言葉のままならなさに向き合う──一義性の時代の文学にむけて(後篇)|矢野利裕

初出:2021年6月25日刊行『ゲンロンβ62』
矢野利裕さんによる〈一義性の時代〉をめぐる特別記事の後篇をお送りします。
前号掲載の前篇(https://webgenron.com/articles/gb061_06/)では、言葉が文脈から切り離されて解釈される〈一義性の時代〉に、はたして多義性を擁護する文学者の態度は有効なのかが議論されました。矢野さんは国語科の教員を務める立場から、「文学を一義的な契約書のように読もうとしている」と批判を浴びた新学習指導要領にも、自閉症スペクトラムの生徒への「合理的配慮」に則った進歩的な面があると指摘します。
文脈を重視しない一義的な読解のほうが多様な他者へと開かれる〈一義性の時代〉に、文学はどのようにありえるのか。後篇では実際に現代の文学作品を読みながら、さらに探求を深めます。(編集部)
前号掲載の前篇(https://webgenron.com/articles/gb061_06/)では、言葉が文脈から切り離されて解釈される〈一義性の時代〉に、はたして多義性を擁護する文学者の態度は有効なのかが議論されました。矢野さんは国語科の教員を務める立場から、「文学を一義的な契約書のように読もうとしている」と批判を浴びた新学習指導要領にも、自閉症スペクトラムの生徒への「合理的配慮」に則った進歩的な面があると指摘します。
文脈を重視しない一義的な読解のほうが多様な他者へと開かれる〈一義性の時代〉に、文学はどのようにありえるのか。後篇では実際に現代の文学作品を読みながら、さらに探求を深めます。(編集部)
文学的な多義性の困難
実際、中高一貫校の国語科教員という立場から現場主義的に考えたとき、文学の多義性を言いつのる類の言説は、エリート主義的で閉鎖的に映らなくもない。もう一度、前篇で紹介した阿部公彦の言葉を見てみよう。
複雑なことを表現しているテクストはしばしば多義的に書かれています。テクストが「異読」を誘発するようにして出来ているということです。それがテクストの中でいろんな意味が拮抗しているということの意味です。「これだけが正解だ!」という決めつけは、そういう場合、有効ではありません。むしろ、いかに異なる読みが生じうるかを一望の下にするような読みこそが必要になる。言うまでもなく文学作品はこうした読みの練習には最適ですが、別に文学にこだわる必要はありません。大事なのは、たとえ「正しい読み」にたどりついたと思ったときにも、あえて「別の読み」を想像するということです。[★1]
間違っていることを言っているとは思わない。「多義的」で「複雑」な表現であることは、小説の魅力の大きなひとつである。しかし、これをそのまま科目としての「国語」に適用しようとする姿勢には、安易さを覚えてしまう。阿部は、「『人間というのはわからないものだ』『謎に満ちている』『いったい何をするかわかりゃしない』という状況を、言語的な『感動』として体験させる。これこそが国語という科目の芯となるべき理念ではないでしょうか」と述べるが、これは、新学習指導要領批判が先立ちすぎてはいないだろうか。
そもそも、正解主義的な性格を強くもつ国語教育に対して文学の多義性をもって対抗する、という身振り自体、すでにひとつの型として出来あがっている。それは、今回の教育改革をめぐる議論以前からしばしば見聞きするものであり、今回も、その批判のパターンが、あらためて「論理国語」「現代の国語」に対して適用されている。歌人の俵万智による「契約書が読めることとは違う色どりや潤いが、言葉にはあるんだよということを、子どもたちには知ってほしい」という主張も、そのヴァリエーションと言えるだろう[★2]。
このような文学観や世界観についてとりわけ反対する気持ちもないのだが、国語教育との関連で考えたとき、ここには、現に国語の授業で成績を付けなければならない、というリアリティが抜け落ちていると感じる。解釈の多様性や小説の自由を謳いつつも、実際は教員主導の読解を押し付けるような不誠実さは、いちばん避けなければならないものだ。文学の自由を謳っておいて、その「自由」がしょせん教員の求めている〈正解〉の枠内だと見透かされてしまったら、そっちのほうがよほど、文学の自由さに対する不信を生む可能性がある。個人的には、教育の本領はむしろ、そのような矛盾や葛藤のさきにこそ存在すると思っている。正解主義的な授業を引き受けつつ、各々が抱く文学の喜びや世界の不思議さを伝えることは可能だし、多くの人がその身をもっておこなっていることだ(その具体的な実践については、ここでは措く)。
文学の現代性を重視する本稿において批判的に問い直したいのは、このような多義性を根拠に文学を擁護しようとする態度である。解釈の多様性を擁護する態度と言い換えても良い。前篇でも述べたように、多義性の擁護それ自体が人によっては過剰な負担とされてしまう、という社会的な視線があるからだ。自閉症者に限らない。ポリティカル・コレクトネスの意識が高まった現在においては、言葉の多義性を言うことがむしろ特権的な物言いとして欺瞞的に響く、ということを理解しなければならない。
