The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉

現代日本を理解しようとすれば、宇多丸がかつて言ったように「ヒップホップが似合う国」になったという言葉から始めるほかないように思われる[★1]。日本社会がヒップホップ化している?どういうことだろうか。
私は最近、『日本語ラップ──繰り返し首を縦に振ること』という著作のなかで、日本語ラップと日本社会の関係をめぐり、以下の経緯を指摘した[★2]。戦後、経済成長を続け、1968年の全共闘の時代を経て大衆消費社会へとなだれ込んだ日本社会には、「中流幻想」が成立した。これは本来、左翼からすれば欺瞞的な論理であるはずだ(階級闘争の無効を宣言するものなのだから)。けれども80年代はポストモダンの大衆消費社会だった。「「中流幻想」の左翼的肯定」(大塚英志)の論理があらわれたことで、「中流幻想」はむしろ強化されることになった。いわば、日本は平等に豊かで平和で人種的軋轢もない社会だ、ということになったわけである。
いま考えてみると皮肉なことである。当時、日本ではポストモダニズムが流行しており、「差異」というキーワードが盛んに唱えられていた。その「差異」が意味するところは、結局、資本主義における商品間の「差異」に切り詰められてしまい、むしろ強烈な社会の均質化に帰結したのだ。
その後、この「中流幻想」は、主にふたつの側面から攻撃されることになった。ひとつには、左翼的な論理から。上記のような「差異」概念の切り詰めを批判し、「差異」の思考を徹底し、均質的な「中流幻想」を食い破ろうとする方向の批判が生じてきた。これは90年代に、「ポストコロニアリズム」や「カルチュラル・スタディーズ」が隆盛し、「ナショナリズム批判」が批評のキーワードになったことなどにあらわれている。また、もうひとつ別のルートからも「中流幻想」は切り崩されていった。左翼ではなく、反対の右翼側から、「ネオリベラリズム」と呼ばれるイデオロギーを通して、体制側が自らの手で、この金のかかる中流社会と縁を切ろうとし始めたのである。ネオリベラリズムの出現に対して、旧来のリベラルはむしろ戦後民主主義の保守を唱えることで対抗しようとしてきた。しかしそれでは議論が逆戻りするだけである。
右傾化に抗おうとして、左翼の側が保守になる。こうしたジレンマは、いまも続いている。たとえば、かつて全共闘は戦後民主主義をこそ批判したが、90年代には右派の側から、新しい歴史教科書をつくる会などの戦後民主主義批判があらわれてきた。だからといってそのとき左派が、戦後民主主義の保守をみずからの立場とすることはできないだろう。
右と左の双方向から進められた「中流幻想」の切り崩しのリアリティのなかで、日本語ラップは「ストリート」を発見した。ゼロ年代のことである。
ヒップホップ化する日本社会
日本におけるネオリベラリズム政策の推進者として、2001年から2006年にかけて内閣総理大臣を務めた、小泉純一郎の名が挙げられる。彼は「構造改革」をスローガンに掲げた。その政治家の動向を、同時代のストリートも正面から受け止めていた。日本におけるストリート・ヒップホップの先駆者であるMSCが発表したのが、まさに「構造改革」(2002年)という曲だった。
ストリートという下層は、上層の政治や経済における決定の影響がダイレクトに顕現してくるトポスなのである。彼らのフッドである新宿のストリートを生々しく描いた曲「新宿U.G.A.」(2003年)のなかで、漢a.k.a. GAMIはこうラップしている。
新宿西側 下向き歩くサラリーマン
お前らも訳ありか? 後ろ姿が寂しげだ
不景気リストラ いつ上司が手の平返すか分からない
逃げ出したいこの状況[★3]
それまでならば、彼らストリートの裏社会に生きるラッパーと、真面目に生きてきたサラリーマンに接点などなかったはずである。しかしネオリベラリズム時代、「中流幻想」を支えていた終身雇用制が切り崩され、サラリーマンたちは「リストラ」に怯えるようになった。そのような歴史の局面では、サラリーマンさえ、ストリート的な論理に飲み込まれてしまう。漢はこうも言う。「綺麗事に頼る挙句落胆」してしまう厳しい現代なのだから、「時には手を汚し掴む金そんなのもありさ」。そう歌って、サラリーマンにこの時代をサヴァイブするよう勇気づけるのだ。
このようなストリートにおけるリアリティの表現をさらに推し進めたのが、ゼロ年代後半に「ハスラー・ラップ」というスタイルを採り入れたSCARSだった。かつて、そのメンバーであるSEEDAのハスラー・ラップを、ライターの磯部涼が「フリーター階級の象徴」だと言い表したことがある[★4]。もはや現代において、ストリートに生きる者もストリートの外の社会に生きる者も区別なくネオリベラリズムの論理に支配されるようになっている。ハスラーはフリーターのような存在で、フリーターはハスラーのような存在なのである。
SEEDAはSCARS「HOMIE HOMIE (REMIX) feat. SWANKY SWIPE」(2006年)で、彼のストリートの「ホーミー」(仲間)たちをこう歌っている。
Tokyo my cru is International.
