チェルノブイリの勝者──放射能偵察小隊長の手記（7）｜セルゲイ・ミールヌイ　訳＝保坂三四郎

第20話　目撃証言

　放射能偵察中隊に不思議な増員が来た……

　増員は増員であることに間違いない。年格好さまざまな10名の男たちが雑嚢を背負って、居心地悪そうにテントのそばに佇んでいる。1986年7月下旬のことだった。もしかしたら8月に入っていたかもしれない。

　不思議なのはこの連中に出された指令の内容だった。

　毎日ちょうど2レントゲンを受けよ、という指令。

　2　レ　ン　ト　ゲ　ン　ぴ　っ　た　り。それも毎日。

　思わず頭を抱える。

　その理由は二つある。

　まず、2レントゲンは1日の被ばく線量限度だった。

　ソ連国防大臣から出された指令であることは間違いない（そのようにささやかれていたが極秘だったので実際にその指令書を見た者はいない）。もし間違って2レントゲンより多く被ばくした場合は上司が叱責の対象となった。もちろん上司はひた隠しにして紙の上で正直に申告することなどなかったが。

　大事なのは超えてはならないということ。でも今回はそれとも違う。ちょうど正確に、毎日、すべての兵士が一律に2レントゲン受けろと……

　第二に、のっけから無理な注文だ。私たちが作業する場所の放射線が2レントゲンより低すぎたり、高すぎたりするということではない。偵察隊員がぴったり2レントゲンを浴びて帰ってくるなど確証を持っていえるはずがない。そもそもそれが可能ならおれたち放射能偵察の仕事など始めから必要ない。そんなことに労力を使うなど──それでなくても厄介なことばかりなのに……

　それにしてもおかしい。

　いったいなんのためだ……？

　30分も経たないうちに真相が明らかになった（キャンプではあっという間に情報が広まる）。

　窮屈そうに一箇所に固まっていた連中（まだ所属小隊に分かれていなかった）にあだ名がついた。

　

モルモット。

　

　連中は実験のためのモルモット。ゾーンに来る前に全員が血液検査を受けた。単なる臨床検査ではなく生化学検査だったので指ではなく血管から採血された。ゾーンに来てからは皆がやるような放射能のゴミ清掃を命じられた。そうして毎日2レントゲンずつ放射線に〈曝露〉される。科学というよりも〈科学屋〉に必要なだけの線量（滞在中の線量限度の25レントゲンを超えることはない）を浴びたら除隊前にもう一度採血して生化学検査を行う。研究テーマは〈1日2レントゲンの恒常被ばくによる男性血液への生化学的影響〉、〈急性被ばくによる……〉などいくらでも考えられる。

　私はチェルノブイリ以前も職業柄、軍の発注者と仕事をしたことがあったので、どんな貪欲な集団がこれら数十人を食いものにしているかをよく知っていた（同じキャンプ内のさまざまな部隊にモルモットがばら撒かれていたことに我々はすでに気づいていた）……　でもどうして〈数十人〉でないとダメなのか？

　よい実験とは、とどのつまり信頼性である。そして、なによりも被験者の数が多ければ多いほどその信頼性は増す……　単純明快だ。

　実際に連中をゾーンの作業に派遣したかどうかは記憶が定かでない。すぐに別のところに連れて行かれたからだ。全てのモルモットはBSOと呼ばれる、部隊で唯一除染に従事する特殊処理部隊に集められた。もっとざっくり言えば、BSOはさまざまな形状や種類の放射能ゴミを掃除するための生きた人間（然るべき機材がないので）を供給する部隊である。いつも班単位で作業するから全員同じ放射線レベルで同じ線量を受ける。だから派遣するのも、線量を管理するのもずっと楽だ。これこそがまさに実験の〈信頼性〉……

