はてなき天下の夢──現代中国の「新世界秩序」について|伊勢康平

「Japan is Back」という文字列をはじめて見たとき、なんだか中国のようだと感じたのを記憶している。憲政史上初の女性首相である高市早苗が明言して注目を浴びたこのフレーズは、そもそも10年以上前に安倍晋三元首相が使用したものだった。かれは2013年2月22日にワシントンD.C.の戦略国際問題研究所(CSIS)で「Japan is Back」という講演を行ない[★1]、のちにこのフレーズを愛用するようになった。
じつはそのたった3カ月前に、中国の国家主席に就任してまもない習近平が「中華民族の偉大な復興」を「中国の夢」として掲げている[★2]。2012年11月29日のことだ。
もっとも、「中華民族の偉大な復興」という言葉もまた習近平が編みだしたものではない。これは2002年に中国共産党第16回全国代表大会で提示されたものだ。習近平の「偉大な」点は、まさにこれを「夢」と表現したことにある。大国の指導者になるにあたり、かれは自分が統治するのは夢みる国だと宣言したわけだ。
では哲学にとって「中国の夢」とはなにか──中国の哲学者・趙汀陽はそのように問いかけた。それは単に近代化を推し進めて西洋を超えるような大国になることではない。むしろ西洋によって定義された概念や言説の体系を超え、さらに中国の文化的特殊性をも超えて、世界的な普遍性をもつ思想体系を「中国的精神」からもたらすことだという[★3]。
この「夢」を実現するために趙が提案したのが「天下」の再発明である。つまり「天下」という中国のいにしえの概念を新しい世界秩序としてよみがえらせようというのだ。このような主張自体は1990年代にはすでに現れていたが[★4]、趙が2005年に『天下体系──世界制度哲学序論』を、2016年に『天下の現代性──世界秩序の実践と想像』を刊行したことにより、現代の中国哲学を席巻する一大テーマになった(いずれも未邦訳[★5])。その背景には、趙の思想の力強さもさることながら、やはり中国の急速な発展や、それにともなう政治的な存在感の高まりがある。要は中国による新しい世界秩序の提唱が、現実的な問題として受け止められるようになったということだ。
じっさい、天下の現代的な可能性をめぐるこうした議論──一般的に「天下主義」と呼ばれる──は、現代中国の政治経済的な状況との関連のなかで語られる傾向にある。けれども、じつはその奥底には近現代の東アジアの思考の宿痾とでも言うべき根深い問題が隠されている。この論考では、おもに趙の議論に焦点をあてながら、その大きな課題を明らかにしたい。
すばらしい新世界秩序
趙の『天下体系』の議論は、いまや中国は「世界に対して責任をもつ大国」となって「世界新理念や世界制度を創造しなければならない」という印象的な宣言からはじまる。そのためにかれが設定した課題は、「西洋的な国民国家の思考方式を乗り越えること」であった[★6]。
趙の問題意識はじつにシンプルだ。まず、テクノロジーや経済、情報のグローバル化によって、世界の各国、各地域は急速につなぎ合わされている。世界はひとつになろうとしている。他方、政治の概念は国民国家の分割と対立、あるいは協力によって成り立っており、おのずと友と敵を、または相容れない他者を生みだしてしまう。世界は決してひとつではない。ゆえに私たちは、グローバル化する世界にふさわしいあらたな「共存在の秩序」を発明しなければならない。そこで「天下」の概念が注目される。
そもそも中国の伝統的な思想において、天下とは天の命令を受けた天子(としての皇帝)が統治する政治的領域のことである。その範囲は、王朝が直接的に支配する「中華」と、その周辺にある「夷狄」の地によって構成される(中華のみを天下と称する場合もある)。基本的に夷狄は直接的な統治の対象ではなかったが、天子と冊封関係を結ぶことによって形式的にその臣下になると考えられていた。じっさいに冊封される国は天子の威徳や王朝の政策次第で増減するため、古代中国における天下は、そのときどきで範囲が大きく変わる概念だったのである。
趙はこのような天下という語を「all-under-heaven」と翻訳し、全地球を包括する概念として解釈した。とはいえかれは決して、これからは天子(としての国家主席?)を擁する中国が世界の中心となって全地球を支配するのだ、などと主張しているわけではない。趙によると、あらたな天下はどの国家にも属さないものになるという。より具体的には、それは世界中の金融やテクノロジー、ネットワークなどの「人類集団の運命にかかわる事務」を管轄し、その公正な運用をつかさどるための政治システムであり、「技術と資本の非理性的な発展をコントロールし、世界を安全で平和な共同生活の空間」にすることを目標としている[★7]。
この目標は、国際連合をはじめとする既存の国際協力のアプローチでは──ひいてはカントが『永遠平和のために』で提案した自由な共和国による連合という理念では──決して実現できないと趙は語る。なぜならそうした国家間の枠組みは、あくまで国民国家の分割を前提とし、各国の利害関係によって左右されてしまうため、公正さを維持し、問題を解決するための強制力を発揮できないからだ。「事実が証明しているとおり、国際政治は、取るに足らない争議をのぞき深刻な衝突をなにひとつ解決したことがない[★8]」。