このような言葉をめぐる特権性は、例えば、フェミニズムなどの社会運動におけるトーンポリシングをめぐる議論などとも通ずる。その意味でこのたびの教育改革には、マイノリティ運動が一般化してきた時代との同時代性を見出すこともできる。社会学者の富永京子は、「社会的に弱い立場になればなるほど、勉強の機会が与えられなかったり、理論立てて説明できないがゆえに、整理された言葉が使えず、過激な表現を使わざるをえない」と指摘したうえで、トーンポリシングについて次のように説明する。
現代においては、文脈を読むことも「わかりやすく説明すること」同様、限られた人の「スキル」として捉えられる。スマホの画面から離れ、活字の本を読むことに慣れ親しむ環境自体が、文化資本の高さとともにあると考えられる。「合理的配慮」的な発想からすれば、前後の文脈が読まれにくい、SNS的な言葉の流通を前提にしたうえで、個々人の言語運用の仕方を考えることが求められる。それは、「文脈を読んで言外の意味を察知できるようになりましょう」ということではなくて、「可能な限り一義的な文章を読める/書けるようになりましょう」ということだ。
だとすれば、新学習指導要領的な言葉のありかたのほうこそ、《一義性の時代》を見すえた現代的なものだと言わざるをえない。一連の教育改革に否定的な筆者であっても、いや否定的な立場だからこそ、少なくとも文学の多義性によって新学習指導要領を批判するのは、クリティカルではないと思える。《一義性の時代》においては、非-文学的すなわち多義的でないことが求められている。そこが出発点だ。
筆者がいらだちを覚えるのは、文学とされるものが、リベラル的な「他者」への寛容さを謳っているように見えながら、実際は同時代の社会とそこに生きる「他者」に対して鈍感で、狭いサークルの言葉を弄しているように映るからだ。一連の教育改革論議をめぐっては、反-正解主義的な立場としての多義性擁護が頻繁に見受けられたが、意地悪く言えば、それ自体、時代状況や教育現場という具体的な文脈が抜け落ちたまま、一義的に浮遊し続ける言葉に見える。
では、そんな《一義性の時代》において、文学はどのようなものとして考えられるのか。言葉が表面的な意味だけを抱えて拡散される時代に、文学はどのように対応しうるのか。中等教育の現場に身を置いている筆者からすれば、多義的であることがそのまま良いこととは、素朴には思えない。むしろ、多義性が目的化していくなかで、文芸誌を主戦場とする文学は、結果、スモールサークル化しているのではないか。少なくとも、ごく単純な事実として、教育の現場に耐えうる現代文学は少ないと感じている。
文学の現代性を重視する本稿において批判的に問い直したいのは、このような多義性を根拠に文学を擁護しようとする態度である。解釈の多様性を擁護する態度と言い換えても良い。前篇でも述べたように、多義性の擁護それ自体が人によっては過剰な負担とされてしまう、という社会的な視線があるからだ。自閉症者に限らない。ポリティカル・コレクトネスの意識が高まった現在においては、言葉の多義性を言うことがむしろ特権的な物言いとして欺瞞的に響く、ということを理解しなければならない。
このような言葉をめぐる特権性は、例えば、フェミニズムなどの社会運動におけるトーンポリシングをめぐる議論などとも通ずる。その意味でこのたびの教育改革には、マイノリティ運動が一般化してきた時代との同時代性を見出すこともできる。社会学者の富永京子は、「社会的に弱い立場になればなるほど、勉強の機会が与えられなかったり、理論立てて説明できないがゆえに、整理された言葉が使えず、過激な表現を使わざるをえない」と指摘したうえで、トーンポリシングについて次のように説明する。
わかりやすく説明することそのものが、ある種すごく限られた人、今の社会で「賢い」と評価される人のスキルなんです。だからそれをだれにも等しく求めることが、ある人にとってはすごく差別的に感じられてしまう。[★3]
現代においては、文脈を読むことも「わかりやすく説明すること」同様、限られた人の「スキル」として捉えられる。スマホの画面から離れ、活字の本を読むことに慣れ親しむ環境自体が、文化資本の高さとともにあると考えられる。「合理的配慮」的な発想からすれば、前後の文脈が読まれにくい、SNS的な言葉の流通を前提にしたうえで、個々人の言語運用の仕方を考えることが求められる。それは、「文脈を読んで言外の意味を察知できるようになりましょう」ということではなくて、「可能な限り一義的な文章を読める/書けるようになりましょう」ということだ。
だとすれば、新学習指導要領的な言葉のありかたのほうこそ、《一義性の時代》を見すえた現代的なものだと言わざるをえない。一連の教育改革に否定的な筆者であっても、いや否定的な立場だからこそ、少なくとも文学の多義性によって新学習指導要領を批判するのは、クリティカルではないと思える。《一義性の時代》においては、非-文学的すなわち多義的でないことが求められている。そこが出発点だ。
