政治認識論の意義 惑星的なものにかんする覚書 第6回|ユク・ホイ 訳=伊勢康平

★=原注 ☆=訳注 [ ]=著者補足 〔 〕=訳者補足
前回の覚書では、「政治認識論」と巨大機械の概念を導入した。その目的は、政治哲学を研究するための新しい基礎を固めることである。『機械と主権』(2024年)のなかで、私はこのあらたな政治哲学を「政治技術論考」〔tractatus politico-technologicus〕と明言した[☆1]。同書を読んだ方は、なぜ機械論や生気論、有機体論などを検討しなければならないのか、またいかにして、それが単に歴史を再構成してみせるという学問的なしぐさを超えて、現在の歴史のあゆみを理解するのに役立つのかと疑問に思ったかもしれない。そこで私は、この機会にこうしたプロジェクトの背景にある動機を明確化しつつ、3年にわたる本連載で考えてきたことを一度まとめたいと思う。
政治認識論の概念を導入した目的のひとつは、政治神学に反対することである。この概念はすでに、カトリックの教義が近代的な形式を取りながら君臨し続けていることを示唆している。近代国家という概念がキリスト教の諸概念を移し替えたものであるというこのカール・シュミットの主張は、部分的には正しいといえるだろう。なぜならヨーロッパのモデルには固有の歴史があり、キリスト教はいわゆる西洋にとって本質的な要素であるからだ。とはいえ、この部分的な真理を広げて惑星全体を担わせることはできない。それは植民地主義をよりあからさまに存続させてしまうだろう。
政治認識論をあらたに定式化するもうひとつの目的は、秩序や有機性をもたらす方法の数々として、また哲学それ自体を解釈しようとする奮闘のプロセスとして、近代哲学の歴史を読み解く観点を提示するためである。同書で私は、デカルトやホッブズの機械論から議論を始め、ヘーゲルの有機体論を経由し、シュミットの生気論にたどり着いたのち、自分なりの応答を行なっている。それは器官学的〔organological〕な思考にもとづいて、生物多様性、精神多様性、技術多様性という新しい基盤を作りあげることである[☆2]。現在のことも論じられるようなかたちで知の歴史を系統立てて示すことは、いつだって至難の業だ。けれども、そのような読みなおしによってこそ、哲学は活力を維持し、私たちの時代との関連をもつことができるのである。
多様性や多元主義は、現代のいわゆる「政治的に正しい」用語となっている。しかし、ただ政治的に正しいからといってそれらを使わないようにすると、たとえ冷笑的にはならないとしても、より悪しきポリティカル・コレクトネスに陥ってしまうだろう[☆3]。20世紀にはすでに、ポスト植民地的な世界に対処するための統治の手法として多文化主義(文化多様性)が広められていた。この考えは、イギリスやフランスのほか、過去に植民地をもったことで知られる多くの国々でいまでも継続している。また、昨今の知的動向においても、ウィリアム・ジェイムズと響きあうような多元主義が強調されている。これはたとえば人類学(「存在論的転回」など)や思弁的実在論(カンタン・メイヤスーなど)に見受けられる。これ以上に多元主義の議論をかさねても、いま主流の言説に同調することしかできないだろう。
多元主義は、もはや惑星全体を覆うほどの「大きな物語」は存在しないこと、またとりわけ、大きな物語はじつはもとより限られた地域のものであったことを主張している。そもそも惑星全体をひとつのものとみなすのは形而上学的な(そして人間主義的ないし人間中心主義的な)プロジェクトであり、それによってこの惑星がひとつの球体として把握しうるようになった。ゆえに世界のグローバル化は、経済的な意味を付与される以前に、すでに形而上学的な意味をもっている。
ジャン=フランソワ・リオタールが述べたように、大きな物語の崩壊は近代というプロジェクトの失敗でもあった。政治的な用語に翻訳するならば、それは絶対的支配力をもったイデオロギーの失敗を意味している。ただ残念なことに、リオタールのポストモダンがもっていた可能性は、「ポストモダニティとは後期資本主義のひとつの局面である」というアメリカ的な学説に早々に取り込まれ、消費主義に結びつけられてしまった。
21世紀に入ると、多元性はラディカルなかたちでふたたび明らかとなった。9.11によって示されたように、それはグローバル化として結実した形而上学的な夢が悪夢に変わりはじめた瞬間であった。ここで多元性がラディカルに明かされたと言った理由は、そもそもあらゆる類の統治において「他者」はかならず何らかの作用をしているのだが、私たちがあまりに慣れ切っているために、もはやその意味を理解しなくなっている〔が、いくつもの事件によって他者を認知せざるを得なくなった〕からである。
