』だ。タイトルから推測できるように、学童向けの内容である。版元のコーキ出版は児童書を中心とする出版社で、代表の鷺沢祥二郎は、のち1987年に史上最年少(当時)で文學界新人賞を受賞し「現役女子大生作家」という触れ込みで作家デビューする鷺沢萠の実父だった。 

 コーキ出版は、この事典を1975年から1982年にかけて刊行した。全巻配本後はすぐに新訂版の刊行にも踏み切っている。こうした積極的な販売姿勢の理由には同社の資金繰りの苦しさがあったようだ。自転車操業的な百科事典ビジネスを行っていたのは、大衆向け百科事典のルーツにある改造社の『現代日本文学全集』も同じだ。それ自体は必ずしも責められない。 

 しかし1984年にコーキ出版が倒産し、そこで悪質なセールス営業とそれに伴う大規模なクレジット名義貸しが明らかになる。これは「コーキ出版事件」として大きな話題となり、国会でも議論されるにいたった。 

 むろん堀江少年は、そんなこととは関係なく、熱心に『学習百科大事典アカデミア』を読んだ。前掲書によると、1972年生まれの彼がこの百科事典を読んだのは小学生の頃で、たしかに刊行時期と重なっている。堀江は、事典を拾い読みするのでなく、第1巻から最終巻までひとつの読みものとして通読した。学校の図書室に置いてあるような児童文学が苦手だった彼は、「よくできた『お話』ではなく、網羅的な『情報』」を求めていたのだという。

 なぜ彼は「情報」を好んだのか。そもそも百科事典とは「人類の知識の及ぶあらゆる分野の事柄について、辞書の形式に準じて項目を立てて配列し、解説を加えた書物」だとされている(『デジタル大辞泉』、小学館)。「辞書の形式」とはこの連載の用語で言えば、ある項目名(記号表現)について、どんな意味(記号内容)を持つのか、一意的な解釈へと「符合」させる形式を指している。堀江は前掲書で「百科事典には誇張も脚色もない。映画や漫画で見てきたような話が、淡々とした論理の言葉で紹介されている」とも述べており、おそらく彼が「お話」よりも「情報」を好んだのには、この「辞書の形式」の1対1的な対応を好んだ部分があると思われる。 
  
  
 しかし興味深いのは、百科事典を「情報」として読んだ堀江ではない。百科事典が、記号を1対1的な意味へ対応させる書物であるにもかかわらず、書棚に大きく幅を取る重厚な背表紙の存在感によって、それ自体が「ステータスシンボル」という別の意味へと符合させられた事実だ。そもそも「文化が欠落していた」町で、「文化や教養といった言葉とは無縁の家庭」に育った堀江が百科事典に触れられたのは、それが裕福さや知性を示すステータスシンボルへと意味を転じていたがゆえだった。「百科事典を全巻並べておくこと」の持つ意味が変質していなければ、彼は「情報」を愛することもできなかったはずだ。 
  
  
 ただ筆者は、百科事典が美術品等と同等のインテリアとして捉え直されたことは記号と意味の対応を攪乱するものとして賞賛すべきだ、などと言いたいわけではない。その変化は大衆のスノッブな性向が凡庸に反映されただけと言っていいだろう。 
  
 それでも気になるのは、コーキ出版のやったことである。彼らは、教育系の出版社であるがゆえに百科事典が本来どんなものか知っており、それがステータスシンボルとして意味を持たされたことも知っていた。彼らは、その変化が空虚な記号化だと知るからこそ、詐欺的なセールス行為で積極的に売ろうとしていた。その根底には、筆者がこの連載でテーマにしている「愛」の問題が関わっている。 
  
  
 どういうことだろうか。問題をより分かりやすくするため、百科事典と愛にまつわる別の事例を紹介しよう。以下、2019年夏からネットで全世界に配信されて大きな話題となり、既にシーズン2の制作も決定したNetflixの国産ドラマ『全裸監督』と、それに寄せられた批判の話をする。 
  
