チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記(13)|セルゲイ・ミールヌイ 訳=保坂三四郎

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初出:2014年9月4日刊行『ゲンロン観光地化メルマガ vol.20』
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第41話 ボベル村 ~ ありえるはずのない事実

ボベル村 - チェルノブイリ原発から南西に47キロの居住区。  キエフ州。20万分1地形図。ウクライナ国防省、1992年。

 


 おもわず言葉を失ってしまった。
子どもがいる!
 チェルノブイリに来てからは一度たりとも子どもというものを見ることはなかったが……

 ──年格好7歳くらいの少女。日差しに輝く髪とサラファンワンピース。夕日を背に、幼い弟の手を引きながら、農家が立ち並ぶ埃っぽい道を歩いている……実にのんびりとして、無防備だけども静かで平和な雰囲気が漂っていた……子どもたちは大人に守られているのだ……

 ゾーンではごくありふれた自然なものを目にすることができなかった! それが子ども、ヒトの子だった……

 洗濯で色が褪せてしまった服を着て、日焼け髪が光輪のように輝く少女と小さな弟の姿は、とうの昔に色彩というものを失ってしまったチェルノブイリの現場でただひとつのカラフルな点のようだった……
 我々の装甲車BRDM80号車は、村の端にある農家のそばに止まった。

 ノートに〈ボベル〉と書き込むと北の略称のNと記す。

 さてと、測定に取りかかるか。

 ポレシア・イヴァンコフ幹線道にあるボベル居住区。

 2匹のヒトの子は我々の前を悠々と歩いていった。
ソ連国防省特別対策本部
放射線化学偵察課長殿

報告



86年8月6日、ボベル居住区の線量測定を実施した。同居住区の西部と東部では毎時0.8ミリレントゲン(≒8μSv/h)(西部は1.1、東部は0.2~0.3)に達する顕著な線量差が確認された。通常、原発から遠方にある居住区内の線量の差は毎時0.2~0.3ミリレントゲン、最大でも0.5程度である。

ボベル居住区の特徴は、北から南東にかけて交通量の多いポレスコエ・キエフ間自動車道が縦長の同居住区を垂直に横切っていることである。線量は道路を横断する際に変化するが、とくに居住区の西部全体、東部の道路近傍の建物の地上から高い線量が検出された(最大で毎時1.1ミリレントゲン)。

同地域におけるこの時期の風向きがおおむね東の風であることを踏まえれば、ボベル居住区西側の放射能汚染は自動車道路から風によって塵埃が運ばれたことが原因と考えてよいだろう。

 



上記を踏まえ、以下の対策が必要と考えられる。

 1.ポレスコエ・キエフ間道路およびボベル居住区を含む路肩の線量測定ならびに、ボベル居住区内のより詳細な線量測定を行うこと。

 2.ポレスコエ・イヴァンコフ間道路でより厳しい放射線管理を適用すること。

 3.居住区付近の走行にあたって時速30~40キロの速度限度を設けること。

 4.測定結果を踏まえ、ボベル居住区内の幹線道および路肩の除染を行うこと。同作業実施後にはじめて、同居住区西部の効果的除染が可能となり、ボベル居住区の強制退去を回避できる可能性がある。

 



放射能偵察第一小隊長

放射能偵察第一中隊54979部隊      中尉 /署名/ ミールヌイ
 
 ──この報告の草稿を、後々、専門家に見せたことがある。国内屈指の専門家たちだ。みんな、すばらしい、よく書けている、と絶賛してくれた。

 しかし実際には、ありえないような偶然が起こっていた。誰もが全く想定できなかった偶然である。
 この偶然について知ったのは、何年も経ってからだ! 初めて汚染マップというものを見たのだ……地図には、丸裸の焼け爛れた原子炉から風に乗ってきた目には見えない〈雲〉★1が撒き散らした放射性物質の土地汚染を示していた。しかしそこに見たのは〈ありえるはずのないフォールアウト〉だった……

