新しい帝国とその時代|石橋直樹+伊勢康平+五月女颯+森脇透青+植田将暉

戦争の時代が来るのではないかと言われている[★1]。それを象徴するのが、2026年1月3日に生じた、アメリカ軍によるベネズエラ攻撃だ。他国の首都に特殊部隊を送り込み、大統領を連行し、自国の裁判所で審理を行なう──アメリカ合衆国がとった行動は世界に衝撃を与えた。トランプ大統領はその後、直接統治をほのめかし、南米諸国に睨みをきかせる。
その姿勢は「ドンロー主義」とも呼ばれる[★2]。語源となったのは、1823年に当時の大統領ジェームズ・モンローが提唱した合衆国の外交方針だ。同時期に生じていたヨーロッパでの戦争にアメリカは介入しない。そのかわりにヨーロッパ諸国は西半球に手出しをしない。大国にとっては相互不干渉、まわりの国々にとっては介入主義にほかならなかった「モンロー主義」は、帝国たちの勢力圏をさだめ、その後の戦争の時代につながっていった。
いまふたたび「帝国」がよみがえろうとしているのではないか。そのように考えたとき、わたしたちの目のまえに、同時代の国際情勢が浮かび上がってくる。ベネズエラやパナマ、グリーンランドへと領土拡大の野心を剝き出しにする合衆国。緊迫する中国と台湾。インド洋地域の覇権をねらうインド、オーストラリア、インドネシア。アラブの春以降、グレートゲームの舞台となった中東諸国。存在感を増すトルコ。ガザへの攻撃を続けるイスラエル。中国とロシアが勢力圏の構築をめざすアフリカ諸国。そして、ロシアと欧米がしのぎを削るウクライナに、しかし不協和音の生じはじめた合衆国とヨーロッパ……。いま各地に噴き出しているのは、「帝国」への夢と欲望と、それらが引き起こす数多の紛争だ。
2000年、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『〈帝国〉』を世に問うたとき、そこにはなにか新しい思想が現れていると人々は信じることができていた[★3]。グローバルなネットワークが人々の新たな連帯を生みだし、そこから世界が変わると思っていた。あらゆるひとがスマホを持ち、みながSNSでつながったとき、わたしたちは政治が動くはずだと希望をいだいた。
しかしそれはいまや幻滅と絶望に変わっている。チュニジアにせよ、香港にせよ、合衆国にせよ、スマホを手に立ち上がった若者たちの革命はその理想には到達しえなかった。いまではわたしたちは、ひたすら画面をスワイプし、流れる動画に時間をつぶし、行くあてのない感情を短いテキストを連投することで解消している。わたしたちはインターネットの夢がいちど挫折したあとを生きている[★4]。
その時代に、わたしたちは意気消沈し続けるほかないのだろうか。今回の座談会には、日本の国学思想を研究する石橋直樹、中国現代哲学が専門の伊勢康平、旧ソ連・ジョージア地域の専門家である五月女颯、フランスの哲学者ジャック・デリダの研究者である森脇透青、そして編集者の植田将暉が集まった。特徴は、アメリカの専門家でも、国際政治の専門家でもないということだ。だからこそ、世界が予想外の動きをみせはじめ、政治の常識がつうじなくなったいまこそ、自由に考えられることがあるはずだ。そこに人文知の役割がある。
かつて夢見られたものを取り戻し、スマホ世代の理想を掲げること。個人には太刀打ち不可能に思えるような現実に、それでも新しい線を引きなおすこと。帝国の時代の知と思想をつくりだすこと──スマホ世代の若手研究者たちによる、専門領域を飛びだした大胆な討議に、ぜひあなたも加わった気持ちで読んでほしい。
2020年代は帝国の時代だ
植田将暉 まずは議論の出発点となるような大きな見取り図を描いていただきたいのですが、森脇さん、どうでしょう。
森脇透青 導入にあったネグリとハートの『〈帝国〉』は、哲学や現代思想を学んでいると避けては通れない1冊です。とくにそのなかで提示されている「マルチチュード」という概念が大きな影響を与えてきた。それは、人々がそれぞれのちがいを持ったままで協力しあえるような連帯のこと。リーダーが上から命令して同質性を押し付けるような従来の中央集権的な政治ではなく、人々が下から自発的に連帯するような脱中心的な政治運動の可能性を彼らは考えていました。
それを実現しようとしたのが、たとえば2011年の「ウォール街を占拠せよ」運動でした。これはアメリカで広がる経済格差に対する抗議でしたが、SNSを通じてさまざまなひとがニューヨークの街頭に集まり、「わたしたちは99%だ」と叫んで、たった1%の富裕層たちが富を独占している状況を批判した。
古典的な国家権力による支配というモデルが解体され、中心を欠きつつ、地球規模で融通無碍な「支配」が生じてくるのが〈帝国〉であるとすれば、その同じ時代現象の「抵抗」の側面として「マルチチュード」がある。それは自然発生的で脱中心的で、水平に広がっていく政治運動である。教科書的にはそういう整理でいいでしょう。
しかし、こうしたグローバル時代の〈帝国〉と「マルチチュード」という対立は、現在ではもはや壊れている。2020年代になると、古典的な「帝国」のイメージが回帰してくるからです。アメリカ軍によるソレイマニ暗殺事件(2020年1月)に、第二次ナゴルノ・カラバフ戦争(2020年9月)、ロシアによるウクライナ侵攻(2022年2月)、イスラエル・パレスチナ戦争(2023年10月)など、大国による「グレート・ゲーム」が始まったわけです。
また、ネグリとハートが期待を寄せた「ストリート」が、左派による抵抗の場ではなく、極右や排外主義の発信の場としても現れるようになったという点も重要です。日本では、10年代に盛り上がっていたのは、反原発デモや安保法制反対デモといった左派からの運動だった(もっとも、在特会のヘイトデモは2009年ごろから行われていたわけですが)。それが20年代になると、参政党や財務省解体デモのような右派からの運動に取って代わられるようになる。アメリカでも、10年代に占拠されたのはウォール街でしたが、20年代には連邦議会議事堂になってしまった。この歴史的な現実をどのように受け止めるか、現代思想は真剣に考えないといけないと思っています。
植田 2021年1月にアメリカの連邦議会議事堂襲撃事件が生じたことは、いま振り返ってみればかなり象徴的でしたね。2020年末の大統領選挙でトランプではなくバイデンが選ばれた。その結果にリベラルが安心していた矢先に、不正選挙を主張する人々が蜂起したわけです。結局のところ、2025年に「トランプ2・0」が始まってしまった責任はかなりのていど民主党やリベラル勢力の不始末にあった。わたしたちはバイデン政権の誕生ごときで満足していてはならなかったと反省すべきなのでしょう。
結局、2020年代前半を振り返ると、世界史の教科書には「新型コロナウイルス感染症」と「ウクライナ侵攻」、そして「トランプ2・0」の3つが大事件として残るのだろうと思います。この3連打がおそらく「戦争の時代」を用意してしまったのでしょう。それに続くものとして、たとえばイスラエルとパレスチナの戦争がある。だからこそ、戦争の時代、帝国の時代を迎え撃つための思想が必要なんです。
伊勢康平 中国の現代哲学を研究していると、そのような思想的動向は現実のものになっていると感じます。あとで「天下主義」という思想を紹介しますが、これは中国の伝統的な「天下」の概念を現代に適用可能な政治理論として再評価しようという試みです。2013年から中国は「一帯一路」構想をかかげて、中央アジアから中東、ヨーロッパ、さらには東南アジアやアフリカにまで広がるような広域経済圏を構築しようとしてきた。天下主義はたしかに哲学的な動向ですが、そのような政治的・経済的な動向とも深く結びついています。
五月女颯 同じような状況はトルコやインドにも見られますね。たとえばトルコのエルドアン大統領はしばしばオスマン帝国の継承やイスラーム的価値観の尊重などを訴えていますが、これはたんなる政治的・経済的な主張というよりは、もっと思想的なもの、端的にいえば帝国的な世界観のあらわれです。実際、「新オスマン主義」という名前で呼ばれています[★5]。またインドでも、モディ政権になってから急速にヒンドゥー・ナショナリズムが強まっています[★6]。その結果として、イスラーム教を信仰する隣国パキスタンとの対立も深まっている。インド、パキスタン、そして中国はカシミール地方などをめぐって領土紛争をかかえていますが、いずれも核保有国である点に注意が必要です。イスラーム教の重視にせよ、ヒンドゥー・ナショナリズムの興隆にせよ、それはたんに宗教的な価値観を復権させようするだけではなく、歴史的にその地域で培われてきた「帝国」的な秩序や世界観を取り戻そうという運動であると言うことができます。まさしく「帝国をつくろう」なんです。