筆者がいらだちを覚えるのは、文学とされるものが、リベラル的な「他者」への寛容さを謳っているように見えながら、実際は同時代の社会とそこに生きる「他者」に対して鈍感で、狭いサークルの言葉を弄しているように映るからだ。一連の教育改革論議をめぐっては、反-正解主義的な立場としての多義性擁護が頻繁に見受けられたが、意地悪く言えば、それ自体、時代状況や教育現場という具体的な文脈が抜け落ちたまま、一義的に浮遊し続ける言葉に見える。
では、そんな《一義性の時代》において、文学はどのようなものとして考えられるのか。言葉が表面的な意味だけを抱えて拡散される時代に、文学はどのように対応しうるのか。中等教育の現場に身を置いている筆者からすれば、多義的であることがそのまま良いこととは、素朴には思えない。むしろ、多義性が目的化していくなかで、文芸誌を主戦場とする文学は、結果、スモールサークル化しているのではないか。少なくとも、ごく単純な事実として、教育の現場に耐えうる現代文学は少ないと感じている。
もちろん、中高生に広く読まれるような作品を目指す必要などない、というエリート主義的な立場もありうるだろう。前衛主義的な立場と言い換えてもかまわない。文芸関係者に自分の職業について話すと、しばしば「(教員を)いつ辞めるんですか?」と、悪意なく聞かれる。大学で働きたいのに我慢して中高教員をしている、とでも思われているのだろうか。意地悪に翻訳すると、「あなただって中高生を相手にしていないで、本当は文学をやりたいんでしょう」ということか。そのような発言を聞くと、文芸業界が無意識に抱えるエリート主義をかいま見た気になるが、別にそれはそれでひとつの立場だとは思う。
しかし、個人的には、中高生のような存在と小説をつなぐ回路を作るほうに意義を感じるタチなので、エリート主義的な立場は取らない。ましてや、多義的な文学の魅力を主張することが、発達障害傾向の者に対する配慮に欠けると指摘されるとき、とくにリベラル的な立場を主張する文学は、エリート主義的にこれを突っぱねられるだろうか。
文学の閉鎖性に対する批判と言うと、これはいかにも手垢のついたものである。しかし、現代においてその閉鎖性は、かつてのような理念の問題にとどまらない。解釈の多様性それ自体が、ある種の人に対して過剰負担だったりハラスメントだったりに受け取られる。こういった時代精神のようなものが、ツイッター上で頻繁に見かける「もっと分かりやすく」といった要求を支えている気がする。筆者はむしろ、現代に生きる者として、そのような要求にある程度は向き合いたいと考えている。
ところで、ここまで《一義性/多義性》という言葉を使ってきたが、突き詰めて考えると、それほど単純に区分できるものでもない。《一義性/多義性》という問題について国語教育に触れるかたちで言及したものとしては、千葉雅也「文学が契約書になり、契約書が文学になる」(『文学界』2019年9月号)がある。
千葉は、現在言われているような「多義性」はせいぜい「平均的生活世界での言語運用」を前提としたものである、という立場を採っている。したがって、安藤宏や阿部公彦に代表されるような文学側が擁護する「従来の国語教育」は、千葉からすれば「多義性ベースで準-一義性を目指す」ものに過ぎないのだ、ということになる。だとすれば、文学における多義性とは結局のところ、良識の範囲内にとどまる。それは、解釈の多様性を言う教員が、実際のところ〈正解〉の枠を設定していることと同型だ。
そもそも、テクストに対する千葉の認識は次のようなものである。
このような認識のうえで、千葉は「テクストが行為から引き離されると、意味はどんどん拡散するようになる」と指摘する。「一義」性という言葉の使いかたが本稿と異なるが、問題意識としては重なる部分が大きい。
しかし、個人的には、中高生のような存在と小説をつなぐ回路を作るほうに意義を感じるタチなので、エリート主義的な立場は取らない。ましてや、多義的な文学の魅力を主張することが、発達障害傾向の者に対する配慮に欠けると指摘されるとき、とくにリベラル的な立場を主張する文学は、エリート主義的にこれを突っぱねられるだろうか。
文学の閉鎖性に対する批判と言うと、これはいかにも手垢のついたものである。しかし、現代においてその閉鎖性は、かつてのような理念の問題にとどまらない。解釈の多様性それ自体が、ある種の人に対して過剰負担だったりハラスメントだったりに受け取られる。こういった時代精神のようなものが、ツイッター上で頻繁に見かける「もっと分かりやすく」といった要求を支えている気がする。筆者はむしろ、現代に生きる者として、そのような要求にある程度は向き合いたいと考えている。
ところで、ここまで《一義性/多義性》という言葉を使ってきたが、突き詰めて考えると、それほど単純に区分できるものでもない。《一義性/多義性》という問題について国語教育に触れるかたちで言及したものとしては、千葉雅也「文学が契約書になり、契約書が文学になる」(『文学界』2019年9月号)がある。
