陰謀の手応え──擬人の時代について|森脇透青

「ひゅーんと下へ、どこまでも。これって終わりがないのかしら?」。白ウサギを追ってアリスは「ラビット・ホール」に滑り落ちる。長い長い落下ののち、枯れ葉の山のクッションに落ちたアリスは、地下に広がる異世界を見つける──。
しばしば、陰謀論への傾倒は『不思議の国のアリス』の隠喩によって語られる。彼らは、「ラビット・ホール」に落ちて別世界に行ってしまったのだ、と。この「不思議の国」を歩いていくためのガイドマップとして、アメリカのアーティスト、ディラン・ルイス・モンローの描いた《Qウェブ》を挙げておこう[座談会「指先から考える」を参照]。
おそらくあなたも、「ディープ・ステート」や「光の戦士」といった言葉が並び立つ似たような地図を見たことがあるだろう。モンローのこの地図はそれを極端に大きくしたもので、陰謀論的な思考様式が強く表れている。アトランティスからフリーメイソン、ナチス、月面着陸、5G、爬虫類人、現代の金融資本・メディア支配までが同一平面上に置かれ、「すべてが繋がっている」様が描かれた地図。だが、それは近代的な「地図」では明らかにない。そこでは空間性と時間性がきわめて恣意的に並列されており、地図としては破綻しているからだ。それはむしろ、節点と線 からなる一種のグラフ、特殊な「重みづけ」がなされたグラフのようだ。
こうした世界を「荒唐無稽な妄想」の一言で片付けることは簡単だし、実際になされている。だがそのような相対化が滑稽に見えるほど、現代、陰謀論的思考は政治や文化に浸透している。政治家は陰謀論的なスペクタクルを巧みに使い権力を獲得し、インフルエンサーたちはビジネスとして陰謀論を活用する。そのようにして「陰謀」の観念は爆発的に広がっていく。
陰謀論者が「マイノリティ」ではないことは確実だ。そもそも現代は誰にとっても、あらゆる確信が揺らがされる時代である。あの匿名的なアカウント群はbotなのではないか、あるいは、あの画像や動画はディープ・フェイクなのではないか──あらゆる確信が宙吊りにされるとき、すべての出来事の背景に、私たちは不可視の権力の「匂わせ」を嗅ぎとる。疑惑と確信はすぐに手を取り合う。すべてを疑うと称する懐疑とショート動画を鵜呑みにする態度はいつもよろしくやっている。
そうした先鋭化のなかでは、「エビデンス」によって闘うことも、あるいは「ネガティヴ・ケイパビリティ」を要求する営みも、ささやかな力しかもたないように見える。批判は祈りのようなもの、一種の「信仰」に近づく。つまり、彼らが信じるものとは異なるものを私たちは信じるのだ、と。その信仰告白はさらに、すべてが横並びの泥沼──「信じるか信じないかはあなた次第」──に足をとられてしまう……。
このようにして「知ること」と「信じること」の関係に深刻な亀裂が入ってしまった「パラレルワールド」状況を私たちは生きている[★1]。陰謀論とは、複数の世界が並立し衝突するこの「世界戦」を特徴づける、もっとも際立った現象である。
急ぐべきなのは、個々の陰謀論的事象そのものの分析にとどまらない批評の仕事である[★2]。つまり、むしろ陰謀論的思考とそれを生み出している社会状況を分析すること──陰謀論の「概念」を練り上げることだ。陰謀論は、現代を理解するためのひとつの歪んだ鏡である。それは「人間」でも「動物」でもない者たちが蠢く擬人の時代が要請する、必然的な現象なのだ。
1 「ぞっとするもの」のパンデミック
まず「陰謀論」と呼ばれるものについて分析することからはじめよう(第1章)。その分析の途上で私たちは、この概念が「陰謀論者」と呼ばれる一部の人間に固有のものではなく、むしろ現代文化の広範な領域に共有されたひとつの思考様式、ぞっとするものをめぐる思考であることを発見する。陰謀論は現代にはじまったものではないが、しかし同時にきわめて現代的な事象でもある。そしてその後、私たちの考察は、こうした思考様式が発生してくる「環境」、私たちが擬人の時代と呼ぶものについての考察に向かう(第2章)。
あえて要約しておけば、私たちの批評は第1章が「文化論的」に、第2章は「メディア論的」に進む──一種の〈手応え〉が、このふたつのパートを結ぶ蝶番となるだろう。
A 変な世界
陰謀論的な思考の一般的な特徴を描出するために、すぐれた例を挙げよう。ホラー作品『変な家』である。
語り手の雨穴と設計士の栗原が不可解な間取り図の謎を解き明かしていくこの作品は、多数の媒体を通じて発表され大いに反響を呼んだ。ウェブメディア「オモコロ」で最初に発表されたこともあって、この作品はライターの取材記事というモキュメンタリーの体裁をとっている。
探偵小説は部屋や家屋の空間性に対するまなざしからはじまった[★3]。その題からもわかるように、『変な家』はひとまず、その伝統に忠実である。そのまなざしはこの作品内で、「間取り図」というきわめて日常的な図像に向けられている。そしてこの間取り図がパズルとなるところから、日常と非日常が交錯する一種の恐怖が引き出されるのだ──いまあなたが住んでいるその部屋でも、かつて誰かが死に、殺されているのではないか?
このような恐怖の情動について、イギリスの批評家マーク・フィッシャーが晩年に提唱した「ぞっとするものthe eerie」という概念を援用しよう。彼によれば、それにはふたつの性質がある[★4]。
第一に、無いはずのものがある感覚である(不在の失敗)。暗い森で聞く鳥の鳴き声に私たちが「ぞっとする」のは、そこに無いはずの意図が感じられるからだ。人でないもの(それが動物であろうが事物であろうが)のなかに何らかの人為性が発見されるとき、それはぞっとするものになる──たんなる「枯れ尾花」の影や音が、あたかも意図をもって動いているかのように体験されるのである。
第二に、あるはずのものが無い感覚である(現前の失敗)。たとえばモアイ像やストーンヘンジは、「象徴的構造が朽ち果ててしまっている」ために、それらが形成されるに至った意図や、そこで起きた出来事を読み取ることができない。フィッシャーによればそのような古代の痕跡は、現在の文明もまたいずれ同じく解読不可能なモニュメントへと瓦解していくのではないかという、ポスト・アポカリプス的な恐怖を呼び起こす。
いずれにせよぞっとするものを、フィッシャーは何らかの理由でそこには存在しない(しなくなった)「行為主体性 agency」の幻視によって特徴づける。「行為主体性」とは、一定の意思決定をなし、みずから行動して外界に作用を及ぼす「行為者 agent」の性質を指す概念だ。
ぞっとするものの観点からすれば、『変な家』は非常にシンプルな物語である。この作品がぞっとさせるのは、まさにその第一の性質、無いはずのところに行為主体性が発見される経験から説明できる。作品冒頭、第1章「変な家」に登場する不可解な間取りについて、栗原は断言する。「一つ言えるのは、これが意図的に作られたものだということですね[★5]」──このはじまりの宣言が作品全体を支え、間取り図の図像分析を条件づける。やがて推理は、1階に存在する不可解な余白の空間を発見し、それがふたつのフロアのあいだで重なり合うことに辿り着く。「予想に反して「それ」はあまりにもぴったりと一致した。/偶然だろうか。それとも……[★6]」。
この「ぴったりと一致した」、「ぴったりと重なる」空間は、ふたつの間取り図にまたがる立体的な通路であると推理されることになる。この発見はさらに、そこに隠されていた事件の全貌を明らかにしていく……。しかし、この最初の「意図」の前提なしには、つまり何らかの行為主体性を仮定することがなければ、間取り図のなかの「謎の空間」が立体化し三次元化されることはありえない。それはただの欠陥でしかなく、「変な家」はただの「変な家」でしかない。しかしそれは偶然でもミスでもなかった。そこに誰かがいるのだ。
『変な家』とは間取り図のなかにぞっとするもの、つまり無いはずの行為主体性を発見する物語である。この物語の結末自体はたんに凡庸なものだ[★7]。しかしそれでもこの考察の過程は、すぐれて陰謀論的な想像力を説明するものとして、ある種の現代性をもっていると私たちは考えている。
その現代性をより深く理解するために、先に『変な家』と伝統的な探偵小説との差異を際立たせておこう。オーソドックスな探偵小説においては、殺人事件が生じ、そこにトリックとしての密室があることから出発して、その状況を作り出した行為主体=犯人が探し出される。ここでは、殺人の出来事と状況の人為性から、そこに行為主体=犯人が存在することは自明であり、物語全体の前提となる。
ところが『変な家』においては、まず密室(不可解な余白)を発見するところから──つまりはそれが「変」であることに気づくところから、すべての推理がはじまる。密室の発見に端を発してふたつの間取り図を「ぴったりと」照合させるとき、そこに立ち現れる立体的通路の存在は人為性(行為主体性)を確信させる。次いでその「ぞっとする」確信が、奇妙な殺人計画の推理へと繋がっていく。