植田 ええ、それこそがこの座談会の意図しているところです。もちろんこうした大きい話は、地域研究者や国際政治学者といった専門家たちからすれば、細かな事情や差異を無視した乱暴な一般化であると受け止められるものだろうと思います。けれども、いま生じているのは、不正確だと批判されるのを恐れるあまり、素人は沈黙を良識のあかしと思いこみ、専門家は小さな専門分野に閉じこもってしまっているという閉塞的な状況ではないか。それを打破するにはデカいことを言うやつがあらわれないといけない。
五月女 ただし、インドやトルコは、少なくともそれぞれの地域における覇権国家なので、大きな世界観を打ち出すことができるとも言えます。その一方で、ぼくが研究しているジョージアは、ロシア、欧米、中国など、大国たちからつねに影響を受ける小国です。日本ではXを使いこなしている駐日大使や、松屋でもメニューになった「シュクメルリ」などで有名な国ですが、政治的には、隣国のウクライナが戦時下になって以降ずっと、ロシア寄りの路線を取るか、欧米寄りの路線を取るかをめぐって揺れつづけています。そうすると、なかなか大きいことは言えなくなる。その結果、最近のジョージアでは、首相レベルの政治家たちさえもが陰謀論を唱えはじめてしまっているのですが……。
森脇 陰謀論がこれほど浸透してしまっているのは、批評家がちゃんと仕事をできていないからではないか。「批評家」に期待されている仕事は、ほんらいはデカいことを言うことなんですよね。昔の批評文を読むと、専門家でもなんでもない批評家が、さまざまな思想や理論を縦横無尽に援用しながら国際政治をアツく語ったりしていた。不正確な言説をつかまえて揶揄するのは簡単だけれど、政治や社会といった問題について、あるていどの細部は犠牲にしてしまったとしても、勇気をもって大きな議論をすることは、とても大事な仕事です。
石橋直樹 そうなんですよ! いま森脇さんが言われた批評家の仕事は、日本の歴史をひもといてみると、「国学者」の役割だったんです。
ぼくが研究しているのは平田篤胤という江戸時代後期の国学者ですが、彼の特徴は本居宣長などの先行世代の学者たちから日本の知の伝統を引き継ぐだけでなく、当時伝わってきたばかりの西洋の学問をさかんに採り入れ、新しい知のかたちをつくりだした点にありました。それはともすれば従来の知の枠組みから逸脱した「怪物」的なスタイルでもあったのですが、しかしそれくらいの大胆さがないと、新しい時代は切りひらけなかった。ひるがえって、2020年代後半が「戦争の時代」になるのであれば、それを超克するのは国学者的な大胆さではないか。
植田 なるほど、むしろ国学の伝統が同時代的な批評性をおびてくると。
石橋 ぼくはそこに期待をかけています。新しい時代が到来すれば、新しい歴史を設定することが必要になります。そのときに手がかりとなるのは、日本思想史だと信じています。

左派の希望はどこへ
森脇 それぞれの立場も見えてきたので、ネグリとハートの『〈帝国〉』に話を戻しましょう。補足しておくと、そもそもあの本は、冷戦が終わり、資本主義陣営が勝利し、歴史は終わったのだと大真面目に言われていた時代に、あえて「帝国」という歴史的な語句を再提示してみせた書物であるわけです。その意味では冷戦崩壊直後の、そして新しい世紀が始まるぞと人々が期待を持っていた時代の空気感を反映している。
石橋 ひとことでいえば、当時の左派のマニフェスト的な書物ですよね。
森脇 そのように考えれば、いまは四半世紀前の左派が思い描いていた希望が、すっかり裏返しになってしまった状況なのかもしれない。たとえばマルチチュードは、既存の権力構造にとらわれない変革的な群衆たちのことですが、これがもっぱら「左派的」な抵抗勢力としてのみ見られていたことに、いまから見れば限界がある。マルチチュードのネットワークそれ自体は、21世紀型の資本主義に特有の現象であって、左派的なものとはかぎりません。つまり〈帝国〉とマルチチュードは対立するものではなく同じ時代現象の表裏なわけです。実際のところは、右派もまた、水平的なつながりを形成し活用していった。トランプを支持するMAGAたちも、陰謀論を唱えるQアノンたちも、そして参政党を応援するサポーターたちも、いずれもマルチチュードの右派的な体現者なんです。
もっとも、ネグリとハート自身も、『〈帝国〉』の続編である『アセンブリ』(2017年)では、とにかく民衆が集まれば抵抗運動になっていくという考え方に修正を加えている[★7]。水平的な連帯の実現のためにはあるていどのリーダーは必要だと主張するようになっています。
石橋 ストリートの思想が、脱中心的な、指導者なき政治のかたちを模索していたことを考えると、まさしく逆転してしまっている。
森脇 そのときおもしろいのは、ふたりが必要なリーダーを「アントレプレナー」つまり「起業家」と呼んでいることなんです[★8]。左派思想家の代表格であるネグリとハートですら、資本主義の象徴にほかならない起業家を、現代におけるリーダーシップのモデルとして採用せざるをえなかった。このことが持っている意味は重い。
つまり、結局のところマルチチュードやストリートの思想というものは、もとからそこまで左翼的なものではない、いわば価値中立的な「方法論」であったということです。どのような立場のひとであっても、その方法論を採り入れ、活用していくことができる。21世紀最初の四半世紀を振り返るなら、そのような現状認識から出発して、政治哲学を考えないといけないはずです。
植田 示唆的なのが、『〈帝国〉』と前後して盛り上がっていた「左派ポピュリズム」の展開ですよね。エルネスト・ラクラウやシャンタル・ムフによって推進された左派ポピュリズム論は、非常にざっくりまとめれば、ポピュリズムという現象に社会に異議申し立てを行う「人民」の出現を読み取り、左派の立場からこの現象を取り込んでしまうことで、既存の政治状況を撹乱し変革しようというプロジェクトでした[★9]。
しかしこの目論見は大きくはずれてしまう。結局のところポピュリズムを乗りこなしたのは、アメリカではトランプであり、日本では参政党だった。左派ポピュリズムは、右派ポピュリズムに圧倒されてしまったわけです。
森脇 ただ、左派ポピュリズムの力は、現代的なポリティカル・コレクトネスとも結びついて、さまざまなミクロな差別に対する糾弾や反省を可能にした。一定の強引さはあったけれど、2010年代に生じたこの変化が一種の「解放」であり「進歩」であったことは付け加えておくべきです。一方、ポピュリズムが依拠しているのは大衆の情念なわけですが、情念ベースで闘ってしまうと、結局右派的なルサンチマンのほうがよっぽど強い。結果として、そうした「進歩」への情念的バックラッシュが全面的にはじまってしまっている。
伊勢 デジタルプラットフォームをめぐってわたしたちが直面しているのも同様の状況ですね。つまり、どれだけよいSNSやデジタル技術を構築したとしても、それはあくまでだれもが活用できるものとしてつくられている。だから、よいシステムをつくるだけでは不十分で、それをどのように使っていくべきかという理念が重要になる。
その意味では、現代では、技術や方法論、プラットフォームといった「下部構造」が政治を決めるようになっているわけですが、それとともに、理念をめぐる政治や議論もますます重要性が増していると言えます。つまり、哲学や思想が求められている。
植田 地理的なものも下部構造として現れていますね。気になるのは、ここのところ「地政学」という言葉が、テレビやSNSなどで、かなりカジュアルに使われているように見えることです。すこしまえまでは、かつて第二次世界大戦につながった考え方として、避けられがちだったはずなのですが。
五月女 その視点から言うと、さきほど伊勢さんが中国の一帯一路構想について言及されていましたが、ぼくが研究しているジョージアは、まさしく中国や中央アジアとヨーロッパをつなぐ、いわゆる「文明の十字路」と呼ばれるコーカサス地域に位置しています。山がちで資源もないので、どちらかといえば経済発展からいつも取り残されてしまう側なのですが、一帯一路構想においては、その地理的・地政学的条件が重要となります。そうすると、ジョージアの国民や政治家たちも、地政学的なものに意識を向けはじめていく。
いまジョージアでは高速道路の建設プロジェクトが国家主導で進んでいるのですが、その建設を担当しているのは中国企業なんです。ジョージアの 1000メートル級の山奥で中国人労働者がトンネルを掘っている。中国の影響力はそれくらい強まっています[★10]。
石橋 中国の影響力が増していることに対して、ジョージアの政治家たちはどのような反応を示しているのでしょうか。