したがって、世界の平和的な発展のためにはすべての国家主権を超えた「世界主権」が必要となる。その点、天下は全世界を包み込む単一の政治的単位であり、国民国家の分割を前提としない制度設計と、より公正で有効な権力の行使を可能にするという。しかもこのような天下の概念は、カール・シュミットが政治的なものの本質として規定した「友」と「敵」の対立を乗り越え、国家間の衝突も外敵の存在もなくすことができる。なぜなら地球上のすべての領域の住人が、おなじ天下に身をおく「友」となるからだ。趙は、天下の原則は「無外」すなわち外部がないことであると主張しつつ、以下のように述べている。
世界の内部化とは、一切を包み込む(all-inclusive)天下へと、また「無外」の天下へと世界を変えることだ。それによって世界は内部性だけを有し、克服しえない外部性は二度と存在しなくなる。もはや共に生きてゆくことのできない「異己」として他者を識別することもなければ、受け入れられない異教(paganism)として異なる価値観を規定することもない。これが永遠平和と普遍的な安全の、ひいては普遍的な協力の必要条件なのだ[★9]。
趙が直面しているのは、ひとことでいえばナショナリズムとグローバリズムの矛盾だ。それは哲学者の東浩紀が『観光客の哲学』のなかで「二層構造」と呼んだものに等しい[★10]。だが東がこの二層の矛盾と向きあいながら、共同体の内でも外でもない「中途半端」な領域を作りだす「観光客」の概念を提示したのに対し、趙はこの矛盾を乗り越えるために、ただナショナリズムの層を単一の概念によってのっぺりと均し、「敵」を構造的に消し去ろうとしているのである。
もっとも、趙は国家そのものの解体を主張しているわけではない。「天下/帝国は完全な政治制度的存在だが、それが各地方にしたがって多くの「国」に分かれることは許可する」、また「世界主権は国家主権よりも高位にあるが、国家主権を消してしまうわけではない[★11]」。そのうえで、かれはかりに天下が現代に実装されるなら、世界の国々によるネットワークになるだろうと述べている。たとえば2019年の論文「天下──理想主義と現実主義のあいだで」のなかで、趙はこのように主張している。
天下体系の管理形式はネットワーク式であり、各地は依然として国家によって管理される。[天下に]行政をになう中央政府は不要であり、代わりに〈天下公共政策決定機構〉が必要になる可能性が非常に高い。それは天下憲法やグローバルに共有される公共制度のほか、全地球の統一的な金融システム、知識と技術の共有、グローバルな共同作業の義務やリスクコントロールなど、世界的な公共事務に対して責任をもつ。簡単にいえば、国家のことは国家に帰し、天下のことは天下に帰するというわけだ[★12]。
こうした議論から推察するに、天下体系とは、要は既存の主権国家のうえに巨大な政治権力をもった統治機構をおき、全世界をその管理下におくようなものといえる。また、別の箇所で趙が「天下という単位のもとにある「国」は国民国家ではない。それは「地方性統治」と呼ばれるべきであろう」とも述べていることから、各国はさしずめ天下体系とそのインフラを整備し、治安を維持する役目をはたす地方公共団体のような位置づけになると考えられる[★13]。
それはまぎれもない中華帝国の復活ではないか、と思わず問うひともいるだろう。げんに英語圏の中国研究者を中心に、天下主義は単なる中国的な帝国主義の言説にすぎないという批判は少なからず存在するし、日本が戦前に提唱した「大東亜共栄圏」を彷彿とさせるという指摘もある[★14]。とはいえ、(ひとまず公平を期していえば)趙の目的はあくまでナショナリズムを乗り越えて世界平和を実現することである。なのでかれは覇権主義を否定しつつ、天下が寛容で開かれたものであることを繰り返し強調している。またすでに確認したとおり、天下体系の「世界主権」はどこか特定の国(あるいは国々)が掌握するわけではなく、その利害によって左右されるわけでもない。むしろ世界全体で管理運営しながら、相互の利益を最大化し、損害を最小化することをめざすのだという。
相互の利益の最大化と損害の最小化は、「無外」にならぶ天下体系の原則とされ、この制度を正当化する大きな根拠となっている。趙はゲーム理論を援用しつつ、この原則を実現するためには各国があらかじめ競争と謀略を放棄しなければならないと主張する。なぜなら、あらゆる戦略はつねに模倣され、報復される可能性があるので、たとえ一時的に相手を出し抜いて優位な地位に立ち利益を得たとしても、やがては手痛い仕返しを受け、損害を被ってしまうからだ。
かくして趙は、全世界の「内部化」によって友と敵の区別を構造的に解消し、「関係的理性」によって利益の最大化につとめる天下体系こそが、国民国家の限界を超えたもっとも有益で平和な世界秩序であると断言する。くわえて、天下体系は覇権主義を否定するので、各国はあくまで自主的にこれに賛同し、参入することが期待される。そのためには天下という「世界体系に加入することによって得られる利益が、体系への加入を拒絶することの利益よりも大きくならなければならない[★15]」。またこのような自主的な賛同と加入を原則とするかぎり、かりに天下がある種の帝国を形成するとしても、それは「征服する軍事帝国ではなく文化帝国」になるらしい[★16]。