人為性(密室)の発見が、殺人の出来事と殺人者の存在の仮定へと連携していくというこの過程は、探偵小説とある意味で逆の順序を辿っている。この順序の逆転によって、『変な家』は一定のダイナミズムを体現している。このように隠されていた意図の存在が徐々に浮かび上がっていくとき、はじめて私たちは「ぞっとする」のである。だからこそ厳密な意味で、『変な家』はぞっとするものの物語だと言えるのだ。そしてこの物語が「現代的」であるのもまた、この順序の逆転においてである。陰謀論的思考の原理は、まさに伝統的探偵小説と「逆の」順序、行為主体性を「匂わせ」る余白を「変な」ものとして感受することからはじまる。「変」から人為性の確信へ、そして事件の全体像へと迫っていくというこの思考の筋道において、『変な家』は、現代的な陰謀論的思考の類型を描いている。
陰謀論的思考は大きく以下の二段階から整理できるだろう。その第一段階において私たちは、意識しない「変な」細部に潜在している行為主体性の可能性を発見し、ぞっとする。そして第二段階は、その細部の発見をトリック(人為的なもの)とみなし、推理を継続していくことで得られる。ここで推理は、ひとつの人為性をより壮大な関係の網の目のなかに位置づけ、拡張していく。こうして「ぞっとする」感覚は、すべてが「ぴったりと重なる」シンクロニシティの〈手応え〉において、世界の全体を説明するものへと膨張していくのである。
ぞっとして/ぴったりする。このようにして陰謀論者は、世界そのものを異質な「間取り」=「変な世界」として発見するのである──「偶然だろうか。それとも……」。
B 増殖する行為主体性──動物の時代の終わり
無いはずの行為主体性の発見。ぞっとして/ぴったりするというこの〈手応え〉は、おそらく現代的なサブカルチャーの多くに共有され、時代の想像力を規定している。議論の射程を広げるために、より広範に現代文化を特徴づけてみよう。
まず身近なところで、さまざまなフィクション作品についての考察を思い起こしたい──『ONE PIECE』や『名探偵コナン』等にまつわる作品解釈がその典型であるように、考察文化は作品内に意味深な「伏線」の数々を見つけ出す。感知していなかったところに伏線を見つけたとき、まさに読者は一度、ぞっとするものに触れる。つまり無いはずのところに実は作者の意図があることに気づき、それがあまりに「ぴったり重な」って作品の全体を説明できてしまうとき、読者はその経験に鳥肌が立つ。
現代的なコンテンツの多くは、このぞっとして/ぴったりする〈手応え〉を当初からビルトインしている。その多くは、消費者自身がその謎解き過程に巻き込まれ体験していく、インタラクティブなゲーム的構成を取る。意味ありげでわざとらしい表象による「匂わせ」は、その背後の意図を読み取り、「切り抜き」の数々を整合的に解釈し、秘密を暴露し、答え合わせをしたいという欲望を刺激する。「あー納得いかない納得いかない納得いかない![……]どうしてこうなったか、考察しないと前に進めない[★8]」。
ホラー、モキュメンタリー、脱出ゲーム、クイズ、考察……そうした諸ジャンルの覇権と流行を、現代に蔓延する陰謀論的想像力に由来する現象と捉えるならば、この時代を説明する力をもつものとなる。現代に潜在する異常なほどに強い欲望とは、空間のなかに行為主体性を探すことだ。このようにしてぞっとするものにとり憑かれた思考様式を、私たちは広い意味で陰謀論と呼ぶ。陰謀論は時代のフォーマットなのである。
行為主体性の増殖は、文化論にとってどのような意味をもっているのだろうか。現代におけるもうひとつの際立った特徴、「萌え」から「推し」への大移動について論じておこう。かつての批評で、オタクは、「作者」も「物語」も必要としないような、断片的な「萌え要素」への中毒的没入によって特徴づけられていた(東浩紀『動物化するポストモダン』)。よく知られるように、こうしたオタクの出現はまた「動物化」とも呼ばれる。哲学者アレクサンドル・コジェーヴによれば「人間」とは、自身に与えられた環境(自然)から脱し自ら発展していく存在であり、他者との相互的な応答関係=コミュニケーションを通じて承認されることを「欲望」する。ところが「動物」は欲望をもたず、よりプリミティブで孤独で自閉的な「欲求」の充足/不足だけを基準に生きる。
ポストモダン化(「大きな物語」の崩壊)とは、トータルなコミュニケーションを目指す人間的「欲望」から、断片へのアディクションで充足する動物的「欲求」への移動(動物化)と理解された。「動物」としてのオタクにとっては、ただ「萌える」記号の集積だけがあればよい。「オタク」は、このように編み合わされた「記号」に対する(ときに性的な)情動をもつという点で、1990年代以降の時代を象徴する「トライブ(種族)」であった。
それに対し、「推し」の対象は、「萌え」のように断片的に「消費」されるのではなく、トータルに「解釈」され「考察」される。ここでは、断片は断片であることはできない。推しの一挙手一投足は「解釈」の対象であり、その解釈は、そうした背景にトータルな人格、言い換えれば一個の行為主体を発見しようとする。現代のオタクが推しの「レス」に感動し、「見えそうで見えない秘密」(YOASOBI「アイドル」)に情動をかきたてられるのは、そこに行為主体性を前提するからこそである。
このような解釈の営為はまた、解釈者のアイデンティティの感覚と連動するものでもある。「あたしのスタンスは作品も人もまるごと解釈し続けることだった。推しの見る世界を見たかった」、「推しを解釈して、推しをわかろうとした。その存在をたしかに感じることで、あたしはあたし自身の存在を感じようとした」(宇佐見りん『推し、燃ゆ』[★9])。他者の解釈を通じた自己理解──この「解釈学的」な図式のなかに、「動物」の時代から「人間」の時代への逆流を見てとるべきだろうか? だが、事態はそれほど単純ではない。
想起しておかなくてはならないのは、「私の推しが……」「あなたの推しは……」と語られるような日常的な会話の場面である。そこでは多くの場合、その推しの固有名や人格それ自体のディテールは語られる必要がない。そうしたコミュニケーションにおいて交換されているのは、ひたすら、各々が推している誰かがとにかく存在しており、その推しを通じて各々がアイデンティティを確立している、という事実でしかない。「推し」はなんでも代入可能な空虚な箱である。行き過ぎた「解釈違い」が生じればその中身はいつでも交換可能(「推し変」可能)であって、どれだけ推しへの感情や崇敬が大きいとしても、解釈者の側にこそ大いなる権威がある(『推し、燃ゆ』は、その解釈の暴力が自覚される物語として、一定の倫理的価値をもつ)。
だから、動物の時代から人間の時代への逆流が仮にあるとしても、それは単純に作者の権威の復権とか、近代的な物語の復活を意味するのではない。むしろ、考察を進めるためには作者がどこかにいなければならない、と考えられているのである。
最初に真理(作者の意図)があってそれが作品に反映され、読者がそれを言い当てるのではない。事態は逆である。現代人は、無いはずのところに意図を発見するというギャップの快楽、「匂わせ」からゴシップを暴く快楽に耽溺し、消費している。しかしそうした快楽は、作品内に秘密の「隠された意図」がある、という前提から出発しないかぎり生じない。それがあらかじめデザインされたものだった、と事後的に気づくような仕掛け(伏線回収)がなければ、読者は考察を進めることができない──ぞっとできない。そこから必然的に、行為主体性が要請されるのである。解釈に対しては、正解がなければならない。正解がありさえすれば、解釈/考察は成り立つ。その中身はなんでもよいのだ。
このロジックは、『変な家』に見た推理の順序(密室の発見→犯人の推定)ともまったく同型である。変な密室=コンテンツが発見されたならば、そこに犯人の意図=作者の行為主体性がなければならない。陰謀論者もまた、自身を取り囲む「変な世界」に行為主体性──「作者」の存在を仮定する。密室があるなら犯人がいなければならない。陰謀論者にとって、世界は密室でできている。そこに行為者がいなければ、ぞっとして/ぴったりする〈手応え〉がなければ、世界はただの解けない密室、つまり不条理になってしまう。
だから現代の「作者」の復活は、作者が作品に対してもつ権威の復活などではない。権威はあくまで読者の側にある。作者は、読者の欲望に要請されるかたちで、その作品全体の真理が存在することの前提として要請される。事実上そこに意図があるかどうかが問題なのではない。行為主体性は存在しなければならないのだ。
