令和カルチャーって、なに|森脇透青+山内萌+吉田とらじろう+植田将暉

元号が新しくなって8年になった。そのあいだ、わたしたちがそのなかを生きているカルチャーはどのように変化してきたのだろう。まだ輪郭を持たない「令和カルチャー」に、これから言葉を与えてみたい。
どんなコンテンツが流行っているのか。だれがカルチャーをつくっているのか。その背景にあるものはなにか。批評家の森脇透青、メディア研究者の山内萌に、令和のカルチャー事情を語りあってもらった。司会は、批評家の吉田とらじろう。そこに編集者の植田将暉も加わった。
まさにいま生まれつつある文化をどのようにして言葉でとらえるか。手探りの状態からはじまった「令和カルチャー」をめぐる座談会。批評が立ち上がるその瞬間に、あなたもぜひ立ち会ってほしい。
吉田とらじろう いま、この記事を読みはじめたひとたちは、そもそも「令和カルチャーって、なに?」とクエスチョンマークを浮かべているかもしれません。じつは、ぼくたち自身もよくわからない。「令和カルチャー」について喋ってほしいと編集の植田さんから要望されて集まったのですが、まだ見通しは立っていません。まずはおふたりの「令和カルチャー」に対する率直な感想を聞かせてください。
山内萌 わたしは1992年生まれなので、いわゆる「平成一桁ガチババア[★1]」の世代です。だから、令和カルチャーよりも平成カルチャーのなかで生きてきた感覚があります。どうしても平成生まれだなっていう自己意識のほうが強いんです。
森脇透青 ぼくもそうですね。1995年生まれですが、物心がついたころに観ていたテレビ番組といえば「エンタの神様」と「爆笑レッドカーペット」だった。
とらじろう どちらも、もう番組が終わってしまっていますね[★2]。そんなわけで、そもそも「令和カルチャー」とはなにかを確認するところから討議をはじめる必要があるわけですが、この言葉は、まだ社会で広く使われているものではありません。なので、まずはこの表現の発案者である植田さんを召喚して、この座談会の目指すところを明らかにしたい(笑)。
植田さん、そもそも「令和カルチャー」ってなにを指しているのですか。
植田将暉 割り込んでしまいすみません。そのままですが、令和になってあらわれてきた新しいカルチャーのことを意味しています。とくに2024年から25年にかけて、それまでとはどこかちがう、新しい文化や社会の動向が出てきたように感じていて。とりあえず、それを「令和カルチャー」と名づけました。
森脇 なぜ「令和」なんですか。ぼくは元号が変わることが、文化や社会の変化につながっているとはあまり思わないのだけど。
植田 ぶっちゃけると広告代理店的な発想です。どうせそのうち「令和〇〇」が社会を埋め尽くすだろうから、それに先んじて、批評の語彙にしておきたいなと(追記:座談会収録直後に、哲学者の谷川嘉浩が「令和人文主義」を提唱し、SNSや論壇で議論が盛り上がった[★3])。これが批評で覇権を握るということなんです(笑)[★4]。
これは冗談めかして言っているだけではありません。たとえばSpotifyを開けば、「平成ヒットソング」みたいなプレイリストが表示される。CDショップに行けば、「昭和歌謡」というカテゴリーがある。元号とそのときどきのカルチャーシーンはどうせ結びつけて語られてしまいます。そのことを、文化と天皇制を結びつけるのはどうかと批判的に捉えるひとたちもいるでしょう。ぼくも左翼としてその気持ちはわかる。だけど、現実として「昭和」「平成」「令和」という時代区分でカルチャーの変遷を捉えているひとたちがいるのだから、その感覚を真剣に受け止めてみると見えてくることもあるんじゃないか。
とらじろう なるほど、ぼくたちが「令和カルチャー」というお題を与えられてピンときていないのも当然で、まずはその言葉の定義をつくるところから始めよ、というわけですね。
植田 そのとおりです。
もうひとつ付け加えておけば、平成から令和に移り変わるタイミングで新型コロナウイルス感染症が生じたということが重要だと考えています。そのせいで、暦上はほんらい2019年に終わっていたはずの平成が2024年くらいまで続いてしまった。ぼくはこれを「長い平成」と呼んでいるのですが、対して「真の令和」は2024年末から2025年に始まったと言えるでしょう。かつて「新しい生活様式」という言葉もありましたが、感染症がもたらした社会の抑圧と停滞、そして急速なオンライン化や消費行動の変化は、「令和カルチャー」を考えるうえで、無視できない背景要因なのではないか。いまではコロナ禍があったということさえ忘れられているようにも感じるのですが、あらためてその影響を振り返る機会になればと思います。
ともあれ、まずは、いまわたしたちの同時代にあるカルチャーの見取り図を描きたい。そうしないことには、これからどう進んでいくべきかも考えられませんからね。
でかつよになろう
とらじろう ひとまず「令和カルチャー」として括れそうなコンテンツや出来事を思いつくままに挙げていくのがよいと思うのですが、山内さんはいかがですか。
山内 やっぱり『ちいかわ』(2020年連載開始)でしょう。ちいかわは現代社会論だから。
森脇 そうなの!?