Deeper than 留学生ボンボン
腹空かしてる奴ばかりhustling抜けれずgrinding
African, Jamaican, Chinese, or Canadian
国や肌の色よりもなすこと 人としてみてつるむ
That’s how I walked
どんなレッテル貼られたって関係無い
1 on 1 same as drug dealer’s way[★5]
俺の仲間たちはインターナショナルだ。そいつらは、ボンボンの留学生は知らないような奥深い東京のストリートで、身を粉にしてハスリングしている。さまざまな人種の違いがあっても、ひとりの人間として付き合うのが俺のやり方、レイシズムなんてナンセンスだ。レッテルなんて関係ない。だってそうだろう、ドラッグ・ディーラーのやり方っていうのは、相手がどんな人種の客でも関係なく「1 on 1」できちんと扱うものなんだから。SEEDAは軽やかにそう言ってみせる。
ここには、社会の上層で進む経済的なグローバル化が、下層のストリートでは多人種的、あるいはマルチチュード的な連帯に反転するという事態が描かれている。それはひとつの美しい抵抗のありかただった。──私がこのように書くのは、ひとびとが「ストリート・カルチャー」と、どこか高揚した息遣いで口にするときに、かつてこうしたリアリティが存在していたのだということを伝えたいからである。
同時に、宇多丸が「日本社会のヒップホップ化」として指摘したように、それまでヒップホップが特権的に扱ってきたはずのストリートの論理は、しだいに社会全体へと拡散していった。ストリートではつねに前景化していたマイノリティや貧困をめぐる問題が、もはや覆い隠すことができない現実として日本社会に噴出するようになった。苛烈なミソジニーやレイシズム、拝金主義が吹き荒れ、政治家たちの悪しき素行がさまざまに見られるようになった。
社会全体がストリートの「自然状態」(ホッブズ)に退行したかのようである。ストリートという例外的で局所的な場所でのみ見られたものが、いまや社会の至る所で前景化している。
ストリートの転倒
2025年3月に「覚醒前夜 ─Deep, State of Mind─」という曲のMVがYouTubeにアップされた[★6]。投稿者はYOS─MAG。概要欄には「# 立花孝志 # 財務省解体デモ # deepstate」というタグが付いている。歌詞を見ると「海外カネばら撒きまた炎上/怒りが止まらん国民の現状/あ? なんでチャイニーズ優遇?/日本で生きる日本人が窮屈」などとある。2025年の参院選で躍進した参政党の掲げる「日本人ファースト」と同様の問題意識から、ラップを通して声を上げているようだ。
リベラルたちはすぐさまこの曲の排外主義を批判した。だが、興味深いのは、このMVの概要欄にこう記されていることだ。
かつての黒人のHIPHOPがそうであった様に
今、日本のHIPHOPも声を上げる時である。
SPIKE LEE, PUBLIC ENEMY, KRS ONE, NAS, N.W. A, MALCOM X, Martin Luther King Jr. キングギドラ、狂気の桜など数々の作品,アーティスト,活動家から
HIPHOPは社会を変革させる事の出来るアートだと言う事に感銘を受けた当時のヘッズは
今、自国の危機にHIPHOPの持つ力を行使して民衆に呼び掛けるようになった。
RESPECT TO ALL HIPHOP PIONEERS[★7]
奇妙なことに、YOS─MAGは排外主義的なリリックを歌っているにもかかわらず、同時に、アメリカの反レイシズムの闘争を推し進めた偉大な「HIPHOP PIONEERS」たちにリスペクトを捧げている。いかなる整合性において、彼の反レイシズム闘争への尊敬と排外主義的な振る舞いは両立しうるのだろうか。
