ヒューモアとしての菜食主義|河村賢

釜ヶ崎で動物性の材料を使わない弁当を野宿者たちに配布するイベントがあると何かのきっかけで知り、参加したときのことだ。教会の片隅にある調理室で豆のカレーを作り終えたあと、日頃から釜ヶ崎だけでなく周辺地域の野宿者たちを支援している活動家たちと一緒に、手分けしてこのカレー弁当を配ることになった。私は心斎橋の夜回りをするグループに交ぜてもらうことになり、アーケードのある商店街を歩いていると、回転寿司の店の前に並べられた廃棄のゴミ袋の横で、立ったままカニの脚を食べている野宿者に出会った。
すみません夜回りの者ですが、と話しかけてから、ビニール袋に入れた豆カレーの弁当を渡すと、この野宿者は何も言わずに食事を中断して包みを受け取った。どうぞお気をつけて、と声をかけてその場を離れると、一緒に行動していた年長の活動家は、あの人がこちらの言葉に反応しないのはいつものことだから、と幾分私を慰めるような口調で言った。
それ以来──特別な弁当の配布がないときでも──継続的に夜回りに参加し続けている。あるときいつもと同じように夜回りを行なっていると、一緒に歩いていたその年長の運動家が、何かを思い出したようにこう言った。そういえば、あなたが最初に夜回りに参加したときに、このあたりでカニを食べていた人がいたじゃない。あのカニはなんだかすごく美味しそうだったね。私は笑いながらこう答えた。ええ、そうでしたね。──私が現在のような生活を始める以前の味の記憶を辿り直してみるならば、あのカニは確かに美味しそうに見えた。
私が現在どのような生活を送っているか、つまり普段菜食主義者として暮らしていることを知った人たちは、そうした生活へと私が移行するに至ったきっかけに関する問いを投げかけてくることがある。だがそのような質問に答えるのは、私にとってはかなり難しいことである。というのも、もしこの問いに真剣に答えようとするならば、私は東京の大学院で過ごした20代から30代にかけての時期に、何を経験したのかを事細かに語らなくてはならないからだ。それは私がそれまで言葉に対してかろうじて保っていた信頼感のようなものをすべて失わせるような10年間だった。徐々に狭まっていく世界のなかで、私たちは自分たちがどうやったら生き残れるかということについて怯えすぎていた。そのなかでも、身近な他者を搾取することに躊躇いのなかった人こそがしばしば時流に乗り、そうした搾取への加担などなかったかのように、あるべき世界の姿について饒舌に語り始めた。もちろんそうした光景の醜悪さに耐えきれなかった人から告発がなされたこともあった。しかしそもそも不利な立場に置かれた人からなされた告発のほとんどはまともに聴かれることもなく、官僚的なシステムの片隅で握りつぶされていった。
こうした不毛な過程において私自身がどのように振る舞い、何と闘うことができたのかということを、自分自身が生き延びたあとになってから振り返るという過ちを、ここで繰り返すべきではないだろう。いずれにせよ、それは私にはこの光景を変えることはできなかったという敗北の物語でしかありえない。それでも、ある時点で何がすでに言葉にされているのかに関する残酷な選別が働いてしまっていることに鈍感なまま大仰な言葉を語ることにはもう耐えられないと思ったからこそ、私は黙って身近な生活を送るなかで可能な非暴力と脱搾取の実践として、自分が口にするものや身の回りで使うものから動物を犠牲にして作られる製品を少しずつ排除し始めたのではないだろうか。結果的に、私は30歳を過ぎてから、一般的にはヴィーガンと呼ばれる生活を始めたのである。
このような経緯で動物搾取をやめるようになった人というのは、かなり特殊なのではないか、と私は思っていた。だが私が大学院に在籍していたのと同じ頃に、早稲田大学で批評家の渡部直己からのセクシュアルハラスメントに遭い、加害者やその被害を隠蔽しようとする大学と闘っていた深沢レナが、そうした告発を通して得た経験と、彼女がヴィーガンになることが深く関わっていたと書いていることに、あとになってから気づいた[★1]。彼女は大学と文学に携わる人々のことを示唆しながら「彼らは口では綺麗事を並べながらも、たいてい行動に移すことはない。ただ言葉をばらまくだけ」なのだと言っている。「だったら私は黙って手を動かし、彼らが傷つけるよりももっと多くのものを救ってやろうと思った」という彼女の言葉──特にそのようにして「言葉」と沈黙を対比させるやり方──は、私自身が動物搾取をやめるに至った理由と、その背景にあった不毛な光景と重なる何かを的確に指し示していると思う。実は冒頭で述べた、釜ヶ崎で豆のカレーを配布するイベントは、深沢が企画したものだった。私はカレーに入れる玉ねぎを刻みながら、初対面の書き手にいきなり語りかけるには適切ではないと思われるこうした事柄について考えていたが、結局夜回りが終わるまで何も言うことはなかった。