考察、推し、陰謀論……行為主体性の過剰な増殖がこれらの文化を結びつける。そしてそれはまた、2010年代の後半から現在までの社会状況の変遷を説明するものでもある。そこに垣間見えるのは、動物的消費のユートピアが終わりゆく光景である。「ポストモダン化」によって生じる変動──作者から二次創作へ、物語からデータベースへ、人間から動物へ。現代では、その時代からさらなる移動が生じている。「萌え」から「推し」へ、二次創作から考察へ。再分配から「承認をめぐる闘争」(ホネット)へ、正義からケアへ。
しかし、事態はいっそう複雑である。もちろん、私たちはヘーゲル=コジェーヴ的な意味での「人間」に舞い戻ったわけではないからだ。この移行のなかでいわゆる「大きな物語」が復権したわけでも、データベースなるものが消えたわけでもない──ポストモダンの終焉は、近代への回帰ではないのである。
私たちは人間にも動物にもなりきれないまま浮遊している。そうした浮遊感のなかで、私たちは陰謀論的思考を、動物から何らかの意味での「人間」への移行において必然的に全面化する現象として理解しなければならない。陰謀論、それは新たな「トライブ」の所在を表している。
C エイリアンのレトリック
ぞっとするものの概念を改めて洗練させておこう。そもそも思想や批評の世界では、フロイトが提示した「不気味なもの」がしばしば参照されてきた。ぞっとするものはこれを更新する批評的な装置として提示されている。
「不気味なもの」は、自己でも他者でもあり、内部でも外部でもあるという決定不可能な状況から生まれる情動を指す。それは精神分析にとどまらず、19世紀以来、一種の文化批評の道具となった。それは、「不気味なもの」がフロイトにおいて、文学的モチーフ(分身=ドッペルゲンガー)に結びつくものだったことにも起因している[★10]。
それに対しぞっとするものはこのような両義性ではなく、自身の親密な圏域に暗黙に入り込んでいる、根底的に外的な異物を示す。それもまた特定の文化的表象と関連している──つまり、ドッペルゲンガーならぬエイリアンの表象である。
種々のエイリアンの表象を分析しながら、フィッシャーはそれが「何らかの敵対的な行為主体の働きを示唆」し、「人を狼狽させる異邦性」の「痛いほどの魅力」を感じさせるものだと特徴づけている[★11]。つまりぞっとするものは、その厳密な定義においては、敵対的な行為主体性の発見に結びつくのである。自分の見知らぬところにある意図の存在は、好奇心と同時に、自身を害するかもしれない敵対的他者=エイリアンへの恐怖を引き起こす。たしかに、すでに見た『変な家』がぞっとさせるのは、まさに親密さ(家)のなかに入り込んだ異物(殺人者)の気配を描いているからだった。
しかしフィッシャーにおいて、この概念は特殊な制限を被っている。彼は「資本主義リアリズム」(資本主義社会以外にどんな別の社会の可能性もない、という閉塞感)を破壊するような、ラディカルな「外のヴィジョン[★12]」をつねに求めていた。ぞっとするエイリアンの敵対性の体験もまた、資本主義社会の既視感の「外部」の気配としてのみ規定される。しかしエイリアンという敵対的「他者」の発見は、実際にはより広範な分析装置として機能するのではないか。
それはなによりもまず、古典的であるか現代的であるかを問わず、「いわゆる」陰謀論に見られる現象である。たとえば、人間に擬態した「レプティリアン(爬虫類人)」による支配を主張する陰謀論者たち。ここで彼らはまったく文字通りにエイリアンの陰謀を発見している。多種多様なエイリアンの表象を分析してみせるフィッシャーが、一言も陰謀論に言及しないことは不可解だ。
フィッシャーのいう人間的な世界の「外部」に座す「非人間的」な行為主体性の気配をもっとも切実に感知しているのは、事実、陰謀論者たちにほかならない。ここで留意しなければならないのは、彼らにとっての非人間的な異物が「レプティリアン」なのか「ユダヤ人」なのか「中国人」なのか「移民」なのか「トランスジェンダリズム」なのか「ワクチン推進派」なのか「ディープ・ステート」なのか「ANTIFA」なのか、帰結は相対的な問題でしかないということだ。たとえば参政党党首の神谷宗幣は「移民」や「ディープ・ステート」を語るとき、定義を頻繁に・恣意的に変更し、それが含まれる領域を変化させていた。それは「常識的には」馬鹿馬鹿しいものだろう。しかしそもそも、支持者たちはその厳密な定義に関心を払っているのではなかった。
この事実を見誤る限り批判は空振りに終わる。陰謀論政治の求心力は、実際のところ、この語法そのものに由来するのである。陰謀論者たちは、自身の世界をデザインする「作者」=「他者」を発見し、そこに敵対的な意図を読み込む。どこかに自分の欲望成就を阻害している誰かがいる。自分の欲望が十全に成就されないのは、いつのまにか入り込んだその異物のせいに違いない……。現代的な移民問題にも直結するこうした異物の語法を、現代のラカン派はしばしば「享楽の盗み」という概念で説明している[★13]。しかし「享楽」を盗んでいる誰かがいさえすれば、実はそれは誰でもよかったのだ。それはなんでも代入可能な空虚な箱である。
それは、行為主体性の増殖という時代状況の、政治的な側面である。それはもっぱら「(オルタナ)右派」的なものと想起されるかもしれない。しかしここで注意しておかなくてはならないのは、実際には、こうした「語法」は左派的な批判とも結びつきうるということだ。異物の語法がもつこうした厄介な一般性を見るために、『ゼイリブ』(1988年)という先駆的な映画を一瞥しておこう。
この映画では文字通り、人間に擬態したエイリアンたちによる隠れた支配が描かれている。かつての陰謀論者たちはこの映画を、ユダヤ人たちによる陰謀と社会操作を批判する傑作として解釈し、「聖典」に認定したのだった。ところが監督のジョン・カーペンターの思惑はそれとは異なるものだった。彼はむしろ、過剰に消費を煽る資本主義社会と当時のメディア状況を批判しようとしていたのだ。エイリアンは、知らぬ間に私たちの欲望をかきたてる社会そのものの寓意なのだった。
『ゼイリブ』は明らかに左派的な問題設定に由来しており(実際スラヴォイ・ジジェクはその観点からこの映画を評価している)、したがって陰謀論者たちはこの映画を誤解したにすぎない。しかし考えるべきはむしろ、なぜ彼らがこの映画を「誤解」することができたのか、という点である。それは、カーペンターによる資本主義批判が、陰謀論と同じく、ぞっとする異物の語法と結びついていたからにほかならない。エイリアンの支配を示す落書きとして、作中では「THEY LIVE WE SLEEP(彼らは生き、われわれは眠る)」という文言が現れる。「彼ら」によって享楽は盗まれてしまった、そして「われわれ」は真実を隠され、眠らされている──それはまさに「享楽の盗み」の語法なのだ。
この意味で、主人公ナダが社会の真実(=エイリアンの支配)に気づき戦慄する作中のシーンは、まったく正しく、ぞっとするものに触れる人間の情動を描いている。自身の「願望を挫折させる何か[★14]」が、自身の外のどこかに潜んでいる──この感覚は、ユダヤ陰謀論にも、マルクス主義的な資本主義批判にも繋がる(現に、新左翼の運動が陰謀論と親和性をもっていたことはすでに知られている[★15])。「ぞっとする」エイリアンの〈手応え〉は、イデオロギーを超えて妥当するような広範な一般性をもつのである。
ぞっとするもののパンデミックを通じて、この敵対的行為主体の発見、異物の語法はますます現代人たちに内面化され、一般化されようとしている。それはフィッシャーのいう資本主義の外部の可能性どころか、私たちの日常、すなわち「排外主義」的な現象を説明する。もはや私たちはぞっとするものに取り囲まれている。現代的な他者とは、自分に危害を加えてくるかもしれない「リスク」の存在、身近に潜む敵対的エイリアンなのである。
フィッシャーはぞっとするものの批評的可能性を鋭敏に嗅ぎ取ったが、それを「外部」の問題としてしか扱うことができなかった。フィッシャーの批評の前提は、2010年代に広く共有されていた「ポストヒューマン」や「相関主義の外部」といったスローガンとも共鳴する。しかし事後的に見れば、それは特殊な「ユートピア思想[★16]」に帰結するものでしかなかった。
2017年のフィッシャーの自殺というエピソードも伴って、彼の思想は不可能な「資本主義の外部」の夢想として、世界的に共感を得ているのだろう。私たちはそうした絶望の美学に付き合う気はない。2010年代的な「人間なきユートピア」の夢と絶望は切断されねばならない。課題はむしろ、「人間」の揺り戻しそのものを端的に唯物論的に再考することにこそある。
2 〈手応え〉はいかにして実装されるか──擬人の時代のリテラシー
「ひゅーんと下へ、どこまでも。ほかになにもすることがなかったので、アリスはすぐまたひとりごとを始めました」。ラビット・ホールに落ちていくアリスは「ひとりごと」をつぶやきながら落ちていく。それは、人間と動物のあいだを浮遊する私たち自身のようだ。