『全裸監督』は、本橋信宏のノンフィクション『全裸監督――村西とおる伝』(太田出版、2016年)を原作としている。サブタイトルにあるように、これは村西とおるという人物の評伝である。 
  
 村西とおるは1980年に無修正エロ本の販売業を開業して荒稼ぎし、その後はアダルトビデオ(AV)の監督をつとめて世間一般にも知られるようになった。監督自ら裸になり、カメラを構えて「ナイスですね~」「ゴージャスでございます!」など奇矯な口調で女優にインタビューし、セックスになだれ込む彼の撮影パターンはよく知られている。 
  
 AV監督自身が男優を兼ね、さらに撮影も行う手法は「ハメ撮り」と呼ばれ、今日のAVではさして珍しくはない。その手法を80年代以降にポピュラーにする役割を担ったのが村西だと言えば、彼が少なくともこの業界では一目置かれる人物であるとわかるだろう。ドラマ版『全裸監督』は、この村西のアクの強さとAV創成期の狂乱ぶりを、80年代後半から平成初頭つまりバブル期の日本のどぎついイメージとうまく重ねつつ描いていく。 
  
 ここでおもしろいのは、村西の個性的な口調が生まれた経緯を、彼がかつて英語教材のセールスマンをやっていたことに結びつけていることだ。このエピソードは、ほぼ史実通りのものだ。原作には、村西はグロリア・インターナショナル日本支社のセールスマンだったと書かれている。ただしこの会社で村西が売ったのは英語教材ではなく、正確には全30巻の英英事典『エンサイクロペディア(アメリカ大百科事典)』であった。これは初版が1829年に刊行された全編英語の膨大な書物で、全巻セットで20万円もした。 
 

 原作によれば、これを月に4セット売れれば営業成績トップなのに、村西は1週間で20セット売ったという。彼の話術は、前職だったバーのボーイ時代に培われていた。しかしセールスをやるようになってから、口調がAV監督時代のものに近づいていったようだ。 

 


「[……]街から街へずーっと歩いて、たとえば電車の中でも『ちょっとすいません。二、三質問させてもらえませんか。私はアメリカのグロリアという百科事典メーカーの担当社員やっております。よろしいですか』『とてもナイスですね』というふうにちょっとなまりのある、なまりっていっても東北なまりじゃダメなんだよ。インターナショナルななまり、日本語のインターナショナルでね『二、三でケッコウでぇーすぅ』ってもう昨日おとといやっと羽田に着いたような日系二世みたいな感じでやるわけ。[……]」★2 
 



 さらに原作が強調するのは、この頃に村西が口調だけでなく「応酬話法」と呼ばれるセールストークのテクニックを身につけたことだ。 

 応酬話法とは、一口に言えば弁論術の一種である。それは一定のメソッドを持つものの、最終的には相手に即して、またその反応に即して、語り方を変えることだと村西は結論づける。 

 


「[……]言葉ってのはだね、パターン化してさ、自分の中に持っていればいいってもんじゃない。言葉ってのは“直感的なもの”だから、いまこの瞬間でしか有効性を持たぬ言葉ってあるわけよ。言葉というのは学問の世界の普遍的なものじゃないの。学問の世界の説得力ってのは、いつ何時、この段階で話しても体系化されて普遍的な説得力を持つんだけど、人が人を口説くときってのは、普遍的じゃなくいつも流動的なんだ。その人の直感力、センス、瞬発力なんですよ。だから、そういうものを体系化して、何か方法論として方程式にすることはできないんだけどもね」 
 