ここまでの要約からもうかがえるように、趙の議論には全体的な利益と損害の多寡によって政治制度のよしあしを判断する傾向がある。そのため、かれの議論はジェレミー・ベンサムに代表される功利主義──とりわけ「総督府功利主義」と呼ばれるような統治理論としての功利主義[★17]──のようだという印象をもつひとがいるかもしれない。
ただ中国思想の伝統から見れば、趙の天下主義はむしろ墨子の思想を色濃く継承しているように思われる。墨子は「天下の利を興し、天下の害を除く」ことを統治の原則とした。そしてそれを実現するためには、各国の君主が「自利自愛」せずにひろく利他に励むこと、またなるべく社会全体の利益が多くなるように国内の制度を設計し、政策を決定することが必要だと主張している[★18]。これがいわゆる「兼愛交利」の説である。墨子の「兼愛」はときに博愛主義の思想だと言われることもあるが、ほんらいはむしろ、(先秦の諸子百家の思想がたいていそうであるように)まず一種の政治学説であった。そして墨子は、統治者がみずから兼愛につとめて影響を与えたり、法によってそれを奨励したりすることにより、天下の人民にも互いを兼愛させることができると考えたのである。
天下を論じるにあたって、趙は儒家や道家のような特定の学派のみに依拠せず、中国古来のあらゆる哲学を活用しようとしている。くわえて趙は、孔子や老子、あるいは荀子などと比べてあまり墨子に言及しない。にもかかわらず、おそらくかれ自身が考えている以上に、天下体系は墨家思想の再構築という側面がつよいように見受けられる。
天下主義の諸問題
ここまで趙汀陽の「天下体系」を取り上げながら、いわゆる天下主義の概要を確認した。おもに大陸出身の研究者を中心に、この新しい世界秩序を礼賛する声も少なくないのだが、当然ながらと言うべきか、趙の議論(あるいは天下主義一般)には数多くの批判が寄せられている。もっとも主要な批判は、ナショナリズムや覇権主義を乗り越えるという理念には賛同しつつも、それがじっさいに機能するかが疑わしいとするものだ。たとえばソン・インジェ(송인재)という韓国の研究者は、中国がどれほど「平和」で「寛容」な統治システムを提案したところで、まずは(表現規制や人権問題などの)国内の深刻な諸問題に真摯に取り組む姿勢を見せないかぎり、周辺の国や地域が魅力を感じることはないだろうと述べている[★19]。まっとうな指摘である。
このような批判に対しても、趙はやはり天下は特定の国によって掌握されるものではなく、「こんにちの中国は主権国家であり、天下ではないので、現代中国に対する疑問をつかって天下体系に疑義を呈することはできない」と反論している[★20]。だが結局のところ、中国以外の国が新しい世界秩序として天下を提唱し、その実現を主導するとは考えられないので、ソンの懸念は正当なものだといえる。
こうした懸念と関連して注目すべきなのが天下主義と「一帯一路」の密接な関係である。一帯一路は2013年に打ち出された広域経済圏の構想で、アジアから中東、アフリカ、ヨーロッパまでを陸路と海路でつなぎ、貿易やインフラへの投資を加速させようとするものだ。これは一般的に、国内需要に対する供給過剰や不動産投資への過度な依存といった、中国経済の長年の課題に対する解決策であると考えられているが、他方で中国の国際的なプレゼンスを向上させるための対外戦略という側面があることも指摘されている[★21]。
一帯一路は、実態としては中国、ASEAN、ロシア以外の参加国にはあまり経済的な恩恵をもたらしていないとされている[★22]。それどころか、スリランカなど一部の参加国に深刻な債務危機をもたらしている。それでも建前としてはあくまで参加国全体の利益を増大させるプロジェクトであることが強調されているため、しばしば一帯一路は天下主義の実践だと主張されるのである。
たとえば林小青という歴史学者は、「趙は中国のグローバルな活動を理解するための[偏見のない]「白紙の状態」を作りだすべく、天下のあらたな概念的枠組みを模索した。[……]このビジョンは、中国の一帯一路によって現実となり得る」と語っている[★23]。また、北京大学の教授でバーグルエン研究所中国センターの学術主任を歴任したロジャー・エイムズ(安楽哲)は、「趙汀陽のような知識エリートは[……]未来の世界新秩序を顕現させるために「一帯一路」観を推進しなければならない」と主張しつつ、「聖人とは「一帯一路」を推進している人々のことである」などと趣深いことを言っている[★24]。
趙の議論が中国の政治経済的な状況に少なからず触発されているのはまちがいない。じっさい、「人類集団の運命にかかわる事務」をつかさどる単一の政治単位という天下体系の構想が、中国共産党第18回全国代表大会(2012年)の報告に由来する「人類運命共同体」という標語とつうじあっているのは明白であり、また『天下体系』に頻出する「世界に対して責任をもつ大国」という表現も、江沢民や胡錦濤が2000年代初頭に使いはじめた「責任ある大国」という言い回しを踏まえていると考えられる。
だが興味深いことに、趙自身はあまり積極的に天下主義と一帯一路を結びつけようとしていないように見える。少なくとも私が把握しているかぎり、かれは一帯一路によって天下主義を実装せよといったたぐいの主張はしていない。また、国営の一帯一路ウェブサイト「中国一帯一路網」では7万をゆうに超える記事やレポートが公開されているが、2026年1月現在、そこに趙やその天下論を取り上げたものはない[★25]。