　これでこの話はおしまい。

　ちなみに、中隊の誰をどこに派遣するのかを決めていた、私を含む士官数名は安堵に似た気持ちを覚えた。後ろめたいことに手を貸さなくてすんだのだから……

　これで本当におしまい。

　待てよ、ひとつ大事なことを忘れていた。

　もしかしてただの作り話だと思っていないだろうね？

　とんでもない。

　冒頭のタイトルをもういちどよく見てね。

第21話　上等兵Bのキャリア

　人間の記憶とは不思議なもの。多くの良き人々の名前は忘れてしまうのに、ろくでなしの名前だけはしっかりと覚えている。

　とはいえここではフルネームで呼ばずBとしておこう。

　その顔つきや外見は……　単なる人殺しというよりも、毒殺犯の形相と表現した方がぴんとくるかもしれない。

　Bは疑いを呼ぶ何かを持っている……

　Bは作業班長だったこともあり、私は偵察ルート〈冷却池〉に同行させて測定地点を教えた。最後に「分かったか」と尋ねたら、待ってましたとばかりにうなづき「了解」との返事。

　数日経って判明したのは、せっかく教えたことをBが何も覚えていないということだった。毎日、私たちが初日に測ったのとまったく同じデータを持って帰ってきていた。その上、装甲車から外に出るのを怖がりながら上官としては散々威張り散らしていたので、部下の隊員が今にもBに食ってかかりそうだった。救いようのない大馬鹿野郎……

　Bは偵察隊からもお払い箱だった。偵察任務に参加するには運転手や計測係にしろ最低限の頭脳が求められる。作業班長に求められる資質については言うまでもない。

　その後Bが原発作業班に勤めたのかどうかは記憶にないが、一人抜け駆けして管理棟勤務の名誉を得た。管理棟の入り口には必ず計測係がいて、人々が足などについた泥を建物の中に持ち込まないように監視している。チェルノブイリでは多少なりともまともなドアのそばには水を汲んだ平らな容器──農家の普通のトタン桶から厚さ1センチの鉄で溶接された大型バケットまで──が置いてあり、計測係が通してくれないときにはそこで靴を洗った。

　当時、私たちの中隊ではDP-5検知器が不足していて、偵察のときは他の中隊から借りていた。偵察では各班に必ず検知器が必要だが、他の中隊では10名から20名の原発作業班に1台の割り当てだった。

　Bがその名を轟かしたのは、ほぼ半数の検知器が修理待ちで曹長の寝台の下に転がっていたとき、管理棟玄関で数日間にわたり、故障した検知器を使って放射線検査を行ったことだ。検査しているふりをしたのだ。

　通る人々の足に無反応の検知器DP-5のゾンデを突きつけ、自分で決めたルールに従い適当に何人かを選んでは、戻って靴を洗え、と言う。見せかけの脅しのため……　それでも相手が納得しないときは検知器の目盛りをすぐ鼻先まで突きつける。桶で泥まみれになりたい者などいない。

　毅然とした態度の厳しい検査員だと噂された。

　とんでもない才能の持ち主、B。

　私がBのなかに見てとった非人間性は幸いにして本領を発揮することはなかった。生まれてくる時代を間違ったに違いない……

第22話　娘への手紙

キャンプにひとりの男がいる。

ゾーン。

チェルノブイリのゾーン。正確にはゾーンまで5キロのゾーン後方地。

キャンプとはもちろん軍隊の宿営地のこと。

いくつものテント。その列がどこまでも果てしなく続く……

日が沈もうとしている。

地上では人や車がうごめいている。砂ぼこり。

やわらかい土の地面は長靴で石のように踏み固められている……

男は息つく暇のない仕事から一瞬だけ解き放たれた。珍しい光景ではない。

あるのは虚無感。

　

誰に手紙を書こうか。

愛しの女性？──そんな女はいない。

友達？──ここからずいぶん遠いし、経緯をいちいち説明するのも面倒だし……

親？──どんなに注意してもうっかり母さんを怖がらせるようなことを書いてしまうものだ。そんなことしたら余計な心配かけるだけ……

「よし娘に書こう」と男は決めた。

5歳になる娘。

マス目入りノートから見開き2頁分の紙を破る。膝の上に将校鞄を載せ、──固く平らな革が机の代わり──書き始める。

元気かい、娘よ！

マス目にそって丁寧に見やすい大文字で書いてやる。

娘ももう全部習った文字のはず。

──さてどのような書き出しにしたらよいか？　そもそも何から？　相手は子どもだが……　それとも大人に書くようにしたらよいのだろうか……？

そうだ、きっと朝から始めるのがいいだろう。

　　　　　朝、

その後はどう続けようか？

　　　　　　　私たちは

──私たち以外に誰もいないが……

何かの答えを探すように辺りをぐるっと見回した。

ありふれたもの。テント、本部、食堂、便所バラック、汚染装甲車が所狭しと並ぶ整備場……

毎日のサイクル。起床―便所―軍隊風の〈食事摂取〉―打合せ―装甲車乗車―ゾーン―放射線測定―帰還―装甲車降車―給油―〈食事摂取〉―ミーティング―便所―消灯。睡眠。寝不足……