 上記した村西の談話は、前回筆者が記号について指摘した内容と、かなりの部分で似通っている。 
  
 すなわち、記号には唯一無二の意味があるわけではない。記号と意味の結びつきは人々の間で慣習的に、あるいは恣意的に、曖昧に決められている。場合によっては、その記号が持っていた意味が失われたり、全く別物に変化することすらある。つまり村西は、言葉(記号)にもともと意味が分かちがたく結びついているわけではないと理解しているのだ。 
  
 この態度は、たとえば『文化記号論』の中で池上嘉彦が書いているものに近しい。 

 


 われわれを取りまくおよそさまざまな文化的対象――それは一定の文化的な価値を持つものとして「記号」と考えることができるということ、そしてさらに、われわれはあらゆる対象――文化的なものもそうでないものも含めたすべて――を何かを意味するものとして「記号」として捉えることができるということ、この二つのことから、われわれはあらゆる種類の記号に取りかこまれ、あらゆる種類のものを記号として解釈しながら生活しているということになる。あらゆる種類のものが記号として意味づけされており、同時にあらゆる種類のものを記号として意味づけながら、われわれは生活しているわけである。そのような意味づけは人間の立場からのわれわれ自身にとっての意味づけなのであるから、実は文化そのものに他ならない。★3 
 

 ここで重要なのは「あらゆる種類のものが記号として意味づけされており、同時にあらゆる種類のものを記号として意味づけながら、われわれは生活している」という部分である。目にするすべてのものがすでに記号としての意味を持つにもかかわらず、私たちはすべてのものにあらたな意味を与える。つまりそれは私たちが記号の意味を上書きしながら生活しているということ、記号と意味の符合性を刻々と変化させているということに他ならない。池上は、その行為をこそ「文化そのもの」だと言っている。 
  
  
 村西は、コーキ出版がそうであったように、百科事典のシンボル性が無意味であることを見抜いていた。それだけではない。彼が応酬話法のノウハウを述べた先の持論は、百科事典に書いてある内容自体も普遍性を持ち得ないと、彼が体得していたことを示している。そんな無意味なものだからこそ、彼は典型的な外国人という記号性を奇妙な言葉遣いで実演し、口八丁で売ることしか考えていなかった。状況に応じて意味の符合を変化させることで、百科事典を真に「文化そのもの」の文脈において売ろうとしたと言ってもいい。 
  
  
 しかし、この村西の応酬話法は全面的に賞賛できるものではない。 
  
 原作版『全裸監督』には、この話法が彼の人生の要所で力を発揮したとは書かれている。絶対に脱がないとされた著名人やモデル、素人などをAV出演に誘う際にも、また対権力においても、闇社会との関係においてすらも役立ったという。ただ同書は、その説明として「マインドコントロール」「オウム真理教」などの言葉を使い、村西自身にも「もう説教強盗だよ、アハハハ」などと語らせて、その話術の危険さを示唆してもいる。しかしドラマ化された際に、そうした留保は原作ほど強調されなかった。その結果、村西が全面的に賞賛すべきヒーローとして描かれていると、批判がやってくることになったのである。 
  
 ドラマ版『全裸監督』に寄せられた批判には様々なものがあるが、論点は大きく分けると以下の3つになる。 
 


(1)題材がポルノである 
(2)登場人物に実在のモデルが存在する 
(3)村西の言動が抑圧的である 
 


 まず(1)については、せっかく日本製のコンテンツをNetflixで全世界配信するのに、よりによってポルノが題材とは、と嘆いたものである。もちろんドラマ制作者側には、日本ならではの作品を世界にアピールするためにこそ、個性的だと評されることのある日本のAVを題材にする狙いがあったはずだ。しかし自覚的であるなら余計に、性の消費を自国コンテンツの旗印にするはしたなさは目に付く。こうした批判は、国産アニメやゲームを輸出する際にもしばしば寄せられるものである。

