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    亡霊建築論(5) ブロツキーとウトキンの建築博物館、あるいは建築の墓所|本田晃子

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    初出:2019年12月27日刊行『ゲンロンβ44』

    はじめに


     毎年大晦日になると、ロシアでは必ずTV放映される映画がある。エリダール・リャザーノフ監督の『運命の皮肉、あるいはいい湯を』(1975年)だ。物語の主人公は、モスクワに住む青年ジェーニャ。彼は友人たちと年越しのためにサウナ(ロシア語でいうところのバーニャ)に行き、そこでしこたま飲んで泥酔する。ここまではよくある話だが、その後、前後不覚となったジェーニャは、なぜか飛行機に乗って、レニングラード(現サンクト・ぺテルスブルク)に到着してしまう。そしてそれと気づかないまま、彼はタクシーの運転手に自分の住む通りと番地を告げる。タクシーが到着したのは、モスクワにあるのと全く同じ名前の通り、全く同じ外観の集合住宅だった。ジェーニャは自宅に戻ってきたと思い込んだまま、その一画にある部屋に入り、間もなく寝入ってしまう。それからしばらくして、この部屋に本来の住人であるナージャが戻ってくる。彼女は自分の部屋にいる見知らぬ男に驚き、もちろん追い出そうとする。しかしそこから紆余曲折をへて、結局二人は互いに愛し合うようになるのだった。

     別の都市にある住居を自分の住まいと勘違いしてしまうというプロットは、一見荒唐無稽に見えるかもしれない。だが当時のソ連の状況を考えると、必ずしもそうとはいえない。1960年代から70年代にかけてのソ連の都市では、昔ながらの入り組んだ石畳の街路は広いアスファルトの道路へと整備され、それらには全国一律の名前――レーニン通り、革命通り、五月通り――が付けられていった。さらに革命前から存在する低層集合住宅や戸建住宅は取り壊され、規格化された高層集合住宅によって置き換えられていった。その結果、住人たちですら容易に迷子になってしまうような都市が、ソ連全土に出現したのである。そしてそのような都市では、家はもはや住人にとって存在の拠り所となるような、唯一無二の場所ではなくなる。それはモスクワにあってもレニングラードにあっても大差ない、流動的で交換可能な空間となるのだ。

     住宅から商店や映画館まであらゆる建物が規格化され、カタログから商品を選ぶように建設可能となったこのソ連の大量建設時代――そこで不要の存在となったのが、皮肉にも、建築家たちに他ならなかった。『運命の皮肉』が製作された1970年代には、建築家の仕事は設計することではなく、設計書に署名することだ、といったジョークが語られるようになっていた。このような状況から1980年代のソ連建築界に登場したのが、意識的にアンビルトを目指した、一群の若手建築家たちだった。彼らは、1920年代のアヴァンギャルド建築を批判・侮辱するために用いられた「ペーパー・アーキテクチャー(紙上建築)」という呼び名を敢えて自分たちの運動に用い、建てることを前提としない建築の「イメージ」を描き出していった。

     しかし、そもそもなぜ彼らはこのような、いわば建築家にとっての一種の自己否定ともいえる道を選んだのだろうか。そして彼らは自らの作品を通じて、同時代の都市とどのような批評的関係を結ぼうとしたのだろうか。今回はこのペーパー・アーキテクチャー運動の中心にいた二人組の建築家、アレクサンドル・ブロツキーとイリヤ・ウトキンの作品を中心に、ソ連が停滞から解体へと向かう時期に出現した、この奇妙な運動について考えていきたい。

    1 「停滞の時代」の子どもたち


     ブロツキーとウトキンは、共に1955年にモスクワで生まれる。時代はおりしもスターリンの死(1953年)からフルシチョフによるスターリン批判(1956年)へと大きく揺れ動いていた。建築の領域においても、スターリン時代の装飾過剰でメガロマニアなスタイルは否定され、一転して合理性と経済性が重視されるようになった。それに対して彼らが10代を過ごした1960−70年代は、フルシチョフの「雪解け」の時代からブレジネフの「停滞」の時代へと、再び極端な揺り戻しが生じた時期だった。ブレジネフ政権の厳しい言論統制によって、当時ソ連のアンダーグラウンドで活動していたアーティストたちは、国外に亡命するか、あるいはより地中深く潜るかの選択を迫られた。しかし建築の分野では深刻な言論弾圧は行われず、むしろこの時期には、短期的ではあるが、ユートピアへの情熱が再燃する。