山内 作中に「でかつよ」っていうキャラクターがいるんですよ。ちいかわたちが暮らしている世界の外に森みたいなところがあって、でかつよたちが住んでいる。ちいかわが「なんかちいさくてかわいいやつ」で、でかつよは「なんかでかくてつよいやつ」。おもしろいのは、そのでかつよをちいかわたちが討伐しにいくということなんです。
実際にはでかつよに殺されたり食べられたりして、討伐は失敗に終わることも多い。ただ、成功すればお金をもらえるんです。そして、当初は謎の存在だったでかつよなんですが、ストーリーが進んでいくと、どうやら、ちいかわからでかつよに進化した個体がいることがわかってくる……。
森脇 『進撃の巨人』(2009年連載開始)っぽいな。裏切り者があらわれるんですね。あるいは、資本主義的と言えるのかもしれない。もとは労働者だったひとが、成功して資本家になってしまうと、かつての仲間たちを搾取するようになる。
山内 わたしはむしろ消費社会の物語として読んでいました。ちいかわたちは消費者なんです。労働の合間にサウナに通い、まめまめしく懸賞に応募し、ラーメン二郎とおぼしきラーメン屋「郎」にならぶ。これはまさしく、労働の余暇を消費者として過ごす現代人の姿をあらわしています。だから『ちいかわ』はこれほどの人気を博しているのでしょう。
でも、そこでわたしは「ちいかわでいいの?」と問いかけたい。働きながらコンテンツを楽しみ、推し活に勤しみ、承認欲求を満たされているだけでいいのか。
森脇 ちいかわがおもしろいという話かと思ったら、まさかの「ちいかわになるな」という批判だった(笑)。
山内 最初は、『ちいかわ』って、「小さくてかわいいわたしを認めて」という物語としてバズっているんだなと思っていたんです。でもちゃんと物語を読んでみると、でかつよという真逆のキャラクターがいて、しかもそちらにも感情移入できるように描かれている。ちいかわなのにでかつよ側、みたいなキャラクターまで登場するんです。だから『ちいかわ』は、たんに「弱さ」を認めてあげようという作品ではない。強くなりたいという意志を持つやつが現れることもちゃんと描いている。そうやって社会の価値観に、批評的な再設定を行おうとしている作品として読解できるんじゃないかと思います。
とらじろう ぼくが気になるのは、ちいかわが短い言葉しか喋れないキャラクターとして描かれていることなんです。ほとんどの場合、「ウン!!」や「ア…」としか発さない。この喋らなさは、じつは近年の「言語化ブーム」の裏返しではないのかと[★5]。
森脇 ちいかわの場合は、なにを言っても、ぜんぶ親友のハチワレが言語化してくれますからね。ぼくはむしろ、ケアする存在としてのハチワレに痛ましさを感じてしまう。
とらじろう ケアと言語化を扱った作品だと、『タコピーの原罪』(2021年連載開始)はどうですか。地球にハッピーを広めるためにやってきた地球外生命体「タコピー」が、家庭や学校で問題をかかえる少女しずかと出会い、彼女を笑顔にしようと奮闘するマンガです。
森脇 タコピーが最後に「もっと話を聞いてあげればよかった」と気がつくところは、ケアにおける言語化や傾聴の大事さやむずかしさをあらわしていると思います。だけど、この作品については、ぼくは言語化よりも「露悪」の問題を考えたい。『タコピーの原罪』は2025年にアニメ化されています。そのときに、原作が持っていた露悪性が削ぎ落とされているという批判を集めたんです。
とらじろう たしかに作画やエフェクト、音声などでポップになっていますよね。
森脇 藤本タツキの『チェンソーマン』(2019年連載開始)もそうですが、2020年前後に流行したマンガには、露悪的なものがかなり多かったと思います。それが数年後には露悪性を削ぎ落とす方向に切り替わった。
山内 評論家の岡田斗司夫が現代は「ホワイト社会」だと言っています。社会のなかで、道徳性や健全さ、清潔さなどの要求が強まっていくことを指す言葉です[★6]。ホワイト社会では、だれかがちょっとでも悪いことをすると、すぐさま炎上し、激しい非難をあびる。まさしく「ポリコレ」的な社会ですよね。
つまり一方では、悪いものは包み隠し、清潔感を出すことが美徳とされている。他方で、SNSや政治の領域をみると、多くのひとが憎しみや嫌悪をあからさまに表明しはじめている。この二重性が、いま露悪的なコンテンツを考えるときのむずかしさを生みだしているように感じます。
森脇 あらゆることがリスクマネジメントの問題として語られるようになっていますよね。先日、とあるお笑い芸人が「女性のいる飲み会には参加しないようにしている」と発言して、リスク管理ができていると称賛されていた。
「他人には丁寧に接するべき」とか「誠実に向き合うべき」といった価値観は大事です。飲み会がさまざまな問題を引き起こす場であるというのもそうでしょう。しかし、それが男性だけのホモソーシャルな飲み会だけをやっておけば安心だという結論に行き着いてしまうと、なにかが転倒している。ポリティカル・コレクトネスがたんに醜悪な渡世の術になってしまいます。まあ実際には、コンパニオンみたいな、素性のわからない女性のいるあやしい飲み会にはいかないという趣旨の発言であって、それ自体は芸能人として正しい判断だと思いますけどね。
山内 作品が「コンテンツ」と呼ばれ、マネジメントの対象になってきている状況に重なりますね。コンテンツという言葉の背景には、作品を「IP」(知的財産)として投機の対象としてみなす発想がある。よいIPの権利を獲得できたら、そのライセンス料で利益を得ることができる。そこではいい作品をつくることではなく、うまく作品や作者を管理することが優先されてしまいます。
森脇 その結果が「レトロ・リバイバル」ですよね。2020年代は「平成カルチャー」がリバイバルしていると言われている。平成に流行ったキャラクターやグッズ、ファッションなどが復刻され話題を集めています。