五月女 基本的には経済合理性で動いています。中国のほうが自国に利益をもたらしそうだと判断すれば、ジョージアの政治家たちは受け入れる。その意味では、大国のあいだをしたたかに立ちまわっているとも言えます。

植田 国家運営を「経営」としてとらえる思想は歴史を振り返れば枚挙にいとまがない。ただ、政治家が経営者として振る舞うことが、どこかクリーンで、望ましい態度であると考える価値観が広まっているらしいのは、現代に特有のできごとかもしれませんね。カーティス・ヤーヴィンという、最近アメリカで支持を集めている思想家がいるのですが、彼は国家の統治者はCEOであることが望ましいと言っている[★11]。経営学を身につけた起業家こそが、もっともよく社会を指導できると考えており、そのような主張が一定の支持を集めているのです。
ただ、それがほんとうに健全な政治につながるのかどうか、ぼくには疑問です。五月女さんがおっしゃるように、ジョージアの政治家たちは、自分たちが振り回されている国際政治の混乱を意味づけるために、陰謀論的なナラティヴに頼っている。「ビジョナリーカンパニー」という経営学の概念がありますが、結局のところ、起業家たちも理念や哲学をもちいている。だとすればやはり、思想の問題に立ち返ってしまうのではないかとも思うのです。
移民問題や言論の自由を論じなおす
森脇 ところで戦争の時代を考えるとき、外せないキーワードは「移民」だと思います。なぜなら移民問題は、まさに内戦が日常的に続いているという状況だから。
移民問題が世界的にここまで取り沙汰されるようになったのは、じつは冷戦以降のことです。東西対立の解消によって、わかりやすい敵が消滅したことに関係しています。国外に敵がいなくなったので、国内に敵を追い求めるようになった。その結果として発見されたのが「移民」という新しい「敵」、内なる異物だったわけですね。ラカン派の松本卓也さんは、これを「レイシズム2・0」と呼んでいます。この新しいレイシズムが依拠しているのは、「享楽の盗み」というファンタズム、つまり「どこかに自分の享楽を盗んでいる他者がいるにちがいない」、「その他者を排斥すれば完全な享楽を回復できるはずだ」という幻想です。そしてこのとき、その「他者」はだれでもいい。どんな属性のひとでも代入できる。
ぼくの専門に近づけて言うと、そのような移民問題が他国に先駆けて生じていたのはフランスです。フランスは1970年代から移民問題に直面していた。第二次世界大戦後の戦災復興やアルジェリア戦争のために、移民が多く集まっていたからです。そのなかで、移民に対する白人たちの不満を代弁したのが、「国民戦線」を創設した政治家、ジャン゠マリー・ル・ペンでした。
ここで注目したいのは、その娘のマリーヌ・ル・ペンです。父親から排外主義的な政策は受け継ぎつつ、しかしその路線を穏健化し、党名も「国民連合」に変えています。そのうえでマリーヌが興味深いのは、みずからの主張の根拠に「共和国」の精神を持ち出してくるところなんです[★12]。彼女はあきらかに現代のポリティカル・コレクトネスを意識しており、そのコードに馴染むように表現を選んでいる。主張の内容を見れば排外主義を煽っているのだけど、表現としてはクリーンさを装っている。ある意味では参政党とも重なるような、非常に現代的な面がある政治家ではないか。
石橋 フランスにとって「共和国」であるということは、フランス革命以来の国家の根幹にある価値観です。日本の文脈でいえば、まさしく「国体」ですよね。共和国という国体を護持していくために、友/敵という対立が仮構され、敵に位置付けられるのはイスラームであり、また移民でもあるわけです。
森脇 フランスの場合は「共和国の精神」が右派にとっても左派にとっても非常に重要なものなんですね。おそらくアメリカの場合も、またちがう形ではありますが「独立」の問題が出てくる。だからウソでも国家創設の物語が引っ張り出されるし、繰り返し議論される。それに対して、日本では移民政策が問題となるときに、「国体」も「精神」も出てきません。それはおそらく、明治維新にしろ敗戦後の憲法制定にしろ、ある種の外圧によって勝手に決定されたもの、という他人事感があるからかもしれません。日本人は日本という「国体」に対して当事者意識があまりない。
結果として現代日本では、ナショナリズムが、非常に短い射程、身近な感覚だけで発露している。それは在日や移民は特権を持っている、許せない、という、非常に純粋な「レイシズム2・0」的な問題や陰謀論だけに結びついてしまう。そうした差別は、あくまで「経済格差」の問題──しかしそれが格差の実情を反映しているかは別なんですが──として発露する。
植田 日本では、移民は「上京」のモデルで捉えられているんじゃないかな。外からの移入ではなく、あくまで内側での移動とみなされている。もちろん出生地や国籍、言語や文化などによる差別も見られるけれど、ヨーロッパのように、文明論的な敵として移民たちを位置づけることはしない。敵味方を分ける根拠は、あくまで経済的なところに見出されている。近代日本という「帝国」領土内の問題として、近現代の東アジア史が認識されているように感じます。
ただ、厄介なのは経済問題だからといって、単純に経済的合理性だけでは解決されないということなんです。だからぼくは「上京」の問題として捉えなければならないと思っています。移民たちが移住先を目指すのも、先に住んでいるひとたちが不満を溜めるのも、どちらもこれまで上京の物語が生み出してきた数々の軋轢や挫折と重なって見える。つまり、上京してくる者は都会に夢を託し、都会の住人たちはそんな「お上りさん」の挙動不審にとまどったり、自分たちの取り分が奪われることを心配したりする。フランスの移民問題は国体論争に似ているという話がありましたが、もっと個人主義的な、「上京」や「立身出世」の物語として引き起こされている移民問題もあるのではないか。
森脇 それは日本に限らないかもしれませんね。よく指摘されることですが、トランプがこれほど支持されるのは、彼が白人中産階級の貧困に向き合った結果だと言われます[★13]。トランプには地方の白人にもう一度「アメリカン・ドリーム」を見させようという心意気があった。右派は人々がたんに貧しさにあえいでいるだけでなく、「立身出世」に夢を託しており、その希望を満たしたいと思っていることを見抜いていた。それに対して左派は、マルチチュードやポピュリズムといった価値中立的な方法論をうまく使って、健全な政治や社会を取り戻しさえすればみなが幸せになれると信じていた。このちがいがいまの状況を生み出しているように思います。
植田 そこでジョージアや中国がどうなのかということも聞いてみたい。文明論的な敵味方の構図が現れているのか、それとも上京や立身出世のような、もうすこし個人主義な社会問題なのか。そもそもジョージアという国は、コロナ禍まえまで、日本ではバックパッカーたちが「沈没」(世界旅行中の長期滞在)をして、ノマドワーカーとして働くのに向いている場所というイメージでしたよね。それが感染症と戦争によってどう変化したのかも気になっています。
五月女 ネグリ=ハート的な「ストリートの思想」という文脈につなげると、コロナ禍までのジョージアにたくさんいたノマドワーカーたちは、一見するとヒッピーや反資本主義のようで、じつのところ資本主義の上澄みに生きていたにすぎませんでした。だって「デジタルノマド」とか言うわけですが、ラップトップひとつで世界中どこでも暮らせるひとなんて、人類のなかで相当にかぎられたパーセンテージしかいないわけです。
しかしウクライナ戦争以降、ジョージアはロシアに反対するひとたちの拠点のひとつになりました。首都のトビリシなどには、徴兵を逃れてロシアから出国してきた若いロシア人たちも多く暮らしています。1910年代末から20年代初頭にかけて、ジョージアがロシア革命からの避難場所になったことを考えると興味深い。
ただ、そこからなにか物語が生まれているかといえば、まだそういうわけでもない。本誌の論稿にも書きましたが、ジョージアという国の方針は、欧米とともにウクライナを支援するか、ロシアの側に立って戦争の危険を回避するか、ふたつのあいだで揺れつづけています。「ストリート」としてのジョージアに集まる徴兵逃れの若者たちも、ロシア語が通じたりなんらかのツテがあったりというなりゆきで暮らすことになったひとも多い。とくに今後の国際政治に対するビジョンが明確にあったり、あるいはグローバルな立身出世への期待があったりするわけでもない。ひとは集まっているし、そこに経済もできているけれど、どのような思想や夢がそこに掲げられるのかは、まだ見通せないんです。