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釜ヶ崎に通うようになってからしばらく経つが、野宿者たちが普段何を食べているのかを知ることができる機会は、これまでのところほとんどなかったと言ってよい。これは私が参加している野宿者ネットワークという団体が、炊き出しを普段は行なっていないからでもある。夜回りが行われる比較的遅い時間帯に、野宿者たちが何かを食べていることはそもそも珍しい。むしろこの夜回りは、野宿者たちにとって、やってくる人たちを歓待する機会になっているのかもしれない。あるときいつも顔を合わせる野宿者から、せっかくならちょっと座っていきなさいと声をかけられ、ダンボールを敷いたスペースに上がらせてもらって雑談をしたときに、私はそう考えたりもした。
だからこそ、最初の夜に心斎橋の商店街でカニを食べていた野宿者の光景は、妙に私の記憶に残り続けている。野宿者がどういう食生活をしているのか、彼らにあえて動物性原料を使わない弁当を配ることにどういう意味があるのか、という点をめぐっては、豆のカレーを作るために集まってきた参加者たちの間でも議論が行なわれた。野宿者のなかに菜食の人がいる可能性だってあるだろう、とこのとき言ったのは、野宿者ネットワークの代表として長年釜ヶ崎に関わってきた一方で、近年は動物倫理についても発言を行なっている、生田武志ではなかっただろうか。
確かに私は、野宿者たちがどのような生活をしているのか、彼らにとって何が必要で何がそうでないのかということについて、夜回りに参加する前には何も知らなかった。私たちが単に「野宿者」という言葉から膨らませただけのイメージは、実際に路上で暮らしている彼らのありようからは乖離している。たとえば生田は、動物倫理をめぐる自らの著書のなかで、わずかな収入から身を削ってでもペットフードを購入し、犬や猫に食べさせている野宿者は決して珍しい存在ではないと述べている[★2]。確かに私が釜ヶ崎に通うようになって以降の短い期間のなかでも、路上で亡くなってしまったある野宿者が、体調を崩すなかでも一緒に暮らしていた猫の世話を最後までやめなかったことは、印象的な出来事として記憶に残っている。野宿者のなかにも本当は菜食を志向する人がいるかもしれないという生田の発言も、現に路上で生活している野宿者たちが、さまざまに異なる現実を生きていることをよく知っているからこそ出てきたものだろう。
しかし、野宿者たちが置かれた現実を踏まえたこのような議論も、実際に路上でカニを食べている野宿者の姿を前にするならば後退を強いられてしまうに違いない。心斎橋の商店街で私が出会った、立ったままカニを食べていた野宿者は、彼らが必要からものを食べるというのはどういうことかということを、これ以上ないほど明白な形で示していた。
豆のカレーを作って配るというイベントのために集まった、私を含めた動物倫理の問題に大きな関心を持つ参加者たちは、動物性原料を使わない食事を配ることにどういう意味があるのか、動物倫理とは何かということについて、弁当を配りながら野宿者たちに手短に説明をすることになっていた。しかし実際に路上で寝起きしている野宿者たちを目の前にして、そのようなレクチャーを行うことができた参加者は一人もいなかったと思う。むしろ本来であれば動物倫理のことを何も説明しなくてよいはずの、貧困問題としての野宿者支援に長年取り組んできた活動家たちのほうが、豆カレーを配布するために集まってきた参加者たちが何者であるのか、なぜ今回の夜回りでは珍しく食べ物を配布するのかということを、すすんで説明してくれた。特に心斎橋の商店街で私に話しかけてくれた年長の活動家が、顔見知りの野宿者に対して「これは「ヴィーガン」って言って、動物性のものを使わずに若い仲間たちが作ってくれたカレーだから」という紹介を行なっているのを聞いたとき、私はそのやりとりに含まれる「仲間」という言葉に対してすら、申し訳なさと恥ずかしさの入り混じった感情を覚えたのだった。
