チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記(4)|セルゲイ・ミールヌイ 訳=保坂三四郎
初出:2014年4月1日刊行『福島第一原発観光地化計画通信 vol.10』
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第15話 タバコを始めた理由
我がチームのハンドルことコーリャは文句のつけようのない優秀なドライバーだった。やつと一緒ならどこへ行くにも安心だった。
あるとき我々の80号車装甲車のパワステが故障し、コーリャはキャンプに残って車を修理することになった。一方、ちょうどその時期に多くの運転手が増援として送られてきた。よろしい。新米の運転手をゾーンに連れていってルートを教えてあげようではないか…
──だが出発してからすぐに私はあることに気づいた。この248号車のハンドルを握っているのがとうてい運転手とは呼べるような者ではないと。(偵察隊の優れた運転手は民間出身のプロだったが、それでもこの穴蔵のような席に座り正面のちっちゃな窓と左右の三重ガラス製の間隙だけを頼りに運転するのに慣れてようやく一人前となった…)新米運転手は聞いてもいないのに打ち明ける。「軍隊時代に〈BTR1運転手〉の教習を受けたが、それもとうの昔の話。いまは普通車の免許すら持ってないよ」って。なんてこった…
そいつが今〈飛ぶたがね〉とも呼ばれる重量7トンのBRDMを運転している… 大急ぎでかき集められた自称〈運転手〉はアクセルとブレーキの区別すらおぼつかないのに、おびただしい数の車両でごった返した幹線道を鋭利な刃物のような装甲車に乗って飛ばす… 冗談も休み休みにしてほしい…
原発近くの道で対向から別の装甲車が… なんとかぎりぎりのところですれ違った。
心の中では「今日という日が無事に過ぎますように…」と祈るのみ。
無事に過ぎた。
と思ったのは早計だった。偵察を終えてチェルノブイリの町の十字路まで来たとき、BRDMの缶切りのようにとがった部分が散水車の水色のタンクを引っ搔いて傷つけてしまった… 車を止める。むこうの運転手が車を降り、私たちもハッチから這い出る… よく見ると傷がついたのはタンクではなく、その下のホースをしまっておく細長い金属製引き出し。この程度はここでは日常茶飯事。「なんだ、くだらん」──「溶接すりゃいい」… 「じゃあ、また!」と手を振って別れる…
が、装甲車がぴくりとも動かない。エンジンがかからない。
ぶるん、ぶるんと唸ったかと思うと静かになった。
微動だにしない。
さいわいにして本部はもう目と鼻の先。私は歩いて偵察データを本部に持ち込む。そして本部そばの車両置き場で所属中隊の別の装甲車と行き合わせたので同乗させてもらい、事故現場に戻ってきた。我々が乗っていた第248号は十字路の真ん中にぶざまな格好で止まったまま。
ロープを引っ掛けて、引っ張った拍子にエンジンをかけてみるが… ぶるん、ぶるんといってまた静かに。
車両置き場まで牽引するしかなかった。
装甲車の台数を数え、偵察から全部帰っていることを確認した。
一息つく…
しかしすぐに別の問題が。どうやってゾーンから出るんだ? 故障車両に加えて、こんな運転手もどきと一緒に! これではごまかしきれない…
セルゲイ・ミールヌイ
1959年生まれ。ハリコフ大学で物理化学を学ぶ。1986年夏、放射能斥候隊長として事故処理作業に参加した。その後、ブダペストの中央ヨーロッパ大学で環境学を学び、チェルノブイリの後遺症に関して学術的な研究を開始。さらに、自分の経験を広く伝えるため、創作を始めた。代表作にドキュメンタリー小説『事故処理作業員の日記 Живая сила: Дневник ликвидатора』、小説『チェルノブイリの喜劇 Чернобыльская комедия』、中篇『放射能はまだましだ Хуже радиации』など。Sergii Mirnyi名義で英語で出版しているものもある。チェルノブイリに関する啓蒙活動の一環として、旅行会社「チェルノブイリ・ツアー(Chernobyl-TOUR)」のツアープランニングを担当している。
保坂三四郎
1979年秋田県生まれ。ゲンロンのメルマガ『福島第一原発観光地化計画通信』『ゲンロン観光地化メルマガ』『ゲンロン観光通信』にてセルゲイ(セルヒイ)・ミールヌイ『チェルノブイリの勝者』の翻訳を連載。最近の関心は、プロパガンダの進化、歴史的記憶と政治態度、ハイブリッド・情報戦争、場末(辺境)のスナック等。