タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版 タイ現代文学ノート #12|福冨渉
ゲンロンの編集部から「令和カルチャー」の特集内に入るかたちでタイのことについて書いてほしいという依頼をいただいた。どうしたものか、どうしたものかと悩んでなにも書けないうちに、2年半ぶりのバンコク渡航の機会が訪れた。5日間程度の滞在だったのだが、ずいぶん視界がクリアになり書けそうな気持ちになってきている。やはり困ったときは現地に行くに限る。
今回筆者は、タイの旅行会社と協力して、タイの「本」をめぐる一般向けの観光ツアーというものを企画した。本連載でもたびたび取り上げている年2回の大型ブックフェアの時期にバンコクへ渡航してフェアを見学。さらに作家、出版社、独立系書店など、現代のタイの出版業界の関係者に話を聞いてみるという旅だ。
ツアー自体の詳細はまたどこかで書いたり話したりしようと思うが、ツアーのなかで、ゲンロンにも寄稿したことのある小説家ウティット・ヘーマムーン(อุทิศ เหมะมูล)に会って話を聞くというプログラムをセッティングした。きわめて政治的な純文学の作家が現代のタイでどう生計を立てているのかという話や、創作方法に関しての話を起点にしたのだが、気がつくと、なぜかツアー参加者たちがウティットに人生相談をするという空間になっていた。本人も本人でいつにも増した饒舌さで、(ワイングラスを片手に)自身の執筆にまつわる思想や方法論をもって真摯に参加者たちの悩みに応えていき、その言葉に感極まって涙するひとが出るほどだった。こう書くと怪しげな自己啓発サークルの集会のようでもあるが、実際になかなか神秘的な時間だったと思う。
さてそんな対話のなかで、ある参加者への回答として、ウティットがこんな話をしていた。いわく、自分にとっての創作というのは、自身の思想や魂に形式を与えることである。かたちのないもののために「蛹」をつくって、人々のまえに置くようなことなのだと。今度はこの「蛹」という単語に反応して、若いクリエイターの参加者が聞く。その蛹が羽化して蝶になるのはどういうときなのか。
通訳をしながらだったのでダイアローグの順番の記憶があいまいなのだが、その問いに並行してさらに別の参加者からこんな質問があった。ウティットがアジアで芸術を学びながら生きていくなかで、西洋的な教養や規範を受け入れることと、アジア的なものとのあいだの齟齬や葛藤はなかったのか。
かれからは「蛹」と絡めてこんな回答があった。西洋的な自己や自我の感覚とアジアのそれとは違う。自分は、つくり上げた作品に自我が宿るというような感覚はもっていない。魂にかたちを与えて蛹にしてほかのひとがそれに触れられるようになったら、自我はまた次の創作のためにほかの場所に行く。そこにある本は抜け殻のようなもので、中身は空っぽだ。だからその空っぽの蛹が羽化して蝶になることもない。
そんなウティットの言葉を聞きながらふと、2年半ぶりのバンコクの風景のなかで目に留まったもののことを思い出した。カプセルトイの自販機だ。


福冨渉