すべての統治は、包摂と排除の弁証法、すなわち包摂的な排除と排除的な包摂のうえで行なわれている。これは、ジョルジョ・アガンベンがキリスト教的な神の摂理の系譜において示したように、ホモ・サケル[☆4]からすでに始まっていたことである。しかし、それは西洋に根ざしたこの手の系譜を超えて存在するものでもある。たとえば、古代中国では歴史上、「華」(漢族)と「夷」(蛮族)のちがいにもとづいて国際政治が行なわれてきた。このちがいこそが、ヒエラルキーや文明の度合いを決定づけた。差異をめぐる問いは、人類の歴史のはじまりから一貫して存在しているのだ。共同体を構想するにあたって、この問いはいつも難題として降りかかる。なぜならそれによって社会がどれほど開かれ、また閉じられるのかが左右されるからだ。
多様性があいまいに、つまり非政治的に(あるいは表面的に、または単なる表現として)存在するとき、グローバル化はなにひとつ欠点のないものに見えるだろう。なぜなら、そのときすべては、切れめのない物流や送電がもたらす滑らかな平面のうえを漂ってゆくからだ。たとえば店が立ち並ぶ大都市の大通りを歩けば、私たちは食べたい料理を何でも選ぶことができる。いっけん、これは現代の多文化主義のあらわれであるかのように思える。だがその裏面にあるのは、いま世界のあちこちで目撃されているアイデンティティ・ポリティクスだ。いまや差異を消費主義と結びつけることはできない。
政治認識論を導入するのは、〔マルクス主義的な〕上部構造と下部構造の分析によってないがしろにされ、またおそらく部分的に隠されてしまった領域を照らしだすためでもある。いま、かりに下部構造を特定しなければならないとすれば、それはよく知られた生産ではなく技術論理になるだろう[☆5]。COVID-19によるロックダウンの折にもっともつよく証明されたとおり、一般的に科学と政治は区別できると信じられている。それによって、この科学技術的な下部構造はしばしばないがしろにされ、巨大機械を支える政治認識論も覆い隠されているのだ。技術論理は存在論的かつ認識論的である。なぜなら、それはなにが存在するのかを見つけだし、また存在するものを知る方法を決定するからだ。これは実体としてであれ関係としてであれ、同様である。
*
このように政治認識論を力説するのは、私の過去の仕事、とくに『中国における技術への問い──宇宙技芸試論』(2016年、邦訳は2022年)と無関係なことではない。同書で私はテクノロジーの多元主義というテーマに注力したのだが、残念なことに、タイトルに「中国」とあるので国家主義的な言説だと誤解されることがある。しかも中国学者や比較哲学の研究者がこの手の誤解をしているのに至っては、残念というよりむしろ皮肉というべきだろう。かれらは、自分たちの慣習に異議を唱えるような新しい古典の読解やその政治的な影響力に動揺したわけだ。外来の知識の体系が内部の平穏を乱すとき、他者は脅威としてあらわれる。むろん脅威の度合いはさまざまであって、ささいなものだと判明することもあれば、体系全体に及ぶ──つまり既存の信仰の枠組みをひっくり返してしまう──こともある。
たとえば17世紀に中国がヨーロッパから天文学を輸入したときのことを考えてみよう。当時それは「天円地方」〔天は円形で地は方形であるとする古代中国の宇宙観〕という古代の信念を揺るがせた。天文学は、先進的な機器によって科学理論としての優位性を得ただけでなく、中国人が天にかんする知識をもとに発展させてきた政治認識論をも動揺させたのである。これがいかに根幹にかかわる出来事であったかを気に留めるひとはじつに少ない。歴史学者の葛兆光が指摘するとおり、ジャック・ジェルネのような尊敬すべき学者を含む世の多くの研究者は、このあらたな「天」の概念がもたらした衝撃の重大さについてあまり問いを深めなかったのである[★1]。
まさにこうした事例をつうじて、私たちは政治認識論がどのように機能するのかを理解できる。ここではニュートンの物理学やコペルニクスの天文学によって、天の政治認識論を基礎とする巨大機械の正当性が疑われたのである。
漢代以降、古代中国ではずっと、この基盤のうえに打ち立てられた世界のなかで人々の知識や思想が安定していることが一貫した慣習となっていた。自然界の「天」であれ、哲理としての「天」であれ、神話的な「天」であれ、みな深層では一致しており、互いに支えあっていた。そのため「天が不変であれば、道もまた不変である」といわれたのである。ところが、ある日突然、西洋から到来した「天」の学問(天文学)が思いがけず中国人にこう告げる。かつて中国人が信じていた宇宙の中心はじつは中心ではなく、天体も円いかたちをした「穹蓋