あらゆるところに行為主体性を見出さざるをえない思考様式は、現代のインターフェースが生じさせている情報環境、そしてその環境を生きる私たちの感性および身体性と深く関連しているように思われる。なぜ私たちは、これほどまでにぞっとしているのか? ここで私たちは、陰謀論的思考のハードウェア的な側面、つまり新たな「情報環境」と、そこで生まれる新たな感性に目を向けねばならない。ぞっとするものはそこからやってくる。
ここまでにも用いてきた〈手応え〉という語が、この章の鍵になる──それは隠喩ではなく、具体的な触覚性を意味しているからだ。そしてこの〈手応え〉を探っていく際、まず退けておかねばならないのは、デジタルな環境が私たちの自発的・能動的な人間性を切り詰めるという単純な発想である。むしろ現代的なインターフェースは、ある一面において、私たちを不可避に人間にする。私たちは動物であることができない。そこにこそ問題の核心はある。
A 極寒のインターフェース
現代的なインターフェース。それはまず事実と解釈をめぐる「リテラシー」に重大な変化を及ぼすものである。東浩紀は近年の啓発的な論考「触視的平面について」において、トランプ政権の登場時に見られた陰謀論の台頭を、現代の触覚的インターフェース(スマートフォンの画面)と結びつけている。しかし実は、メディアの「触覚性」と鑑賞者の関係性そのものは、メディア論の元祖マーシャル・マクルーハン以来、古典的な問題に属するものでもある。マクルーハンはすでにテレビを「触覚的」なものと定義していた。
当然だがマクルーハンが分析した1950─70年代において、実際にはメディアは「触覚的」ではなかった(テレビ画面を触っても意味がない)。彼がそれを「触覚的」と呼んだのは、テレビが双方向的なものだったことを示す隠喩であった。テレビ以前のメディアは、鑑賞者に強い集中力を要求し、特定の感覚器官に濃密な情報をもたらす一方向的なものだった(ラジオ、映画、写真、ジャズ、書物などの「熱い」メディア)。それに対し、テレビはそれほど濃い情報を提供せず、集中も必要としない。そしてだからこそ、鑑賞者はその情報の余白をみずから参加して埋めることを要求される(「冷たい」メディア)。
「冷たい」メディアは、能動的でも受動的でもあるようなインタラクティブな性質から特徴づけられる。そして、一方的に対象をまなざす視覚と異なり、触覚においては「触る」能動と「触られる」受動を明瞭に区別できない。「触覚」は、この双方向性と観客の参加度を表現するために用いられたのだ。哲学者ジャン・ボードリヤールはマクルーハンの議論を継いで、「われわれは視覚的世界より触覚的世界に近づいているといえる」と述べ、「「接触」のイデオロギー」を分析したが[★17]、ここでもやはり、この「触覚」はいまだ隠喩的である。そもそも今から振り返れば、テレビの相互性や参加度──「冷たさ」──は非常に限定的なものにすぎない。
それに対し、タッチスクリーンは文字通り触覚的なメディアであり、その登場はきわめて双方向的な「触覚的世界」を実現する。この論点を具体的に展開した批評家として、実はまたしてもマーク・フィッシャーを召喚しておく必要がある。
彼は10年ほど前の先駆的な論文で、資本主義社会の閉塞を「タッチスクリーン・キャプチャー」の普及として説明している。フィッシャーは絶望的な口調で語る。現代のインターフェースによって、「指はデジタル強迫システムのなかの中継点、あるいはデジタル・トリガーの一部」と化した、と[★18]。
触覚メディアの全面化は、人々を「低レベルな刺激の絶え間ないフロー」に晒す。時間と空間は切り詰められ、没入は不可能になる。スマホを見るために忙しなく指を動かす現代の時間感覚を、フィッシャーは「擬似現在pseudo-present」と呼ぶ。彼によればそれは、GIF画像のなかに幽閉され、過去も未来も失って永遠に「現在」をループし続ける人物を想起させる。結局のところ、「働いていると本が読めない」(三宅香帆)のは、労働問題ではなくこのメディア環境、この「退屈2.0[★19]」に由来する。
だから触覚的インターフェースの登場は、いわば「冷たいメディア」の極端化なのである。この極寒のインターフェースは、集中力を絶え間なく分散させながら、私たちの全感覚を刺激して絶えざる「参加」を要求する。そのとき、生活のほとんどの部分は「サイバースペース」、フィッシャーの言い方で言えば「資本主義的サイバースペースタイム」(サイバー時空間)に包摂され、「退屈なもの」の終わりのない現前のなかで固定される──とはいえ残念ながら、彼の批評はやはり閉塞と絶望を描き出すところに留まっている。
私たちは、マクルーハン=ボードリヤールが提出し、フィッシャーや東に引き継がれている「メディアの触覚性」の問題系を、さらに具体的に深掘りしていかねばならない。まずグラフィカル・ユーザー・インターフェース(GUI)について考えよう。
GUIは、私たちとメディアの「触れあう」相互性を具体的に実装するものである。Appleのフェローを務めたことでも知られる科学者のアラン・ケイは、直感に反して複雑化していくプロンプト入力(CLI)を、「粘土遊び[★20]」に例えられるような直感的で人間的な手の動作に従うものにしようとした[★21]。GUIの基礎的な発想(視覚的なアイコンによって機能を表し、マウスによってそれを操作する)はそこから生まれている。
ケイは「熱いメディア」であったコンピューターを「冷たいメディア」に、あるいは手に馴染む「触覚的」なものに変換しようとしたと言うことができる。ところで、この「手」とは何か。それはしばしば、人間的なものの象徴として扱われてきた器官である。文化人類学者のアンドレ・ルロワ=グーランによれば、人類の誕生は四足歩行からの解放、「足」から「手」への変化によって可能になった。ここで手の特異さは、特定の目的から解放されているという点に求められる。触れる、持つ、握る、はじく、こねる、ちぎる、ひっかく、殴る、撫でる。その〈手応え〉は、さらに多種多様な道具 の操作にさえ結びつく。
ケイがコンピューター操作に実装したのは、まさにこのような手の経験、手仕事=ハンド・クラフトの〈手応え〉にほかならない。それは、手を特徴づける無目的さと即興的な偶然性を、機械計算に導入する(ところでケイはプロのジャズ・ギタリストであった)。したがって、デジタル化の人間疎外に対し、アナログな手の「DIY」を取り戻すという発想は一面的でしかない。現代的インターフェースの発展は、コンピューターに人間的ハンドクラフトの〈手応え〉を実装してきた歴史として理解されなくてはならない。
ここで問題は、デジタルな環境で人間本性が疎外され受動的になることではなく、むしろそれが能動性を動員すること、インタラクティブすぎることのなかにこそ生じている。ボードリヤールが喝破していたように、「「接触」のイデオロギー」はつねに相互的で人間的な参与を要求するのである。
しかしもう半面において、それは人間的な自由と偶然性を完全に実現するものでもない。「サイバースペースタイム」の環境においてはアルゴリズムが私の消費行動、生活サイクルを分析して「最適な」選択肢をレコメンドしている──あたかも外在化されたデバイスが、私の代わりに欲望し、選別し、記憶するかのようだ。このような環境下では、ある一面では「私」の主体性はきわめて乏しいものになる[★22]。
だから、状況は板挟み的なのだ。一方には「手」による自由で無目的な「遊び」をインターフェースに実装しようとする努力がある。他方には、私たちの行動のすべてを追跡し分析しデータの束に還元するアルゴリズムの働きがある。この半世紀のインターフェースの発展の歴史を彩る相反する二重性が、「人間にも動物にもなりきれない」私たち自身の現在の状況を説明する。私たちは一方では自身の行動が統計的に計算可能なものであり、情報のネットワークのなかで位置づけられるものでしかないと知っている。にもかかわらず他方では、さまざまな行為を「私」の意思決定の産物として感覚的に理解し、それを自由に操作できると感じている。
だとすれば疑問が残る。私の指が画面を触っており、実際に触ることでそれを操作できる、という身体的な感覚──〈手応え〉を、ひとはどのようにして調達しているのだろうか。いささか挑発的に言えば、問いは次のような形式になるだろう──なぜ私たちは、相も変わらず自身を行為主体だと感じているのか、と。そこにこそ「リテラシー」をめぐる、もっとも根深い問題が潜んでいる。
B 〈手応え〉を実装する
私たちの問題は、ぞっとする行為主体性が他者や外部世界に見出されることから、それが自己自身に見出される局面へ移行しつつある。とはいえ、そもそも私たちは日常的に自己自身を行為主体とみなしているはずである。哲学者・認知科学者のショーン・ギャラガーによれば、人間が自身のアイデンティティを確保し、自身の身体を動かすことができるのは、大きく分けてふたつの感覚による[★23]。第一に「自己帰属感Sense of Ownership」、つまり私が自身の身体を所有し、身体は私に帰属しているという感覚であり、第二に「行為主体感Sense of Agency」、つまり私が私の行為の主体であり、何かの行為を通じて外界に働きかけ、何かを引き起こすことができるという感覚である──まさにここで行為主体性(agency)という概念が用いられていることに留意しよう。