しかし1980年代や90年代であれば、そういうときでも、パロディやリミックス、サンプリングなどの手法をもちいて、既存の記号を組み合わせて別の記号がつくりだされていた。それがいまでは、たんに既存の固有名を延命させ、そこからなんとか利益を出そうとしているだけに見えます。作品が「コンテンツ」になった結果、作者が死のうがなんだろうが、とにかくコンテンツを持続させて絞れるだけ金を絞るという態度が露骨になってしまった。ぼくは『ドラゴンボール』がいつまでも続いているのを見ると、痛ましい気持ちになります。
もちろん、レトロな感覚を消費行動に結びつけるという戦略自体は古くからあります。アーノルド゠フォースターというイギリスの歴史学者が『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか』という本を書いています[★7]。それによれば、1970年代末の時点で、すでに「ノスタルジア産業」に対する批判的分析があらわれていたといいます。
現代の「ノスタルジア産業」は、いちばん極端なのはトランプの「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」ですが、文化的にはサブスクリプションサービスの動向に目を向けるべきだと考えています。とくに象徴的なのは、Spotifyの「スローバック・サーズデイ(TBT)」プレイリストで、これは毎週、ある年にヒットした楽曲をプレイリストにまとめて配信している。過去の音楽シーンへのノスタルジアを掻き立てているわけです。
山内 同じような戦略はディズニーやパラマウントもとっていますね。巨大メディア企業はどこも、自分たちが保有する膨大なIPをもちいて、過去の作品を再発掘・再公開し、郷愁をおぼえさせることで、視聴者を集めています。
森脇 興味深いのは、そのときにリブートされる作品の多くが「90年代リバイバル」だということなんです。アーノルド=フォースターはその理由を、いまぼくたちが手にしている情報環境が当たり前ではなかった最後の時代が1990年代だったからだと指摘しています[★8]。90年代がぼくらにとって、もっとも近くて異質な過去なんです。
なお、ここで過去だけではなく未来にも目を向けて見るとおもしろいのですが、成田悠輔が、現代の特徴は「現在がデフレし未来がインフレしている」ことだと語っています[★9]。電気自動車でもSDGsでも何でもいいのだけど、未来に訪れるだろう輝かしいビジョンをとにかく喧伝し、そのイメージで儲けるという手法が一般化していて、企業広報から投資まで広い影響を与えている。たとえばAI産業でさかんに主張されている「シンギュラリティ」は、まさしく未来志向イデオロギーそのものでしょう。
とらじろう なるほど。過去志向ともとれるノスタルジア産業と未来志向イデオロギー的な産業が同時に成立している状況は矛盾していませんか?
森脇 じつは矛盾していないと思っています。結局そのような資本主義のなかでは、「過去」も「未来」も、いまこの瞬間に金を儲けるために使われているハリボテの表象にしかなりえないからです。資本主義というのは「差異」を「利潤」に変換するシステムですが、いまもっとも資本にとって魅力的な差異は「時間差」であり、その中身は過去だろうが未来だろうがなんでもいい。とにかく現在じゃないものを現在のなかで食い潰せればいいという発想が強まっています。
山内 レトロ・リバイバルに重なる動向で、わたしが興味をもっているのが、「y2k」と「病みカルチャー」の流行なんです[★10]。y2kとは、ほんらいは2000年ごろに流行した若者文化のことを指します。これがいま復活していて、さらに「病み」と融合している。
たとえば、2023年に戦慄かなのとかてぃのユニット・悪魔のキッスが、「カスタムラブドール」という曲のPVをリリースしています。そのなかで彼女たちは、2000年代のギャル風ファッションやロリータ服を身に着けて、秋葉原の街を歩いている。映像には、ビデオカメラ風のフィルターがかかっていて、いかにも平成っぽい。その歌詞が、見た目を他人と比べて病んじゃう自分を強く見せようとする内容で、まさしく「病み」がテーマになっています。でも、そこでは「整形」という批判されがちな行為を、ラブドールのカスタマイズと重ねて、自虐的に肯定しようと試みられている。その肯定のしかたは、すごくいまっぽく感じます。
ふたりはもともとZOCという女性アイドルグループに所属していたのですが、そのプロデューサー兼メンバーである大森靖子も、曲のなかで、キラキラした恋バナではなくて、もっと情愛的なものを含んだ、ドロドロした感情や恋模様を描いている。わたしは大森靖子の楽曲を聴いて、なるほど、恋愛をはじめとする人間関係によって傷ついた自己を癒やすためには、いまの脱色された音楽だけではダメで、2000年代のギャル文化までさかのぼらないといけないんだと納得がいったんです。いま起きている商業的なレトロ・リバイバルのなかにも、たんなるマーケティングだけではなくて、若者たちの実感を捉えている部分がたしかにあって、わたしはそこに注目しています。
森脇 ぼくが可能性を見出しているのも、一見たんなるレトロ・リバイバルに見えるのだけど、商業的な消費だけではない可能性を過去とのあいだにつくりだそうとしている作品ですね。具体的には、ぼくは「フィルムエストTV」というYouTuberグループについて批評を書いています[★11]。山内さんのいう「病みカルチャー」もまた、「ノスタルジア産業」とはちがうかたちで過去をとらえようとしている動向に感じました。
ネットカルチャーをこえて
とらじろう おふたりが取り上げた動きの中心には令和以前のコンテンツへの関心がありますよね。そう考えると若者たちによる新しいカルチャーとして「令和カルチャー」を捉えるのは難しいのでしょうか。たとえばかつての「平成カルチャー」という言葉には、先進的で新しい若者文化としての一面をフィーチャーするニュアンスがありました。はたして令和のいま、若者自身の文化はどこにあるのか。