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菜食主義は特権であるという批判がなされることがある。私はそうした批判のほとんどには、ある基本的な混乱が含まれていると思う。ここで注意すべきなのは、あるカテゴリーの人であることによって生じる特権と、もともとその人が持っている特権の結果としてあるカテゴリーの人になることの違いである。すなわち、菜食主義者であることそのものに由来する特権と、他の何らかの特権を利用して菜食主義者になることが、ここでは区別されなくてはならない。
たとえば私は定職に就いており、都市部で一人暮らしをしていて、誰かをケアする責任を負っているわけではない。病気を抱えていて特別な食事制限を行わなくてはならないこともない。私がもともと持っているこのような特権を行使することで、私は──ある程度外食や植物性タンパク質などのサプリメントを利用する都市型の──菜食主義者であることが可能になっている。ここに菜食主義者であることそのものに由来する特権は何ひとつ存在しない。そうであるにもかかわらず、私が菜食主義者として批判されるのであれば、それはフェアではないように思われる。実は私と同じような特権を多く持ちながらも、単に人目を引くような道徳的実践に従事していないがゆえに、本来なされるべき批判を免れている人が数多くいると思うからである。
では実際に菜食主義者としてこの社会で暮らすということは、一体どのような経験でありうるのだろうか。菜食を選ぶことによって、人はどのような選択肢を獲得し、あるいは失うことになるのだろうか。ハン・ガンの『菜食主義者』は、まさに東アジア社会において──特に非暴力の実践としての──菜食主義を選択することが、むしろそれまで自明とされてきた日常的な習慣や周囲が抱く期待からの切断を不可避的にもたらしてしまうということを、ある女性を取り巻く人々の視点から描き出している。
ヨンヘは、ソウルで夫と暮らす女性だが、人生のある段階で食べるという行いに含まれる暴力を予示するような夢を見たことをきっかけに、自宅の冷蔵庫に入っている肉と魚と乳製品を全て捨てるという行動に出る。こうした振る舞いは、夫のために料理を作り、親族や上司との会食に出席することを期待する周囲の人々との衝突をもたらすことになる。実際に菜食を実践したことのある読者であれば、この小説で描かれる親族や仕事上の同僚たちとの会食の場面には身に覚えがあるだろう。一緒に食卓を囲む人々は、ヨンヘが肉を食べるのをやめたと知ると、なぜ菜食を始めたのかという質問を彼女に向ける。その選択が健康上の理由や宗教的なものなどではないことをヨンヘが伝えても、人々は納得しない。暴力を拒絶するために肉を拒むというヨンヘの選択は、そもそも人が取りうる選択肢として理解されることすらないのである。
ハン・ガンの具体的な語り口において興味深いのは、物語がヨンヘ以外の視点から語られるときだけでなくヨンへの視点から語られるときでさえも、肉食がもたらす快楽のありかたを具体的に記述していることだ。たとえば夫のチョンは、菜食主義者に変貌してしまう前の妻と囲んだ食卓のことを、次のように思い出している。
彼女の家族を思い浮かべると、立ち込めた煙とニンニクの焼ける匂いが自然と重なった。焼酎を注いだ杯が行き交い、肉の脂が焼けていく間、女たちはキッチンでにぎやかなおしゃべりをした。家族皆が──義父は特に──ユッケが好きで、義母は活魚を刺身にすることができ、義姉と妻は大きな四角い精肉用の包丁を使いこなして鶏一羽をぶつ切りにできる女たちだった[★3]。
もちろんこうした食卓の記憶は、食卓を準備するのは女性たちであるという社会規範を前提としたものでしかない。だがヨンヘが抱えている肉食──そして実のところ自らが振るう暴力──に対する欲望は、ヨンヘ自身の視点からも記述されている。ヨンヘは夢のなかで「口の中に唾がたまるの。精肉店の前を通るとき、わたしは口をふさぐ。舌のつけ根から湧き上がって唇を濡らす唾のため。唇の間からもれ出そうな唾のため」と述べるのである[★4]。
ハン・ガンの描写のなかに含まれる、暴力を忌避しながら同時にそれを欲望する──暴力を欲望するからこそそれを行使しないことに意味が生じる──というアンビバレンスの意味は、これまでの日本の読者たちによってはうまく捉えられてこなかったように思われる。たとえば韓国文学の翻訳者である斎藤真理子はある番組のなかで、この小説の主人公がある種の拒食症のように食べることの暴力を拒絶していくのと裏腹に、そこで描かれる食べ物は「とても美味しそう」であり、これはある種の「逆グルメ小説みたい」と笑いながら述べたことがある[★5]。