きゅうがい 」ではない。そして「天道は左旋」しないが「地球は右転」し、「地」もかつて考えられていたように四海の中心にあるわけではなく、海は「正東」〔まひがし〕と「東南」にしか存在しないのだと。このようなことが起きてしまったら、対称的なものが不対称になり、調和しているものにも不調和が生じ、途端に思考がめちゃくちゃになってしまう。観念史においては、これもまたもっとも重要な「天が崩れ地が裂ける」ほどの大きな変化のひとつなのである[★2]。
「天が崩れ地が裂ける」ようなこの出来事は、17世紀以来、じつはこんにちに至るまで解消されていない。それは「なにが統治の正当性にかかわるのか」という問題となって統治者を悩ませてもいる。中国の統治者は(孫文のときからすでに)正当性の根拠を天から人民へと移さなければならなくなっている。そうしないと、学校で教えられる知識との食いちがいが生じるだろう。
天がかつてと同じものではない以上、「天下」もまた同じものであり続けることはできない。もはやそこに政治的な正当性が見いだされていないからだ[★3]。天下は、統治の正当性を付与された天子(天の子)の存在を前提としており、これを「外部なき」世界として現代的につくり変える試みはきわめて矛盾している。なぜなら、この試みは一方でアメリカニズムへの対抗勢力として非西洋的な政治理論を提示しようとしているが、他方で包摂と排除の弁証法に由来する歴史の複雑さを無視して、〔西洋のグローバリズムと〕同じ形而上学の夢を反復しているにすぎないからだ。歴史的に、天下という概念は、暴力あるいは贈与の経済によって調和の名のもとに支配することを意味してきた。まさに私たちが朝貢の歴史から知りうるように、天下には交易や軍事的な脅迫をつうじた(ミシェル・フーコー的な意味での)統治性が含まれるのだ。
17世紀に話を戻そう。当時このような激変を受けてふたつの反応が生じた。そこから現代の文化現象のいくつかを説明することもできるだろう。ひとつめの反応は、西洋の知識の起源が中国思想にあることを示したいがために、西洋の天文学を古代中国の宇宙論に取り込もうとすることだ。じっさいこの手の試みは、仏教のようにある種のシステムをもった古代思想のほとんどにおいて、こんにちでもなお見受けられる。いまでも覚えているのだが、私は2019年に上海で知性あふれる若きリンポチェ〔チベット仏教の高僧への尊称〕と議論したことがある。そのときかれは、チベット仏教は近代科学の2000年前にすでに量子力学を予見していたと主張した。もちろん、老子がカオス理論や相対性理論を予見していたなどということもできるだろう。短い警句はどんな解釈も許容するからだ。
ふたつめの反応は、西洋の知識は表層的な「器」や「用」にすぎないので、もっとも根本なもの、すなわち「道」や「体」にはまだ及んでいないと主張するものだ。この反応は、アヘン戦争後のいわゆる「中体西用」運動に継承された。しかし問題は、器が変わったときに道は同じものでいられるのかということだ。ジョゼフ・レヴェンソンは、この運動が朱熹の哲学の浅はかな組み替えによって推進されており、洗練されたものではなかったので、はなから失敗する運命にあったことをはっきりと示した。それどころか、かれは西洋的な道具が道そのものではないのはなぜかと問いかけたのである[★4]。『中国における技術への問い』で詳しく論じたように、この問いはあらたな哲学的探究を切りひらいた。
呼び方や言いまわしは異なるが、「中体西用」の現代的な形式はいまでも見受けられる。その一例が新儒家の牟宗三の戦略だ。牟は、カントの物自体と現象の区別を解釈しながら、中国思想は物自体に関心を集中させているので西洋思想の中心にある現象の重要性を見落としていると述べた。しかし物自体を優先することは、決して現象を探究できないことを意味するわけではない。こうした差異は、能力ではなく優先するもののちがいゆえなのだ。そもそもカントにとって現象はあらわれたものであり、物自体はその根底をなすものであったことを思いだそう。この区別は、ショーペンハウアーの哲学、とりわけ表象と意志の二項対立を支えている。