伊勢 中国は中国でかなり状況がちがいます。さきほど植田さんが「上京」というキーワードを出されましたが、じつは中国はそもそも上京すること自体がむずかしい。なぜなら非常に厳格な戸籍制度があって、農村出身のひとはたとえ大都市に移住しても農村の戸籍のままだからなんです。中国には「農村戸籍」と「都市戸籍」のふたつがあり、前者のひとは、たとえば都市部での就職や居住に制約が課せられる。自由に移動できるようになると都市に人口が集中しすぎるので、制度的に上京を阻んでいるんです。
森脇 出生地によって完全に分けられているのですか。
伊勢 そうです。それでも出稼ぎで都市にやってくる「農民工」と呼ばれる農村出身者もいるわけですが、ほとんどが定職につくことができず、労働者としての権利も十分に保障されていないので、雇用主とのトラブルも絶えない。農村で暮らすこともむずかしいが、都市で出稼ぎをしても状況がよくなる見込みは薄い。そのような状況では、上京や立身出世という夢さえ、もはや成り立たないようにも思います。
五月女 人々の不満は溜まりますよね。
伊勢 社会問題にはなっています。ただ、言論の制約もあるため、それが明確な体制批判や社会変革の要求につながっているわけではなさそうです。
中国では、1980年代に鄧小平の改革開放政策によって市場経済へ移行した際に、大学を中心として自由闊達な言論活動が広く行われました。しかし、天安門事件によってその路線は潰えてしまい、「冬の時代」が続くことになる。そこからふたたび自由化の流れができるのが、2000年代のブログカルチャーです。このタイミングで、ネット出身の論客も現れています。しかし2013年に習近平が国家主席に就任すると、そのようなブログ論客たちが逮捕されたり、新聞社や出版社への介入が厳しくなったりして、またしても言論の自由が制約されていくようになります。その制限がいまも続いているという状況です。
森脇 一時期、「寝そべり族」が日本でも紹介されていましたよね[★14]。社会の閉塞感に対して、無気力に寝そべってみせることで異議を申し立てようとする中国の若者たちのムーブメントです。このような運動は、あくまで例外的な現象だということなのでしょうか。
伊勢 ちょっと複雑なんです。これは梶谷懐さんと高口康太さんが『幸福な監視国家・中国』のなかで指摘していることですが、たしかに中国では強い表現規制がなされているのだけど、いったん表現活動を「泳がせる」というケースも結構あるらしい[★15]。
これは泳がせたあとに一網打尽にするということではありません。なにか事件やできごとがあった際に、ひとまずさまざまな意見が出てくるのを待ってみる。そのうえで共産党としての方針を定め、以降は、それに沿わない言説を遮断していく。だから、「抵抗運動」であったとしても、ある瞬間には社会から見えるようになっているんです。ただ「寝そべり」(躺平)にかんしては、政府が否定的な見解を表明し、若干の取り締まりも行われたものの、すでに社会現象として定着している感があります。明確な体制批判のメッセージを発しているわけではないですからね。
これと対照的なのが、「白紙運動」と呼ばれるゼロコロナ政策への反対運動です。当初はSNSや動画配信プラットフォーム、メッセンジャーアプリを通じて抵抗の連帯が広がったんですが、いまや中国のネット上にその痕跡を見つけるのはむずかしい。たとえば百度や微博などで「白纸运动」と検索しても、もうなにもヒットしないようになっています。
抵抗を持続させない仕組みという点では、中国で最も使われているWeChatというメッセンジャーアプリで通報や密告がいつでも簡単にできてしまうのも大きいでしょう。そうなると、連帯はあくまで信用できるひと同士にかぎられてくる。権威主義体制というと、異論を完全に排除してしまうようなイメージがありますが、中国は、ストリートの思想やマルチチュードが姿を現す余地は残しつつ、それをうまく飼いならしているように見えます。

植田 WeChatは、たんなるメッセンジャーではなく、決済システムでもあるところが重要ですね。ぼくたちは言論の自由というと、たんに言論活動の問題だと考えてしまうけれど、中国ではそれが、「決済」という人間の生により肉薄したところに影響を及ぼしてくる。
中国は権威主義体制だ、言論の自由がないんだという場合に意識を向けないといけないのは、党の方針や検閲システムなどではなく、むしろWeChatアプリに象徴されているような、言論活動と生活の近さだと思うんですよね。イーロン・マスクがXアプリを、SNSだけでなく、ショッピングや金融、決済までをカバーする「スーパーアプリ」に変革しようという構想を抱いていることは有名ですが[★16]、これらの問題は、SNSという「言論の場」と決済という「生活の場」を一体化してしまうことに見いだされないといけないように感じます。まさしくフーコーのいう「生政治」的な問題である。
伊勢 その意味では中国は、生政治的な統治術を「輸出」し、みずからの帝国統治を世界に拡張していると言えるかもしれません。いま中国はアフリカに対して大規模な投資や輸出を進めていて、そのなかで、たとえば華為製の監視カメラとその運用システムなどを販売しています。それはたんに統治のテクノロジーを売り出しているだけでなく、帝国のかたちそのものを輸出している。
植田 「生態学的帝国主義」という概念があります[★17]。一般的には環境問題の文脈でもちいられる、入植による生態学的な影響を指す言葉です。これを人間の生の問題として、もっと政治的に読み替えられるのかもしれません。まさしく生政治における帝国の時代が到来しつつあるというわけです。
古典の力が帝国をつくる
伊勢 すでに触れたとおり、近年の中国では「天下主義」という思想が注目されています。ざっくりいうと、世界がグローバル化してどんどんつながっているので、それにふさわしい政治単位を考えましょう、そしてそれは世界全体を包括するひとつの「天下」だ、という思想です。具体的には、ある種の世界政府をつくり、地球全体で社会を管理していこうという主張になる。
ただし、中国政府の一帯一路構想との親和性からもわかるように、この思想には、天下の中心は中国だろうという暗黙の前提がある。天下主義の中心的な提唱者は、趙汀陽という哲学者なのですが、彼自身はナショナリズムの克服を掲げており、国家事業と結びつけて天下主義を主張しているわけではありません。けれども、両者を直結させる研究者も少なくない。一帯一路構想を通じていまこそ天下を実現しよう、というわけです。
石橋 天下主義は伝統的な「天下思想」と連続しているのですか。つまり世界の中心には、天子、すなわち中国の皇帝がいて、そのまわりに日本などの朝貢国や征服されるべき夷狄がいるという世界観です。
伊勢 そこがむずかしい。天下主義についてじっくり読解するとわかるのですが、世界政府の樹立を正当化する際のロジックが独特なんです。天下主義者は「利益と損害の量を全体で計算したら世界全体でひとつになって協力したほうがよく、そうであるからこそ他国もこの体制に自発的に参加するべきだ」という議論の立て方をする。西洋思想の文脈でいうと功利主義やゲーム理論ということになるでしょう。しかし、中国の伝統的な天下思想は、そのような功利主義的な考え方をしていませんでした。
功利主義は、中国思想の文脈だとむしろ墨家思想に近いと言えます。春秋戦国時代の諸子百家の思想ですね。その創始者である墨子は利益と損害との比較衡量によって天下の利益をなるべく増やすというようなことを言っていたひとなんです。たとえば、彼は「お葬式はなるべく簡潔でいい、損害のほうが多いから」と言っている。その延長で、戦争は利益よりも損害が多いからやめるべきだ、と言うわけです。「兼愛交利」という有名な言葉がありますが、これは各国が対立するのではなく、お互いがお互いの利益になるように努めれば、世界全体の利益も増えるであろうという話でした。
ただ、じつは墨家思想は、中国思想のなかではかなり傍流なんです。始皇帝による中華の統一以降はほとんど消えてしまっていた。その思想がいまになって「天下主義」として復活してきているのではないか、というのがわたしの見立てです。
森脇 なるほどなあ。でもそれはどこか危なっかしい思想ではないですか。
伊勢 そうなんですよ。じつはこれと並行して、いまの中国ではカール・シュミットやレオ・シュトラウスの思想が流行している。シュミットはナチズムに親和的だったり、シュトラウスはイラク戦争を後押ししたアメリカの「ネオコン」の思想的背景になったりと、ふたりともとことん政治的に不穏な思想家です。わたしが北京に留学していた2016年ごろには、シュミットの翻訳が大学の本屋にたくさん平積みされていました。
それらの翻訳を精力的に進めているのが、劉小楓というひとで、彼自身もシュミットやシュトラウスを使って自由主義や民主主義を批判していくタイプの論客なんです[★18]。こちらは天下主義というよりは国家主義に近いわけですが、「なんかいやだなあ」と思ったのを覚えています。