 地図では、原発から西に向かって高線量が舌のように鋭く突き出ていて(最初の数キロ)、離れるにしたがって線量も低く、徐々になだらかになっている。まさにこの舌が、ボベル村の北方を通過した後、少し距離を進んでから、ゆるやかで低い部分で急に方向を変えて(〈雲〉の飛来中に風向きが変わったのだろう)、原発とは反対方向の西側の後方地から、その鋭い舌先でボベル村をペロッと舐めつけていた。

 ちょうど幹線道路に沿って。

 これこそが、ありえない偶然なのである。ホットスポットの境界(しかも、くっきりとした境界! 原発から離れた低線量のところでは極めて珍しい!)が道路とぴったり一致している。これには、自分だけでなく、このボベル村のデータを見たすべての者が困惑した。誰もが 〈こんな偶然はありえない〉と考えた。〈考えた〉というよりも、考える以前に、無意識のレベルでその可能性を排除していた……

 ありえるはずのない事実。

 ほとんどおとぎ話と言ってもよいが、1986年の夏、それまでは無名だったポレシア地方の寒村で現実に起こった話である……

 



 ──夕暮れ前のバラ色の陽光に包まれながら、7歳になる女の子が幼い弟の手を引いて表通りを歩く、その村での出来事……

第42話 コフシロフカ村 ~ 花から……毎時5ミリレントゲン?!

コフシロフカ-チェルノブイリ原発から西に43キロの居住区。  キエフ州。20万分1地形図。ウクライナ国防省、1992年。

 


 村は村でも、ヂブロヴァ村は〈セロ〉と呼ばれる。

 ヴァロヴィチ村は〈ヴョスカ〉。

 コフシロフカ村は〈ジェレーヴニャ〉。

 三つの村は、チェルノブイリからポレスコエに向かう幹線道路に沿って、お隣同士に位置している。

 その違いは、ヴァロヴィチにはベラルーシ人、ヂブロヴァにはウクライナ人、コフシロフカにはロシア人が住んでいるというだけである。

 この地域はプリピャチ川とドニエプル川が合流するところで、かつて東スラブ族──現在のウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人──は〈ここからやって来た〉と言われている。現在も、ウクライナのチェルノブイリ原発(モスクワと同様に12世紀には歴史に登場する古代都市〈チェルノブイリ〉から命名された)からロシア国境までは145キロ、ベラルーシ国境に至ってはたったの7キロしか離れていない……

 



 本部で与えられた指示は、コフシロフカ村の測定だった。

 我々は、待ってました、といわんばかり。村への出張はいつでも胸が高鳴った。ゾーンの外に出て、訪れたことのない土地を尋ね、生の人間に会える。しばし現実を忘れて、気晴らしできる。もちろん、ちゃんと仕事もするが……

 我々の乗った装甲車はチェルノブイリから西へ進み、道路沿いにディブロヴァ(30キロのゾーンの出口で除染所PUSOが設けられていた)を通り、さらにヴァロヴィチを過ぎ、コフシロフカに着いた……

 ──コフシロフカに入ってすぐ目に飛び込んできたのは
花。
 どこでも──家、正面の庭、中庭も──本当にどこもかしこもが華麗で見事な色の、手入れが行き届いた花でいっぱいだった……

 ──雪のように真っ白で細く伸びたグラジオラス……

 ──真っ赤で、はちきれそうなほどに生命力がほとばしるダリア……

 ──繊細で、魅惑に満ちた芳香を放つバラ……

 ──温かく家庭的なマリーゴールド……

 こんな美しい花を見たのは人生でこれが最初で最後だ……

 これらがすべて咲いていた。

 コフシロフカ村の庭々には、まるでおとぎの国の温室のように、繊細で香気漂わせる命が咲き誇っていた……一方、目を閉じればすぐに思い浮かぶ我々の日常の景色ときたら。荒廃した原発、原子炉に空いた黒い穴、馬鹿でかい重機、カーキ色の作業服などの醜悪な色調、軍隊の隊列、キャンプのテント。すべてがぎこちなく、おんぼろで、殺風景なものだった……