太陽が砂上の地平線にあと一息で沈む。紫色の闇が森、茂み、そして周囲の刈り残された草むらから這うように拡がっていく。夕暮れ……　そして夜明け。夕暮れ。そしてまた夜明けが来る。ふたたび仕事。〈私たちは〉で始めよう。

　　　私たちは朝早く起きます。

コツをつかみ、テンポよく続ける。子どもにも分かるように大きなブロック体の文字、平易な言葉。

夢中になるあまり、ここではマイホームのような愛着を感じる、あの絵を描き始めた。

　　　　　　　　　こんな感じなんだ

側面から見ると間隔をおいて二つの丸タイヤが付いている。タイヤに載っているのはボートのような車体。その上に潰れた半球状の砲台。

少し考えてから、車両と同じ長さの弓状に湾曲したアンテナを描き加えた。森で枝に引っ掛からないように車体に括りつけている。

　　　　　　　　装甲車というんだ

「なかなかの出来映え」　描いた本人は満足げ。エンジン音ときたら、ご主人様に仕える忠実なペットの鳴き声のよう。まさにこのエンジンの調子に命運がかかっている。偵察ルートに特殊鋼の装甲車とそれに乗る3匹の生物だけが取り残されれば、他に頼れるものはない……

1日の出来事を頭で順に追いながら、男は流れるように筆を進めた。大きなブロック体の文字、子どもにも分かる言葉で書いていく。そのせいだろう、無邪気で短い一文一文に込められたありふれた事実が文字にした途端に目の前で神話のように展開する！　アイスランド・サガの主人公たちは天に達するほどの背丈で、手で火山を鎮火したという。普段は目だ立たない存在だったのに信じられないほど強靭な精神と肉体を持っていたのだ……

　

男は背伸びをして、何かを悟ったような笑みを浮かべた。

数分前と何も変わらないキャンプ、そこにある物や人々に目を向ける。

男は微笑みながらさりげなく周囲を見渡し、夕日を見た。

すっかり悦に入っている。

「おい、おい、やってくれるじゃないか！」横で眠っていたと思っていた仲間が、背中越しに手紙を覗き込んで言った。「〈朝、私たちは早朝に起きます〉だって……　ひどい文章だな」

男は腹も立てずに親しみ込めて仲間の肩を軽く叩いた。「おまえも年をとれば分かるさ」と言うと、そのまま修正せずに筆圧の皺のついた紙をたたむと、ほくそ笑みながら封筒に入れて封をした。

住所を書く。

切手は要らない。ソ連では軍隊で手紙を出したり受け取ったりするのは無料だからだ。

真新しい角型封筒を手に、行進練習場があるキャンプの大通り（居住用のテント。向かいに本部、食堂などがある）に向かって歩く。

あと少しで日が暮れる。

地面に埋め込まれた木の柱に箱が打ち付けられている。

箱の表には〈手紙用〉と書かれている。

男の持っていた封筒は差出し口に吸い込まれるように落ちていった。

　

だが我が娘がこの手紙を受け取ることは永遠になかった。

　

というのも、子どものようにうっかりして手紙の中で：

（！）ゾーンでの部隊の活動に触れた

（！！）軍装品のスケッチまで添付してしまった（！！）（もうずっと前から公然の秘密となっているが）。

そして手紙は届かなかった。

　

私がゾーンで書いた唯一の手紙は文字通り

消えてしまった

　

──しかし大事なのは、あんな状況でも手紙を書く相手がいてくれたことではないだろうか。

　それ以外の事情は、自分には関係ないことだ。

第23話　ママからの手紙

  四つ折に畳まれた紙の裏には斜め書きでこう加えられていた。  

第24話　脱走

脱走（ラテン語　desertor）──軍人（訓練または動員による
兵役義務者）が故意に無断で所属部隊または勤務地を離れること。
……ソ連の法律では最も重い軍事犯罪のひとつ。
軍事百科事典
モスクワ：軍事出版、1986年。225頁。