MVを見ると、ストリートでプラカードを掲げるデモのひとびとの様子がスタイリッシュに映されている。それはおそらく、パブリック・エナミー(PE)の「Fight The Power」のMV──最も偉大なヒップホップMVのひとつ──へのオマージュである。しかし、スパイク・リーが監督したPEのMVが、黒人運動の歴史を継承した反レイシズム運動のなかに「ヒップホップ的民衆」のデモが生成される場面をとらえてみせたのに対して、「覚醒前夜」のMVに映し出されるプラカードには「ザイム真理教から国民よ目を覚せ!」などという陰謀論的な文言が書かれているのだ。
また、そもそもサブタイトルの「Deep, State of Mind」はおそらく、ナズの「N.Y. State of Mind」を下敷きにしたものだろう。だが、ナズの曲が過酷なゲットーの人民が抱かざるをえないマインドを活写したものである一方、YOS─MAGはそれを陰謀論の主張に塗り変えているのだから、ジョークだとしても質が悪いだろう。
たしかに、次のように指摘することはできる。ヒップホップは反レイシズムの音楽だが、同時に、そのブラック・ナショナリズム的な心性(これは「黒人ファースト」と呼ぶべきだろうか?)によって他民族との軋轢が生まれることもあった。たとえば、PEもメンバーのプロフェッサー・グリフがユダヤ人差別発言をして炎上し、グループを脱退している。N・W・Aのアイス・キューブは、ロス暴動の政治性を最もレペゼンした存在だったが、彼は同時に、韓国系コミュニティへの差別やミソジニーを批判されていた。このようにヒップホップ・コミュニティは、レイシズムについて一枚岩とは言えない複雑な歴史を抱えてきた。
とはいえ言うまでもなく、それらは人種的/性的マイノリティのコミュニティ間での軋轢であり、「覚醒前夜」はマジョリティからマイノリティへ向けられた排外主義なのだから、到底同一視できるものではない。そして実は、これは何ら新しい事態ではない。
先に引用したMVの概要文で、YOS─MAGは「HIP HOP PIONEERS」として、日本のものでは「キングギドラ、狂気の桜」のふたつを例外的に挙げている。後者は2002年の映画『凶気の桜』のことだろう。ストリートの若者が右翼団体を立ち上げる話で、主演が窪塚洋介、主題歌がキングギドラ「ジェネレーションネクスト」だった。『凶気の桜』は、ゼロ年代前半に広く議論された〈日本語ラップの右傾化〉の兆候を示す例として、いつも議題に上がる作品である。どうやらYOS─MAGは当時のこうした日本語ラップの空気を吸って育った人物であるようだ。
日本語ラップの右傾化についての議論はすでに多く繰り返されてきたので、ここでは最低限、次のことを指摘しておけば十分だろう。日本語ラップの担い手たちは、ヒップホップを通して知ったブラック・ナショナリズムを、日本における日本人である自分たちに当てはめた結果、単なるナショナリストになってしまった。このねじれの原因は、端的に、アメリカにおけるマイノリティが実践するヒップホップと、日本におけるマジョリティが実践する日本語ラップとの違いを自覚していない点に求められる。
だが日本語ラップ史的な議論では、そのような右傾化は、ゼロ年代に、MSCやSCARSが登場し、「ストリート」が発見され、日本語ラップの主体が「マルチチュード化」されていったことで乗り越えられたとされている。本当にそうだとすれば、それから約20年後に、「覚醒前夜」がある程度のリアリティを伴って受け入れられてしまったという事態は、時代の退行や巻き戻しを示しているということになるのだろうか。つまりいま、ストリートの転倒が生じているのだろうか。
反革命という問題
参政党が、「政治はロックだ!」をはじめ、さまざまなカウンターカルチャーを簒奪していることはすでに指摘されている。ストリート・カルチャーも例外ではないようだ。彼らは、ストリートからの支持も取り付けようとしているようで、たとえばトー横界隈やホストクラブなどから応援を受けている様子がSNS上で見られた。このような参政党のストリートへのすり寄りはいかなるものとしてとらえられるだろうか。