森脇 シュミットの平積みにはすごみがありますね(笑)。
ところで、天下主義の話を聞いていて思ったのですが、帝国と帝国主義は区別される概念ですね。たとえば、批評家の柄谷行人が『帝国の構造』のなかで、帝国主義はダメだが帝国はよい、というような話をしている[★19]。なぜかといえば、帝国主義は国民国家、つまり同質的な集団を先に規定してからそれを拡張していくという運動だからです。たとえば戦時中に満洲では日本語教育が行われた。それは大日本帝国という中心から周辺国に同化の輪を広げていくような運動だった。反対に帝国は多民族を前提としつつ、彼らが交戦しないような調停の原理として皇帝を置く。つまり、多様性のあとに同質性がある。帝国主義とは逆の動きですね。
そのため柄谷は、帝国においては、皇帝はいるけれどもあるていど自由が認められていて、宗教の多様性も存在したのだと言います。そのうえで、日本も帝国主義ではなく、帝国になろう、と主張するのです。ほんとうだろうかとも思ってしまうのですが。
伊勢 そうですね。歴史的に見て、帝国のなかにほんとうに多様性があったかは疑わしい。
森脇 ただ、柄谷の言わんとすることはわかる。そう考えてみたときに、天下主義の言う「天下」は帝国なのか帝国主義なのか、いったいどちらなのかと思うわけです。おそらく、もともと帝国的だったはずの概念を帝国主義的に運用しようとしているのが天下主義なのではないかと思います。多様性を尊重するように見せかけて、ほんとうは同質性を押し付けるだけなのではないかということです。
伊勢 たしかに「天下」という言葉には二重の意味があります。ひとつは日本語でも「天下統一」などと言うときの天下、つまり一国の全体を意味する場合です。しかし、中国語にはもうひとつの意味がある。それは周辺のさまざまな異民族の領域も含めた、中国による支配のおよぶ観念的な領域を示すものです。いわゆる冊封関係や朝貢のこと。この関係性のなかで、かつては日本も中国の皇帝におうかがいをたてる「臣下」だったわけです。まさにこのふたつめの意味での「天下」、つまり異民族という多様性も含みうる天下の概念が、天下主義者によって帝国主義的にもちいられている。
天下主義者たちは世界全体を単一の政治単位で包み込んでしまえば、シュミット的な友と敵の対立がなくなり、すべてが友になるだろうと言っている。しかし、そんなことは起こるわけがない。同一の政体のなかでもコンフリクトは無数に生じます。それこそ、現代を特徴づけるのが内戦の常態化であるならなおさらです。すべてを包み込んだからといって、そんな簡単に平和が実現されるはずがない。かれらは「中国はこんなに平和で寛容で開かれた世界秩序を提案しているのに、アメリカはいったいなんだ」というふうに、必ずアメリカや西洋への批判をセットにして議論しています。そこでは既存の国際秩序を批判するための便利なツールとして、「天下」という観念が使われている。そこには限界があると言わざるをえません。
現代中国は戦前日本を超克できるか
石橋 どうも伊勢さんのお話を聞いていると、天下主義は、第二次世界大戦下の日本で論じられた「アジア主義」とそう遠くないのではないかと思えてきます。アジア主義とは、自由主義陣営でも共産主義陣営でもない第三の可能性として「アジア」の連帯を考えようとする思想です。天下主義の限界は、かつてのアジア主義の反復に見えます。
伊勢 中国ではいま、右派も左派も儒学を使う。儒学を使って国家主義を説いたり、反対に儒学は民主主義なのだと言ってみたり、あるいは天下主義を主張したり。節操がないなと思わなくもないですが、とにかく歴史的な資源を使えるだけ使おうとする態度というか、このダイナミックさは中国の特徴であり、見習うべき点もあると思っています。
石橋 なるほど。
伊勢 戦後日本との対比でいうと、中国ではいま、毛沢東主義も復興している。アジア主義を徹底的に反省してきた日本とはまったく異なります。なかには毛沢東の「革命の伝統」と鄧小平の「改革開放の伝統」と儒学の「道徳の伝統」、この3つを合体させて新たな伝統のもとに中国をつくりなおそうというような議論も存在する。これは甘陽というひとの説ですが、皮肉なことに彼は1980年代から90年代に自由主義の提唱者として台頭した人物でした。ともあれ、古典解釈学としての正しさとは別のところで、過去の議論をダイナミックに読み直していく作業が、思想に力強さを生み出しているのはたしかですね。
森脇 それでいうと、やはり日本はこういうときに参照される過去に限定がある。たとえば参政党のひとたちがちゃんと国家神道を学びましょう、国学を学びましょうと言うかというと、そうではない。彼らがつくっているのは、その場でだれもが理解できるようなわかりやすい日本のイメージでしょう。中国にせよロシアにせよ、天下主義やユーラシア主義という仕方で、ある種の「伝統」を参照している。たとえそれが近代以降の創られたものであったとしてもです。彼らにはいわば、参照可能な「正史」ないし「聖典」があるわけですよ。
それに対して日本は敗戦のトラウマがあるがゆえに、なんらかの伝統に則って政治的立場を形成するのが非常にむずかしい。それは右にとっても左にとっても同じことです。天皇制でさえ、結局のところは近代以降の「創られた伝統」であるということをみながわかってしまっている。たとえば三島由紀夫は、伝統主義者になりたかったわけですが、なれなかったひとですよね。彼は『文化防衛論』(1969年)のなかで政治概念としてではなく、より根本的な「文化概念としての天皇」が大事だと言うわけですが[★20]、結局そのように一歩引いたかたちでしか天皇制と向きあえなかった。この困難は大きい。
石橋 ぼくとしては、それでもやはり天皇にこだわるべきだと思う。さきほどフランスの国体は共和国だと言いましたが、戦前において日本の国体がなんだったかといえば、天皇制でしょう。国民道徳はそれに奉仕するためにあった。
他方、敗戦後の国体がどうなったかといえば、憲法9条です。1条から8条は天皇制について書いているにもかかわらず、それをすっ飛ばして、9条についての議論が延々と続いてきた。
しかし、一見すると正反対のように見えて、じつはこれは戦前の国体論とまったく同じ構造なんです。戦後民主主義者も、それについて論じないことで、逆説的に天皇制を延命させている。
1968年の活動家、つまりノンセクト・ラディカルたちがほとんど「転向」していると指摘したのは批評家の絓秀実でしたが[★21]、彼が糾弾したのは、左派も「9条護憲」というかたちで国体論に回収されてしまったということでした。それに対してオルタナティブがあるとしても、せいぜい戦後に留まって戦前へと射程が伸びていない矮小な運動でしかないわけです。参政党の台頭もまた、国体論の空虚な反復になってしまっている。いずれにせよ、国体論に回収されないかたちで政治運動を立て直さなければならないと思うんです。
森脇 それは具体的にはどうやるんですか。
石橋 中国の論客が儒教を読み込んでいるように、われわれも徹底して古典を読もうということです。つまり、ある種のインテリは自分を左派と自認するのではなくて、むしろ徹底的に教養主義者であるべきだと思うんです。
現代の新右翼にしても保守にしても、たとえば福田恒存を真似して「横丁の蕎麦屋を守ろう」と言っているひとばかりがいる。でも、それはほんとうの伝統ではない。あくまでも近代以降の「創られた伝統」にすぎないわけです。
ぼくたち知識人が取り組むべきは、そんなものではない。中国の現代思想家たちが儒教の問題に立ち返り復興させようとしているように、徹底して古典を読み込み、教養を深めていくことではないですか。
森脇 まあ、石橋さんの言わんとすることはわからなくはないですが、いまの中国に学ぶというんだったら、たんに教養を蓄えているだけではだめだということではないでしょうか。むしろインテリの側がある種陰謀家として、日本の過去の伝統から「物語」を切り出してこないといけない。それができなければ参政党に負けるだけでしょう。彼ら以上に魅力的な物語を切り出せなければ、民衆はついてこないわけですから。
しかし、よくよく考えてみると、そのときに参照軸になりそうな天皇も、たしかに日本人に好かれてはいるけれども、「万世一系」的な伝統に深く帰依している日本人なんてほとんど見かけませんよね。だから、ぼくは「天皇」というのが日本の民衆を巻き込むような大きな物語になるかというと、そうは思わない。
植田 皇室に対する謎の期待感は、平成の天皇(現在の上皇)がたまたまリベラルだから成立している幻想ですからね。
石橋 だから結局、戦前と同じ論理でやるしかないわけで……。
植田 戦前と同じ論理!!!