森脇 若者文化こそがサブカルチャーの中心かつ最先端で、いままでにない価値を持っていて、そこから社会全体を捉えることができる、というかつてあった図式が、もう成り立たなくなっているのではないかということは感じます。たとえばいわゆる「Z世代」をめぐる議論にしても、若者たちは大人が期待しているイメージを引き受けてしゃべっているのではないか。
山内 たしかに「自分、ゆとりっす」と開き直っていたような生意気さはない(笑)。
森脇 「ゆとり世代」というラベリング自体に批判のニュアンスが入っていましたからね。アイロニーとして引き受けるほかなかったのではないかとは思うのですが。とはいえ、貼られたレッテルをそのまま素直に受け取ってしまうような風潮は、MBTI診断を信じたり[★12]、SNSのプロフィールに診断された疾患──というか医学的に診断されたかどうかも怪しい疾患──をたくさん並べて書いているひとをみると、感じてしまいます。まるごと生身の自分と他者で関係するとコストもリスクも大きいので、それぞれなんらかの位置づけがほしいということでしょうね。「多様性」が陳腐な社会的標語に堕しているいま、人々はむしろレッテルを欲している。
その意味では、映画『ナミビアの砂漠』(2024年)は、そういうレッテルになじめないひとを描いている映画としておもしろく見ました。自己反省的で、リスクマネジメントがちゃんとしている彼氏に対して、河合優実が演じる主人公のカナは、不安定で、ひとの話を聞きながら意識がどこかへ飛んでしまったり、浮気しちゃったり、DVやモラハラもしてしまう。ここで「レッテルになじめない」というのは、社会的役割に縛られない自由な自分がどこかにいるんだ、みたいな話ではない。たんに、原因不明のイライラとか、集中力が散漫だとか、そういう、とくに原因も理由もない「なじめなさ」です。これはあきらかにポスト精神分析的な映画だと言えます。
精神分析では、社会や共同体とのあいだで摩擦を起こしてしまう主体には、そのひとの生育環境のなかになんらかの理由があるとされる。背景に必ずトラウマ、家族との摩擦、「心の闇」があって、症状を一種の物語に落とし込むことができる。でもカナはただなんとなく馴染めないだけ。作中には「箱庭療法[★13]」が出てくるので、『ナミビア』を考察するひとはここから家族内の不和がどうこう、父親がどうこうともっともらしく言うのですが、あれはむしろ、そういうアプローチがカナの内面を見るにあたっていかに役に立たないかを描いているシーンでしょう。
真逆の作品に『花束みたいな恋をした』(2021年)があります。こちらはすべてを物語によってわかりあう映画です。サブカル好きの若い男女が意気投合して付きあうことになるのだけど、いざ就職すると、「忙しくなってカルチャーに触れることができない彼氏」と「ずっとサブカル好きで仕事にもできた彼女」のあいだにすれちがいが生じて別れてしまう。
とらじろう たしかに、2作品ともクリエイティブなものにかかわる若者たちの恋愛映画ですが、そのトーンはかなり異なりますね。
森脇 そう。サブカルでわかりあうのが『花束』だとしたら、映像を作る彼氏の横で寝転がり、ずっと無意味な砂漠の映画を観ているのが『ナミビア』なんです。『花束』では、ふたりが出会ったことにも、ふたりが別れることにも、すべて理由があり、物語にできる。端的にいえば、「働いたら本が読めなくなった」という映画ですよね[★14]。でも『ナミビア』にはそういう物語がありません。原因不明のイライラと攻撃性、その場しのぎの嘘がただ重なっていくだけ。その場その場で、なんとなく自己を物語化できるレッテルをもってくるんだけど、合わないからすぐに脱ぎ捨てて次のレッテルをまとっていく。その結果として人間関係が破綻するのだけど、いまはこちらのほうが「リアル」かもしれません。
ただ、補足しておけば、『花束』にもちょっとした仕掛けがあります。あの映画は2016年から付き合って2020年に別れるという設定で、作品が公開された2021年より過去の話として描かれているんですよ。その意味ではちょっとした「ノスタルジー」映画だといえる。あえて深読みすれば、ちょうどサブカルを語って自己を物語化し、それによって他人とつながることができていたある時代の臨界点に『花束みたいな恋をした』があった、と言えるんじゃないかな。
とらじろう MBTI診断が流行りはじめたのが2022年ごろと言われていますが、『花束』以降も、みんな自分の属性や好きなものを開示しながら、たがいに「わかりあう」コミュニケーションをしていませんか。
山内 やみくもに他人と触れあおうとすると傷ついてしまうから、「わたしはぜんぶさらけ出している。それなのに傷つけてくるあなたが悪い」という防衛策をとるために、自己開示を進めているんじゃないのかな。
森脇 好きなものでたんに繋がるというよりは、理解してくれない攻撃的他者を遠ざけるために「連帯」して引きこもるというような防衛的な感覚のほうが強いと思います。ネットユーザーでも、Xに絶望して、細々としたDiscordのサーバーに隠遁するというひとがけっこう増えてきた。平成はちょうどインターネットの普及期に重なっていますが、そこで革新的だったのは、リアルでは人間関係を築けないようなひとたちともネット上ではやりとりができるということだったんです。しかし令和になって、もはやあらゆるひとにネット上では出会えるようになった。その結果、リアルとネットの関係が逆転しはじめていると感じます。