こうしたふたつの感覚があってはじめて人間は自身の身体動作をスムーズに行うことができる。そして実際のところ、現代的なインターフェースの多くは、視覚・聴覚・触覚を連動させることで「自己帰属感」と「行為主体感」を演出するように設計されている。たとえばマウスのカーソルが手の動きに合わせて動くことは、私に属する身体の一部が画面上に拡張され存在しているという感覚(自己帰属感)を生み、また、画面内のデータに私が「触れ」、そこに何らかの変更を加えることができるという感覚(行為主体感)を生む。
ケイの発明は、こうした感覚をコンピューター上に実装しようとしたものだったのだ。現にケイは自身の設計の理想を、「ひとの狙いや目的の活動的な延長であるところの「行為主体(agent)」として作用するイリュージョン[★24]」と説明している。こうした「イリュージョン」は、渡邊恵太による《Visual Haptics》と名づけられた実験(2002年)によって裏づけられている。マウス・カーソルの操作感と視覚的なテクスチャの関係を調査するこの実験の結果判明したのは、ざらついたテクスチャ上でカーソルの動きが遅くなるとき、人間がそれを「重い」と感じることだった[図1]。当然だが、マウスは重たくなっていない。カーソルという「行為主体」を介したコンピューター操作は、それがたんに視覚的なものであったとしても、「イリュージョン」によって触覚と連動するように感じられるのである。

ひとはインターフェースを用いるとき、視覚的な「イリュージョン」によって、画面上のグラフィックに対して触覚的な確信、すなわち「自己帰属感」と「行為主体感」を獲得している。スマートフォンの場合はそれがさらに極端になる。私たちはそのとき、ただ視覚的な情報を「見る」だけでなく、画面そのものに触れ、タップしスワイプすることで情報にアクセスするからだ。その際画面は、触覚フィードバック技術を介して、あたかも触れた対象に重さや摩擦があるかのような錯覚を使用者にもたらす。実際には物理的な抵抗も質感も存在しないにもかかわらず、私たちはそこに手触り、いや〈手応え〉を感じる──この画面と身体との一体化において、「自己帰属感が生起[★25]」する。それが、テレビともっとも異なる点であり、現代のインターフェースが「触覚的」であることの隠喩的かつ具体的な意義である。
こうした仕掛けは具体的には「擬似触覚pseudo-haptics」と呼ばれ、インターフェース開発の現場で実際に活用されている[★26]。この擬似性は、〈手応え〉にもとづく相互性をきわめて巧妙に演出する。iPhoneのTaptic Engine、PS5のコントローラー。さらに、VR環境をより「リアル」にするための実験やテレイグジスタンスの開発。またそれは、身体障害をもつユーザーに対してより繊細な情報フィードバックを提供するために利用できるものでもある。
緩急を帯びるスクロールの勢い、操作に同期する微弱なバイブレーションと効果音、アニメーションによって演出されるページを「めくる」、画面を「押し込む」感覚。現代的なインターフェースは、たんなる平面でありながら、あたかもそこに抵抗、ざらつき、奥行きがあり、こちらが働きかければフィードバックと〈手応え〉を返すものであるかのように擬態している。それはユーザーに行為主体感をもたらす。あなたがスマートフォンでこの文章を読んでいるとすれば、それは今、まさにあなたの目元と手元で起きていることだ。
こうした最新のデジタル環境について、落合陽一はかつて、「人間中心主義のメディア観」を脱するものだと述べたことがある[★27]27。それは「光が影響するのは視覚、音が影響するのは聴覚」というような「人間的な感覚の境界」(五感の分割)を超え、さまざまな体験に結びつくという。それは彼自身のメディア・アート作品においても実践されている。《Fairy Lights in Femtoseconds》(2015年)は、「フェムト秒レーザー」と呼ばれるごく短い時間幅(1000兆分の1秒)のパルスレーザーによって、「触覚的に体験できる光」を実現する[図2]。宙に浮かぶホログラムに鑑賞者が触れると、その光の形状が変化する。視覚的対象が「触れる」ことによって変化するというこの仕組みは、たしかに五感の分割を乗り越えている。

それは技術的には非常に興味深いが、とはいえ、複数の感覚器官の交差を「脱人間」的と位置付ける落合の認識には違和感が残る。すでにアリストテレスが「共通感覚」をめぐって議論しているように、人間の感覚はそもそも、複数の感覚器官を同時に動員することによって成立する。現代的な技術が「人間味」を演出するためにインターフェースに実装しているのもまた、まさにそうした複数の感覚のクロスモーダルな同期である。
したがって、感覚器官の分割を乗り越えることが「人間中心主義」から脱することだという落合の議論は、前提において転倒している。感覚器官の境界を鑑賞体験の種類と対称的に割り当てる思考は、「近代的」とは言えても(たとえばそれはヘーゲルの『美学』に見られる)、「人間中心的」と呼ばれうるものではない。むしろ複数の感覚器官の交差・同期・相互作用は、あまりに「人間的」な感覚の基礎なのである。実際、マクルーハンは「触覚性」について、すでに「単に皮膚と事物が接触するというのではなくて、むしろ諸感覚が相互作用を起こすもの[★28]」と指摘していた。
しかし同時に指摘しておかなくてはならないのは、現代のインターフェースが、たんに私たちの自己帰属感や行為主体感を擬似的に演出するだけではないということだ。それは、それらを遠隔化し、人間の身体感覚を空間的に拡張していくものでもある。たとえばVTuberの配信を見てたしかにそこに行為主体がいる、と強く確信できるのは、モーションキャプチャーの技術によって身体動作が遠隔的に連動し同期しているからだ。そうした身体動作・身体感覚の遠隔化もまた遠隔実存の一例なのである。
あたかも、目や耳や指先の感覚が浮遊し世界中を飛び回るかのようだ。あるいは、性的な感触ですら。事実、コロナ禍には遠隔触覚を介した性愛(リモートセックス)についての研究開発が進められた──ジャック・デリダ曰く、「明日のフロイトとなる人物」は「性的興奮をそそる「遠隔触覚」や、ウェブの寝床での恋する身体対身体関係に着目しなければならないだろう[★29]」。
遠隔化する視聴触覚。それはともすれば性的なコミュニケーションというごく私的で近接的な経験にとっても利用可能な水準になって、私たちを呑み込んでいる。おそらくデリダが生きていれば、このような状況を「遠隔情動」──遠隔化した情動──の常態化と呼んだだろう[★30]。擬似触覚によって「実装」されるこの近さの遠隔化は、人間が世界中に自身の「親密さ」、つまり同情や共感を延長していく「人間拡張」の経験であると同時に、むしろ自身をとめどなく外部に露出し、異物と出会い続ける恐怖の経験でもある。テレワークは、一方で安全な家への自閉を可能にするものだが、同時に家をとめどない外部へ開いてしまう疎外の経験でもある。
C 擬人の時代のリテラシー──擬似深層
私たちは第1章で、陰謀論的状況を手引きにしながら、現代文化があらゆる場所に行為主体性を幻視している様子を記述してきた。そして第2章のここまでの議論で、そうした行為主体性の幻視の発生現場を、現代のインターフェースの「擬似触覚」に求めた。現代的な「平面」は私たちに、指先で擬似的に〈手応え〉と操作感を錯覚させる。現代の「平面」は複数の感覚知覚──画面を触る指(触覚)、画面と指とを同時に見る目(視覚)、操作に連動する音を聞く耳(聴覚)──をクロスモーダルに動員することで行為主体感を擬似的に付与する。その錯覚=イリュージョンこそがユーザーを「人間」にするのである。この〈手応え〉によって、行為主体性はミクロに・身体的に・インスタントに産出されている。
私たちは幾度も〈手応え〉という語を用いてきた。この語をあえて訳すなら、「レスポンス」という語が対応するだろう。「レスポンス」は、レヴィナスやデリダといった哲学者たちの文脈においては「応答」と訳され、すぐさま責任や他者の概念と関連させられる。責任(responsibility)とは、他者への応答(response)が可能な状態(ability)のこと──応答─可能性である。
私たちは、この「応答」という語をアップデートしておく必要がある。現在の私たちは擬似的な感覚フィードバック技術によって、ほとんど絶え間なく〈手応え〉(=反応)を体感している。遠隔化された他者との「触れあい」、この〈手応え=反応〉は現代における新たな「他者論」と「責任論」の境位をよく指し示している──実際、現代人は遠く隔たった他者からの呼びかけを、多くの場合端末の通知=バイブレーションによって知ることになるのだ。