かりに一帯一路が、政治的に乗り越えられない境界を経済の力で越えてゆくものであるとするならば、天下主義は政治的な境界そのものをほとんど無効にしてしまう試みといえる。両者の関係性を厳密にどのように捉えるかはなかなか難しいが、少なくとも一帯一路という超国家的プロジェクトと同時並行で展開されたことが、天下主義をよくもわるくも興味深いものにし、また必要以上の実感をともなって、期待や危機感をもたらしたことはたしかである。
天下主義に対する反応は肯定的なものから批判的なものまで多種多様であり、ここで取り上げたのはその一部にすぎない。とはいえ、じつはこうした毀誉褒貶の数々は、ある共通の問題に起因しているのではないかと私は考えている。
それは趙の天下体系に具体性がまったくないということだ。つまりこのあらたな世界秩序をいかに実装し、だれがどのように運営するのか、またその過程でどんな問題が浮上しうるのか、そしてそれをいかに解決すべきかについて、趙自身は仮定や可能性のうえでも一切語っていないのである[★26]。だからかれの天下論はほとんど政治制度の提案という体をなしていないのだが、それが却ってさまざまな思惑を引き起こしているのではないか。具体的にどんな仕組み(になりうる)かがまったくわからないので、あるひとは中華帝国の復活をおそれ、あるひとは大東亜共栄圏の再来を警戒し、またあるひとは一帯一路によってこれを実現しようと気勢を上げる。
この点にかんして特筆すべきなのは、趙がかように具体的な議論を避け、まるで境界の消去と利益の追求によっておのずと平和が立ち上がるかのように論じている一方で、天下体系がデジタルテクノロジーを駆使した純粋な技術的統治システムとして実現することはつよく否定していることだ。なぜなら「システム化した技術による統治は新しい専制になる可能性が非常に高い」からである[★27]。つまり趙が天下体系を提案しているのは、デジタルプラットフォームが形成しつつある世界秩序に対抗し、グローバル化するテクノロジーを政治権力によって制御するためでもあるわけだ。
しかし皮肉なことに、趙の戦略はカール・シュミット的にいえば政治的なものの消失にほかならなかった。シュミットが『政治的なものの概念』で述べているように、「政治的単位は、本質上、全人類・全地球を包括する単位という意味での単一的なものではありえない。[……]友・敵区別がたんなる偶発性においてすら消失するばあいには、そこに存在するものはただ、政治的に無色の世界観・文化・文明[……]等々にすぎず、政治も国家もそこには存在しない[★28]」。シュミットにとって政治的な友と敵の判断は、本質的には道徳(善悪)や経済(利害)とは別の次元で下されるものである。ゆえに利益の最大化を原理とする世界制度としての天下体系が、趙の言うように政治的なもの(友敵)を超えた政治システムになりうるかは疑問である。
それだけではない。単一の全地球的な政治権力によるテクノロジーの制御という発想からは、さらに過激な議論がもたらされる。たとえば趙は、「全地球の金融システムや技術システムやインターネットが、世界で共に享受され、共に所有され、共に管理されるグローバルなシステムになること、これこそが天下体系を実現する重要な条件のひとつである」と述べている[★29]。なるほど、テクノロジーや金融取引は、単に激しい競争の舞台となっているだけでなく、近年の経済制裁や半導体をめぐる攻防を見れば明白なとおり、それ自体が政治的な対立の手段にして要因となっている。だからほんとうに政治的な対立を解消して世界平和を実現するためには、世界全体でそれらを共有し、共同で管理や開発を行なう必要があるのかもしれない。
しかしこの提言を文字どおりに受け取るなら、天下成立のためには多国籍企業をはじめとするすべてのプラットフォーマーやテック企業、あるいは金融企業を公営化(天下営化?)し、その知的財産や生産手段および流通経路を全世界で共有しなければならなくなるだろう。それはもはや世界同時革命を要請しているに等しいのではないか。たしかに天下主義は帝国的な性質をもつけれども、見方によってはこのようにきわめてラディカルな一面ものぞかせる(だがそんなことがはたして可能なのか?)。
むろんこれは少々極端な見方であって、新しい天下の具体的なありかたについては比較的穏当な見解もある。たとえば歴史家の許紀霖は、リベラリズムを根本にすえた「新天下主義」を提唱しており、「天下」の名のもとにEU的な東アジア共同体を構築するべきだと述べている[★30]。これが「新天下主義」とされるのは、かつての天下とは異なり、天子の存在や「中華と夷狄」のような区分を排除し、徹底した脱中心化と脱ヒエラルキー化を条件とするからである。許は、これによりナショナリズムと中華思想を超えて東アジアに普遍的な価値と秩序をもたらすことができると主張している。
ちなみに許は、現状きわめて数少ないリベラルな天下主義者として、先述のソン・インジェが示したような懸念を正面から受け止めている。いわく、「なぜ、中国は平和的勃興だと自分で何度も繰り返しているのに、隣人を信用させることができないのだろうか。その重要な理由は、中国が人を恐れさせる帝国の肉体を有し、国民国家を至上のものとする恐るべき魂を内に隠し持っているからである」。そのため、かりに中国が民主化に成功して「英米のような文明国家になった」としても、やはり信用を得ることは難しいだろうと許は語る[★31]。