石橋 軍国主義ってことじゃないですよ! 回りくどい言い方にはなりますが、結局戦後というのは「顕教」に踊らされていた80年だったと思うんですよ。そうではなく、「密教」を立て直さないといけないというのがぼくの立場です。
顕教と密教については、戦前のいわゆる天皇機関説事件を例にするとわかりやすい。まず美濃部達吉という法学者が天皇機関説を唱えた。天皇は国家という法人の最高機関であり、憲法や合議に服してその権限を行使するという学説です。当時、これはエリートたちの常識だった。それに対して、「天皇を機関にたとえるとは何事か」と糾弾する、反エリートの国体明徴運動が展開される。つまり大衆向けの顕教によって、天皇機関説という密教が排斥されてしまう事件があったわけです。
戦前の失敗というのはある意味で、インテリは天皇を機関と捉え、その一方で大衆は天皇が万世一系でずっと存在していると信じているという、密教と顕教のねじれにあったとも言える。その反省として、戦後日本では、「リベラル天皇」という顕教のみが前面に出てくる。しかし、それでいいのかと。
森脇 つまり、戦前のようにエリートのあいだで共有された、密教としての教養を復活させるべきだ、ということになるわけですか。
石橋 言い換えると、もういちど「正史」を書くべきだと思うんです。たとえば、われわれが戦前の思想家としてまっさきに思い浮かべるのは西田幾多郎ですが、彼ははっきり言ってほんとうの戦前の中心からは遠いひとだった。右翼思想家にしても北一輝などがいますが、彼は反体制派です。体制の中心にほんとうにいたのは、いわゆる「官学アカデミズム」の人々、つまり加藤弘之や井上哲次郎、和辻哲郎や河野省三といった哲学者・神道学者たちなんです。こちらのほうが目立たない存在ですが、ぼくは彼らにこそ着目すべきだと思っています。官学アカデミズムというのは体制と結びつくということであり、それはすなわち「正史」になるということですから。
戦後の日本は本来傍流のはずの「偽史」ばかりを強調してきた。だとすれば、いまわれわれがすべきは「正史」をもういちど引き受けることでしょう。日本のさかのぼるべき過去はここにあると思います。
森脇 たしかに戦後の日本にはある種の正史コンプレックスがあった。知識人は正しい歴史というものをつくる側にいてはならないというのが戦後日本のアカデミズムでした。だったらそれをつくってしまえというのが石橋さんの立場だということですね。わからなくはないですが、全部は同意できないな……。
石橋 もちろん、たんなるエリート主義になってしまってはいけない。でも、知識人が自分たちの役割を果たさなくなることも問題だと思うんです。
翻訳と歴史のつくりかた
森脇 「正史」をつくっていくというのは、いわば、諸外国と同じようなナショナル・ヒストリーを改めてつくり直していくということですよね。それも大事ですが、ぼくが思うに日本の伝統的な知識人や文学者たちのおもしろさは、彼らがある種の「翻訳」の作業を根気強く行なってきたことにある。中国の文献にしても西洋の文献にしてもそうですが、日本人は外来思想を熱心に勉強し、勝手にリミックスし読み替えてきた。近代までには漢文学者や仏教学者たちがそれを行なってきたし、近代で言えば、福沢諭吉も中江兆民も、夏目漱石も森鴎外もみなそうです。
日本の歴史はやたらと輸入に頼ってきた雑種的な歴史であり、しかし他方ではそうした舶来品を「日本的なるもの」の「正史」にいつも読み替えてしまう暴力的な部分もある。そうした他者の言語との独特の向き合い方に日本の独自性、おもしろさがあるのではないか。たとえば現在にしたって、海外の思想書をここまで第一言語で読める国はおそらくめずらしいでしょう。日本は翻訳大国だと思う。
翻訳には、訳している自分自身の書き方や話し方をまったくちがうものにつくりかえてしまう効果があります。たとえばフランス語には一文が長くなる傾向があります。英語のwhichやwhoにあたる関係詞queやquiで、とにかく文章を後ろから説明していく。だからフランス語ばかりを翻訳していると、自分で書く日本語もだらだら長くなっていってしまう。どうも過去の日本の哲学研究者や批評家もみな通ってきた道だそうで、この世には「フランス語翻訳文体」なる言葉さえある。外国語の翻訳を通じて自国語が変化していってしまう感覚はおもしろいし、たぶん日本の伝統をそういう変化の連続として捉えることができる。実際には、かなり細かく見ないとその変化は捉えられないと思いますが。
伊勢 よくわかります。わたし自身、本をまる2冊翻訳して、はじめて日本語の書き方がすこしわかった気がしました。それは、外国語と日本語のあいだで自分の文体が形成されたということなのかもしれません。
森脇 すこし強い言い方をすると、翻訳は基本的に暴力なんです。だって厳密にいえば、ある外国語にそっくりそのまま対応する日本語があることなんて絶対にないのですから。その言語の持つ多様なニュアンスを犠牲にして、無理やり日本語にしようという、とても乱暴なことをしている。翻訳をするひとはみんなこのことをわかっています。でも、そのことを自覚するためにも、じっさいに翻訳をやらないといけない。そして、ある言語を別の言語に翻訳するためには暴力を振るわないといけないことに気がつくと、他者の言葉に対してリスペクトを払う気持ちが生まれる。
伊勢 そうそう。みなさんもっと翻訳をするべきなんですよ。
植田 「帝国をつくろう」じゃなくて「翻訳をやろう」になってしまった(笑)。せっかくだから聞いておきたいのですが、ジョージア語翻訳者としての五月女さんの意見はどうですか。

五月女 ちょっと感覚がちがいますね。たぶん言葉の位置づけが異なっているんだと思います。ジョージア語が社会のなかでどういう位置かを説明するとき、ぼくがよく使う例があります。それは家電製品を使うときのことなんです。ジョージアでも、はじめて家電を使うときは取扱説明書を読みます。でも、それはだいたいジョージア語では書かれていない。製造年代によっても異なりますが、ロシア語か英語かのどちらかです。つまりジョージア社会では外国語をあるていど読めることが当然となっている。そのような社会で「翻訳」が果たす役割というのは、母語だけで多くのものを読むことができる社会でのそれとはまた異なってきますよね。話者の少ない言語とかかわっていると、どうしてもそういうところに目が行ってしまいます。
それでいうと、言語にかぎらず、ジョージアの状況はやはり中国や日本のそれとはかなりちがっています。今日の議論は、なんというか、「中心」の話だなあと思って聞いていました。今日はフランス、中国、日本の話がメインでしたが、世界史の「中心」ですよね。ジョージアはやっぱり「真の周縁」なんです。
植田 ジョージアの正史がつくられるとしたら、どういう内容になるんですか。
五月女 起源をさかのぼろうとしたら、ギリシア神話に行き着きますね。もっとさかのぼると、原人の骨が出土していたりする。それはどうやらアフリカで誕生した人類が、ジョージアを経由してヨーロッパにコーカソイドとして分布するようになった証拠になるらしい。あとはワインの発祥地とも言われています。
植田 けっこう古代史的な想像力が現れるんですね。
五月女 そのとおりです。ギリシア神話ではアルゴナウタイといって、金羊毛を探しにギリシアからトルコの沿岸をたどっていく冒険団の話なんですが、彼らがたどり着いた先がジョージアだったんです。それで、ぎりぎりギリシア神話に出ているのだから、ジョージアもヨーロッパの一部なのだ、というのが公式のアイデンティティになっている。
森脇 近代的な国民国家としての歴史はどうですか。
五月女 ジョージアはずっとロシア帝国の一部だったわけですが、ロシア革命で帝国が崩壊したことで、その間隙を縫って、まず1918年から21年の3年間だけ独立するんです。その後ふたたびソヴィエトによって侵略されてしまうのですが、19世紀以来醸成されてきた「ジョージア人」というアイデンティティの形成において、この短期間の独立が決定的に重要だった。そして最終的には、ソ連崩壊後にふたたび独立を獲得する。
植田 でも、その侵略者たるソヴィエトを仕切っていたのはジョージア人であるスターリンだったわけですよね。そこがジョージアのおもしろいところではないかと思います。
五月女 いや、スターリンはジョージア人のなかではジョージア人ではないことになっていまして……。
植田 ええ、どうして。
五月女 スターリンは「ジョージア人」ではなく、「ソヴィエト人」というアイデンティティを創ったとされるんです。もちろんスターリン支持者もいますが、年長者が多いですね。
ジョージアにかぎらず、コーカサスは言語や宗教がモザイク状に分布している。「ジョージア人」はかなり定義しにくいんですよ。ある民族主義の作家は「言語、宗教、大地がジョージア人の宝物だ」と言っている。つまり、ジョージア語と正教と領土がジョージア人のアイデンティティを形成しているというわけです。言語と宗教はアイデンティティの拠り所として大きいですね。たとえば現在のトルコとの国境地帯にはかつて、ジョージア語を話すが、宗教はイスラーム教を信仰しているというひとたちがいた。そのひとたちを正教に改宗させて「ジョージア人」に戻すというような運動を19世紀からずっとやっていたんです。
ただしこれはユーラシア主義や天下主義のような今回話題になったような帝国主義的思想ではない。つまり、ジョージアには帝国への欲望がないわけです。だって、どう見ても大国ではありませんから。
植田 小国でも、やろうと思えば「大ジョージア主義」を唱えることもできそうですが、そういう思想家もあらわれていない?