斎藤の洞察には幾らかの真実が含まれているが、私ははじめてこの場面に出くわしたときに何か嫌なものを直観せずにはいられなかった。この場面についてあとから振り返ってみたときになぜか私が連想したのは、あえて肉の美味しさについて誇張しながら語るという──これもある程度の期間菜食を実践している人であれば一度は経験したことがあるだろう──嫌がらせのことだった。菜食を実践していない人が、菜食を実践している人たちのことを、肉食がもたらす快楽を何かのはずみで失った人であるかのように誤解してみせるというこうした振る舞いに直面するたびに、私はいつも深い苛立ちを覚えてきた。
しかしそうだとするならば、私自身にとっても即座には解けないような謎が姿を現すことになる。私がはじめて夜回りに参加したとき、路上で野宿者が食べていたカニについて「あのカニはなんだかすごく美味しそうだったね」と述べた年上の活動家の発言に対して、私が笑いながら同意することができたのはなぜだったのだろうか。
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ここには、人が倫理的であることはいかにして可能なのかという問題の深淵が、顔を覗かせているように思われる。ある種の倫理的実践は、そもそもそうした実践を行う人が置かれた歴史的状況や環境において可能になっているだけなのではないかという洞察は、日本の仏教思想の文脈においては親鸞によって先取りされている。よく知られているように、親鸞の弟子・唯円は『歎異抄』において「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という悪人正機説を親鸞の教えとして定式化した。善人こそが極楽に行くことができるという常識的な考え方を転倒させ、自分の心や行いの善さを頼みにすることができない悪人こそが、ひたすら「他力」にすがることで往生を遂げることができるという逆説は、多くの人々の心を捉えてきた。だがここで言われる悪人とはいかなる者のことなのだろうか。
同じ『歎異抄』には、人の心の「よし」と「あし」について、親鸞と唯円の間に交わされた対話が収められている。あるとき唯円は、親鸞に「自分の教えを信じるか、自分の言うことに決して背かないか」という問いを投げかけられる。これに対して当然ながら「背くことはありません」という言葉を返した唯円は、親鸞から重ねて「ならばそうすれば必ず極楽に往生できるから千人殺せと私が言ったらどうするか」と問われることになる。この驚くべき問いかけに対して、答えに窮した唯円は「自分のようなものには一人も殺せるとは思えません」と述べるしかない。これを受けて親鸞は次のように問いかける。
さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべし[★6]。
親鸞はこう言っている。なぜ最初からできもしないのに親鸞の教えに背くことはないなどと唯円は言ったのか。もしも何事もその人の心によって決められるのであれば、往生のために殺せと命じられれば殺していただろう。しかしいま唯円が殺すことを選ばなかったのは、それが業縁によって決まっていたからであって、唯円の心が善良だったからではない。このように、心ではいくら誰も傷つけまいと思っていても、百人千人という人を殺してしまうことすらありうる。──親鸞が語るのは、個人の意思や心持ちによって倫理的であろうとすることが決められるという考えに対する、徹底的な批判なのである。
親鸞のこうした教えは、抽象的な原理論としてのみ受け止めるのであれば──そして特に環境が人の振る舞いを決定するのだという宿命論としてのみ理解するのであれば──一切の倫理的実践の可能性を失わせるような虚無的な思想であるようにも聞こえる。人が誰を殺すか、何人殺すかといったことですら業縁というものによってあらかじめ決まっているのならば、人が何を意思しようがその結果は変えられないということになるからである。
だが、私たちはまだ「悪人とはいかなる者のことなのだろうか」という問いに真の意味では答えていない。特に親鸞が言う「悪人」とは、親鸞がまさに投げ込まれていた歴史的状況においていかなる者のことを指していたのだろうか。このように問いを転換させることで、私たちは吉本隆明がかつてこの『歎異抄』の対話に対して付けた注釈──すなわち偶然と意思をともに退けたところから〈不可避〉的な契機が自ずから姿を現すという謎めいた注釈[★7]──を別の仕方で引き受けたうえで、この悪人という歴史的存在について具体的に考えることができるように思われる。