気になっているのは、YouTuberがスタッフを出演させたり、オンラインサロンで運営側の事情を開陳したりと、いわゆる「裏方」要素を消費させるようなコンテンツづくりが増えているということなんです。芸能人たちの話を聞いていてとくに気がつくのですが、彼らは最近、「楽屋でこんなことがあった」とか「このまえ〇〇に出演した」とかいった裏話ばかりをするようになっている。純粋なネタ番組を除けば、あらゆる番組で、別の番組に出たときのエピソードトークが開陳されている。これは、ファンが「自分もまた世界観を共有し、その業界に部分的参入している」と思えるようにする仕掛けだと思っています。「コンヴァージェンス・カルチャー」という、ファンとの交流を前提にしてつくられるコンテンツとその文化を捉えるための言葉がありますが[★15]、いまではそれが過激化して、もはや「裏方消費」とでも言えるような消費形態が全面化しています。スーパーチャットなんかもそうですよね。リアルではもちろんそんな業界には参入していないんだけど、ネット上だと楽屋裏に自分がいるかのように誤認できる。
2012年に、小林よしのり、中森明夫、宇野常寛、濱野智史の4人が、『AKB48白熱論争』という本を書いているのですが、そのなかで、AKB48のライブはハーバーマスも考えなかったやりかたで公共性を立ち上げているということが言われています[★16]。彼らによれば、「推し活」は、超越している偶像と、しかし実際に近づけるという感動を得られる握手会という場と、それを軸にしたファンコミュニティの熱い共同体性を有している。その宗教的な一体感こそが「公共的」であるというわけです。たぶん当時はなにを言っているのか意味不明だと思われていたはずですが(笑)、現状を見ると、「推し活」と「裏方消費」の時代の幕開けを宣言しているように読めます。ファンたちがたんなる消費者ではなく、「自分はこのカルチャーを支えている」という意識を共有して、ある種の裏方的な目線を内面化しているわけですからね。
とらじろう 「推し活」も「裏方消費」もコミュニティの存在を核として、消費者である自己をある種公共的な、あるいは共同的な空間に追いやることで楽しみを見いだしているということですね。だとすると、それらと対比されるような、つまりプライベートな空間を確保したうえでの消費行動は起きているのでしょうか。
山内 ネットの匿名コメントじゃないかな。ネット上の女の子カルチャーを追いかけていると、y2kで名前を挙げた大森靖子のYouTubeのコメント欄や、「パキちゃん」というX上のアカウントの「質問箱」(匿名で質問を送ることができるサービス)に、病んでいる女の子たちの避難所のような空間ができています。とくにパキちゃんについてはさまざまな批判もありますが[★17]、しかしそこが事実上の相談所になっている。
もちろんそれらのコメントや質問は、ネット上に、だれからでも見える書き込みとして公開されています。しかし匿名で、みんな自分がだれかはわからないように投稿している。匿名だからこそ実存が出せるというのは、2000年代のネット的な振る舞いなんだけれども、それがいまだに「プライベート」の感覚を生み出しているとは感じるんです。
森脇 コロナ禍をきっかけにリアルなコミュニティがつくりなおされていることにも注目したい。2020年代に入って、あらためてサードプレイスに注目が集まるようにようになったと思います。現代アートの作家たちのあいだでも自分たちで拠点をつくる動きが強まっています。また、たんなる一例ですが、ぼくが暮らす京都ではシーシャ屋のような場所が増えましたし。すでに過剰接続状態になってしまっているネット上のコミュニティより、リアルな空間を新たにつくるほうが未来があると思われている。
山内 結局、インターネットが属性や階級をこえてみんなをつなぐという幻想がなくなったのが2020年代だと思うんですよね。サブスクリプションモデルが浸透したことで、音楽を聴くにも、映画を観るにも、クレジットカードや親の許可が必要になってしまう。発信する側のコストも上がっていますよね。動画投稿がメインになったことで、編集の手間もかかるし、声や顔を出せるかどうかなど制約も多い。
森脇 まさしく山内さんが研究しているテーマですが[★18]、ネット上のコミュニティは基本的にさまざまな「界隈」に細分化していく。見たくないコンテンツまでリコメンド機能で流れてくると不愉快だから、自分の好みや属性を明確にし、流れてくるものに制約をかけようとする。
でも、同時にバズっているコンテンツは画一化していっているようにも感じるんです。YouTubeはもちろん、SpotifyやNetflixなどのサブスクを使えば、あらゆるコンテンツにアクセスできる。ただ、けっきょくみんなが見聞きしているのは、ランキングの上位に載っていたり、おすすめに出てきたりするものです。また、なんだかんだ言って、テレビが強い。令和の年末になっても、みんな紅白歌合戦を観ています。
山内 TVerの影響力もちゃんと考えないといけないですね。サブスクやYouTubeの時代が来ているのはたしかだけれど、同時に、TVerが便利になったことで、地上波の番組もネットコンテンツとして生き残っている。バズを生み出しているものがなにかということは、ちゃんと見定めないといけません。
森脇 最近のコンテンツをめぐる議論を聴いていると、コロナ禍の最中に、毎日感染者数の増減が報道されていたころを思い出すんですよね。「これがバズりました」という話題の推移ばかり見せられている。
トレンドは、人間が生み出している文化というよりも自然現象に近くて、みんなあまり当事者意識を持っていない。天気予報みたいなものだといえる。
だから、なにがバズっているかなんて情報は、ほんらい批評的にはなにもおもしろくない。いまわざわざ批評すべきものがあるとしたら、各々のコンテンツの表現を可能にしている技術とかインターフェースじゃないでしょうか。ぼくがウォッチしているVTuberに「月ノ美兎」がいるのですが[★19]、彼女は、VTuberとして配信画面を構成し、それを活用した表現をつくる、ということにもっとも自覚的なVTuberなのではないかと思います。たとえば、しゃべっている自分の姿を録画しておいて、その録画と配信中に会話してみせるという企画がある。そして視聴者に、どちらがリアルタイムにしゃべっている月ノ美兎かを当てさせるんです。
山内 どういうこと!?