スマホが震えた気がする、という幻想振動症候群(ファントム・バイブレーション・シンドローム)が現代病のひとつであるのは、私たちがつねに他者からの「レス」を気にしていることの証しとなる。この時代において責任(他者への応答可能性)とは、〈手応え〉を受け止められる状態であること、つまりデバイスの電源が入っている状態を指すのだ。「眠らない社会」(ジョナサン・クレーリー)の睡眠不足の常態化はこの責任を過剰に引き受けた結果と言える。通知を見落としているのではないか、という不安が、時代を象徴する不安となる。たとえばコンサルタントの業界では、明確なタスクがない状態を「アベイラブル」な状態と呼ぶ。それは次の案件を受けられる待機状態を指す。待機の時間は単なる「暇」ではなく、まさに来るべき次の通知を待つ緊張として定義されるのだ。一方、「デジタルデトックス」は、こうした過剰な通知的不安、緊張、責任を停止させたいという欲望として実践されるだろう。
常時通知と常時振動に慣らされた〈手応え〉中毒の私たちは、さまざまなところに「レス」を探し回ることになる。それは私たちの「リテラシー」に大きな影響を及ぼす。たとえば私たちはAIがただの機械であり、その応答がプロンプト入力の結果にすぎないことを知っている。にもかかわらず、私たちはその「奥」に意味や人格のようなもの、つまり行為主体性の〈手応え〉を期待している(「#keep4o」運動を思い出そう)。こうした擬人化的な期待こそが、そこらじゅうに行為主体性を探し回る陰謀論文化を規定しているのである。
そしてさらにそれは、ユーザー自身がスマートフォンの操作において行為主体感を錯覚させられる、触視的平面の情報環境そのものの性質とも相似的である──繰り返そう。私たちは、自分自身が統計的に計量可能な「群れ」であり、欲望する動物であることを、一方では「知っている」。にもかかわらず、他方では、その手元のデバイスのミクロで「擬似的」な効果によって、自身が実存を備えた人間的な行為主体であり、その行為が世界に何らかの変化をもたらしうるということを「信じている」。
この「信と知」の分裂的重なり合いを語るうえでは、私たちが機械を擬人化しているというだけでは十分ではない。また、非人間的な存在者に行為主体性を幻視して「ぞっとする」というだけでもない。事態はもっと進んでいる。私たちは現在、自身の行為主体性の感覚そのものすら、タッチスクリーンの〈手応え〉によって擬似的に獲得しているからである。だから結局のところ、擬人化されているのは私たち自身なのだ。
擬似的な人間の時代。そして、擬人化された人間の時代。「擬似触覚」にも「擬似現在」(フィッシャー)にも含まれるこの「擬似 pseudo」という語は示唆的である。おそらく私たちは動物であり続けているのでも、たんに人間に逆戻りしたのでもない。機械的に再現され「実装」される擬似的な人間性の時代へ移行したのだ。擬似人間=人間もどきの時代[★31]。「擬似」というこの語こそが、動物でも人間でもない私たちの浮遊感を説明している。動物の時代の後に来る時期──それを私たちは擬人の時代と呼ぼう。
擬人の時代のメディア環境は、いたるところに〈手応え〉を実装する。現代人はこの〈手応え〉にとり憑かれて、いたるところに行為主体性の影を探しまわることになる。無いはずのところに発見される行為主体性をぞっとするものと呼ぶのであれば、それは私たち自身のことでもある。 現代人は擬人化し、かつ擬人化される動物である。第1章で「私たちは人間にも動物にもなりきれないまま浮遊している」と書いた。画面に触れる私たちは、他者との相互理解に向かう真正な人間になることも、端的に欲望に忠実なたんなる動物になることも禁じられている。擬人の時代はその禁止と浮遊感に与えられた名前だ。
この「擬似近代」状況を前提として、リテラシーと陰謀論の問題に戻ってみよう。東はこう述べていた。「スクリーンの時代においては、見えるものを疑い、見えないものについて考えることがリテラシーだった。触視的平面の時代において、そのような疑いの精神はどこにいってしまうのか[★32]」。
だが、そもそも「スクリーンの時代」とは何だったのか。この時代のリテラシーを代表する蓮實重彥は、ある種の逆説的な態度を提示していた。というのも蓮實においては、「見えないもの」とはむしろ「表層」=「見えるもの」そのものだからである[★33]。映画を見るとき、鑑賞者はしばしば意味や物語という深層のメロドラマ、つまり「見えないもの」に簡単にアクセスしてしまう。そのときに真に「不可視化」され見過ごされているのは、表層(スクリーン上)の「見えるもの」(=ショット、カメラワーク)そのものなのだ。批評はこの見えない「見えるもの」の運動性を描出することを課題にする。
蓮實に代表されるような「スクリーンの時代」においては、リテラシーとは実際に見えているものを注視し、その素朴な見たまま性=「リテラリティ」(福尾匠)に忠実であることだった[★34]。意味や物語(深層)といった「見えないもの」を解釈する鑑賞者の紋切り型の体質=「制度」は、「見えるもの」の驚愕によって裏切られるのである。
現代ではそれはどうなってしまったのか。私たちは第1章で考察文化について記述したが、その考察の対象となるような代表的作品(『ONE PIECE』や『名探偵コナン』など)が長期の連載作品であり、またその結末においてあらゆる伏線が回収されると明言されていることは重要だろう。そしてここでもやはり、伝統的な探偵小説との類比はヒントになる。
かつての探偵小説はしばしば、読者にその真実(犯人とトリック)を推理=考察させる読者参加型の相互的な仕掛け(「読者への挑戦」)を導入していた。
その際に重要であったのは、その作品のなかですべてのことが言われているという前提だ。「読者への挑戦」においては、読者が得られる以上の特権的な情報や、言われていない別の事実を作者が隠していてはならない。もし作者だけが知る事実があり、それが事後的に明らかになるならば、読者が推理に参加することは無意味である。すべての情報がすでに公開されており、あとは理性を用いて材料を組み合わせれば誰でも真実に辿り着きうる、という建前としての「フェアネス」が、探偵小説の相互的なゲーム性を支えていた。
現代のぞっとして/ぴったりする作品群はこの「読者への挑戦」を作品内に内在させていると言える。この文化では、すべての情報が「見えるもの」としてあらかじめ公開されていること(フェアネス)、誰でもその推理に参加できること(相互性)が前提されているからである。そしていわゆる陰謀論者たちもまた、同様の前提から出発している。彼らが公開的で共有可能な情報源に固執するのは、まさに過剰なまでに公共性=公開性の理念を前提としているからにほかならない。たとえば専門家だけがアクセスしうるような事実や情報は、フェアではなく、偏っており、偽であると判断される。なぜ権威者たちは、私たちに考察材料を提供しないのか? それ自体が不正なのだ、と。
だから歪んだ形ではあれ、陰謀論文化は「民主主義」的である。すべてはフェアで、相互的で、公開されているべきなのだ。それは「隠された」私的な事柄に対する強い不信感に直結する。「個人的なことは政治的なこと」であり、それゆえ公開的でなくてはならない。隠された領域は不正、暴力、癒着の温床に違いない。誰もが探偵になるとき、他者の秘密に対する勘繰りと暴露的推測──スキャンダリズムが前面に躍り出てくることになる。
擬人の時代には、表層=リテラルなもの=見えるものへの注意はつねに逸らされる──擬似触覚的な演出が、つねに表面の「奥」の〈手応え〉を期待させるからだ。そこで私たちは、平面に意味、物語、アイデンティティ、他者をつねに幻視する。だから触視的平面とリテラシーの問題を、「見えるもの」(=にせもの)への素朴さとして一元化する東の議論はミスリーディングである。陰謀論者たちはむしろ、あまりにも過剰に「見えるものを疑い、見えないものについて考え」ているのだ。まだ秘密にされている「考察材料」があるとすれば、それはフェアではないので、今すぐ提示されねばならない。現代の平面は「見えるもの」を通じて「見えないもの」をどこまでも──錯視的─錯触的に体感させ、欲望させるのである。「見える化」のプロセスは終わりなきものとなるだろう。
それは、公開性を過剰に要請しながら、同時に「見えるもの」だけに素朴に集中することを不可能にし、つねに手前や背後の「見えないもの」=行為主体性を擬似的に演出する。文学や映画という「熱いメディア」においては、それに注視することで、その驚くべき「リテラルな」運動性に出会うことができた。しかし目を皿にしてスマホの画面を凝視したところで、私たちはそのような批評的な裏切りにほとんど出会うことがない。