ここで手がかりになるのが、河田光夫が遺した親鸞論だ[★8]。河田は、親鸞が活動した鎌倉時代における実際の言語使用に着目し、この時期に成立した『塵袋』という辞書において「エタ」や「非人」という語の注釈において「悪人」という語が使われていることに注意を向ける。『塵袋』では、「エタ」とは餌を取るもの、すなわち鷹などが食べる肉を狩猟する人々だとされている。『塵袋』はさまざまな差別語を挙げて、この肉を取る人という語源から派生した一群の言葉を説明するが、そうした語をひっくるめて「生きものを殺して売るエタのような悪人」として位置付けている。河田は『塵袋』における悪人という語の用法から、鎌倉時代にはこのような「「悪人」という差別」が存在したという結論を導き出すのである[★9]。
さらに河田はこの悪人という語の歴史を辿り直してみせる。河田が古事記のなかに見出すのは、熊襲を指す「西方の悪人」と、蝦夷を指す「東方の悪人」という用法である。こうした「悪人」という語の古来の用法から、大和朝廷の体制に従わない漁猟民たちと、仏教の戒律である肉食の禁を犯すがゆえに救われざる者を、ともに名指すための語として「悪人」という言葉が使われた可能性を示唆するのである[★10]。
悪人という言葉が、天皇と朝廷を中心とする稲作によって成立した秩序の外部にいる者たちのことを指すのだとするならば、そうした人々であっても往生の可能性があると論じた親鸞の議論を、謎めいた「業縁」によって人が何をなすかは決定されているという単純な宿命論として理解する必要はなくなる。実際『歎異抄』の唯円と親鸞の対話のすぐあとには、次のような言葉が記されている。「うみかわに、あみをひき、つりをして、世をわたるものも、野やまに、しゝをかり、とりをとりて、いのちをつぐともがらも、あきなひをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、たゞおなじことなり[★11]」。商売や田畠を耕して生活する人々だけが救われて、野や山で魚や動物を殺して命を繋がなくてはならない人が救われないということはあるだろうか。ある人は動物を殺して食べ、ある人は動物を殺さなくて済むということの差に、実質的な倫理的意味などあるだろうか。親鸞はそのように問いかけているように見える。
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立ったままカニを食べていたあの野宿者が体現していたのは、親鸞が示そうとした、倫理的な選択という考えそのものが意味を失う地点ではなかっただろうか。動物を食べるか食べないかという選択が、ともに特定の社会的条件のもとで可能となり、引き受けられているにすぎないのであれば、一方の振る舞いだけを取り出して倫理的なものとして称揚することの意味は限りなく失われる。そうだとするならば、これは結局のところ、動物倫理のみならず倫理的な営み一般を支える基盤を掘り崩す、きわめて絶望的な認識であるようにも見える。
かつてフロイトが取り組んでいたのは、まさにそのような絶望的な認識を人はいかにして笑うことができるのかという問いである。彼がユーモアと呼ぶ、絶望に裏打ちされた笑いの例は、週明けの月曜日に絞首台に引かれていく死刑囚が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」という冗談を自ら言ってみせるというものである。この発言はなぜか、冗談を言った囚人本人だけではなく、それを聞いている人たちにもある種の満足を与えるのだという。
フロイトによれば、ユーモアはこの囚人の例のように自分に言及することで生み出されるのみならず、他人の振る舞いに言及することによっても生じる。他人の振る舞いについて冗談めかしたことを述べるこのような人は、通常の場合「子供にたいするような態度」をとっているとされる。つまり他人をどこか笑いうるものとして記述する人は「子供にとっては重要なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑している」のである[★12]。これは確かに、私たちが他者を笑うときにしばしば行なっていることであり、またおそらくは肉の美味しさについて菜食を実践している人の前で誇張して語る人たちがとっている態度なのだろう。
