愛について──符合の現代文化論(番外編) 意味はどこに宿るのか──ゲルハルト・リヒター展評|さやわか

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初出:2022年7月31日刊行『ゲンロンβ75』
 ゲルハルト・リヒターは、世界的に有名なドイツの芸術家だ。現代アートについて学ぶと、必ず名前が出てくる。そのせいだろうか、今回の大規模個展は大盛況だった。僕は展覧会初日の開館時間に行ったのだが、平日の朝にもかかわらず、多くの観客が詰めかけていた。100人くらいはいただろうか。

 リヒターは近年「もう絵は描かない」と宣言した。本当に筆を折るのかはわからないが、90歳と高齢でもあるし、この展覧会は彼のキャリアを総ざらいするのに格好の機会となった。120もの展示作品も、1960年代から2020年代にいたるまでの、彼の作風の変遷を余さずパッケージした内容になっている。

 ただし展覧会の構成としては、特に作家の来歴を順に追うようなものになってはいない。「どこから鑑賞してもよい」ということなのだろう。しかし、やはり今回の目玉、エントランスをくぐってすぐ左の展示室にある《ビルケナウ》を最初に見るのをお薦めしたい。作品数が膨大なのは無論ありがたいが、いささか鑑賞に疲れた後になってからこの大作を見るのは、もったいない気がする。
《ビルケナウ》は2010年代半ばにリヒターが挑んだ巨大な4枚の絵で、1944年にアウシュビッツ強制収容所★1で撮られた写真をモチーフにしている。収容所内で同胞たちをガス室に送る役割を与えられ、死体の処理も行った「ゾンダーコマンド」と呼ばれる囚人たちが隠し撮りしたものだ。危険を冒しつつ、収容所の様子を外部に伝えようとしたその経緯は人々に衝撃を与え、後に数多く言及されることになった。《ビルケナウ》の翌年に制作されてアカデミー外国語映画賞を受賞した映画『サウルの息子』(2015)などは記憶に新しい。

 リヒターは〈アブストラクトペインティング〉〈カラーチャート〉のような抽象度の高い作品で知られる一方、キャリア初期から写真に強い関心を寄せている。その理由として、まず単純なレベルでは、仮に写真が「現実そのものをそっくり写し取ったもの」であるならば、それに対して絵画は何ができるのか、という問題意識がある。特に初期の作品には、その意識がわかりやすく表れている。彼は平凡なスナップ写真と寸分違わず同じ図像を描く〈フォトペインティング〉のシリーズを1960年代以降ずっと続けており、今回の展覧会でも印象的に配置されていた1965年の《モーターボート》などはその好例だ。

 そしてその延長線上に、ある図像が写真から絵画へ転換された時に、その意味は持続するのかという、実に現代的な問題意識が現れる。

 なぜ現代的だと言えるか。たとえば音楽について考えよう。今日、我々は実際の演奏を聴くだけでなく、様々なメディアに複製されたものを聴くことが当たり前になっている。レコード、カセットテープ、CD。あるいはMDというのもあった。記録媒体だけでなく、再生機器の違いも見逃せない。コンポで再生したり、カーステで再生したり、PCで再生したり、スマホで再生したり。最新のIT機器を使う場合でも、音源がどんな形式やビットレートでエンコードされた音声ファイルなのか、またはネット経由のストリーミング再生なのか、その場合 Apple Music なのか、Spotify なのかなど、今日「同じ作品」が無数の複製を持ち、鑑賞者の環境は常に一致していない。
 ある図像を別のメディアに移し替えてしまうリヒターのやり方は、このような現代的な環境を思い出させる。今回の展覧会で言えば、特に《ビルケナウ》の展示方法が、それを明確に示すものになっていた。

 この作品が置かれた部屋では、まず手前の壁にゾンダーコマンドが撮影した写真そのものが掲示されている。そして、その左手の壁には、写真にインスパイアされて描かれた作品そのもの、つまり巨大な4枚の抽象画が展示されている。さらに、その向かいの壁には、その巨大な4枚の絵をプリントアウトしたものが、ちょうど対向する形で貼られている。しかしよく見ると、プリンタ性能の限界もあって、これらは絵1枚につき4枚ずつに分割されたものを貼り合わせる形に、つまり全16枚のプリントアウトになっている。そして最後に残された壁一面には大きな横長の鏡が据えられており、室内の各壁面にある作品を薄暗く映し出している。

 先ほどの音楽の例と同じように、各壁面にあるのは、それぞれに異なった方法による、しかし同じものの複製である。あるいは、複製の複製である。だが、果たしてそれらにはゾンダーコマンドが撮影した写真の意味は残っているのだろうか。いや、そもそもゾンダーコマンドの写真そのものにすら、意味は宿っていないのではないか。非常に重いテーマを持ったこの作品を通して、リヒターは観客に、そして自らにもそれを問いかけるのだ。ここにいたっては「ある作品に意味は内在するのか」あるいは「鑑賞者に与える意味を、絵画は(そして写真も、さらにはあらゆる芸術が)規定できるのか」という、より根源的な問いが姿を現している。