 (2)についてはどうだろうか。『全裸監督』は原作が実話を元にしたドキュメンタリーである以上、一部の登場人物にモデルが存在する。とりわけドラマ版で問題視されたのは、村西が過去にAV女優としてデビューさせ、脚光を浴びた黒木香が芸名そのままに登場することだ。黒木は既にAV業界を引退し、かつ近年には消息記事を書いた雑誌を訴えるなど、プライバシーを強く意識していると世間に伝えられている。にもかかわらず、メディアが黒木本人にドラマ化の許可を取ったのかNetflixに問い合わせたところ、「作品制作にあたって、村西さん同様、黒木さんご本人は関与されていません。あくまでも本橋信宏著『全裸監督』という原作に基づいた作品です」との回答が寄せられたという★4。こうしたNetflixの対応を疑問視する声があるほか、そもそも黒木が許可するか以前に、彼女についてドラマで扱うべきでないとする論調もある。 
  
 そして(3)が、本稿がここまでに書いた内容と密接に関連するものだ。村西はドラマ版において、英語教材のセールスマンとして培った話術をによって、女性をAVに出演させ、本番行為すら強要する。その時、彼はまさしくマインドコントロールのように、女性たちが自分自身で彼が望むとおりに決断するよう「説得」を施していく。その巧妙さは女性本人にすら自らの意志だったと感じさせるほどだが、その実態は現場ぐるみの抑圧と強要にほかならない。 
  
 こうした構図は近年話題となっているAV女優の出演強要問題にも見られるものだ。またAV業界に限らず、ブラック企業問題で頻繁に似た事例が語られる。村西を単純に英雄視することは、こうした問題点に目をつぶることにつながってしまう。だから原作だとそこで「オウム真理教」のような言葉が用いられて危険性が示唆されるのだが、ドラマ版だとそのような注釈は付けられない。結果として、作品が村西を積極的に評価しているようにも見えるのだ。 
  
 もちろんドラマの制作陣も、村西のやり口には抑圧や強要に近しいものがあり、必ずしも好意的に捉えるべきでないと理解している。だからドラマ版では強引に本番行為をさせたAV女優が逮捕され、彼女の人生が破綻し、村西が落胆するエピソードも描かれるのだ。シーズン1のエンディングにしても、村西が無茶な撮影を続けたがゆえに、ずっと仲間だった男が取り返しのつかない裏社会へ引きずり込まれるシーンがある。 
  
 つまり村西は正義のヒーローではないと、ドラマ版は原作とは別の形で示唆している。多くのピカレスクロマンや暗黒小説と同様、ドラマ版『全裸監督』も主人公を全面的に肯定するわけではない。しかし、上記のような後味の悪いシーンが、必ずしも制作陣の意図通りに機能していないのもたしかだ。映像と書籍というメディアの違いもあり、たとえ脚本上で禍福を共に配置したとしても、活字で両義的な評価を匂わせるのと同じにはいかないのだ。まさしくこの論点からドラマが批判されたことが、その証左だろう。 
  
 なお、多くの批判は(1)から(3)までの論点を、個別にだけでなく、複合的に絡めて行われている。たとえば「村西のとった抑圧的な言動は、題材がポルノであるがゆえにセクシャルハラスメントや性的暴行と一致している。登場人物のモデルへ配慮していないのも含めて、ドラマ全体やAV業界の女性蔑視または女性軽視を感じさせる」といった具合である。 
 

 こうした批判が妥当かどうか、本稿では判断しない。なぜなら題材がポルノであることにせよ、登場人物のモデルへの配慮の件にせよ、はたまた後味の悪いシーンの効果にせよ、実は「必ずこうあるべき」という指標がないために、ある一線を踏み越えたと判断しうる事実を示すことができないからである。 
  
 つまりこれらの論点は、村西の発言に擬えれば、普遍的ではなく、流動的な言葉でしか語れないものだ。にもかかわらず、人々はこれを絶対的な指標があるものかのように語っている。それは記号と意味を一対一で符合させてしまい、その拡張を許さないような、執着的な「愛」に基づいた言説だ。現状の『全裸監督』への評価には明確な答えがなく、だからこそ、それぞれの話者の強い執着だけをもって広がり、結果的に賞賛する者たちも批判者も相互理解できていない。この種の「愛」に基づいた他の論争と同様である。 
  