しかしフロイトによれば、このように誰かを子供扱いすることは、ユーモアの本質ではない。ユーモアの精神はむしろ「ある人間がユーモア的な精神態度をわれとわが身に向け、それによって自分にふりかかってくるかもしれぬ苦悩を防ごうとする場合[★13]」に純粋なものとして現れる。絞首台に引かれていく死刑囚が口にする冗談は、自らを待つ悲劇的な運命を笑いでやり過ごそうとするものである点において、確かにこうした姿勢を体現する一つの典型だと言えるだろう。だが重要なのは、ここでフロイトがユーモアの精神と呼ぶのは、単純にそのユーモアが自らのありように言及するものであるのか、それとも他者の振る舞いに言及するものであるのか──より単純化するならば自分を笑うか他人を笑うか──という形式的な区別のみには還元できないことである。実際フロイトは次のようにも述べている。
けれども大切なのは、それが自分自身に向けられたものであれ、また他人に向けられたものであれ、ユーモアが持っている意図である。いってみれば、ユーモアとは、ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ、とでもいうものなのである[★14]。
それが言葉として自らに向けられたものであれ、他人に向けられたものであれ、フロイトがユーモアの精神と呼ぶもののうちには、ここで言われている「世の中」すなわち世界そのもののありように対する、どこか肯定的な態度が含まれている。かつて柄谷行人が、まさにフロイトのユーモア論に依拠しながら、自己の苦痛を軽視することで超然とした自己を誇示するだけのイロニーと、自己の苦痛に対して自ら励ましを与えることを通してなぜか他者をも解放するヒューモア(ユーモア)の区別を行なった際に、柄谷が直観していたのは後者に含まれるこの肯定的な契機だったに違いない。実際柄谷は、ボードレールの言葉を引きながら、ヒューモアは「同時に自己であり他者でありうる力の存することを示す」ものだとしている[★15]。
柄谷は、フロイトが『文化への不満』で述べた「人類の未来に解決はありえない」という絶望的な世界認識に、どういうわけだか解放感を覚えるのだと述べている。だがなぜヒューモアにはそのような肯定的な力が宿るのだろうか。それは、ヒューモアが「有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するもの」だからである。同じ姿勢のことを柄谷は、「超越論的な批判」という言葉を用いて論じている。それは「自分は世界(歴史)の中にあって、それを越えることはできず、越えるという思いこみさえもそれによって規定されている」ことを、絶えず示し続けることなのである[★16]。
柄谷がフロイトの読解を通して示した、自らが世界のなかの諸条件に規定されていることを受け入れると同時にそうした条件を越えていくことを目指す──あるいは自らを規定する条件を越えることを目指しながらその試み自体が特定の条件のもとでのみ可能となることを認める──という構えは、安定した道徳的原理というよりも、自らの振る舞いにおいて試され続ける一つの構えでしかないということを強調しておくべきだろう。柄谷自身の言葉を借りるならば、それは「たえず超越論的であろうとする構え」にほかならない[★17]。
この点を忘却した瞬間に、私たちはそれを単なる「心構え」の問題と同一視してしまうことになるだろう。だがそのとき「わがこゝろのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人を殺すこともあるべし」という親鸞の警告の意味を、私たちは身をもって知ることにもなるはずだ。もちろん、単なる生活者である私たちが、文字通り百人や千人を殺すことはないかもしれない。だが、より日常的なレベルの暴力が、私たちを取り巻いていることに変わりはない。そこにおいて自らは暴力を振るうまいと決意していたとしても、誰かが振るった暴力に加担してしまうことはありうる。私がここで念頭においているのは、被害者が納得する形での謝罪が行われていないままで、渡部直己の批評家としての復帰を曖昧に支援した柄谷自身の振る舞いである[★18]。柄谷のこうした姿は、自らが世界のなかの諸条件に規定されていることを受け入れながらそれを越えていくヒューモアの構えを、自らの具体的な振る舞いにおいて示し続けるということが、ときにどれほど困難かということの逆説的な例証となっている。