リベラルによる参政党への批判は、事態を十分に理解できていないように思われる。たとえば、「現代では左右の対立がもはや機能しなくなった」と言われる。ほとんどのひとはそれを、左派的なものが無効になった、という意味に短絡して理解している。だがそれが真に意味しているのは、保守とリベラルの対立/対話が止揚されてよりよいものが出てくるはずだという弁証法的、戦後民主主義的、進歩史観的な現状理解が無効になっているということなのである。
これまでリベラルは、選挙を、保守である与党・自民党と、立憲民主党をはじめとするリベラルな野党たちのあいだの対立としてとらえてきた。そしてこの対立関係を地道に持続させることで、日本の社会や政治は改善していくはずだと考えていた。だが、参政党の躍進が示したのは、むしろ反弁証法的な現実である。左右の対立からよりよいものが登場することはなかった。左右が対立しているあいだに、より愚劣なものが登場したのである。
これは、パオロ・ヴィルノが言うところの「反革命」の問題を考慮に入れなければ、理解できない問題だろう[★8]。ヴィルノは、ひとびとが陥りがちな次の思い違いを戒める。右派は伝統や秩序の保守を望むものだとひとびとは思い込んでいる。だが、ひとことに同じ右派と言っても、「保守」と「反革命」というふたつはまったく異質なものである。保守とは異なり、反革命はいつも新しい相貌で登場し、次々と既成の秩序を破壊し、支配の新様式を作り上げていく、動的で革新的なものである。そして彼らはただそうするだけではなく、先行する革命や抵抗を模倣し、それに耐性をつけ、換骨奪胎するかたちで、自らを実現するのである。それゆえ反革命は、たしかに革命に似ているのだが、革命とは反対方向に進むものを実現する。
日本維新の会にしろ、参政党にしろ、彼らは「新しいもの」として登場してくる。革新者という仮面をつけているが、その内実は反動的である。リベラルは保守に対抗して反与党という線で争っているが、そのあいだに、反革命が勢力を伸ばしているというのが、昨今の選挙をめぐる状況ではないか。
こうした事態もまた、何ら目新しいものではないだろう。有名なところでは、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で明確に分析したところのものである[★9]。冒頭の有名な、「歴史は繰り返す」というあの一節に示されているように、ここでマルクスは反復の問題をこそ思考しようとしたのだった。あるいは言い換えれば、ヘーゲルが考えた弁証法的なものの反対として、マルクスは政治における「反復的なもの」の存在を指摘したのである。
話の大まかな筋はこうである。革命的な流れに乗って、共和制が実現したかに見えたフランスにおいて、なぜまったくの愚物と思われていたルイ・ボナパルトが民衆の支持を得て、クーデターを成功させ、帝政を復古し、共和制を終わらせるに至ったのか。それまでフランスの政治は進歩していると思われたが、突如まったくの退行を余儀なくされた。この事態は、「進歩」という枠組みでは理解しえないものであった。だから政治には「反復」という枠組みでしかとらえられないような現実があるのだとマルクスは思考した。
柄谷行人は、これを「表象/代表representation」の問題だとしている[★10]。一般に、議会制民主主義における政党は、特定の層(労働者、ブルジョアジー等々)の利害を代表するものとされている。だが、ブリュメール18日において見出されるのは、「代表するもの」(政党)と「代表されるもの」(階級)のあいだの亀裂である。実は両者は必然的な結びつきなど持っていなかったのだ。だからこそ、何ものも代表しないがゆえにすべてを代表しうるルイ・ボナパルトがあらわれたのである。
人間は理性的ではないので、自らの利益が代弁されるよりも、他者に隷属することを欲望する場合がある。またリベラルは、自らを弱者を「代表するもの」だと思っているが、現実には、彼らが思う通りに弱者=「代表されるもの」が付いてきてくれるとは限らない。ここに政治における「表象/代表」のジレンマがある。