千葉は、現在言われているような「多義性」はせいぜい「平均的生活世界での言語運用」を前提としたものである、という立場を採っている。したがって、安藤宏や阿部公彦に代表されるような文学側が擁護する「従来の国語教育」は、千葉からすれば「多義性ベースで準-一義性を目指す」ものに過ぎないのだ、ということになる。だとすれば、文学における多義性とは結局のところ、良識の範囲内にとどまる。それは、解釈の多様性を言う教員が、実際のところ〈正解〉の枠を設定していることと同型だ。
そもそも、テクストに対する千葉の認識は次のようなものである。
テクストの意味は多義的であらざるをえないのだから、それが一義化される=「言いたいこと化」される原因はテクストの外にある。テクストの外から来る「制約」が、テクストに「力」をかけて意味を絞り込む。その制約、力とは、身体的なものだと言えるだろう(私はそう考えており、現在それを研究している)。[★4]
このような認識のうえで、千葉は「テクストが行為から引き離されると、意味はどんどん拡散するようになる」と指摘する。「一義」性という言葉の使いかたが本稿と異なるが、問題意識としては重なる部分が大きい。
千葉がここで言う「一義化」とは、文脈を参照することで言葉の意味が収束することを指す。それに対して本稿で議論してきた《一義性》とは、文脈の切断が起こりやすい(=「テクストの外から来る『制約』」がかかりにくい)現代において、発話者個人にしか根拠がないような言葉が氾濫する、という事態だった。これはむしろ、千葉が同論で「字義通り性のアナーキズム」と呼んでいたものに近い。
社会的な約束事に基づいた文脈が共有されないので、どんなに単純な言葉の運用に思えたとしても、お互いになかなか伝わらない。というか、伝わっているのか伝わっていないのかすらも判別できない。心を込めたつもりの言葉がハラスメントとして機能する。ハラスメントにしか思えない言葉に居直られる。許されない行為はあるだろう。単なる誤解もあるだろう。しかし、それを判定するにあたって、言葉の問題が良くも悪くも大きく介入してくる。暴力的かそうでないかの判別自体が難しくなる。そこに現代という時代の厄介さがある。政治家の答弁から日々のコミュニケーションまでを貫くそのような事態こそ、現代の言葉をめぐる生々しい感触だ。
現代において向き合うべきは、このような言葉の厄介なありかたである。その意味で、「論理国語」的な実用文にこそ「一字一句の狂気に触れる」可能性がある、とする千葉の論は、本稿の立場からすれば現代的な言葉のありようを見すえた態度と言える。文学的な言葉などは想定されない。どんな言葉であっても、表面的な意味のみが好き勝手に拡散されるのが《一義性の時代》の言葉のありかただ。
常識的な言語運用すらもままならない国会答弁。立法趣旨が共有されない法律運用。あるいは、些細な言葉に対して揚げ足を取り合うような労使交渉。好き勝手に解釈されるツイッターの言葉。それら、SNSから対面までをも貫く日常的な「他者」とのやりとり。筆者のリアリティからすると、一見単純としか思えない言葉のやりとりのなかでこそ、意味ははてしなく拡散し、言葉はそのままならなさを発揮する。本稿で最後に問いたいのは、解釈の多様性を擁護する類の文学観は、はたしてそのようなリアリティを掴んでいるだろうか、ということだ。
《一義性の時代》の文学とは、社会的な文脈が共有されず、誰もが簡単に意味を決定できず、一義的な言葉が浮遊している時代の文学のことである。筆者の考えでは、いくつかの現代文学は、そのような《一義性の時代》の言葉のリアリティを捉えようとしている。2010年代の文学シーンは、《一義性の時代》の文学として一部捉え直すことができる。以下、代表的なものを示す。
まず本稿の立場から無視できない傾向としては、近年の日本の小説には自閉症傾向の人物がしばしば登場する、ということがある。もっとも、文学研究者の中沢忠之が「自閉症的な主体といえば、ゼロ年代の文学を席巻したモードですね」と指摘するように[★5]、そのような傾向は、西尾維新らファウスト系の作家や中原昌也、町田康らの作品にも見られた。とはいえ、2010年代の作品がそれらと異なるのは、そのような人物を取り巻く社会的な関係性である。
先駆的な存在として挙げられるのは、今村夏子だろう。今村は、デビュー作の「こちらあみ子」(2010年)から芥川賞を受賞した『むらさきのスカートの女』(2019年)にいたるまで、ユニークな人物を描き続けているが、そこではほぼ一貫して、作中人物たちの自閉症傾向が指摘されている。例えば、書評家の瀧井朝世は、「こちらあみ子」について次のように述べる。
社会的な約束事に基づいた文脈が共有されないので、どんなに単純な言葉の運用に思えたとしても、お互いになかなか伝わらない。というか、伝わっているのか伝わっていないのかすらも判別できない。心を込めたつもりの言葉がハラスメントとして機能する。ハラスメントにしか思えない言葉に居直られる。許されない行為はあるだろう。単なる誤解もあるだろう。しかし、それを判定するにあたって、言葉の問題が良くも悪くも大きく介入してくる。暴力的かそうでないかの判別自体が難しくなる。そこに現代という時代の厄介さがある。政治家の答弁から日々のコミュニケーションまでを貫くそのような事態こそ、現代の言葉をめぐる生々しい感触だ。