五月女 たしかに12世紀のジョージア黄金時代には、いまのアゼルバイジャンからカスピ海、そして黒海までを全部統一していた。参照点があるとすればそこですね。文化的には「東方のルネッサンス」と呼ばれたりします[★22]。かといって、それをいまから取り戻すのはむずかしいでしょうね。
さきほど森脇さんが柄谷の『帝国の構造』を引いていましたが、あの話でいうと、「帝国のなかでは多民族が前提とされ、そのなかではあるていどの平和がある」ときに、つねに「小さい側」に立たされているのがジョージアのような小国の現実なんです。今回の座談会ではユーラシア主義や天下主義やアジア主義といった大きな枠組みの話になりましたが、ジョージアという国家や民族はつねにこういった動きに取り込まれていく側として存在している。ぼくはその「取り込まれていく側」のほうにどうしても興味が向いてしまうんです。
帝国の時代をどう乗り越えるか
植田 さてここまで、「帝国」を切り口にしてわたしたちが直面している時代についていろいろと議論を重ねてきたわけですが、最後に、この時代をどう乗り越えるか、みなさんの意見をうかがいたいです。
森脇 ぼくの専門であるフランスの哲学者ジャック・デリダが、晩年に「歓待」ということを言っています。平たくいうと、ヨーロッパ的な理念としてわれわれは移民や他民族を歓待しなければいけない、そして究極的にはそれは無条件でなければならないという話です。ただし、これはとにかく評判が悪い主張で、ジャック・ランシエールやシャンタル・ムフをはじめ、さまざまな理論家が批判している。「無条件の歓待」なんて、あまりに抽象的すぎる概念だからです。とうぜん「移民を無条件に受け容れるなんて不可能だろう」とだれもが思う。
しかし、デリダの歓待論をよく読むと、「歓待というヨーロッパ的な理念のもとで移民を受け容れる」という話ではなく、「歓待というヨーロッパ的な理念それ自体が他者を受け容れなければならない」という入り組んだロジックになっているんです。たしかに政治のレベルでは移民の歓待には条件が必要だけれども、その傍らで、ヨーロッパが移民を歓待するというこの論理自体が他者によって問いに付される必要がある。そしてそれこそが無条件の歓待だ、というわけです。
その文脈で考えたとき、たとえばタラル・アサドというサウジアラビア出身の人類学者が「ポスト世俗」ということを言っているのは非常に興味深い[★23]。ポスト世俗は、正義や自由といった普遍的概念の終わりを意味しています。近代国家は、建前として政教分離──一方に特殊で私的な信仰としての「宗教」があって、他方には普遍的で公的な「政治」がある──を採用してきたわけですが、アサドはそういう宗教/世俗自体が、キリスト教由来の規範的な区分であると暴いてしまう。そうすると、宗教を超えて中立的・普遍的な正義の理念を追求できるという前提自体が崩れてしまう。そういう時代にあって、どのようにしてユーラシア主義や天下主義や新オスマン主義を批判するロジックをつくるのか、これこそがぼくにとっての問題なんです。デリダの「歓待」というのは、まさにこうしたポスト世俗時代、つまりヨーロッパ的正義の理念の終わりのあとで、いかにしてオルタナティブな政治を立ち上げるかという文脈で理解されるべきなのです。
五月女 デリダの言っていることは、新しい「帝国」たちがみずからの圏域を再設定し、従来のヨーロッパ的な正義とは別の価値観や秩序を立ち上げようとしているいま、とてもアクチュアルに響きますね。
森脇 そうなんです。だからぼくは、新しい帝国たちが取り組んでいる「地理の再設定」という方法を逆用できるような気がしています。「ストリートの思想」が右派も左派ももちいることのできる中立的な方法論であるならば、「地理の再設定」も同じはずではないか。いまは右派的、帝国主義的な勢力によって使われていますが、それを左派の側が使ってもいいはずです。そのときには、石橋さんが言っていた「正史」をつくること、つまり「歴史の再設定」も必要だと思います。歴史と地理の再設定、いわば時空間の再設定こそが、これからわたしたちが取り組むべき課題なのではないでしょうか。
伊勢 じつは天下主義者のなかにも、非常にマイノリティではありますが、東アジアにEUのような共同体をつくろう、と言っているひとがいる。それを「天下」の名のもとにやろうということです。これは『普遍的価値を求める』というタイトルで日本語にも翻訳されています[★24]。著者の許紀霖は中国ではあまり多くないリベラル知識人なんですが、彼はわたしがさきほど紹介した国家主義と結託した危うい天下主義を批判しながら、脱中心化されたリベラルな共同体を「天下」という名前で実現していこうと主張している。これも「地理の再設定」を逆用しているひとつの例です。
ただ、これもべつに手放しで賛同できるようなものではない。たとえばこのひとはリベラルですから、天下とは言うものの天子や皇帝、つまりトップの人間は置くべきではないと言っている。なんとか制約をつけて天下主義を東アジアの連帯に転換しようとしているわけです。そこまで別のものにしようとするならもはや「天下」と呼ばなくてもいいだろうという気もしますが、いまその言葉が露骨な帝国主義運動に援用されようとしているなか、それに対抗するための戦略ということであれば意義があるのかもしれない。森脇さんの言った「時空間の再設定」という意味では、たしかに天下は東アジアを中心とする領域のみを意味するものだったわけで、歴史的にいえば許紀霖のほうに正当性があります。
ちなみにこのひとは鳩山由紀夫をすごく高く評価していたりします。東アジア共同体を推していたから。失敗したけど、彼はすごかった、というふうに。
石橋 東アジア共同体についてはちゃんと再評価するべきですね。
伊勢 もちろん実現にはさまざまな壁がある。そもそも中国の一帯一路構想はアフリカや中央アジアのほうに向かっていて、東アジアのほうには向いていない。中国は東アジアの連帯をそんなに望んでいなさそうな気がするんです。日本は日本で、おそらく東アジアで連帯しようという雰囲気は醸成しづらいでしょう。最近日本での韓国や中国への印象についていろいろ統計をとったら、韓国に対しては半分ぐらいが好意的な印象を抱いている。韓国の日本に対する印象も過去最高らしい。でも、中国に対しては1割少々しか好意的な印象はないんです[★25]。だからおそらく、東アジアでの連帯はすぐにはできそうにない。
しかし、わたしはそれでもなお、東アジアの連帯は実現してほしいと願っています。大東亜共栄圏は悲惨な結果に終わったし、天下主義もおそらくうまくはいかない。EUをモデルにするといっても、共同体のなかでの力関係は厳然と存在する。東アジア共同体ができても、結局中国一強になるだけなのかもしれない。仮に中国共産党が崩壊して別の政権が誕生したとしても、それで万事よい方向に進むとは限らない。共産党の全国的な下部組織はきわめて緻密に構成されていますから、政権交代にともなう社会の変動や混乱は日本や韓国の比ではありません。わたしは共産党の支持者ではありませんが、しかしラディカルな「民主化」がほんとうに中国の方々にとって最善なのかについては、なんとも言えないのが正直なところです。
ですから、いま対話や交流を進めるのとは別の次元で、いわば未来に実現するかもしれない連帯にむけて、東アジアの哲学をたんに研究するだけでなくちゃんと実践的に使えるものとして提示していくことが重要だと思っています。いまwebゲンロンで「料理と宇宙技芸」という連載をやっているんですが、そこでわたしは中国料理と中国哲学を結びつけて考えています[★26]。中国哲学を経由すると、厨房に立ったり麻婆豆腐を食べたりするときの体験の質が変わるんですよ。
森脇 麻婆豆腐を食べるときに中国思想が現れる。それはおもしろいですね。
伊勢 じつは麻婆豆腐は中国の宇宙哲学と密接に関わっていて……という話はここではやめておきますが、いずれにしても哲学は哲学のなかだけに閉じ込もっているより、実践と結びついたほうがいいだろうと思っています。
森脇 ぼくも同意します。先ほど触れたとおり「陰謀論者ではなく陰謀家になろう」ということを最近言うことにしているんですが、それはまさしく、思想と実践をつなげようということなんです。陰謀を論じるくらいなら、いっそ実践してしまうべきでしょう。
植田 それって戦前の言葉遣いだと「大陸浪人」になるのでは(笑)。まさしく帝国の時代のひとつの代表的な人物像です。