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フロイト自身は、その短いユーモア論のなかで、他人の振る舞いに言及しながらも同時に世界の「危なっかしさ」を笑いとともに受け止めようとするユーモアが、具体的にいかなるものでありうるかを、実は明確には述べていない。すでに引用した「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」と述べる死刑囚が、その冗談において自身の運命について述べていることは、それを聞く者にとっても明白である。柄谷のユーモア(ヒューモア)をカントの超越論的批判とつなげて理解する議論は、すでに論じたようにその可能性が真には汲み尽くされていないという意味でも魅力的なものだが、あくまでもこの論点とは関係なく組み立てられた一つの解釈にとどまっている。私はむしろ、フロイトのテクストが抽象的にしか論じなかった、他人の振る舞いに言及しながら示されるユーモアとはいかなるものであるのかを、具体的な相互行為の場面に差し戻して考えることはできないかと思っている。というのも「あのカニはなんだかすごく美味しそうだったね」というあの夜の年長の活動家の言葉は、まさにフロイトが論じていたのにより近い意味で、ユーモアの精神を体現した言葉になっているように思われるからである。
もちろん、直接的にはある野宿者が食べていたものに言及する形で述べられたこの言葉が、厳密にどのような意味において「危なっかしく見える」世界を冗談とともに受け入れる試みになっているのかということを、いま正確に述べることは私にはできない。私に推し量ることができるのは、この冗談めかした言葉の背後には、長年野宿者支援に関わってきたにもかかわらず、自分たちが改善できた現実はごくわずかなものでしかないというある種の限界についての感慨と、同時に少なくとも一人の野宿者がその日も食事をとることができたことへの祝福とでも呼べるようなものが込められていたのではないか、ということだけである。
他方で私自身がこの冗談に「ええ、そうでしたね」と返したときに、私が自分に何を言い聞かせていたのかということは、はっきりと思い出せる。私は自分の目の前でカニを食べていた野宿者のことを思い出しながら、自分が行なってきた菜食主義の実践が、決して誰にでも直ちに実行可能であるという意味での普遍的な道徳に基づいたものなどではないこと、それを実践できることそのものが、特定の社会的条件のもとで可能となるにすぎないことを改めて突きつけられていたのである。
だがこのとき同時に私が考えていたのは、あの野宿者が菜食主義を実践できないということは、彼とはまったく異なる社会的条件のもとに置かれている私自身が菜食主義を実践できない理由には、決してならないだろうということだった。だからこそ、自らの実践が達成してきたことの限界を振り返りながら、なおも一人の野宿者を祝福しようとするこの年長の活動家の言葉を受け止めることは、私自身をどこか励ますことにもなっていたのだ。このとき私たちが従事しているそれぞれの実践に立ち戻ろうとする姿勢は、与えられた社会的条件のもとでそれを越え出ようとする──柄谷がかつてヒューモアと呼んだ──構えだったに違いない。
自分が行なっている実践を、他の誰もが追求できるわけではないことを知りながらも、なおその実践に立ち戻る。私にとって菜食主義とはそのような普遍性の断念とともにはじめて可能になるような倫理的な営みである。こうした実践を名指すために、20世紀半ばにあるイギリス人が作り出した「ヴィーガン」という言葉を使う必然性を私は感じていない。それは私にとっては、あくまでも自分は何を食べることができるのか、自分はどのような製品なら使うことができるのかといったことを、手短に指し示すためのプラクティカルな言葉でしかない。
早すぎる死の直後に刊行された講演録のなかで、河田光夫は、釜ヶ崎の労働者たちは行政が地域にまとわりつく歴史を脱色するために作り出した「愛隣地区」という呼び名を拒否していることに言及している。かといって当時の労働者たちは「釜ヶ崎」という地名を積極的に用いていたわけでもなく、むしろその頃の最寄りの駅名を用いて「霞町」などと呼んでいたとされる。しかし、ひとたび暴動が起これば、彼らは普段世間からの視線を慮って使わない古名を引き受けて「釜ヶ崎共闘」「釜ヶ崎メーデー」「全港湾釜ヶ崎支部」などと名乗ったのだという[★19]。私たちが暮らす場所を何と呼ぶか、そこで営まれる実践をどのような言葉で名指すかということが、これほどまでに政治的な賭金を伴う決断だということを、このエピソードは思い出させてくれる。