現代において向き合うべきは、このような言葉の厄介なありかたである。その意味で、「論理国語」的な実用文にこそ「一字一句の狂気に触れる」可能性がある、とする千葉の論は、本稿の立場からすれば現代的な言葉のありようを見すえた態度と言える。文学的な言葉などは想定されない。どんな言葉であっても、表面的な意味のみが好き勝手に拡散されるのが《一義性の時代》の言葉のありかただ。
常識的な言語運用すらもままならない国会答弁。立法趣旨が共有されない法律運用。あるいは、些細な言葉に対して揚げ足を取り合うような労使交渉。好き勝手に解釈されるツイッターの言葉。それら、SNSから対面までをも貫く日常的な「他者」とのやりとり。筆者のリアリティからすると、一見単純としか思えない言葉のやりとりのなかでこそ、意味ははてしなく拡散し、言葉はそのままならなさを発揮する。本稿で最後に問いたいのは、解釈の多様性を擁護する類の文学観は、はたしてそのようなリアリティを掴んでいるだろうか、ということだ。
《一義性の時代》の文学へ
《一義性の時代》の文学とは、社会的な文脈が共有されず、誰もが簡単に意味を決定できず、一義的な言葉が浮遊している時代の文学のことである。筆者の考えでは、いくつかの現代文学は、そのような《一義性の時代》の言葉のリアリティを捉えようとしている。2010年代の文学シーンは、《一義性の時代》の文学として一部捉え直すことができる。以下、代表的なものを示す。
まず本稿の立場から無視できない傾向としては、近年の日本の小説には自閉症傾向の人物がしばしば登場する、ということがある。もっとも、文学研究者の中沢忠之が「自閉症的な主体といえば、ゼロ年代の文学を席巻したモードですね」と指摘するように[★5]、そのような傾向は、西尾維新らファウスト系の作家や中原昌也、町田康らの作品にも見られた。とはいえ、2010年代の作品がそれらと異なるのは、そのような人物を取り巻く社会的な関係性である。
先駆的な存在として挙げられるのは、今村夏子だろう。今村は、デビュー作の「こちらあみ子」(2010年)から芥川賞を受賞した『むらさきのスカートの女』(2019年)にいたるまで、ユニークな人物を描き続けているが、そこではほぼ一貫して、作中人物たちの自閉症傾向が指摘されている。例えば、書評家の瀧井朝世は、「こちらあみ子」について次のように述べる。
また、彼女が何かの医学的な問題を抱えているのか明らかにされない点も秀逸だ。もし例えば発達障害とのラベルを貼られていたら、発達障害以外の読み手は自分とは違う人の話だと思ってしまうかもしれない。そうではなくカテゴライズを避けたことによって、読み手はあみ子に寄り添っていける。[★6]
引用部の瀧井は、「発達障害」というラベルが貼られていないことを評価しているが、「保健室で寝て過ごしたり図書館でマンガを読んだり」といったように、学校運営上、あみ子に「授業には参加せずに独自の方法で下校までの時間を潰すこと」が許されている、という点を考えれば、事実上、あみ子にはなにかしらの診断が下っている、それゆえに「合理的配慮」がされている、と考えるべきだろう。
同様の人物造型は、2020年の話題作である、宇佐見りん『推し、燃ゆ』にも指摘できる。『推し、燃ゆ』は、これまで言語化されてこなかったアイドルファンにおける「推す」というありかたを見事に小説化した作品だが、その主人公もまた、「保健室で病院の受診を勧められ、ふたつほど診断名がついた」というかたちで、発達障害のことが示唆されている。
これらの作品が描くのは、現代的な言葉のままならなさである。「こちらあみ子」も『推し、燃ゆ』も、自閉症傾向のある人物を通して、文脈が切断されたまま言葉が浮遊していく状況を描いている。「こちらあみ子」において、あみ子の兄があみ子に対して、カエルの比喩で親子関係について説明するもなかなか伝わらない場面などは、コノテーションが機能しておらず、したがって比喩やアイロニーが理解されない《一義性の時代》のリアリティを感じさせる。あるいは『推し、燃ゆ』において、やるせない怒りを表明する姉に対して「あたし」が、「わけがわからなかった。庇う基準も、苛立つ基準もわからない」と語る場面なども、難しい言葉を使っているわけではないにもかかわらず、お互いのコミュニケーションがどうしもようもなく断絶している様子を描いている。
同傾向の作品としては、村田沙耶香『コンビニ人間』(2016年)も無視できない。竹中均は、「世界の部品になることができたのだった」と語る『コンビニ人間』の主人公・古倉恵子のありかたを自閉症者に重ねていた[★7]。とくに、男子のけんかを止めようとした恵子が、暴れる男子の頭をスコップで殴り、先生に「止めろと言われたから、一番早そうな方法で止めました」と応える場面には、「平均的生活世界での言語使用の限定という条件」(千葉雅也)が共有できない、すなわち《一義性の時代》の言語運用をする恵子の姿を見ることができる。