かくしてほとんど不可避に・オートマティックに実装される「見えないもの」は、擬似深層とでも呼ばれるべきものである。実際のところ、「深層」は現代にもっとも濫用されている語のひとつだが(ディープ・ラーニング、ディープ・リサーチ等々)、それは「深み」という人間の空間認識を投影した一種の空間的な隠喩である。最近のスマートフォンに、画像のなかに擬似的な奥行き=被写界深度を演出するさまざまな機能が搭載されていることは示唆的である。あるいは、『変な家』が、平面の間取り図が立体化し、奥行きを獲得することからすべてがはじまる物語だったことを思い出してもいい。
擬似深層の〈手応え〉は、ぞっとするものを無限増殖させ、私たち自身が行為主体であるという感覚を再帰的に規定する。擬似深層は複数的なものであり、かつ、きわめて異なるスケールを移動するものでもある。小さなスケールでは、スマートフォンの利用や作品の解釈といった非常に私的かつ消費的な水準でその〈手応え〉が経験される。しかしそれはときに、この世界やこの歴史のすべての裏面に張り付いている不可視の深層、つまりディープ・ステートまで膨張する。陰謀論者が落ちていく「ラビット・ホール」とは、実のところ、この「深層」へ繋がる魅惑的な通路のひとつだったのだ──落ちた穴の先で、アリスは擬似深層と出会う。
おわりに──No response needed(返信不要)
結局、擬似深層の究極の問題とは何なのだろうか。それはおそらく、時間性に関して著しい均一化を生じさせるということである。たとえば冒頭で挙げたモンローの地図は、最大のスケールで見出される擬似深層にほかならない。世界史上の数々の出来事の背後に敵対的行為主体性(ぞっとするもの)を読み込んで極度に拡張された「地図」は、たしかにラビットホールの奥に見出された一種の「パラレルワールド」である。しかし、ここには時間がない──アトランティスからトランプまで、この平面では「敵対関係」も「影響関係」も「因果関係」もすべてが等しく「線」に還元されている。
それは擬人の時代の時間感覚を明確に表象している。その意味では、この地図がもはや「マップ」ではなく、《Qウェブ》と題されていることにはきわめて重大な意味がある。これは地図でもなければ年代記でもない。時間と空間を等しくグラフ上に並列させるこの作品は、「Q」=陰謀論的思考を表しているだけではなく、時間を平面上に閉じ込めるサイバー時空間、つまり「ウェブ」そのものの性質を表現しているのだ。
複数の擬似深層=パラレルワールドがどれだけラディカルな別の世界を描き出したとしても、「ウェブ」の均一的な「擬似現在」(フィッシャー)、あるいは「疑似同期」(濱野智史[★35])のなかには、過去も未来もない。それは単一のタイムライン──「いまどうしてる?」──の共犯性に包摂されている。現在の世界の根本的な非─多様性は、この擬似現在/疑似同期の全面化に起因する。
時間の均一化=「現在」の覇権に対して「新しい時間[★36]」を考えること、その感性を鍛えること。それはハイデガー以来、京都学派やデリダを経由してユク・ホイにまで継承される哲学的な近代批判の中心問題でもある。現在、どれほど近代的理念が骨抜きにされているとしても、この意味で、相変わらず私たちの時代を「擬似近代」と呼ぶことができる。そこでは、私たちの具体的な〈手応え〉にまで擬似的に入り込んだ時間の均質化が、最終局面的な仕方で完遂されている。
いかなる新しい戦争も、どんな新しい帝国主義も、同じ〈手応え〉のなかで世界同期的に経験される。この状況下でもし新しい「リテラシー」がありうるとすれば、それはどのようなものだろうか。
それは第一に、〈手応え〉=レスの単調さと過剰さに対する批評的な介入を行うことにある。現代においては、「見えるもの」のリテラルさに対する驚愕ではなく、むしろ全般的な〈手応え=反応〉のなさとしての驚きこそが批評的な体験となる。対象に入り込めない離別、無反応を求む(No-response needed)、あるいは欲望された反応がない(No response-needed)感覚。
この2年ほどのあいだに提示された立花光の一連の作品群──《置き配達》、《スクリーンショット》、《広告》は、そうした新しいリテラシーの可能性を表現しているだろう。立花は触覚的な〈手応え〉のなさを擬似的に演出することで、擬人の時代に対する一定の介入を行う。とりわけ《スクリーンショット》は示唆的である[図3]。立花は展示空間(三重大学の建築科の学生たちのアトリエスペース)に置かれた椅子や机やコップや図面、落ちている紙等々をすべて糊付けし、動かない状態に固着する。その結果、鑑賞者は行為を通じて事物と接触し、そこに〈手応え〉を感じ取ることを禁止される──立花は主体から行為主体性を剥奪するのだ。

《スクリーンショット》というタイトル自体が、触視的平面の環境に対する立花の問題意識を示している。タッチスクリーン上では、あらゆるアイコンはユーザーの使用に〈反応〉を返し、それによって何らかの変化を画面やデータに引き起こす。ところが、スクリーンショットされた画面においては、さまざまなアイコンやボタンはただの「画像」になる。いくら画像編集を行ったところで、それがGUIとしての機能を再度獲得することはない。それはレイヤーも機能も欠いた「表面」になる。
立花は空間をスクリーンショットする。私たちはその作品において、テクスチャーだけの奥行きのない空間に入り込む。世界そのものからGUIが奪われる。それは、現代のインターフェース上で生成される感性を前提とした上で、それを三次元空間に持ち帰り、擬似的に再投射するような独特のリアリズムだ。「スクリーンの時代」にたんに戻ることのできない私たちのリテラシー、それは〈手応え〉と責任の無限増殖を停止させ、行為主体性を剥奪するスクリーンショット的リテラシーである。機能の脱実装、あえて提示される無反応──それは表層の擬似的な実装なのだ。
また、この擬似表面にはもうひとつの重要な特徴がある。それは不可避に過去のものだということだ。立花によって凝固させられた展示空間においては、時計もまた止まったままだった。スクリーンショットされた画像は、機能を失うと同時に、「擬似現在」的な即レスの沼地から解放される。それは、古びた写真のようでもあるし、もはや応答しない過去の遺物や遺跡のようである。
思い出してみれば、フィッシャーのぞっとするものの定義には、本稿でほぼ取り扱ってこなかったもうひとつの性質があった。それは一方で幽霊のようにそこらじゅうに誤認される「行為主体性」を意味する(不在の失敗)。しかし他方でそれは、「痕跡」として、すでに「行為主体性」を喪失した「物」をも意味していた(現前の失敗)。
フィッシャーに反して、ふたつのぞっとするものを、私たちは根本的に区別すべきである。現前の失敗としてのぞっとするもののなかには、ラディカルな時間の差異が前提されている。それは石のような鈍重な物質性において、そこに刻み込まれた刻印の窪みによって、私たちに現前する。それはどれだけ読み込んだところで「レス」を返さない。その決定的な時間差のなかには、行為主体の気配がもはや存在しない。そこには反応を欠いた〈手応え〉だけがある。
私たちは議論のなかで、擬似触覚が実現する遠隔情動について行きがかり的に記述した。あの空間的な遠隔性がさらに時間的に隔たったものへの情動という意味でのもうひとつの遠隔情動に結びつくのなら、そのパトスは「擬似現在」のループを裂開するものとなる。死んだ他者が、あるいはまだ生まれていない他者が「レス」を返さないように、痕跡との時間的にテレパシックな関係は、爽快な非応答によって特徴づけられる。過去がとり憑いた石。それは私たちの世界に対して、別の時間性、別のタイムラインを示すのだ。
幼少期、私はしばしば動画サイトに無断でアップロードされた古いアニメや古いライブ映像に出会っていた。映し出されていたのは、誰かが置き去りにした、およそ自分の知らない時代の、理解できない「何か」だ。重要だったのは「疑似同期」などではなく、見知らぬアーカイブに突然出会ってしまった衝撃だった。「何か」は、化石を掘り出していくパトスをかきたて、私を違う世界に連れ出した。年長者たちにとっては、もう見飽きたもの、過去を思い出すための慰撫の装置でしかなかったかもしれない。私にとってはそれはノスタルジーの対象などではなかった。どうしようもなく新しいとしか思えなかったのだ。伝統への回帰ではなく、現在への居直りでもない、この世代ごとの新しい古い欲望を、肯定しなければならない[★37]。
擬似人間の私たちは、「化石」としてのぞっとするものを見つけるために祖先以前の過去にまで、私たちの世界のラディカルな「外部」にまでタイムスリップしなくともよい。それは実は身の回りに溢れている。たとえば機種変更して処分に困り、部屋の隅に放置された過去のスマートフォン。もう通電しておらず、応答することも振動することもない古びたガラスの平面。それは深みを欠いている。