 言い換えればリヒターは、ある作品が常に一定の状態にあること、またそれを万人が同じ意味で解釈することを疑っている。鑑賞者が作品から受け取る意味は、鑑賞する際の条件によって、簡単に移り変わってしまう。たとえば鑑賞者は、作品をどの位置で眺めるのだろうか。その時の照明はどんなものか。作品はガラスで覆われているのか。そもそも作品はオリジナルなのか、複製なのか。鑑賞者はどのような精神状態にあり、作品に対してどんな予備知識を持っているのか。彼以外の鑑賞者が近くにいることによって、作品にはどんな影が落ちるのか。さらには作品と正対する時と、作品の前を通り過ぎる時、また作品が視界の端に入っただけの時でも、当然だが鑑賞者が受ける印象は、全く変わってしまう。
 このように考えると、リヒターが〈フォトペインティング〉のように具象的な作風と、その後の〈アブストラクトペインティング〉や〈カラーチャート〉のように抽象的な作風を、使い分けている訳ではないことがわかる。彼は具象的であろうと抽象的であろうと、最後には鑑賞者が作品の見映えと意味を決定することを確信しているのだ。だからこそリヒターは、作品内に自分の意図や思想、作為が表れない制作スタイルを貫いている。今回の展覧会には、彼の代表作として、ガラス板を並べただけのような作品や、単色で塗り潰された鏡のような作品も展示されている。それらもまた、観客の位置や動き、つまり鑑賞者の働きかけによって作品が様々に移ろうことを狙ったものである。

 このように作品と鑑賞者のインタラクションを重視する態度は、かつてシュールレアリストたちが目指した無意識的な創作、すなわちオートマティズムとは異なっている。では、何に近しいか。僕にはそれは今日ネット上に氾濫する、素人が撮影した動画コンテンツに似ているように思われる。あるいは『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のようなオープンワールドのゲームで、プレイヤーが特に見せ場でもないシーンを走り回っている時に目に入る映像にも似ている。

 どういうことか。YouTube や TikTok にある素人撮影の動画や、ストリーミングの生放送番組、あるいはオープンワールドゲームで草原を走っている時の映像は、今の時代には次から次へとネットを通じてアップロードされ、我々の目の前をよぎっていく。それらは、必ずしも作品として作られている訳ではない。しかしたとえどれだけ雑多な映像だったとしても、また自分がどれだけいい加減にその映像を眺めていても、不意に、映っているものが美しく感じられる瞬間がある。それはわずかな一瞬であり、気づいた時にはスクリーンショットを画像として保存することもできる。だが、たいていの場合は、すぐに流れていってしまうだろう。これらの映像は、ハプニング的に、あるいは幽霊のように、儚い輝きを見せる。そこに、コンテンツとしての際立った特徴があるのだ。
 リヒターの作品はネットが普及する以前から存在するので、当然ネットコンテンツに反応して作られた訳ではない。だが〈アブストラクトペインティング〉が見せる残像のような絵具の軌跡は、明らかにアナログビデオ映像のブレやノイズ、ゴーストを思い起こさせるものだった。彼が写真をモチーフにすることを好むのも、この文脈から理解できる。要するに彼は絵画という、絵具をキャンバスに定着させることを基本とした表現形式を通じて、それに反するような、移ろう現実を切り取る図像、すなわち映像に迫ろうとしていた。

 しかし平凡なスナップ写真を使って作家自身の意図を排除したり、鑑賞者とのインタラクションを重視するようなやり方は、単に「映像的」という言葉だけで説明できるものではない。それは、前述のような基本的には無意味な、しかし鑑賞者の意味づけによって一瞬だけ輝く、今日の情報技術を援用した膨大な映像コンテンツと類比するのに相応しいものなのだ。先ほど述べたように、この展覧会は鑑賞の順路が決められておらず、非常に多くの作品が並べられている。それは、映像が目まぐるしく氾濫する昨今の状況を模したかのようだ。それゆえにこそ今回の展示は、老作家の半世紀以上にわたる来歴を振り返るものでありながら、むしろ現代性を強く感じさせるのだ。《ビルケナウ》も、作品は果たして戦争を、現実を、伝えられるのか、それは信じるに値するのか、という問いを、私たちが常時指先でいじり回すようになったネットメディアを思い出させながら、まさに差し迫った問題として、実感させてくれる。その点で、リヒターは今なお、重要な作家であり続けている。

次回は2022年9月配信の『ゲンロンβ77』に掲載予定です。


★1 アウシュビッツ強制収容所はポーランドのオシフィエンチム市と、それに隣接するブジェジンカ村の2箇所に分かれて存在する。この村はドイツ語名ではビルケナウと呼ばれ、作品名はこれに由来する。

 

【展覧会情報】
ゲルハルト・リヒター展は2022年10月2日(日)まで、東京国立近代美術館で開催中です。開館時間、休館日などは公式サイト(URL= https://richter.exhibit.jp/)をご覧ください。

さやわか

1974年生まれ。ライター、物語評論家、マンガ原作者。〈ゲンロン ひらめき☆マンガ教室〉主任講師。著書に『僕たちのゲーム史』、『文学の読み方』(いずれも星海社新書)、『キャラの思考法』、『世界を物語として生きるために』(いずれも青土社)、『名探偵コナンと平成』(コア新書)、『ゲーム雑誌ガイドブック』(三才ブックス)など。編著に『マンガ家になる!』(ゲンロン、西島大介との共編)、マンガ原作に『キューティーミューティー』、『永守くんが一途すぎて困る。』(いずれもLINEコミックス、作画・ふみふみこ)がある。
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