もちろん、右の議論は決して牟の仕事への信用をおとすためにしているのではないし、かれについてはこれ以上に語るべきことがたくさんある。しかし牟の戦略は、西洋的なエピステーメーに対するふたつの反応のひとつに該当すると見てよいだろう。たしかに、「道/器」と「物自体/現象」の類似性を引きだしてみるとなかなか便利かもしれない。だがそれは、怠惰とまではいわずとも、きわめて安易な考えであるだろう。カントはデカルト主義者ではなかった。かれは物自体と現象の二元論をふたつの実体の対立として定式化するのではなく、むしろ悟性が及ぶ〔現象の領域の〕境界を、つまりは科学的知識の限界を示すにとどめたのである。言い換えれば、物自体と現象の差異は存在論的である以前に認識論的なのである。カントには二元論の性質が明確にあるが、儒家にはあまり見られない。そしてそれはいまも研究の課題となっている。
*
ここで今回の覚書のはじめに触れた機械論と生気論と有機体論の話に立ち返ろう。20世紀には、中国思想を「有機体論」や「全体論」として描き、西洋思想の特徴を機械論とみなして対比することで、ふたたび西洋の知識を取り込もうとする動きが起きた。これまでの覚書を読んできた方はご承知のとおり、有機体論はヘーゲルによる近代国家の解釈の中心にあった。それは第三帝国のなかにも見受けられる。
有機体論や全体論を中国のものとするこうした流れがなにを起源とするのかはまだ明らかではない。ただひとつ確かなのは、中国思想は有機体論であると述べたジョゼフ・ニーダムが重要な人物のひとりであることだ。ニーダムによると、西洋思想はライプニッツ以前までは機械論であったが、中国思想ははじめから有機体論であったという。ニーダムにとって、中国の科学と技術の歴史を研究する中国学者という肩書は第二のキャリアであり、かれは当初世界的に有名な生化学者であった。しかも若い頃は機械論者であり、その後発生学に転身して(第二次世界大戦前にベルリンのダーレムで「形成体」について研究し)、有機体論の重要な思想家になったという経歴をもっている。
有機体論というあらたな認識論は、中国の知識体系を再解釈する20世紀の試みのなかに深く浸透している。その最たる例が中国医学だ。しかも有機体論は、新しい巨大機械に正当性を付与することによって、一種の政治認識論としても浮上してきたのである。
数年前、私はフォルカー・シャイドという歴史学者を招待して講義してもらったことがある。かれは〔ロンドンで〕伝統的な中国医学のクリニックを長年経営している人物でもある[☆6]。講義のタイトルは「中国医学はいかにしてドイツ的で全体論的なものになったのか」というものだった。シャイドは、中国医学が近代化のなかで(国家社会主義の学問としても知られる)全体論を受容してゆく歴史的なプロセスを分析し、Ganzheitslehre〔全体論〕という概念がいかにして整体論へ変化したのかを検討した。のちに主催者が講義のデータを中国の動画配信プラットフォームにアップロードしようとしたのだが、案の定、動画はただちに検閲を受けて削除されてしまった。皮肉なことに、このような対応は有機体論の対極にある。なぜなら有機体は〔調和を乱すものを〕単に取り除くのではなく、共に生きて変容させようとするものだからだ。
20世紀の有機体論については、日本も決して無関係ではない。じっさい、三木清は『技術哲学』のなかで日本的な精神を「オルガニスムス」と呼びつつ、ヨーロッパの機械論への対抗手段としている。もしやヘーゲルによる(有機体論をもちいた)近代国家の正当化は、大東亜共栄圏の正当化に再利用されたのではないか?
ここまでの歴史的な記述は、私が政治認識論という観点から自身の解釈を体系的に示したひとつの動機を、そしてこの観点が現在の惑星的な状況に対する応答を模索するための新しい研究方法として機能すると考えた理由を説明している。簡潔ではあったが、効果的であればよいと思う。
最後に私たちが認識すべきことをふたつ挙げておこう。(1)器官学的にいえば、政治認識論はまるでトロイアの木馬のように巨大機械のなかに埋め込まれている。それは得てして私たちの気づかぬうちに通りすぎてゆくので、あまり関心をもって扱われることがない。(2)政治的にいえば、私たちには認識論の外交が必要である。それは認識論のちがいを認めることを可能にし、比較主義〔comparisonism〕やポスト植民地主義を超える枠組みである生物多様性や技術多様性の実現に貢献しうるだろう。
以上が私の提案である。それはいわば21世紀のための多元主義を再定義することだ。この新しい多元主義は、さきほど提示した生物多様性と精神多様性と技術多様性をはぐくむことを目標とするだろう。
原題 Notes on the Planetary #6: The Meaning of Political Epistemology.