 この花々にすっかり気をとられたが、そもそもは測定に来たのだ…… 毎日のゾーンで数レントゲン、数百ミリレントゲンという単位の線量に慣れっこになっているせいもあってか、すぐには気づかなかったが、そこで出た数字に唖然とした。
 コフシロフカ村が毎時5ミリレントゲン!
 立ち退きになっていない村が毎時5ミリレントゲン(≒50μSv/h)! 人が住んでいるのに!!! 普通の生活を送っているのに!!! 0.7ミリレントゲン(≒7μSv/h)を超えると避難させられるが、チェルノブイリ市(みんな作業服を着て歩いているし、臆病な連中はマスクまでしていた)ですら最大でも毎時3ミリレントゲンだ! チェルノブイリ市はとっくの昔に30キロゾーンに入れられ、人々は退去させられ、閉鎖された。今では少し滞在するだけで給料が2倍もらえるっていうのに……!
 ここはといえば、ゾーンから遠く、原発からは50キロも離れているのに、毎時5ミリレントゲンの放射線ときた! にもかかわらず、村の暮らしは普段となんの変わりもない。普通の服を着て、畑で精を出し、外を自由に歩き、お店で食料を買い、食べて、飲んで、おやすみ……おいおい、毎時5ミリレントゲンの世界だぞ! マスクもせずに……! もし除染所PUSO〈ルドニャ・ヴェレスニャ〉☆1がここにあったら、この村の車を絶対に通すことはないだろう。もちろんゾーンから出るためにはこれ以外にもいくつもの除染所があるが!

 毎時5ミリレントゲン!今も人が生活してる村で!

 我々偵察員は度肝を抜かれた。どうしてこんなところに人が住んでるんだ? なぜ……?

 降下物があったということなのか? 風で西方遠くに運ばれ、コフシロフカ村がホットスポットになったということか! 住んでいる連中は何も知らないが……!!

 ──今すぐにでも退去させなければ!

 私たちは地元の連中には黙っていた。

 食料品店にも寄った。列に並び、すぐに順番がまわってくると、腹を満たすためパン、ソーセージ、レモネード、糖蜜ケーキを買った。

 そしてそのまま立ち去った。

 焦る必要はない。毎時5ミリレントゲンというのは、数時間いるくらいではたいしたことはないのだから。ただ、用もなく長居する必要はないが……

 



「あの村は退去を拒んだんだよ」

 コフシロフカ村の線量を記入した書類(人間が住んでいる村が毎時5ミリレントゲン!!!)を上司の机に置きながら、やや感情こめて口頭で意見を述べたが、上司は至って冷静沈着だった。コフシロフカ村は退去を拒んだのだ。

「それはいったいどういうことですか!?」

「拒否したんだよ。だいぶ前だがね」

「どうしてですか!?」

「どうしってって、単に拒否した。ただそれだけだ。村全体としては…… 子どもたちだけ移して、大人は残ったんだ」

「でも、0.7ミリレントゲンで村は退去させられるはずでは……」

「連中は応じなかったんだよ」

 


★1 放射性雲(プルーム)のこと。
☆1 (訳注)30キロゾーン境界にある除染所の名前。
 

セルゲイ・ミールヌイ

1959年生まれ。ハリコフ大学で物理化学を学ぶ。1986年夏、放射能斥候隊長として事故処理作業に参加した。その後、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で環境学を学び、チェルノブイリの後遺症に関して学術的な研究を開始。さらに、自分の経験を広く伝えるため、創作を始めた。代表作にドキュメンタリー小説『事故処理作業員の日記 Живая сила: Дневник ликвидатора』、小説『チェルノブイリの喜劇 Чернобыльская комедия』、中篇『放射能はまだましだ Хуже радиации』など。Sergii Mirnyi名義で英語で出版しているものもある。チェルノブイリに関する啓蒙活動の一環として、旅行会社「チェルノブイリ・ツアー(Chernobyl-TOUR)」のツアープランニングを担当している。

保坂三四郎

1979年秋田県生まれ。ゲンロンのメルマガ『福島第一原発観光地化計画通信』『ゲンロン観光地化メルマガ』『ゲンロン観光通信』にてセルゲイ(セルヒイ)・ミールヌイ『チェルノブイリの勝者』の翻訳を連載。最近の関心は、プロパガンダの進化、歴史的記憶と政治態度、ハイブリッド・情報戦争、場末(辺境)のスナック等。
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