その意味で、リベラルからの理性的な批判は参政党支持者には届きえない。リベラルな諸政党は自らを「代表するもの」だと考えているが、参政党支持者は自分がリベラル政党に「代表されるもの」であるとは思っていないからだ。そして、リベラルは「進歩」を掲げるが、政治の現実を支配しているのは「反復」の論理である。「反復」の論理は、現在、反革命的な勢力だけのものになっている。それを左派の手に取り戻すことこそが必要なのだ。
それゆえ、政治を見るときには、「リベラル/保守」の対立だけを思考するのでは不十分である。「革命/反革命」という対もまた同じように視野に入れなければ、現状をとらえることはできない。こうした観点から近現代史を見るならば、時代の流れは、リベラルと保守のどちらが優勢であったかというその時期ごとの勢力図の変遷よりも、1968年の革命に対する絶えざる反革命の進行という色合いの方が重要であることがわかる。言うまでもなく、その反革命こそが「ネオリベラリズム」と呼ばれるものの正体である。
絓秀実が現代を「1968年」の「勝利」の時代だと言っているのも、このことを指している[★11]。革命の理念は実現する、ただし反革命的に。68年に登場したマイノリティ運動は「ポリティカル・コレクトネス」によって実現した。ただしそれは体制派が推し進めるものだった。工場労働や終身雇用制の退屈への反乱は実現した。ただしそれは労働の不安定化や非正規雇用というかたちをとった。女性の家庭からの解放は実現した。ただし彼女たちは資本主義社会に閉じ込められた。大学解体は実現した。ただしそれは学生消費者主義というかたちで……。これはまさしく政治における「誤配」(東浩紀)の問題である。
マルクスの箴言を言い換えるなら、「歴史は反復する、一度目は革命的に、二度目は反革命的に」ということになるだろう。反革命は、一見すると、抵抗や革命に似ている。しかしどこかが決定的に違う。たしかに似ているが、明らかにフェイクである。昨今の政治状況を眺めるに、たびたび出くわすのはこの感覚ではないだろうか。
これは、かつてポストモダニズム時代に盛んに叫ばれた「シミュラクル」の論理の実現だとでも言えばいいのだろうか。そこでは、「オリジナル(真)/コピー(偽)」の二項対立を脱構築する手法として、シミュラクルの運動に期待が寄せられていた。
「オリジナル/コピー/シミュラクル」というかつての図式では、もはや反革命への抵抗は不可能である。むしろ現代の課題は、革命と反革命のあいだの類似と差異を見極めることにほかならないのではないか。似ているがどこかが決定的に違うということが問題となる時代においては、「リアル(高貴)/フェイク(卑賎)」の選別こそが、重要な課題として浮かび上がってくるのではないか。つまり、リアルな革命とフェイクな反革命を見分けなければならない。これはきわめてヒップホップ的な問いである。
ストリートは手に負えない
進歩と反復。それぞれの視座から、大衆はいかなる存在としてとらえられるだろうか。進歩の観点から思考するとき、右派ならば、大衆には道徳や愛国心が足りないと考え、それを教え込もうとするだろう。左派ならば、大衆には知識やリテラシーが足りていないと考え、啓蒙しようと考える。
反復の観点からはどうだろうか。私は『日本語ラップ』のなかで、ストリートにあらわれる「ヒップホップ的民衆」は、「反復=肯定」する存在であると書いた。その民衆は、「中性的」(ブランショ)で、「手に負えない」(ファブ・5・フレディ)のだ。
そのことの意味を掘り下げるために、カトリーヌ・マラブーの著書『泥棒!──アナキズムと哲学』を横に置いて考えてみよう[★12]。マラブーはそこで、あらゆる思考が暗黙のうちに「統治という先入見」にとらわれていると言う。つまり、統治は絶対的に不可避で必然的なもので、それを否定することはありえないという先入見が、あらゆる思考の前提となっている。
それに抵抗するためにマラブーが提示するのが、「統治されざるもの」という概念だ。「統治しえないもの」と混同してはならない。というのも、「統治しえないもの」は「統治できるもの」の対義語でしかないからだ。「統治しえないもの」は、統治が先にあるから想定されうる概念にすぎない。だが、「統治されざるもの」は「統治にとって他なるもの」なのだとマラブーは強調する[★13]。