本誌のための書き下ろし
次回は『ゲンロン19』に掲載予定です。(編集部)
★1 葛兆光,《中国思想史 第2卷 七世纪至十九世纪中国的知识、思想与信仰》(上海:复旦大学出版社,2000年),第458页。
★2 Ibid., p. 459. 〝古代中国自汉代以后,人们的知识与思想⼀直习惯地安顿在由这个基石上建构起来的世界里,无论是自然的‘天’还是哲理的‘天’或是神话的‘天’,在深层都是互相⼀致、彼此支持的,所以‘天不变,道亦不变’。可是,如果突然有一天,从西洋来的‘天’学居然告诉中国人说,过去中国人所相信的宇宙中心其实并不是中心,天体也不是一个圆圆的‘穹盖’,不是‘天道左旋’而是‘地球右转’,而‘地’也不是过去心目中居于四海之中的地,海只在‘正东’和‘东南’,于是,对称的并不对称,和谐的也并不和谐,这一下子思维里就乱了套,在观念史上,这也是最重要的‘天崩地裂’的大变化之一。〟
★3 Ibid., p. 468. 〝这里需要进⼀步说的是,不止是政治意义上的皇权,中国的天学本身还支持着一种几千年来人们所熟悉的宇宙秩序,一旦它被打破,那么知识、思想与信仰的秩序就会坍塌,人们将不知所措,因为天学不仅是‘器’的学问,而且是‘道’的基础,‘器’如果变,‘道’将不得不变,‘道’若 变,‘天’也就将变。〟
★4 以下を参照。Joseph R. Levenson, Confucian China and its Modern Fate Volume One: The Problem of Intellectual Continuity (London: Routledge, 1958/2005).
☆1 以下を参照。Yuk Hui, Machine and Sovereignty: For a Planetary Thinking (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2024), Preface.
☆2 『機械と主権』のなかで、ホイは「技術多様性、精神多様性、生物多様性は一種の基盤を構成する。私たちはそれをつうじて、国民国家や人新世をこえて共存の言葉を体系的に考えることができるのである」と述べている。以下を参照。Ibid., p. 20. またホイのいう「器官学」とは、人間の身体や技術、社会などの相互関係を網羅的に捉えなおそうとする学問の形式のこと。用語としての由来は、1947年にジョルジュ・カンギレムがアンリ・ベルクソンの『創造的進化』を「一般器官学」の先駆として称賛したことにある。のちにベルナール・スティグレールが、心身器官、社会器官(諸制度)、技術器官の密接な関連を問うものとして「一般器官学」を規定した。ホイは『再帰性と偶然性』のなかで、こうした器官学の歴史をまとめながら、器官学的な視点が異なる地域における技術と文化の相互作用をつうじて「技術多様性を再開させる新たな思考を産出」する可能性を見いだしている。ユク・ホイ『再帰性と偶然性』、原島大輔訳、青土社、2022年、53頁。
☆3 本連載の初回で、ホイは以下のように述べている。「こんにち、哲学者に口をつぐませるのは、権威主義的な検閲だけではない。いわゆるポリティカル・コレクトネスもそうなのだ。それは、すでに確立された道徳規範のなかに思考を制限してしまうのである」。以下を参照。本連載第1回(『ゲンロン14』、2023年、69頁)。
☆4 ホモ・サケルhomo sacerは、文字通りには「聖なる人間」を意味し、古代ローマ法において殺しても罪に問われないが、生贄に捧げることも許されない者を指す。ホモ・サケルは法の秩序の外側に置かれながら共同体に捕捉された存在であり、ジョルジョ・アガンベンはそこに排除をつうじた包摂という両義的な構造を見いだしつつ、法の外部にさらされたそのあり方を「剥き出しの生」と呼んでいる。さらにアガンベンは、カール・シュミットやミシェル・フーコーを援用しながら、主権権力が「例外状態」にかんして決定をくだし、法を停止することによってたえず人々の「剥き出しの生」に介入してきたこと、つまり「生政治」があらゆる政治権力の本質にあることを指摘している。詳細は以下を参照。ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル──主権権力と剥き出しの生』、高桑和巳訳、以文社、2007年。
☆5 技術論理とは、技術とロゴスの相補的な関係を強調する概念。ベルナール・スティグレールは、ジャック・デリダの議論を踏まえつつ、ロゴス中心主義的な西洋の形而上学そのものがじつは技術によって支えられていることを示し、このようなテクノロゴスこそが歴史性の条件であり、記憶や精神の継承を可能にすると主張している。以下を参照。ベルナール・スティグレール『技術と時間1 エピメテウスの過失』、石田英敬監修、西兼志訳、法政大学出版局、2009年。
☆6 詳細は以下を参照。URL=https://www.volkerscheid.net/



ユク・ホイ

伊勢康平
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