     たとえば、モスクワ建築大学の学生が組織したグループ「新しい居住素 Новый Элемент Расселения」(以下NER)は、生物をモデルとする可変的な都市像を描き出した。イギリスのアーキグラムや日本のメタボリズムとほぼ同時期に、鉄のカーテンの向こう側のソ連でも、同じような未来都市が構想されていたのである。そしてこのNERのメンバーがモスクワ建築大学で教鞭をとるようになると、その教え子たちの世代から次第に変化の兆しがあらわれはじめる。NERのリーダーの一人イリヤ・レジャワは、自身の指導する学生たちに、自由に創造力を発揮することのできる国外の建築コンペティションへ参加することを勧めた。この彼の助言から生まれたのが、ブロツキーやウトキンら、ペーパー・アーキテクトたちに他ならない。

     とはいえ、海外との通信や海外渡航が厳しく制限されている状況下で、若い無名のソ連建築家たちが参加できるコンペは限られていた。建築家自身が海外へ渡航してプレゼンを行う必要があるコンペは、もちろん論外だった。設計図や模型を海外に送付することすら、当局から妨害される可能性があった。そこで彼らは、作品を友人知人に託してコンペの開催国に運んでもらい、そこで直接作品を投稿してもらう、という戦略をとる。もちろん巨大な模型の輸送は不可能だ。依頼できるのは、せいぜい数枚の図面のみ。このような厳しい条件ゆえに、彼らの参加できるコンペは、建設を前提とせず、一枚の図面でコンセプトを競うタイプのものに限られた。

     けれども、結果的にはこれが有利に働いた。西側世界の建築教育では既に時代遅れとなりつつあった、デッサンなどの表現力を高める訓練を嫌というほど受けてきたソ連建築家たちの作品は、海外では新鮮な驚きとともに受け入れられた。こうしてブロツキーとウトキン、ミハイル・ベロフ(1956年生まれ)、ユーリ・アヴァクーモフ(1957年生まれ)、ミハイル・フィリッポフ(1954年生まれ)ら「停滞」の時代の子どもたちは、日本の建築雑誌『新建築』やセントラル硝子株式会社、ユネスコなどが主催する国際競技で、次々に入賞を果たしていったのである。

     とはいえ、海外でどれほど高く評価されようと、ソ連建築界では彼らは依然として無名の存在に過ぎなかった。そんな彼らに、1984年、転機が訪れる。西側のコンペで入賞したペーパー・アーキテクトたちの作品を、モスクワで一堂に集めて展示する「ペーパー・アーキテクチャー展」が企画されたのである。ただしその実現までの道のりは、決して平坦ではなかった。というのも、ソ連最大の建築家団体である全ソ建築家同盟がこの企画に反対し、展示会場の提供を拒んだからだ。開催は絶望的に思われた。だがそこでペーパー・アーキテクトたちの窮地を救ったのが、雑誌『青春 Юность』の編集部だった。リベラルな傾向で知られる同誌は、急遽自社オフィスを展覧会会場として提供し、これによって展覧会は無事開催された。そしてこの会場で行われた、新しい時代の建築のあり方をめぐる自由で白熱した議論が、やがて停滞したソ連建築界に風穴を開けることになったのである。

    本田晃子

    1979年岡山県岡山市生まれ。1998年、早稲田大学教育学部へ入学。2002年、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学表象文化論分野へ進学。2011年、同博士課程において博士号取得。日本学術振興会特別研究員、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター非常勤研究員、日露青年交流センター若手研究者等フェローシップなどを経て、現在は岡山大学社会文化科学研究科准教授。著書に『天体建築論 レオニドフとソ連邦の紙上建築時代』、『都市を上映せよ ソ連映画が築いたスターリニズムの建築空間』(いずれも東京大学出版会)など。
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