さらに言えば、『コンビニ人間』では、コンビニのアルバイトとして、マニュアル的に「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と反復する恵子が印象深く描かれているが、精神分析学の松本卓也によれば、このような「特定の意味と一対一対応したカードを切っているかのように使われ」る「コンビニ言葉」は、自閉症の子どもが使う言葉に近いという。松本は、次のように述べる。
たとえば、「こちら温めましょうか?」「ありがとうございました、またお越しくださいませ」などの、いわゆる「コンビニ言葉」は、他の組み合わせ(分節化)をすることができない、ひとかたまりの言葉(定型文)として発せられているし、それを聞くお客さんの側も、そのようなものとして理解してはいないだろうか。[★8]
このように『コンビニ人間』とは、《一義性の時代》を生きる恵子が、その言語運用という点において、周囲と断絶する様子が描かれている。だとすれば、コンビニで活き活きと働く最後の場面は、「特定の意味と一対一対応したカードを切っている」かのような《一義性の時代》を活写していると言える。その意味で『コンビニ人間』もまた、「こちらあみ子」『推し、燃ゆ』と同様、現代的な言葉のありかたに向き合ったものである。2010年代、自閉症的な人物を登場させるという小説の傾向があるとすれば、それは、《一義性の時代》における言葉のありかたを描くなかで要請されたものだ。
一方、「契約書が文学になる」という千葉雅也的な観点からしたら、例えば、青木淳悟の小説もまた、別の側面から《一義性の時代》の言葉のありかたと共振している。千葉は次のように述べている。
例えば、東京を舞台にした青木の短編集『このあいだ東京でね』(2009年)などは、住宅情報、新聞、広告といった、一義的で奥行きのない実用の言葉から、ラディカルな小説世界を立ち上げている。批評家の古谷利裕は、『このあいだ東京でね』について、「『東京』についての様々なレベルの情報によって形作られている」と指摘したうえで、次のように述べている。
本稿の問題意識からすると、引用部で強調される「情報」という言葉に対して、新学習指導要領の文言を連想する。
文学研究者の紅野謙介は、新学習指導要領における「テクスト(情報)」という言葉を問題視しながら、「『情報』という言葉を選んだことによって、複数の意味が単一化される危険性を残しています」と指摘する[★11]。紅野は、「テクスト」という多義性を見すえているはずの言葉に「情報」という《一義性》を想起させる言葉が付随していることを疑問視しているわけだ。ここにも、多義的な文学の言葉と一義的な実用の言葉を対比させる図式が見出せる。
一方、「契約書が文学になる」という千葉雅也的な観点からしたら、例えば、青木淳悟の小説もまた、別の側面から《一義性の時代》の言葉のありかたと共振している。千葉は次のように述べている。
プロの研究者は、文学を契約書のように読んでいる。だが、そこには、契約書つまり法的テクストは本来的に多義性へと炸裂するものなのだという認識が伴っている。一字一句という即物性において、文学が契約書になり、契約書が文学になる。この「生成変化」は双方向である。[★9]
例えば、東京を舞台にした青木の短編集『このあいだ東京でね』(2009年)などは、住宅情報、新聞、広告といった、一義的で奥行きのない実用の言葉から、ラディカルな小説世界を立ち上げている。批評家の古谷利裕は、『このあいだ東京でね』について、「『東京』についての様々なレベルの情報によって形作られている」と指摘したうえで、次のように述べている。
それは、官庁が発表しているような公式的なものもあれば、風評のような非公式のものもあるし、広告などから得られる不動産情報もあれば、購入のための融資に関わるシビアな条件にまつわる情報もあり、地図や古地図からの情報、土地の歴史やステイタス、あるいはイメージに関わることもある。いずれにしても、ここに書かれている内容は、いわばすべて「情報」ではなく、この作家の固有の経験や記憶とも、そしておそらく、関心とさえ、ほとんど関係がない。[★10]
本稿の問題意識からすると、引用部で強調される「情報」という言葉に対して、新学習指導要領の文言を連想する。
文学研究者の紅野謙介は、新学習指導要領における「テクスト(情報)」という言葉を問題視しながら、「『情報』という言葉を選んだことによって、複数の意味が単一化される危険性を残しています」と指摘する[★11]。紅野は、「テクスト」という多義性を見すえているはずの言葉に「情報」という《一義性》を想起させる言葉が付随していることを疑問視しているわけだ。ここにも、多義的な文学の言葉と一義的な実用の言葉を対比させる図式が見出せる。
しかし、千葉雅也が指摘していたように、「契約書つまり法的テクストは本来的に多義性へと炸裂する」。だとすれば、実用的=「情報」=《一義性》=非-文学的といった紅野の認識は、やや単純だろう。記号としての言葉はいかようにも引用可能であり、ゆえに解釈の闘争にさらされることになる。SNSの登場以降と言っていいのか、社会的な共通前提が急速に困難となった現代においてはむしろ、言葉が前後関係や文脈を振りほどき、過度に「情報」化していき、各々の利害関係に応じて意味が際限なく暴走する。このような事態こそがリアルである。