　ゾーンの人影のない道を放射能偵察の装甲車が疾走する。切れ目の入った剃刀のような緑の7トンの車体が風を切る音を立てながら……

　解き放った矢のようなスピード。

　

　このまま突っ切ったらどうなるだろう？　除染所も一つ、二つとかわし、さらに線量測定所、軍や警察の検問も突破してどんどん突き進み、ずっと遠くまで……

　突っ走る車、顔を打ちつける風の向こうには懐かしの故郷！

　最初はキエフの方角を目指すが、途中で故郷の方向にハンドルを切る……

　時速100キロ以上のスピードで分厚い装甲が風を切る。爽快！

　もう誰も私たちを止められない。大砲の照準を合わせるようなことでもしなければ、〈飛ぶたがね〉を路上で止められる者などいやしない。警官も我々の前では無力だろう……

　しばらく経ってキャンプではいなくなった者に気がつくだろうが……　そのときにはもう2、3の検問を突破している頃さ。

　その先は道路封鎖が待っている……　そこで待ち構えているのは装甲輸送車。トラックやバスだと装甲車が難なく吹っ飛ばしてしまうから……　でもそうしたらこっちは予備車輪を出して水陸両用機能をフルに活かして小丘や窪地を通って封鎖を迂回する……　装甲車は水上を走行しながら、岸を前に立ち尽くす追っ手を嘲り笑う。真面目な顔つきでハッチから身を乗り出した私は任務遂行中といわんばかりに車内に指示を伝える。岸の連中は目にも入らぬ……

　支流の小川の淵まで来て、オーバーヒート状態のエンジンを休める。作業服を脱ぎ捨て真っ裸になり、日焼けのない真っ白な体でひんやりした水に浸かる……　ここはもうポルタワ州。川の水はとても軟らかい……　水滴の垂れる体のまま太陽の下で体を温める……

　あとはゆっくり村と村の間の未舗装の道路、人工林に沿って木立まばらな草原を進み、立ち寄った村の商店で娑婆の食料を調達する。我が家がだんだんと近くなってくる……　戦闘時そのままの姿での帰省だ……

　しかし妄想はこれ以上続かない。

　ガソリンが足りないのだ。装甲車はべらぼうに燃費が悪い。

　

　放射能偵察隊の装甲車両は放射能汚染されたゾーンを機敏に動き回る。

　その隊員の任務は既定ルートの放射線測定である。

第25話　「非常事態」

　朝、キャンプから幹線道路に出ると右折しチェルノブイリ市に向かう。半分寝ぼけたまま装甲車のハッチに潜り込んだが（もうひと眠りする権利がある）、いつもとは何かが違う、と意識のそこでささやく声が聞こえる……

　チェルノブイリ市で任務指令を受け、原発に向かう幹線道路を進む。もう目は覚めていた。ふと路上を見れば普段より車はまばら。

　だが深く考える暇もなく原発近くまで来た。幹線道路から外れて、見慣れた放射能のジャングルへと入っていく……　偵察ルートの一歩外は無の世界同然。眺める余裕もない。

　仕事が終われば気分一転。はしゃいで時速100キロまでアクセルを踏む込む。

　なんていい日……　100キロ出せるし……

車はほとんどない。こっちにも、対向車線にも。

　いつもは数秒ごとにグォーン！　とかグルル！　という炸裂音とともに通り過ぎる数トン級の大型車両。

　今日はその音もほとんどしないし、対向車線はシーンと静まりかえっている。

　いったいどうしたっていうんだ。原発の作業が中断しているのか。

　もしや原発で爆発？　そうだったら線量に表れるはず。今日の測定結果は普段とまったく変わらない……

　それともゾーンの外で大事件が起こったのか？　みんな仕事を放り出して逃げたのに、何も知らぬ放射能偵察隊だけ間抜けにもゾーンをうろついている……

　外の世界ではいったい何が。

　まさか核戦争勃発！！？

　ここでは我々は無知同然。外から入ってくる情報といったら、便所に紙の代わりに置かれた皺くちゃの軍機関誌〈ソビエト兵〉、あるいは、たまに無線でキャッチするラジオ放送〈アメリカの声〉の断片くらい……

　外の世界ではいったい何が！！？

　

　──外の世界ではこの日は―

　日曜日。

　お休み。