とらじろう フィクションとリアルの境界をあいまいにさせているということですか。
森脇 理論的にいえばそういうことだけど、もっと具体的に分析するほうがおもしろいはずなんです。月ノ美兎がそれを実現できているのは、OBSという配信ソフトウェアが充実しているからです。彼女の動画をいくつか見ればわかりますが、月ノ美兎は、OBSをどこまで変な仕方で使えるかを探っている。言い換えれば、それはVTuberの活動を「OBSを用いた新しい表現活動」として捉えているということです。彼女が配信メインの活動から動画投稿メインの活動に切り替えたのには、おそらくそのほうが細々とした演出や編集、企画実現が可能だという判断があったのだと思います。
ひるがえってみれば、OBSの登場というのは、無料のソフトを使って、ライブ映像や収録動画、画像データ、文字、音声などのさまざまなメディアを、だれもが簡単に、同時かつ多重的に扱える時代が来た、ということにほかなりません。それを「表現」として捉えて可能性を探ることはたぶんできるでしょう。にもかかわらず、「推し活」時代の弊害だと思うのですが、現状のVTuber論にはこういう美学的・表象文化論的観点があまりない。あえてモダニズム的な立場をとりますけど、批評が捉えるべきなのは、やはりメディアやアーキテクチャの変化がどのようなコンテンツの変化に結びついているかということではないか。インターネットやオタクカルチャー、ニコニコ動画といったものが登場し普及していったときには、それぞれの時代に即した表現が生まれてきたわけです。だとすれば、現在のような「配信文化」の普及においても、同じように表現の可能性を探る取り組みは出てくるはずです。
いまほど、ひとがなにかを見てしゃべり続けている時代はない。制作者の側も、SNS上で反応があることを予想してコンテンツをつくっている。その時代に考えるべきテーマは、「この作品がひとの心を打つ理由」みたいなことではないでしょう。それをやるのはマーケターの仕事です。批評はむしろ、なぜこのように作品がつくられており、なぜこのように見られており、なぜわたしたちが論じてしまうのか考えたほうがいい。その論点は、たとえば「アーキテクチャ」だということになるかもしれない。すくなくともぼくは、いまあらためてアーキテクチャが生みだす歴史性について考えたいんです。
強くない界隈がおもしろい
とらじろう 山内さんはどうですか。
山内 わたし自身は、大局的な文化とミクロなカルチャーの中間を扱いたいと思っています。コンヴァージェンス・カルチャーが広がり、推し活が公共のものとなったいま、若いひとたちのアイデンティティがどうなっているのかが気になります。
具体的にいえば、ネットの「界隈」と言われる現場で起きている出来事に、どうしても興味を惹かれてしまう。こうして話していても、「日本」や「政治」といった大きな話に結びつきそうになるとわたしはつい黙ってしまうのですが、それは界隈のような「大きな話に結びついていかない領域」に関心があるからなのかもしれません。世の中の全体から見れば、界隈の出来事は小さい。でも、そこで実際に救われているひとは確実にいる。大きな言葉からはこぼれ落ちてしまう匿名的なひとたちが、ネットの界隈に集まって救われていることに関心があるんです。
森脇 界隈どうしをつなげるような動きは起きていないのですか?
山内 わからないけど、わたしが自然に「見たい」と思うのは、横とつながって育つような強いコミュニティではありません。そうではなく、もっと気軽に、ワンイシューだけのつながりとして生じている界隈を見たい。ある種の悪ノリもふくめ、軽薄に乗れて参加でき、そして軽薄に捨てられてしまう話題を話しあうような、刹那的なつながり。それは弱いつながりなのですが、その弱さこそがむしろ魅力なんです。ネットの少女文化にも通じるような……。ネットの少女文化の界隈には、まだロマンティックなところが残っていると思います。
森脇 2000年代や2010年代の課題のひとつは、いま言ったような「強度のなさ」が結局、政治をめぐる新しい秩序づくりには結びつかなかったところだと思うんです。ただ、2020年代には、そのような「強度のなさ」がなにかを生みだしているのかもしれませんね。
たとえば参政党の議論には強度がない。しかし、それがある種の「アドホックさ」を生み出しているのは事実です。「風呂キャンセル界隈」などもそうだけれど、開放的で、次から次へと脱ぎ捨てていけるワンイシューを語る。だから明日には別のことを言えてしまう。その身軽さが、ちがう強さを生みだしているわけですね。
山内 界隈を考えるときにわたしがまず少女たちの文化に注目したのは、「女学校文化」みたいな閉ざされた空間との親和性を考えてのことでした。一時的に社会から閉ざされ、そのなかでこそ独自に花開くのが、少女文化のような「囲われたひとたち」のカルチャーなのだと思います。
森脇 一時的なアジールみたいなものか。おもしろいね。参政党の場合は「目覚める」という言葉を使ってつながっているから、いわゆる界隈とはちがうのだろうな。
山内 ネットの界隈は、強度がないところが大事なんです。スケールしすぎて失敗してきた過去のコミュニティを「強度のなさ」がつくりなおす可能性についてわたしは考えてみたい。たとえばメンタルヘルスの悪さを抱えた若いひとがSNSを始める。なぜか。学校では、友だちがいない、話が合わない、しんどいと感じている。でも、SNSでは、大森靖子やアニメやファッションといった、リアルではつながれない話題や話し相手に出会うことができる。「自分のだめなところ」も出すことができる。
リアル空間では言えないことを堂々と言える場所が界隈であって、わたしはそこに自由を感じるんです。
だれかと出会わなくてもいい。出会ってもいい。参加する自由はあるけど、維持しなくてもいい気楽さがある。「あの子の自撮り、かわいい」と憧れている子がコンカフェで仕事をしているから、自分もやってみる。もちろん、コンカフェで働くことの問題はまた別にあって論じなければならないことではあるけれども、それでも社会に復帰できている事例はあります。
森脇 ぼく自身が救いとなった令和のコミュニティは、やはり、コロナ禍をきっかけに出会ったサードプレイスですね。とにかくシーシャ屋に通いつめていたぼくが経験していたのは、たぶん東京で想像されるような「シーシャ屋」のノリともちがっていたのですが、そのような場所をつくっていたのが、同世代や、自分よりも若いひとたちだったことにもすごく感銘を受けましたね。
令和カルチャーはどこへいく