青木を早くから評価していた小説家の保坂和志は、青木の小説に対して「現前性の感触」を指摘している[★12]。そのような「現前性の感触」は、奥行きを失って表面的な意味を抱えたまま浮遊する現代の言葉のありかたに通ずる。青木の小説は、言葉の意味はわかっているはずなのにちっとも理解ができない。しかし、まさにそのような感触によって、《一義性の時代》の厄介な言葉のありかたを捉えている。それは、今村夏子の小説において、主人公たちが周囲とコミュニケーションできないことと同様の厄介さをはらむ。今村の小説が物語内容の水準で言葉のままならなさを表現しているとすれば、青木の小説は、作品の表現そのものが言葉のままならなさを体現している。それは、従来言われるところの文学的な多義性以上に、アナーキーな言葉の性質を示している。
ここまで別々の側面から、《一義性の時代》と共振する小説を紹介したが、最後は、教育に携わる筆者が、実際に中高生になにを読ませることができるか、という点から現代の文学について考えたい。エリート主義的ではない《一義性の時代》の文学のかたちとは、どのようなものか。現代に生きる者として、機能的な面から考えたい。
これまでであれば、ある程度の解釈の多様性に開かれつつも、文脈と前後関係によって「準-一義性」(千葉雅也)に絞り込めるような作品こそ、文学作品としてすぐれている、と素朴に言えた。明言を避けることで奥行きがもたらされつつ、ある程度の統一的な作品世界が見出される文学が大事だった。国語教育の発想から考えるなら、そのような作品においては、それっぽい箇所に傍線を引いて「傍線部はなにを表していますか」式の問いも出しやすい。しかし、そのような作品は、前後の文脈を読むことが求められる以上、一部の読者にとって過剰負担になる可能性がある、というのが本稿の問題とするところだった。
青木を早くから評価していた小説家の保坂和志は、青木の小説に対して「現前性の感触」を指摘している[★12]。そのような「現前性の感触」は、奥行きを失って表面的な意味を抱えたまま浮遊する現代の言葉のありかたに通ずる。青木の小説は、言葉の意味はわかっているはずなのにちっとも理解ができない。しかし、まさにそのような感触によって、《一義性の時代》の厄介な言葉のありかたを捉えている。それは、今村夏子の小説において、主人公たちが周囲とコミュニケーションできないことと同様の厄介さをはらむ。今村の小説が物語内容の水準で言葉のままならなさを表現しているとすれば、青木の小説は、作品の表現そのものが言葉のままならなさを体現している。それは、従来言われるところの文学的な多義性以上に、アナーキーな言葉の性質を示している。
ここまで別々の側面から、《一義性の時代》と共振する小説を紹介したが、最後は、教育に携わる筆者が、実際に中高生になにを読ませることができるか、という点から現代の文学について考えたい。エリート主義的ではない《一義性の時代》の文学のかたちとは、どのようなものか。現代に生きる者として、機能的な面から考えたい。
これまでであれば、ある程度の解釈の多様性に開かれつつも、文脈と前後関係によって「準-一義性」(千葉雅也)に絞り込めるような作品こそ、文学作品としてすぐれている、と素朴に言えた。明言を避けることで奥行きがもたらされつつ、ある程度の統一的な作品世界が見出される文学が大事だった。国語教育の発想から考えるなら、そのような作品においては、それっぽい箇所に傍線を引いて「傍線部はなにを表していますか」式の問いも出しやすい。しかし、そのような作品は、前後の文脈を読むことが求められる以上、一部の読者にとって過剰負担になる可能性がある、というのが本稿の問題とするところだった。
《一義性の時代》は、文脈や前提を共有することがままならない時代である。「文脈を踏まえてくれ」というこれまでならば通っていた要求が通りづらくなっているのが現代である。だとすれば、求められることはふたつだろう。ひとつは、文脈や前提を共有できる場をあらためてセッティングすること。もうひとつは、過度な文脈共有を期待しないこと。どちらが良いということでもないし、どちらも必要なことだが、本稿においては後者の方向性について考えている。
それは、言葉と意味とが一対一で結びついていて、幅広い解釈を許さないような、そんな文学には耐えがたき野暮に向き合うような作品を求める、ということを意味する。本稿で紹介してきた作品も含め、現代を代表する文学の多くは、このような条件にはあまり当てはまらない。しかし、筆者がいまリアリティを感じるのは、そんな耐えがたき野暮ったさをもった小説のかたちである。だとすれば、わたしたちは、すぐれた文学のイメージを想定し直す必要があるのではないか。
竹中均は、自閉症者に対する教室空間のありかたについて、「空間と使い道を一対一対応で(一義的に)固定させる」「構造化」という手法を紹介しているが[★13]、この発想は小説に対しても当てはまるだろう。《一義性の時代》の文学において大事なことは、竹中の言葉を借りれば、「多義的で曖昧な世界を、一義的で明解な見通しが利く世界へ組み立て直すこと」ではないか。すなわち、主題を明確にした《物語》の復権である。