言い換えるならば、「統治されざるもの」は、「統治できるもの」/「統治できないもの」のどちらでもなく、両者に対して「中性的」な概念なのである。それは統治にとって徹底的に「手に負えない」ものであり、統治の論理に弁証法的に組み込まれるわけではなく、その外で自らを「反復=肯定」し続けるだけのものである。
このような「統治されざるもの」として、私は「ストリート」を考えている。それは権力の言いなりになることもなければ、左派が期待するように自身の利害闘争のために理性的な判断を下すこともない。反動的なものたちは、ストリートを統治するために、右派的なイデオロギーによる攻勢を仕掛ける。それに対してリベラルも、右派によるストリートの簒奪を阻止すべく、ひとびとにリテラシーを身につけさせようと啓蒙を図る。
かくして、左右のいずれも「統治という先入見」にとらわれている。しかし、ストリートはそれでも両者の手を逃れ、「手に負えない」ものであり続けるだろう。この事実を、落胆ではなく希望をもたらすものとしてとらえることが必要である。
イデオロギーとエス
だが、どうすればいいのか。ここで一度、イデオロギーという問題について考えてみよう。
アルチュセールによれば、社会はイデオロギーなしにはありえない。主体そのものがすでにイデオロギーの効果によって産出されるものだからである。これは、次のような思考への戒めを含んでいる。つまり、イデオロギーに対して超越した立場がありうるとする、ある種の高慢さを持った言説である。むしろ、超─イデオロギー的立場にたっていると思っている者こそが最もイデオロギー的になりうる。しかしながら言うまでもなく、アルチュセールはイデオロギーへの無抵抗を甘受せよと言おうとしたのではない。イデオロギーから出発する以外にない、という現実を述べただけである。
こうした態度は、ベンヤミン的に、次のように言い換えられるだろう[★14]。すなわち、イデオロギーのフィルターを通してしか世界を生きられない私たちは、「罪の連関」、「二義性」の世界へと「堕落」した状態に置かれている。私たちは現実と無媒介にコンタクトできる「楽園」状態を永遠に喪失しているから、イデオロギーという媒介的なものを通してしか現実とコンタクトできない。ベンヤミンが思考しようとしたのは、こうした堕罪の必然性を認識したうえで、いかなる「救済」が可能かということだ。
ベンヤミンの救済(彼はこれを革命であるとも考えた)は、堕罪の世界の時間が停止し、無垢=無罪の場であるところの「根源」へと瞬間的に──つまり、韻を踏むように──連れ戻されることを通しておこなわれるものだった。つまり、このように言える。イデオロギーに対する超越は不可能であるし、それを目指すべきでもない。大衆はイデオロギーの世界に生きており、ストリートはつねにイデオロギーの攻勢に包囲されている。だがそれでもなお、イデオロギー的世界に内在しながら、イデオロギーに対して無垢=無罪である状態への生成は可能である。
そもそもイデオロギーとは何か。アルチュセールはこれを「認知─誤認機能」だと定義している。主体は自己をイデオロギーを通して認知/再認している。「私は日本人である」、「私はマイノリティである」、「私は低学歴のリテラシーを持たない大衆である」……。これら自己の認知はイデオロギーを通したものである。しかし、そのような自己の認知と「本来の自己」が完全に一致することはなく、必ずそこにはイデオロギーを通すがゆえに生じる齟齬やギャップがある。イデオロギーのはたらきのもとでは、認知とは必ず誤認となるのである。
このギャップにこそ、ストリートの可能性がある。アルチュセールは、イデオロギーの分析を、精神分析的な無意識をめぐる言説とつなげて思考するなかで、次のように記している。