もちろんぼくたちは、先行世代の大陸浪人たちが戦争へと突き進んでいったことを知っています。だから同じ失敗を繰り返してもおもしろくない。ただ、みずからの野心や立身出世のために日本を飛びだし、ユーラシア大陸へと渡っていった大陸浪人たちの判断には、強い同時代性も感じるんです。端的にいえば、共感がある。
いま時代は「帝国をつくろう」とわたしたちに呼びかけています。それにどう応えるか、各自が問われています。大陸浪人というのは、そのような時代の条件をめいっぱい受け止め、活かそうとした人たちにみえる。だけど、ぼくは戦争も侵略もやりたくない。というわけで、別のかたちで道筋を探りあてたいですね。それが帝国の時代に思想が果たすべき役割なのでしょう。
2025年8月20日
東京、ゲンロン事務所
構成・撮影・注=編集部
★1 東浩紀「2025年は節目の年 次の四半世紀はどうなるか」、AERA DIGITAL、2025年12月23日。URL=https://dot.asahi.com/articles/-/272383
★2 以下の記事を参照。「トランプ氏が掲げる「ドンロー主義」、いつから使われるようになったのか」、CNN、2026年1月6日。URL=https://www.cnn.co.jp/usa/35242343.html
★3 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』、水嶋一憲、酒井隆史、浜邦彦、吉田俊実訳、以文社、2003年。
★4 かつてどのような夢がスマホやSNSに託され、挫折していったかについては、以下を参照されたい。ゼイナップ・トゥフェックチー『ツイッターと催涙ガス──ネット時代の政治運動における強さと脆さ』、毛利嘉孝監修、中林敦子訳、Pヴァイン、2018年。
★5 以下を参照。今井宏平「アイデンティティから読み解くトルコ外交」、『国際政治』第207号、日本国際政治学会、2022年。
★6 インドのヒンドゥー化は、2025年に開催された大阪・関西万博で、インド・パヴィリオンが国名を「バーラト」(ヒンドゥー語での名称)と表記したことで注目を集めた。その世界観は、インドの外務大臣が執筆したつぎの書物などで読むことができる。S・ジャイシャンカル『インド外交の新たな戦略──なぜ「バーラト」が重要なのか』、笠井亮平訳、白水社、2025年。
★7 アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート『アセンブリ──新たな民主主義の編成』、水嶋一憲、佐藤嘉幸、箱田徹、飯村祥之訳、岩波書店、2022年。
★8 同書、第9章。
★9 左派ポピュリズムの主張と意義については、以下を参照。山本圭『現代民主主義──指導者論から熟議、ポピュリズムまで』、中公新書、2021年。
★10 “Georgia's North-South Corridor KK Highway Gudauri Tunnel Breakthrough Achieved”, China Railway Group Limited, May 8th, 2024. URL=https://www.crecg.com/zgztywz/cs11/10210606/2025021110100668973/index.html
★11 カーティスの政治的立場については以下の記事が参考になる。李舜志「「アメリカはCEO独裁によって統治されるべきか?──カーティス・ヤーヴィンVSグレン・ワイル」要約&レビュー」、note、2025年9月5日。 URL=https://note.com/chic_borage2648/n/ne5e7100346b9
★12 Nicholas Vinocur, “How Marine Le Pen turned respectable (and why you shouldn't be fooled),” POLITICO, Feb. 12th, 2024. URL=https://www.politico.eu/article/marine-le-pen-turned-respectable-france-presidential-election/
★13 会田弘継『それでもなぜ、トランプは支持されるのか──アメリカ地殻変動の思想史』、東洋経済新報社、2024年。
★14 「中国の若者に広がる「寝そべり族」 向上心がなく消費もしない寝そべっているだけ主義」、『クーリエ・ジャポン』、2021年6月7日。URL=https://courrier.jp/news/archives/248461/
★15 梶谷懐、高口康太『幸福な監視国家・中国』、NHK出版新書、2019年。
★16 以下を参照。ジミー・ソニ『創始者たち──イーロン・マスク、ピーター・ティールと世界一のリスクテイカーたちの薄氷の伝説』、櫻井祐子訳、ダイヤモンド社、2023年。
★17 この概念を紹介する書籍に以下がある。アルフレッド・W・クロスビー『ヨーロッパの帝国主義──生態学的視点から歴史を見る』、佐々木昭夫訳、ちくま学芸文庫、2017年。
★18 おもな著作に以下がある。刘小枫,《儒教与民族国家》(北京:华夏出版社,2015年)。
★19 柄谷行人『帝国の構造──中心・周辺・亜周辺』、岩波現代文庫、2023年。
★20 三島由紀夫『文化防衛論』、ちくま文庫、2006年。
★21 絓秀実『1968年』、ちくま新書、2006年。
★22 ニコライ・コンラド『東洋と西洋──東方のルネッサンス』、大沢正ほか訳、理論社、1969年。
★23 タラル・アサド『リベラル国家と宗教──世俗主義と翻訳について』、茢田真司訳、人文書院、2021年。
★24 許紀霖『普遍的価値を求める──中国現代思想の新潮流』、中島隆博、王前監訳、法政大学出版局、2020年。
★25 座談会収録後に最新の調査結果が公表された。以下を参照。「日本好印象、過去最高を更新 韓国世論調査、52.4%」、共同通信、2025年8月28日。URL=https://www.47news.jp/13076592.html 内閣府「外交に関する世論調査(令和7年9月調査)」。URL=https://survey.gov-online.go.jp/diplomacy_defense/202511/r07/r07-gaiko/
★26 伊勢康平「料理と宇宙技芸」、webゲンロン。URL=https://webgenron.com/series/ise_01



石橋直樹

伊勢康平

五月女颯

森脇透青

植田将暉
『ゲンロンy 創刊号』
- ついに発売!『ゲンロンy 創刊号』はウェブでも読める
- 【全文無料】『ゲンロンy 創刊号』編集後記|植田将暉+五月女颯+森脇透青+栁田詩織
- ヒューモアとしての菜食主義|河村賢
- 簒奪される空間体験|四宮駿介
- 口腔表現のルネサンス──なぜ若者は口で音楽を奏でるのか?|杉村一馬
- 共病のすすめ──フリーダ・カーロと病いを生きること|のしりこ
- 『ゲンロンy 創刊号』投稿論文──総評・投稿作品一覧
- 瀬戸内海に権利はあるか──自然の権利2.0と憲法学の想像力|植田将暉
- 無垢なる自然よ現われよ──パソナの地域開発と淡路島|林凌
- 四国には日本のすべてがある|三宅香帆+谷頭和希+植田将暉
- 政治認識論の意義 惑星的なものにかんする覚書 第6回|ユク・ホイ 訳=伊勢康平
- デジタル帝国と電車男──専制と民主主義のはざまで|李舜志
- はてなき天下の夢──現代中国の「新世界秩序」について|伊勢康平
- 陰謀論を育てる──ジョージアのディープな夢|五月女颯
- 新しい帝国とその時代|石橋直樹+伊勢康平+五月女颯+森脇透青+植田将暉
- 聖なるルーシと狂った夢──戦時下のロシアから|大崎果歩
- 天球から怪物へ──国学の図像的想像力|石橋直樹
- フィンガーメイド時代の芸術作品|布施琳太郎
- 陰謀の手応え──擬人の時代について|森脇透青
- 指先から考える──導入のための短い会話|森脇透青+布施琳太郎+石橋直樹+植田将暉
- タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版 タイ現代文学ノート #12|福冨渉
- 斉藤さんへ|伊藤亜和
- AIにメンケアされる私たち──感情労働はいかに代替可能か|佐々木チワワ
- The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉
- 令和カルチャーって、なに|森脇透青+山内萌+吉田とらじろう+植田将暉
- かわいいDIY|山内萌
- 【全文無料】創刊にあたって|『ゲンロンy』創刊号編集委員