 したがって、執着的な「愛」とは別の捉え方で『全裸監督』の論点を考えるため、記号、そして符合という概念を使ってみたい。 
  
 ドラマ版『全裸監督』の冒頭を見直そう。実は村西がエロ業界へ進む動機や経緯が、ドラマ版と原作では微妙に異なっているのだ。 
  
 まずドラマの冒頭は、まじめ一徹の英語教材セールスマンである村西が、トイレでビニ本を見て自慰をするところからスタートする。そして営業成績を上げていくきっかけとなったエピソードとして、彼は強面のヤクザの家に営業をかけることになり、怯えながらもとっさに行ったセールストークで次のように言って、仕事を成功させるのだ。 

 


「ここに書かれているラブ、グッド、ハロー……もう、このような短い単語を覚えるだけで外国人と話すことができます」 
「現地の女性と……愛のコミュニケーションを取ることができます」 
「特にフィリピンでは! 抜群の効果を発揮します」 
「ここに書かれている言葉を使えば、女性をメロメロにすることができます」 
 



 こうしたセールストークの例は、原作には全く存在しない。明らかにドラマ版の創作だ。もちろんその後、村西が性的ではない多種多様なセールストークを展開するシーンもある。しかしドラマ冒頭で制作陣が、村西はもともと性に対する興味が強く、そしてそのことが彼を成功に導いたと印象づけようとしているのは明らかだ。

 しかもドラマ版だと、その後村西は愛し合っていたはずの妻の浮気現場に出くわし、「あんたでいったことないのよ、1回もね!」と憎々しげに言われて離婚、意気消沈する中でエロ業界へ転職するプロットになっている。 
  
 これは史実通りではない。村西が妻に浮気されて百科事典のセールスマンを辞めたのは事実だが、原作だとその後に彼は、教材をセット販売する英会話学校の経営、当時は高価だったテープレコーダーのセールス、『スペースインベーダー』(タイトー、1978年)をはじめ人気作が生まれつつあったアーケードゲームのリース業者など、得意のセールストークが使えて、かつ時代の空気をつかんだ仕事を手当たり次第にやっている。途中、2度目の結婚もした。 
  
 ドラマ版『全裸監督』では、こうした経緯は一切描かれない。しかし上記の職歴を知れば、村西とおるの特性はマインドコントロールじみた応酬話法なのだとする原作の主張がよくわかる。原作の村西は、ことさら性にだけ能力を発揮するわけではない。記号とその意味の符合が分かちがたいものではないと知っていた彼は、ポルノですら、性の背後に人々が感じる深い意味、たとえば道徳観や愛情の問題を取り外して扱うことができた。だから彼は違和感なく性を商品にできたのだ。原作の筆致が不気味に、また魅力的に描くのは、村西のそうした部分である。 
  
 ところがドラマ版を見ると、村西は潜在的に性への興味を強く持っているものの、当初は家庭を愛する人物として描かれている。それが妻の浮気をきっかけに貞淑さの枷を外し、いわばトラウマ的な体験によって、あけすけな性の商品化へと道を踏み外したというキャラ付けがされるのだ。 
  
 もちろん、この改変によって物語はわかりやすく、面白くなった。エンターテインメントとしては必要な改変だったに違いない。しかしそのドラマ版のわかりやすさを支えているのは、性は単なる商品でなく、本来なら愛情と結びついているはずだとする素朴すぎる思想だ。その根底には原作の村西とは真逆の、性に愛情を分かちがたく紐付ける、まさしく執着的で拡張を許さない「愛」が窺える。 
  