すなわち、「私(je)」を語る自我は、あきらかにイデオロギー的言説の「主体」と非常に近い位置にある。「超自我」は、主体という形式のもとであらゆるイデオロギー的主体を呼び止める大文字の《主体》に非常に近い位置を占める。これにたいし、「“それ”(ça)」は、まさにそれがイデオロギー的言説において作り出されるものであるがゆえに、イデオロギー的言説の構造のなかに姿を現さない[★15]。
言葉の確認をしておこう。ここでアルチュセールは、フロイトの局所論の3つの要素(自我、超自我、それ)を、イデオロギー的言説の3つの要素(主体、大文字の《主体》、不在)と重ね合わせている。なかでも注目したいのが、「自我」/「主体」と、「それ」/「不在」という二つの重ね合わせだ。
イデオロギー的言説において、本来の自己は「不在」であり、認知=誤認された「主体」とのあいだにはギャップがある。それと同様に、精神分析において、「自我(エゴ)」と「それ(エス)」のあいだには必ずギャップがある。自分が意識する自分と、自分の無意識が完全に一致することなどない。自我の苦難はエスの声を聞くことを通してしか癒やされない。「エスあるところにエゴあらしめよ」。
たしかに、イデオロギーを通して、本来の自己(エス)と認知=誤認された自己(エゴ)のギャップを作り出すことこそ、体制側の支配の有力な手段なのであるが、おそらく必要なのは、この不可避のギャップを私たちのチャンスに変えることである。
「手に負えない」ものとしての大衆性、ストリート性とは、その意味で、次のように規定できるようなものなのだ。すなわち、彼は認知=誤認された自己において従属的だが、その本来の自己において統治されざるものである。だからこそ、彼らをイデオロギーが欠如した存在と見なし、それを啓蒙しようとするリベラル的態度では不十分なのである(それは「統治という先入見」以外の何なのか)。もし彼らに教えるべきことがあるとすれば、それはむしろイデオロギーを「学び捨てるunlearn」ことの方なのだ。
大衆は不足している存在ではない。むしろ過剰にイデオロギーに晒されてしまっている存在である。この不足/過剰に対して「中性的」な状態を自分のものとできたとき、大衆に救済が訪れることになるだろう。
だから、こう言い添えておこう。ストリートに生きる者たち、それは、意識においてよりも、生において多くを知る者たちである。彼らは意識においてフェイクを掴まされているが、生においてリアルである。
最後に
90年代の渋谷のストリート。そこには、援交少女たちがいた。ECDによる「ECDのロンリーガールfeat. K DUB SHINE」(1997年)は彼女たちに向けた一曲で、日本のヒップホップ・フェミニズムにとって重要なアンセムとしても有名である。
そこでECDはこう歌っている。
次第はめられてく 手かせ足かせはずす 盾の鍵マスターキー探せ
ガキは食い物に所詮されるだけ 高ぇニセモノ掴まされあえぎ 苗木のうちに刈り取られ
生意気だった口から今にため息 信号無視もできないアリンコにされるとさお嬢さん
マジな話早く立ち上がれ これちょっとシリアスだけど盛り上がれ[★16]
ECDは、援交少女たちに何かが欠けているなどとは言わない。彼女たちははじめから何ひとつ欠けていない者だった。なるほど、彼女たちがどこか孤独を抱えているために、夜の街で何か心を埋めるためのものを探しているのだと考える者がいるかもしれない。だが決してそうではない。「寂しいんじゃないよ」「風がまぶしいだけ」。そのようにこの曲では歌われる。
問題は、彼女たちの欠如ではないのだ。彼女たちを欠如した者と見なし、その欠如の回復という名目で「はめられてく手かせ足かせ」の方こそ問題である。リベラルならば、彼女たちには教育や親の愛情や理性的な判断が欠けていると言う。他方、資本主義社会は彼女たちの夢を散々搾取し終わった後で、君たちの援交少女としての青春は人生の一時期の気の迷いであり、早くストリートを離れ、立派な社会人になるのだと、成熟論的なイデオロギーを通して、もともと持っていたはずの抵抗の力をも奪ってしまう。その結果、彼女たちは「信号無視もできないアリンコにされる」。