穴のように暗くとも、誰ももうそこに落ちない。
本文中の『不思議の国のアリス』の引用は、ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』、河合祥一郎訳、角川文庫、2010年による。
★1 烏谷昌幸は、Qアノンの陰謀論を分析しながら、それを「パラレルワールド」の登場と形容している。烏谷昌幸『となりの陰謀論』、講談社現代新書、2025年。とりわけ第2章。
★2 以下の論考で筆者は、アーティストの平沢進を題材に、「陰謀論」と現代文化の繋がりを具体的に考察した。森脇透青「Hello goodbye平沢進──「母」の変容」、『近代体操』2号、2024年。
★3 ヴァルター・ベンヤミンが着目したように、最初の探偵小説と言われる「モルグ街の殺人」(1841年)の作者ポーは「家具の哲学」の作者でもある。エドガー・アラン・ポー「家具の哲理」、『エドガア・アラン・ポオ小説全集 第5巻 宇宙論・詩論・小品』、谷崎精二訳、春秋社、1963年。
★4 マーク・フィッシャー『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』、五井健太郎訳、ele-king books、2022年、99─104頁。
★5 雨穴『変な家 文庫版』、飛鳥新社、2024年、12頁。引用にあたって太字ゴシック体を傍点に変更した。
★6 同書、25頁。
★7 『変な家』は最終的に、この「ぞっとする」経験を奇抜な因習を受け継ぐある地方の一族という「外部のイメージ」へと投影してしまう。ネット怪談全体に根強くまとわりつくこの地方差別(「因習村」的想像力)をめぐっては、以下が民俗学との隣接性を指摘しながら批判的に考察している。廣田龍平『ネット怪談の民俗学』、ハヤカワ新書、2024年、とりわけ第2章。
★8 髙比良くるま『漫才過剰考察』、辰巳出版、2024年、29頁。
★9 宇佐見りん『推し、燃ゆ』、河出文庫、2023年、24頁、130頁。
★10 フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』、中山元訳、光文社古典新訳文庫、2011年、164─169頁。
★11フィッシャー『奇妙なものとぞっとするもの』、131─132頁。
★12 木澤佐登志『失われた未来を求めて』、大和書房、2022年、177頁。
★13 松本卓也は、「享楽の盗み」の幻想が引き起こす現代的な差別を「レイシズム2・0」として定式化している。松本卓也『享楽社会論──現代ラカン派の展開』、人文書院、2018年、236頁。「享楽の盗み」という表現はジャック゠アラン・ミレールに由来する。
★14 アイザイア・バーリン『バーリン ロマン主義講義』、田中治男訳、岩波書店、2010年、163─166頁。バーリンはポスト啓蒙主義の時代(18世紀末のフランス革命期)を分析し、そのなかで、ロマン主義、ヘーゲル主義、マルクス主義、陰謀論を(差異は強調されているものの)同列に重ね合わせている。彼によれば、この時代に共有されていたのは「獲得しえない何ものかがわれわれの外にあるという観念」であり、陰謀論的な「パラノイア」はそうした観念の「悲観的な」形式のひとつである。
★15 詳しくは以下を参照。栗田英彦「革命理論としての陰謀論──陰謀論的スピリチュアリティにおける太田竜の問題系」、『現代思想』2021年5月号、青土社。
★16 木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義──現代世界を覆う〈ダーク〉な思想』、星海社新書、2019年、177頁。
★17 ジャン・ボードリヤール『象徴交換と死』、今村仁司、塚原史訳、ちくま学芸文庫、1992年、154─155頁。
★18 Mark Fisher, “Touchscreen Capture,” Noon: An Annual Journal of Visual Culture and Contemporary Art, Vol. 6: Post-Online. Gwangju, South Korea: Gwangju Biennale Foundation, 2016.
★19 フィッシャーによれば、かつての退屈とは、間延びした時間、何もすることのない手持ち無沙汰の時間であった。それに対し、むしろ私たちはつねにスマートフォンの鳴り止まない通知や絶え間ない下品な広告に晒されており、何もしていないわけではなく、その意味で「忙しい」。フィッシャーの言い方で言えば、「退屈2.0」の時代、「退屈 boredom」は失われたが、「退屈なものthe boring」はむしろ遍在化したのだ。
★20 アラン・ケイ『アラン・ケイ』、浜野保樹監修、鶴岡雄二訳、アスキー出版局、1992年、100頁。
★21 東は「触視的平面について」で、スマートフォン上の触視的平面こそが、ケイの理論と実践を推進し、その理念を実現するものだと指摘している。東浩紀『観光客の哲学 増補版』、ゲンロン、2023年、380─285頁。
★22 あるラカン派の分析家は「iPadやiPhoneにおいて大文字になっているのは、使用者としての「私」ではなく、パッドと電話なのである」と書いている。ダリアン・リーダー『ハンズ──手の精神史』、松本卓也、牧瀬英幹訳、左右社、2020年、11頁。
★23 Shaun Gallagher, “Philosophical conceptions of the self: implications for cognitive science,” Trends in Cognitive Sciences, 4 (1), 2000, pp. 14‒21.
★24 ケイ『アラン・ケイ』、102頁。以下の原文を参照して改訳している。Alan Kay, “Computer Software,” Scientific American, 251, 1984, p. 54.
★25 渡邊恵太『融けるデザイン──ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』、ビー・エヌ・エヌ新社、2016年、113頁。
★26 たとえば以下。宇治土公雄介「視覚刺激の操作に基づく疑似的な触覚提示──Pseudo-hapticsの事例と性質」、『基礎心理学研究』42巻1号、日本基礎心理学会、2023年、159─167頁。
★27 落合陽一『魔法の世紀』、PLANETS、2015年、175頁。
★28 マーシャル・マクルーハン『メディア論──人間の拡張の諸相』、栗原裕、河本仲聖訳、みすず書房、1987年、326頁。
★29 ジャック・デリダ『触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる』新装版、松葉祥一ほか訳、青土社、2022年。
★30 ジャック・デリダ「テレパシー」、『プシュケー──他なるものの発明Ⅰ』、藤本一勇訳、岩波書店、2014年。その関心はフロイトに由来する。以下を参照。フロイト「精神分析とテレパシー」、「夢とテレパシー」、『フロイト全集17 1919─22年 不気味なもの 快原理の彼岸 集団心理学』、須藤訓任責任編集、岩波書店、2024年。
★31 文芸批評家の藤井義允は『擬人化する人間』で、現代文学を「擬人化」ないし「人擬き」のモチーフから読み解いている。しかし藤井の議論では、「擬似」性や擬人化はあくまで現代社会によって押しつぶされ「脱人間化」された作家の「私」の問題としてのみ処理されており、その意味で古典的な文芸批評の域を出ていない。藤井義允『擬人化する人間──脱人間主義的文学プログラム』、朝日新聞出版、2024年。
★32 東浩紀『観光客の哲学』増補版、388頁。
★33 以下を参照。蓮實重彥『表層批評宣言』、ちくま文庫、1985年。
★34 福尾匠『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』、河出文庫、2024年、156─157頁。
★35 濱野智史『アーキテクチャの生態系──情報環境はいかに設計されてきたか』、ちくま文庫、2015年、229─237頁。この概念はニコニコ動画を特徴づけるものである。
★36 ユク・ホイ『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』、伊勢康平訳、ゲンロン、2022年、398頁。
★37 この点についてはYouTuberの《フィルムエストTV》を題材として論じた。「新しいアナクロニズムのために」(Ⅰ)─(Ⅲ)、PR誌『ちくま』2025年2─4月号。



森脇透青
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