日本の文芸批評の領域では長らく、反-物語的なありかたによって社会的な前提を批判していくことが主流だった。しかし、いま起こっている問題はむしろ、社会的な前提がどこからも調達されないことである。だとすれば、明確な《物語》によって、社会的な前提を再設定することが重要である。このことは、またあらためて考えたい。
現時点ではさしあたり、《一義性の時代》においては、物語構造が明確であることが重要だと感じている。個人的には、西加奈子、温又柔、木村友祐、鴻池留衣、綿矢りさといった物語作家たちの作品を《一義性の時代》の文学として捉えたいと思っている。
くり返すが、中等教育に携わる筆者は、現代という野暮な時代との向き合いを拒否するほどのエリート主義者でもなければ、高踏派でも前衛主義者でもない。特権的な文学であること以上に、ポピュラー文化の一部として小説が存在することを歓迎する立場である。もし、文学が実用文への対抗をおこなうのであれば、《一義性の時代》の厄介な言葉を見すえるところから出発しなければならない。
それは、言葉と意味とが一対一で結びついていて、幅広い解釈を許さないような、そんな文学には耐えがたき野暮に向き合うような作品を求める、ということを意味する。本稿で紹介してきた作品も含め、現代を代表する文学の多くは、このような条件にはあまり当てはまらない。しかし、筆者がいまリアリティを感じるのは、そんな耐えがたき野暮ったさをもった小説のかたちである。だとすれば、わたしたちは、すぐれた文学のイメージを想定し直す必要があるのではないか。
竹中均は、自閉症者に対する教室空間のありかたについて、「空間と使い道を一対一対応で(一義的に)固定させる」「構造化」という手法を紹介しているが[★13]、この発想は小説に対しても当てはまるだろう。《一義性の時代》の文学において大事なことは、竹中の言葉を借りれば、「多義的で曖昧な世界を、一義的で明解な見通しが利く世界へ組み立て直すこと」ではないか。すなわち、主題を明確にした《物語》の復権である。
日本の文芸批評の領域では長らく、反-物語的なありかたによって社会的な前提を批判していくことが主流だった。しかし、いま起こっている問題はむしろ、社会的な前提がどこからも調達されないことである。だとすれば、明確な《物語》によって、社会的な前提を再設定することが重要である。このことは、またあらためて考えたい。
現時点ではさしあたり、《一義性の時代》においては、物語構造が明確であることが重要だと感じている。個人的には、西加奈子、温又柔、木村友祐、鴻池留衣、綿矢りさといった物語作家たちの作品を《一義性の時代》の文学として捉えたいと思っている。
くり返すが、中等教育に携わる筆者は、現代という野暮な時代との向き合いを拒否するほどのエリート主義者でもなければ、高踏派でも前衛主義者でもない。特権的な文学であること以上に、ポピュラー文化の一部として小説が存在することを歓迎する立場である。もし、文学が実用文への対抗をおこなうのであれば、《一義性の時代》の厄介な言葉を見すえるところから出発しなければならない。
★1 阿部公彦「『読解力が危機だ!』論が迷走するのはなぜか?」、『現代思想』2019年5月号、151頁。
★2 俵万智「言葉の豊かさに触れること」、『文学界』2019年9月号、61頁。
★3 富永京子『みんなの「わがまま」入門』左右社、2019年、132頁-133頁。
★4 千葉雅也「文学が契約書になり、契約書が文学になる」、『文学界』2019年9月号、45頁。
★5 中沢忠之「2020年上半期芥川賞雑感(3)」、「感情レヴュー」、2020年7月4日。URL= https://sz9.hatenadiary.org/entry/2020/07/04/181123
★6 瀧井朝世「あみ子の世界がふたたび」、「webちくま」2014年7月1日。URL= http://www.webchikuma.jp/articles/-/845
★7 竹中均『「自閉症」の時代』講談社現代新書、2020年。
★8 髙瀨堅吉、野尻英一、松本卓也編著『〈自閉症学〉のすすめ――オーティズム・スタディーズの時代』、ミネルヴァ書房、2019年、38頁。傍点原文。
★9 千葉雅也、前掲論文、48頁。
★10 古谷利裕『人はある日とつぜん小説家になる』、青土社、2009年、176頁。
★11 紅野謙介、『国語教育の危機――大学入学共通テストと新学習指導要領』、ちくま新書、2018年。電子版より引用。
★12 保坂和志『小説の自由』、新潮社、2005年、252頁。
★13 髙瀨堅吉、野尻英一、松本卓也編著『〈自閉症学〉のすすめ』。


矢野利裕
1983年生まれ。批評家、DJ、イラスト。文芸批評・音楽批評など。著書に『コミックソングがJ-POPを作った』(Pヴァイン)、『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)、『SMAPは終わらない』(垣内出版)。共著に『ジャニ研! Twenty Twenty』(原書房)など。