 にもかかわらず、ドラマの後半でAV事業を拡大する村西は、原作と同じく応酬話法を強めていく。つまりポルノを純粋に商品として、あるいは作品として大量販売しようとするのだ。こうした展開は村西を、ドラマ版の第1話で受けたトラウマを急に失ったかのように見せてしまう。ドラマ版『全裸監督』に寄せられる批判のうち、少なくとも村西の抑圧的言動に関するものは、この矛盾に原因がある。 
  
 どういうことか。既に述べたように、ドラマ版は第1話で、本来なら性と愛情が結びつくはずだという、記号と意味の分かちがたい符合とその破綻を見せつける。つまり村西は、トラウマ的な体験でその符合を信じられなくなったにせよ、元来ならそれを理解できる人間として描かれている。 
 

 だからドラマの後半、村西がかつてのトラウマを全く思い出すことなく、闇雲に性を商品化していった時に、視聴者は違和感を覚えるのだ。せめて昔のトラウマがたびたびフラッシュバックするようなシーンでも挿入されれば、村西にも心理的葛藤があることになる。たとえ性を商品化していても、村西がドラマ冒頭ではそれが愛情と分かちがたく符合していると考えていたのを思い出して、視聴者は同情を寄せただろう。ところがドラマの製作者はそこをまったく考慮していない。トラウマのエピソードはプロット上から忘却され、村西はいつの間にか原作同様に社会通念を度外視してアダルトビデオの制作と販売に打ち込む人物になってしまうのだ。そうなると彼の振る舞いは、視聴者から見て本来あるべき性と愛情の結びつきに背を向け、セクハラ、モラハラ、パワハラなど様々なハラスメント、とりわけ女性に対しては性暴力や蔑視へ向かったように見えることになる。 
  
 簡単に言うと、ドラマ版では村西の異端ぶりが、十分に描かれていなかった。たしかに村西は社会的に見て異端であるが、それは彼がミソジニーやセクハラ的な思考、あるいは性的トラウマを抱えた人間だからではない。彼が、記号と意味の符合を変更できないと思っていない人物だからである。 
  
 ドラマ版『全裸監督』は、原作の村西のように、性と愛情の符合を切り離す人間がいると描いてもよかったはずだ。すなわち、ポルノは百科事典ではないと。エンターテインメントとしてわかりやすさを求めた結果、作品はそのようには作られなかった。だが結果的にはそのせいで、批判を浴びる羽目になったのだ。 
  
 ポルノは、少年時代のホリエモンが好んだような、項目と意味の1対1的な対応、性と愛情の符合によってのみ、成り立つものではない。村西が言うように、性と愛情の符合が普遍的な説得力を持たず、流動的であることによっても生まれるのだ。それは、百科事典をそれ自体でなく、ステータスシンボルとして売った、コーキ出版の販売戦略に近いものだ。 
  
 こうした「愛」の流動性は、まだ多くの人々が違和感を覚えることだ。しかし今日よく聞かれる性の多様性も、この符合の揺らぎを認めることと無関係ではない。『全裸監督』の可能性は本来、この作品だけでなく、性を扱った作品全般、むろんポルノも含めた、そのより進んだ理解を視聴者に促し、それを通して「愛」の流動性について視聴者の蒙を啓くことにあった。 
 


★1 『ゼロ――なにもない自分に小さなイチを足していく』、ダイヤモンド社、2013年、34頁。 
★2 以下、『全裸監督』原作の引用は下記の電子版から。本橋信宏『全裸監督――村西とおる伝』、太田出版、2017年。 
★3 池上嘉彦、唐須教光、山中桂一『文化記号論――ことばのコードと文化のコード』、講談社学術文庫、1994年、69頁。 
★4 「話題沸騰、山田孝之主演ドラマ『全裸監督』黒木香さんの同意は? Netflixに聞いてみた」、『女子SPA!』、2019年8月19日。URL= https://joshi-spa.jp/946821/2

 

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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