そこで許は、国家間の連帯の可能性はウィトゲンシュタイン的な「家族的類似性」にもとづいて模索するべきだと主張する。つまり、各国には当然相容れない考えや価値観があり、今後もありつづけるが、しかしそれぞれに共通点や類似性もあるだろうから、そこを見つけてすりあわせながら「重なり合う合意」を積み上げていこうというわけである。くわえて許は、こうした連帯の土壌として、民間レベルでの交流もより発展させるべきだと提言している[★32]。
許の提案はいささかありきたりな印象も受けるが、良識ある貴重な議論といえる。じっさい歴史問題や政治的対立を乗り越えて東アジア共同体を結成することもできないようでは、世界平和など夢のまた夢であろう。その意味では、許の「新天下主義」は比較的受け入れやすい目標だと思われる。しかし、EUを模範とする東アジア共同体において、許の言う「脱中心化」がほんとうに徹底されるのか、またそもそもEUが組織として模範的なのかについては検討の余地がある。
また、リベラルな連帯のためにここまで条件を制約するならば、もはやそれを「天下」と呼ぶ必要はないのではないかという素朴な疑念も生じる。たしかに許の議論には、現代中国の国家至上主義を相対化したいという明確な意図がある。だがより慎重に読み解いてゆくと、かれが「天下」の概念にこだわる背景には、中国が近代以来さいなまれてきたアイデンティティの喪失から回復を遂げたいという思惑が見え隠れする[★33]。むろん事情は理解できるし、リベラリズムをつうじて中華文明のアイデンティティを回復するというのも興味深い戦略に思えるが、はたしてそのような「復興」に諸外国がつきあう義理があるのかどうかといえば、答えは消極的なものにならざるをえない。
結局のところ、大国として世界への責任をはたすとか、失われたアイデンティティを回復するとか(あるいは「日本を取り戻す」とか民族の「偉大な復興」を遂げるとか)、そうした欲望から当事者が自由になったとき、東アジアの(もしくは世界の)連帯は現実味を帯びてくるのかもしれない──それが一体いつになるのかはわからないけれども。
はてなき夢のみなもと
天下主義はこれからどうなってゆくのだろうか。一帯一路のプロジェクトは、昨今の中国国内の景気後退にともない大きな困難に直面している。また、新型コロナウイルスのパンデミックによって、趙汀陽が天下体系の基礎とみなしたグローバルなテクノロジーのネットワークそれ自体が感染症拡大の物質的条件となり、結果的に世界各地で深刻な排除や分断を生みだしてしまった。コロナ禍以降にも天下主義の議論は出てきているが、こうした状況を念頭においた特筆すべき省察はまだなされていないように思う。
将来的に、天下主義は中国の経済的苦境とともに衰退してゆくのかもしれないし、惑星規模の思考の一種として継承されてゆくのかもしれない。あるいは中国経済が革命的なV字回復を遂げ、よりいさましい天下の思想が展開される可能性もある。畢竟、未来のことはだれにもわからない。
しかし、だからこそ私たちは天下主義をいまのうちに真剣に考察しておかなければならない。なぜなら、はじめに予告したように、この思想は中国の政治経済的な状況と関連しているだけでなく、むしろより根深い思考の病に由来しているからだ。
順を追って確認しよう。趙の著述をひもとけばわかるように、天下体系をめぐるかれの議論はある種の「形而上学」によって支えられている。
「天下無外」の原則が依拠しているのは形而上学的な理由である。すなわち、天は全体的な存在なので、天下もまた全体的な存在でなければならず、そうなってはじめて天とつりあうことができるということだ。[……]「天下無外」の原則は、世界が全体的な政治概念であることを超越論的(transcendentally)に要請している[★34]。
天下は超越論的な概念であり、世界や人民にかんする経験的な事実のまえに、すでに概念上において地理的な世界のすべてを包括し、世界中の全人民を包括してしまっている[★35]。
天はすべてを包括する。ゆえに天下もまたすべてを包括していなければならない。ではそもそもなぜ、天にはそのような包括性が宿るのか。いわく、天には無尽蔵の「生生」の力があるからだ──趙は「生生」という語を「万物を生成のただなかにおく (let all beings be in becoming)」ことと説明している[★36]。そしてこの力を原動力とする終わりなき運動によって、すべての領域や人民を巻き込んでゆくというのである。かれはこのような天下の作動方式を「渦のモデル」(旋涡模式)と呼んでいる。
ところが、少し考えればわかるように、形而上学的な力によって全世界を「超越論的」に包み込み、それでもって対立を消去するという考えは、ただ危険なだけでなく、単純に正しくないように思われる。
かりに一切を包み込む外部なき天下が、多くの研究者の懸念とは裏腹に、いたって平和的に実装されたとしよう。だがそれによって、趙が言うように「共に生きてゆくことのできない「異己」として他者を識別することも[……]受け入れられない異教(paganism)として異なる価値観を規定することもない」状況がもたらされるとはまったく思えない。なぜなら政治や倫理にかんする見解の不一致や家庭内暴力、またいわゆる宗教二世の問題などなど、同一の国家や街や家庭に属する者同士が、つまりはすでに高度に「内部化」されているひと同士が、相手を共存不可能な「異己」として認識したり、その価値観を「受け入れられない異教」として拒絶したりする事例は、残念ながらあまりにもありふれているからである。