植田 そろそろ「令和カルチャーって、なに」という座談会のテーマに戻っていきたいのですが、最終的にコロナ禍以降のコミュニティをめぐる議論に行き着いたのはとても大事なことだと思います。冒頭でも述べましたが、やっぱり「令和」の大部分はポスト・コロナの時代が占めている。そこにあらわれてきたものを多少なりとも拾いあげられたのであればよかった。
他方、まだまだ捉えきれていない令和カルチャーも多くあると思います。それを批評的に捉えていくための方法を最後に考えたい。これまでの議論を振り返ってみて、みなさんいかがでしょうか。
とらじろう ぼくが気になっているのは、当事者性の問題なんです。今日話題に上がっていた『ナミビアの砂漠』や「ノスタルジア産業」などにしても、つまりは現実、そしてそこに生きる自分という当事者性への距離や戸惑いがその中心にある。「界隈」や参政党の動きもそれと裏表の現象なのではないか。人々がごくふつうに持っているはずの「どっちでもいいのに」という態度は年々許容されにくくなっています。
たとえばSNSの世界では、だれかの告発をみなが支持し、ほかのだれかを糾弾する。人文書の世界では、ケアが掲げられ、だれかが被害の話をしたらそれに共感し、手を差し伸べないといけないと考えられている。もちろんそれで救われているひとも少なくないと思うのですが、ぼくは納得感を持てないでいます。「当事者性を持たないといけない」「共感しないといけない」という不安や強迫観念ばかりがあって、実際の当事者性は欠けているのではないかと感じます。
森脇 ケアという言葉は、ほんらい「関心を向ける」という意味ですよね。ケアの倫理を提唱したキャロル・ギリガンという有名な心理学者がいますが、彼女は「薬が必要な夫婦がいて、片方が死にかけているものの、治す薬を買うお金がない。もう片方は薬を盗むべきか」という問いを投げかける実験(「ハインツのジレンマ」)をしてよく知られるようになった。そのとき、「盗むべきか」「盗まないほうがいいか」の二択に答えるよりも、まずそこにあるニーズに耳を傾け、話しあうべきであると答える被験者のほうにギリガンは注目する。つまり、そういう傾聴の姿勢も、「べき」を語る正義と同等くらいに尊重されるべきだろう、というのがギリガンの主張なんです[★20]。
たしかに、「べき」を拙速に語るよりも、まずコミュニケーションをしてたがいを気遣いあう(ケアしあう)ことが必要な局面は無数にあります。でも、話しあいはどこまでのスケールで可能なのでしょうか。恋人ふたりならいける。数人の家族ならいける。ご近所さんでもまだ大丈夫。学校の教室でもなんとかなる。じゃあ、ひとつの学校全体ならどうか。国家の規模ならどうなのか。ケアについては、みなが自分と他人について関心を持ち、たがいについて話しあうというモデルが成り立つスケールについて考えないといけないはずなんです。そのスケールを無視すると、ケアをしあうことが大事であるという当然の教訓が、かえって相互監視的な圧力に転換してしまいかねない。
植田 やっぱりスケールなのか。たしかに「令和カルチャー」をさらに分析するにも、この概念をすこしちがう切り口で扱うことができれば、もっといろいろな議論ができそうですよね……。
森脇 「スケール」という言葉は、今後展開していきたい論点ですね[★21]。
山内 わたしがこだわっている「界隈」では、スケールしすぎないほうがいいんです。産業として成立させようとするなら、スケールして、なるだけ大人数がその界隈にかかわり、消費活動を行なっていたほうがいい。でも、わたしが追いかけている界隈は、そのなかにいるひとたちが、自分たちの手で、DIYとして、自分たちの居場所をつくっている。
植田 そうか。ここでいう「スケール」は、じつは2種類の意味を含んでいるんだ。まずひとつの軸として、かかわっているひとの量的な大小、つまり「マス」と「マイナー」がある。前者はとにかく多くのひとにとどいている文化。逆に後者は、少人数のひとにしかとどいていない文化のことです。それに加えて、じつはもうひとつの軸を設定できるのではないか。つまり、「メジャー」と「インディーズ」という質的な大小なんです。こちらは、インディーズのバンドとメジャーデビューしたバンドのちがいを思い浮かべてみればわかりやすいですが、かかわる人数の多寡ではなく、ある種の文化や慣習のちがいとしてあらわれる。
縦軸を「マス」と「マイナー」という人口規模のちがいで、横軸を「メジャー」「インディーズ」という文化のちがいで取った「令和カルチャー」の四象限図をつくってみるとおもしろそうですね。きっといろいろなものを配置することができるはず。
たとえば、音楽業界を考えればイメージしやすそうだけど、メジャーなことをやっていてマスを獲っているバンドもあれば、ずっとインディーズで活動していてマイナーな規模にとどまっているひとたちもいる。そんななか、インディーズでやっているはずなのに、とつぜんバズって、マスに届いてしまうバンドもあらわれてくる。これは批評や人文の世界でもいっしょじゃないのかな。
山内 界隈は基本的に「インディーズでマイナー」な存在。ただし、なにかの拍子に、「インディーズなのにマス」になってしまうことがある。そうすると、新規参入者はぐっと増えて多様性は増すけれど、界隈としてのまとまりは失われてしまう。逆に、メジャーな手法でなにかをやっても、マイナーな支持しか得られないこともありますよね。
植田 いまは新聞や出版が「メジャーなのにマイナー」の典型例になりつつあります。権威はあるけれど、実際に買って読んでいるひとはかなり少ない。対照的に、文学フリマやZINEフェスの盛り上がりは、それが「インディーズだけどマス」な場になっていることを示しています。
森脇 批評の宛先も、そうすると考えやすいのかもしれませんね。ぼくは批評家として「不特定少数のための批評」を書くことを標榜しているのですが、これは、インディーズでありつつマスにとどく言葉を探すことだとも言い換えられるかもしれない。いまの批評は、あまりに「不特定多数のための批評」と「特定少数のための批評」に二分されていますから。
とらじろう ぼくは今回の座談会では進行役を引き受けていたので、自分の批評的な立場については控えめにしゃべってきました。正直に言うと、ぼくには「令和カルチャー」にかぎらず、なんらかの作品を通して魂が震えたり、救われたりした経験がありません。他方でそういった力を持つ作品が「きっとあるにちがいない」という確信をなぜかいだいてしまっていて、そのためにいまだに多くの作品に触れつづけています。それはひとえにこれまでに触れてきた批評の数々が刺激的でおもしろかったからです。ぼくは作品そのものではなく、批評という語りを通してこの幻想にも似た確信を得るにいたった。そこには自覚的でありたいし、責任を果たしたいと思っています。