一般にプロテストソング、ポリティカルラップといったものは、欠如した正義なり批判意識なりをひとびとに伝達するものだと思われている。言い換えれば、それらは「できないことをできるようになろうとする」態度である。だが、ECDはそのように歌わない。すでにあなたの手元にあって実現しているはずであるのに、いまだ不在になっている「それ=エス」に注意を向けるようにうながすのである。「それ=エス」とは、手に負えなさ=統治されざるもののこと。それを反復=肯定するべきだとECDは歌う。これは、「できてしまっていること」をリスペクトする態度だ。
「道の敷石ケツッペタ 着けたまま立ち上がれ」。ストリートでの生は何も欠如していない。ストリートに座り込んだままでいることこそが、立ち上がることである。ストリートは大丈夫。おそらくそうなのだ。
追記
本論考は、参政党が躍進した2025年参院選とストリート・カルチャーの関係を考えるという趣旨で、同年8月に執筆されたものである。
★1 2017年3月11日に宇多丸がFM NORTH WAVEの特別番組「3.11 SPECIAL Light For Tomorrow」に出演した際の発言。
★2 中村拓哉『日本語ラップ──繰り返し首を縦に振ること』、書肆侃侃房、2025年。
★3 MSC「新宿U.G.A」、『MATADOR』、P-VINE, Inc.、2003年。
★4 磯部涼『音楽が終わって、人生が始まる』、アスペクト、2011年、161-162頁。
★5 SCARS「HOMIE HOMIE (REMIX) feat. SWANKY SWIPE」、『THE ALBUM』、P-VINE, Inc.、2006年。
★6 URL=https://www.youtube.com/watch?v=y_JnQ_e5iIo
★7 YOS─MAG「覚醒前夜─Deep, State of Mind─」、YAMATERAS、2025年。
★8 パオロ・ヴィルノ「君は反革命を覚えているか?」、酒井隆史訳、『現代思想』1997年5月号、青土社。
★9 カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日[初版]』、植村邦彦訳、平凡社ライブラリー、2008年。
★10 柄谷行人「表象と反復」、同書。
★11 絓秀実『1968年』、ちくま新書、2006年。
★12 カトリーヌ・マラブー『泥棒!──アナキズムと哲学』、伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳、青土社、2024年。
★13 同書、52-53頁。
★14 以下のベンヤミン理解は山口裕之『ベンヤミンのアレゴリー的思考』(人文書院、2003年)などを参考にしている。
★15 ルイ・アルチュセール『フロイトとラカン──精神分析論集』、石田靖夫、小倉孝誠、菅野賢治訳、人文書院、2001年、161頁。
★16 ECD「ECDのロンリーガール feat. K DUB SHINE」、『BIG YOUTH』、cutting edge、1997年。



中村拓哉
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- 天球から怪物へ──国学の図像的想像力|石橋直樹
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- 陰謀の手応え──擬人の時代について|森脇透青
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- 斉藤さんへ|伊藤亜和
- AIにメンケアされる私たち──感情労働はいかに代替可能か|佐々木チワワ
- The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉
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- 【全文無料】創刊にあたって|『ゲンロンy』創刊号編集委員