ひとは外部があるから敵対するのではない。敵対するからこそ外部を作りだすのだ。だから単にのっぺりと世界を覆い尽くして「内部化」し、境界をあいまいにしたところで問題は何ら解決しない。それはただ天下の内側で対立を存続させるだけである。ちなみに趙は、「内部化された矛盾は依然として矛盾ではあるが、しかし共同的な秩序のもとでコントロール可能な矛盾に転化する」と述べている[★37]。だがそれは一体だれがどのように「コントロール」するというのか。まさか「和諧」を乱す思考の一切を事前に排除するわけにもいくまい。
また、この対立と内部性の問題に関連して付言すると、趙の議論が全世界の「内部化」をつうじて友敵の区分を解消し、国民国家の概念を乗り越えることを主張していながら、同時に国家主権の存続を認めているのは端的な矛盾であり、少なくとも理論的に不徹底であると思われる(統治機関としての国家と固有の構成員としての国民の分離可能性を考えているなら少々興味深いが、どうやらそういうわけではないらしい)。この不徹底さは、趙がしきりに批判している国際連合と天下体系との差異をあいまいにしかねない。またこの点で、天下体系は国家主権の放棄を前提とする柄谷行人の「世界共和国」と明確に異なっているともいえる[★38]。
もっとも、理論を徹底して国家主権の解体を天下主義の条件としてしまうと、当然ながら(先従隗始というわけで)天下体系実現のためにまずは主権国家としての中華人民共和国が終焉を迎えなければならないと示唆することになる。それはあまりにも危険で無謀な行為だ。
話を戻そう。天下主義の裏にひそむ病とはすなわち、いくつもの境界で区切られた多様なものを無限の力動性(「生生」と渦の力)をもつ概念によってひとつに統合しようとする、ある種の一元論のことだ。これが病であるというのは、20世紀以来、西洋の思想や文化をもちいて東洋の伝統的な思考を再構築しようとする数多くの試みが、なぜか「唯動論」とでも言うべきこの力動一元論を反復し、いわば東洋の特色ある形而上学として提示してきたからである。
ここで詳しく論じることはできないが、たとえば哲学者の井筒俊彦が提示した新しい「東洋哲学」にもまた、同様の傾向がある[★39]。かれは諸存在の生成と言語の分節化を相関するふたつのプロセスとして捉えつつ、一切の分節化が生じるまえの「意識と存在のゼロ・ポイント」において両者は統合されると説いた。そしてこのゼロ・ポイントを「無限宇宙に充溢する存在エネルギー」とみなしたうえで、言語と存在者が共有する一般的な分節エネルギーを意味する「コトバ」という概念によって、意識や存在者がつぎつぎと分節されてゆくプロセスを一元的に描いたのである。
また、井筒は「精神的東洋」という独自の概念をもちいたことでも知られている。たとえば1986年に刊行された『叡知の台座』という対談集のなかで、かれは以下のように語っている
徹底的に訓練して[……]深い意識の層の鏡に映ってくるような実在の形態、そのあり方を探究していく[……]むしろ主体的にそれのなかにとけ込んで、それのなかで生きていく、そういうことを許すような哲学的伝統[……]それがぼくにとっての「東洋」なんです。そうなると結局、西はスペインのグラナダまで行ってしまうんですね。それどころか、グラナダから、悪くすればジブラルタル海峡をこえてもっと向こうへもいきかねない。それからいわゆるアラブ国家、アラブ文化圏とインド、トルコ、ユダヤ、それからペルシャ、そして中国、チベット、日本などが全部一つになって、それが精神の黎明の場所みたいな感じにぼくの心には映ってくる。[……]だからあくまで私の東洋であってふつうの地理的な東洋ということじゃないんですね[★40]。
意識と存在の展開をふたつの分節プロセスとみなし、無限の力動性を秘めた「ゼロ・ポイント」において両者が統合されるという思考のパターンを、ときに実践をつうじて形成すること。簡単にいえば、それが井筒にとっての「東洋」の条件であった。この引用箇所からうかがえるように、かれのいう「東洋」はアジアや中東はおろか、ヨーロッパさえも包み込んでいる。
むろんこれは「精神的」なものであって、政治的な概念でも地理的な概念でもない。また井筒自身が(戦前に大川周明と親交が深かったことで知られているが)決定的な政治問題を抱えているわけでもない。けれども、新しい東洋哲学としての力動一元論が抽象的な形而上学にとどまらず具体的な領域に当てはめられることで、現実のさまざまな境界や地域性を呑み込んでひとつにするような思考がもたらされるという、政治的な危険性を示す典型例がここには表れている。天下主義もこれとまったく同じ構造を抱えているのだ。
*
現代中国における天下主義は唯動論の政治的応用であり、裏返していえば唯動論的な思考が得てして陥るひとつの帰結である[★41]。だからかりに天下主義が近い将来に衰退したとしても、これとよく似た政治思想が中国や日本、あるいはまた別の地域からふたたび現れる可能性は大いにある。だから私たちはこの病に対処しなければならない。唯動論の超克。それこそが、現代の東洋哲学における根本課題である。
この課題に取り組むひとつのカギは、香港の哲学者のユク・ホイが提唱した「宇宙技芸」(cosmotechnics)の概念を読み替えて、かれ自身の意図とは異なる方向へ拡張することにある。ただ残念なことに紙幅がすでに尽きているので、この話はまた別のところですることにしよう。