いま世界には作品があふれていて、それを愛しているひとも数多くいます。一方で、多くの怯えや不安からその「語り」はかえって画一的になってしまっている。ぼくはそれをもういちど解きほぐしたい。楽しみながら、そして苦しみながら他者と語らうことの豊かさを、みんなといっしょに味わいたいんです。こんなことを言われてもみな困ると思いますが(笑)。
植田 その立場は「インディーズでマイナー」ということになるのかな。いや、マス志向もあるか。でも、そんな簡単に括ってしまわないほうがいい気もしますね。四象限図なんて、不自由を感じるくらいなら、しれっとすり抜けてしまったらいいものですし。
座談会をつうじて、さまざまな話題が出てきました。時代の雰囲気も浮かび上がってきたし、ちょっと無理やりだけど、最後に見取り図のための座標軸もつくることができた。これを助走として、わたしたちの「令和カルチャー」を追いかけ、そしてつくりだしていこうではありませんか。今日はありがとうございました。
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本座談会は、2025年7月3日にゲンロンカフェで行われたイベント「令和カルチャーは存在するのか?──90年代生まれが見透かす「これから」の文化」を、後日、追加収録のうえ再構成したものです。
2025年7月3日、8月8日
東京、ゲンロンカフェ
ゲンロン事務所
構成・撮影・注=編集部
★1 平成元年(1989年)から平成9年(1997年)生まれの人々(とくに女性たち)が、自虐を込めてみずからの世代的なアイデンティティを示すためにもちいるネットスラング。2025年夏にX上で話題を集めた。
★2 「エンタの神様」は日本テレビ系列で2003年から2010年にかけて、「爆笑カーペット」はフジテレビ系列で2007年から2014年にかけて、レギュラー放送された。
★3 「令和人文主義」論争の発端は以下の記事。谷川嘉浩「深井龍之介、三宅香帆…新世代が再定義する教養「令和人文主義」とは」、朝日新聞デジタル、2025年9月11日。URL=https://digital.asahi.com/articles/AST982GY9T98ULLI001M.html
★4 批評と覇権については以下を参照。三宅香帆ほか『いま批評は存在できるのか』、ゲンロン、2025年、131頁。
★5 2024年から25年にかけて生じた、三宅香帆『「好き」を言語化する技術』(ディスカヴァー携書、2024年)や荒木俊哉『こうやって頭のなかを言語化する。』(PHP研究所、2024年)、小川哲『言語化するための小説思考』(講談社、2025年)など、「言語化」をテーマにした書籍が相次いで刊行され、支持を集めた現象のこと。この前段階として、今井むつみ、秋山喜美『言語の本質』(中公新書、2023年)のヒットを象徴とする、生成AIと言語学に対する関心の高まりがあった。
★6 たとえば以下のYouTube番組を参照。「#548「ホワイト社会の歩き方」」、岡田斗司夫、YouTube、2024年11月3日。URL=https://www.youtube.com/watch?v=izfMETTB-ng
★7 アグネス・アーノルド=フォースター『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか──ある危険な感情の歴史』、月谷真紀訳、東洋経済新報社、2025年。
★8 同書、208-217頁。
★9 成田悠輔『22世紀の資本主義──やがてお金は絶滅する』、文春新書、2025年、18頁。
★10 本誌収録の山内萌による論考を参照。10頁以下。
★11 以下の連載を参照。森脇透青「新しいアナクロニズムのために」(Ⅰ)〜(Ⅲ)、『ちくま』、2025年2-4月号。
★12 SNSなどで流行している、いわゆる「MBTI診断」は、正式には「16Personalities」という名称の、アンケートの回答結果にもとづき16のタイプに分けて性格診断を行なうもの。これとは別に、本来のMBTI(マイヤーズ゠ブリッグス・タイプ指標)が存在する。詳しくは以下が参考になる。小塩真司『性格診断ブームを問う──心理学からの警鐘』、岩波書店、2025年。
★13 相談者に砂の入った箱の中に人形やミニチュアを自由に配置させ、その構成や過程を通じて言語化されにくい心理状態や内的世界を把握・理解しようとする心理療法のこと。
★14 映画『花束みたいな恋をした』は、三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)の冒頭で、「労働と読書の両立」をテーマにした作品として引用されている。
★15 ヘンリー・ジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー──ファンとメディアがつくる参加型文化』、渡部宏樹ほか訳、晶文社、2021年。
★16 小林よしのり、中森明夫、宇野常寛、濱野智史『AKB白熱論争』、幻冬舎新書、2012年、83頁。
★17 たとえば以下の記事を参照。エタノール純子「〝SNSの駆け込み寺〟で人気を集めた有名Xアカウント凍結!「風俗に誘導する業者」「実は男性」正体と功罪めぐってネット真っ二つ」、『女性SPA!』、2025年2月26日。URL=https://joshi-spa.jp/1347232
★18 以下の連載を参照。山内萌「界隈民俗学」、集英社新書プラス。URL=https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/cc/kaiwai_minzoku_gaku
★19 月ノ美兎のYouTubeチャンネルは以下。URL=https://www.youtube.com/channel/UCD-miitqNY3nyukJ4Fnf4_A
★20 キャロル・ギリガン『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』、川本隆史、山辺恵理子、米典子訳、風行社、2022年。
★21 以下がそのひとつの試みである。森脇透青「スケールを剥がす」、『FAST FORWARD 〈HIGH-CONTEXT〉』、ANRI、2025年。


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