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この論考は、公益財団法人上廣倫理財団の令和6年度公募研究助成からの支援を受けて執筆された。
★1 外務省のウェブサイトに講演の英語版全文が掲載されている。URL=https://www.mofa.go.jp/announce/pm/abe/us_20130222en.html
★2 〝习近平总书记深情阐述〝中国梦〟〟,《人民日报》2012年11月30日。以下、未邦訳の書籍については引用者訳。
★3 赵汀阳,〝美国梦,欧洲梦和中国梦〟,《跨文化对话》第18辑,北京大学跨文化研究中心,2006年,第143─161页。なお掲載年から明らかなように、この論考は習近平の国家主席就任以前に書かれている。しかし趙は、くだんの談話を受けて「問われる中国の夢」という論考をあらためて発表している。以下を参照。Zhao Tingyang, “The China Dream in question,” Harvard- Yenching Institute Working Paper Series, (Boston Harvard Yenching Institute, 2013).
★4 天下主義の先駆的な事例としては、以下を参照。盛洪,〝从民族主义到天下主义〟,《战略与管理》第1期(1996年),第14-19页。ここでは、ゲーム理論や経済効率の観点から見てナショナリズムよりも天下主義がすぐれていることや、これからの中国が中華文化を中心としない「さまざまな文明が共存する」新しい天下主義へ向かうべきであることなどが主張されており、趙の論点の多くが先取りされている。
★5 なお後者については、石井剛氏の監訳により『天下の今日性』という邦題でみすず書房から近く刊行される予定である。
★6 赵汀阳,《天下体系:世界制度哲学导论》(北京:中国人民大学出版社,2011年),第2页。また、趙の議論を日本語で紹介した早期の事例として、福嶋亮大『ハロー、ユーラシア──21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社、2021年)がある。
★7 赵汀阳,《天下的当代性:世界秩序的实践与想象》(北京:中信出版社,2016年),第28、30页。
★8 同上,第16页。
★9 同上,第25页。丸括弧の英語は引用元の補足。
★10 詳細は、東浩紀『観光客の哲学 増補版』、ゲンロン、2023年、とりわけ第4章「二層構造」を参照。
★11 赵汀阳,《天下体系》,第53页,《天下的当代性》,第27页。趙が天下を一種の帝国として表現している点については、のちほど本文で説明している。
★12 赵汀阳,〝天下:在理想主义和现实主义之间〟,《探索与争鸣》总第359期(2019年),第100-108页;第106页。以下、[ ]は引用者による補足もしくは省略。
★13 赵汀阳,《天下体系》,第53页。
★14 たとえば以下を参照。William A. Callahan, “Chinese Visions of World Order: Post-Hegemonic or a New Hegemony?,” International Studies Review, Volume 10, Issue 4 (December 2008), pp. 749–761. Henry Hopwood-Phillips, “Why ‘All Under Heaven’ is Wrong”, China Books Review, June 5, 2025. URL=https://chinabooksreview.com/2025/06/05/all-under-heaven/
★15 赵汀阳,《天下的当代性》,第55页。
★16 赵汀阳,《天下体系》,第52页。
★17 統治理論としての功利主義については、安藤馨『統治と功利──功利主義リベラリズムの擁護』(勁草書房、2007年)の議論が詳細で、参考になる。
★18 邦訳は以下を参照。山田琢『墨子 上』、明治書院、1975年。ここで墨子の提言を簡単に紹介しておこう。たとえば「節葬篇」では、葬儀は節度を保って豪勢にせず、喪に服するのも短期間でよいとされている(当時、親が逝去した際には職を辞して3年間喪に服することが孝行だとされていた)。なぜなら豪華な副葬品を埋めるのは端的な損失であり、長期間の喪は天下全体の生産性を低下させるからだ。他方「明鬼篇」には、この世には人間に賞罰を与える鬼神が存在しており、みなで手厚くまつるべきだと記されている。なぜなら祭祀に使用する供物はあとで分けあうことができるし、鬼神のたぐいが存在すると考えたほうがひとはよい行ないやよい政治をするので、結果として「天下の利を興す」ことにつながるからである。
★19 In-jae SONG, “Can a New Universality Be Created out of the Chinese Concept of Tianxia?”, translated by Ilhong KO, Concepts and Contexts in East Asia, No.3 (December 2014), pp. 25–52; p. 48.
★20 赵汀阳,《天下的当代性》,第279页。
★21 一帯一路の概要や現状については、以下が参考になる。梶谷懐、高口康太『ピークアウトする中国──「殺到する経済」と「合理的バブル」の限界』、文春新書、2025年、第8章「不動産バブルと過剰生産のゆくえ」。
★22 齋藤尚登、増川智咲「10周年を迎えた「一帯一路」の功罪」、大和総研、2023年9月25日。URL=https://www.dir.co.jp/report/research/economics/china/20230925_024014.html
★23 Xiaoqing Diana Lin, “Covid-19, the Belt and Road Initiative, Tianxia/The Chinese Universe, and Universal Human Rights”, in Giuliana Ziccardi Capaldo (ed.), The Global Community Yearbook of International Law and Jurisprudence 2021 (New York: Oxford University Press, 2022), pp. 197–215; p. 210.
★24 安樂哲,〝傳統天下觀、當今「一帶一路」倡議與變化的世界地緣政治秩序〟,干春松、安樂哲編,《重思天下》(香港:香港城市大學出版社,2023年),第21─43頁;第31、33頁。ちなみに聖人にかんする記述は『老子』第四十九章の読解を踏まえてなされている。その内容は、聖人は穏やかな「無の心」によって「万民をすべて赤子のようにしてしまう」といったものである。ここには、為政者はみずから「無為自然」になるのに対し、万民は為政者によって赤子のような自然の状態にさせられるという、『老子』の自然論の非対称性が象徴的にあらわれている。
★25 以下を参照。URL=https://www.yidaiyilu.gov.cn/
★26 趙はもともと天下体系はあくまで哲学的な「ユートピア」(乌托邦)にすぎないと強調していた(たとえば『天下体系』の44頁など)が、近年ではむしろ実現可能な世界共同の理想であるとして、これを「コントピア」(共托邦)と呼んでいる。以下を参照。赵汀阳,〝天下:在理想主义和现实主义之间〟,第100页。
★27 同上,第105页。
★28 カール・シュミット『政治的なものの概念』、田中浩、原田武雄訳、未來社、1970年、62頁。
★29 赵汀阳,《天下的当代性》,第230页。
★30 許紀霖『普遍的価値を求める──中国現代思想の新潮流』、中島隆博、王前監訳、法政大学出版局、2020年。ちなみに許は、同書の第1章で鳩山由紀夫の「東アジア共同体」構想に肯定的に言及している。
★31 同書、75、81─82頁。
★32 同書、218─219、85頁。
★33 たとえば同書の第四章「中国は何を根拠に世界を統治するのか」のなかで、許は以下のように述べている。「二〇世紀初頭に中国文明が解体した後、中国が文明国家としてその存在に頼ってきた価値の記号や文化の特殊性は曖昧模糊としたものに変わってしまった。中国とは何か、「中華文明」とは何か、という最も基本的な自己のアイデンティティは現在もなお深い霧の中にある」。同書、105頁。なお、スーナン・チュという研究者は許紀霖の議論を評価しながらも、そこに依然として「中華中心的主体 Sinocentric Subject」が根強く残っていることを的確に批判している。以下を参照。Sinan Chu, “Whither Chinese IR? The Sinocentric Subject and the Paradox of Tianxia-ism,” International Theory (2022), 14 (1), pp. 57–87.
★34 赵汀阳,《天下的当代性》,第4页。
★35 赵汀阳,《天下体系》,第39页。
★36 赵汀阳,《天下的当代性》, 第68页。
★37 赵汀阳,〝天下:在理想主义和现实主义之间〟,第106页。
★38 柄谷行人『世界共和国へ──資本゠ネーション゠国家を超えて』、岩波新書、2006年、とりわけ第Ⅳ部「世界共和国」を参照。
★39 詳細は以下を参照。伊勢康平「不可能なものから動くものへ──井筒俊彦「東洋哲学」のゼロ・ポイント」、『比較思想研究』第51号、2025年、115-122頁。
★40 井筒俊彦『叡知の台座』、岩波書店、1986年、77-78頁。強調は引用元。
★41 ちなみに、東洋的な唯動論のもうひとつの帰結として、科学やテクノロジーがもたらすあらたな認識をあらわすゆかいな彩りとして消費されるというものがある。この問題については稿をあらためて検討したい。


伊勢康平
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