だからこそ、ここまで論じてきたような、与えられた社会的条件のなかで非暴力と脱搾取を目指すという実践をそれとして名指す必要があるとしたら、私はそれを「ヒューモアとしての菜食主義」と呼ぶだろう。この名前には、かつて柄谷が示した理論的洞察とともに、彼自身が行き着いた無自覚な加担の記憶が、まとわりついていることは言うまでもない。それでも、私はこの古名を進んで引き受けるだろう。そのように自らの実践を支える条件を絶えず問い直そうとする姿勢だけが、真の意味で他者を励ますことになるということを、私はすでに知っているからである。
★1 原告A「教室のうしろの席から」、『生活の批評誌』第5号、2022年、46-63頁。この文章の末尾で、著者は「深沢レナ」という名前を明かしている。
★2 生田武志『いのちへの礼儀──国家・資本・家族の変容と動物たち』、筑摩書房、2019年、43頁。
★3 ハン・ガン『菜食主義者』、きむふな訳、クオン、2011年、30頁。
★4 同書、53頁。
★5 斎藤真理子、石井千湖、津田大介「世界を席巻する韓流カルチャーの強みと未来【コリタス #2】DAY1「韓国文学の中心にある近現代史」」、ポリタスTV、YouTube、2024年。URL=https://www.youtube.com/watch?v=d5O0jX91wlc
★6 金子大栄校注『歎異抄』、岩波文庫、1931年、66頁。ただし発言の終わりに句点を補った。
★7 吉本隆明『最後の親鸞』、ちくま学芸文庫、2002年、35頁。
★8 私が河田光夫の仕事の重要性に気づいたのは、深沢と生田が主催する読書会で読んだ原田信男の『歴史のなかの米と肉』(平凡社ライブラリー、2005年)を介してのことだったことを記しておく。
★9 河田光夫『河田光夫著作集 第1巻 親鸞の思想と被差別民』、明石書店、1995年、27-29頁、強調原文。
★10 同書、33-34頁。
★11 『歎異抄』、67頁。
★12 ジークムント・フロイト『フロイト著作集3』、高橋義孝訳、人文書院、1969年、408頁。
★13 同書、409頁。
★14 同書、411頁、強調引用者。
★15 柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』、筑摩書房、1993年、122-123頁。
★16 同書、124頁。
★17 同書、124頁。なおここでの原理と構えの区別という論点については、岡澤康浩との個人的な対話に多くを負っていることを記しておく。
★18 最終的に2度の裁判を闘わざるをえなかった深沢レナが、当初から加害者である渡部に求めていたのは、自らの行為についての理解を深めたうえでの謝罪だったということは、以下のインタビューで明確に語られている。深沢レナ・安西彩乃・関優花「言葉を取り戻すために──加害と被害、ハラスメント、そして連帯をめぐって」、『対抗言論』第3号、2023年、248頁。
★19 河田光夫『親鸞と被差別民衆』、明石書店、1994年、52-53頁。



河村賢
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- ヒューモアとしての菜食主義|河村賢
- 簒奪される空間体験|四宮駿介
- 口腔表現のルネサンス──なぜ若者は口で音楽を奏でるのか?|杉村一馬
- 共病のすすめ──フリーダ・カーロと病いを生きること|のしりこ
- 『ゲンロンy 創刊号』投稿論文──総評・投稿作品一覧
- 瀬戸内海に権利はあるか──自然の権利2.0と憲法学の想像力|植田将暉
- 無垢なる自然よ現われよ──パソナの地域開発と淡路島|林凌
- 四国には日本のすべてがある|三宅香帆+谷頭和希+植田将暉
- 政治認識論の意義 惑星的なものにかんする覚書 第6回|ユク・ホイ 訳=伊勢康平
- デジタル帝国と電車男──専制と民主主義のはざまで|李舜志
- はてなき天下の夢──現代中国の「新世界秩序」について|伊勢康平
- 陰謀論を育てる──ジョージアのディープな夢|五月女颯
- 新しい帝国とその時代|石橋直樹+伊勢康平+五月女颯+森脇透青+植田将暉
- 聖なるルーシと狂った夢──戦時下のロシアから|大崎果歩
- 天球から怪物へ──国学の図像的想像力|石橋直樹
- フィンガーメイド時代の芸術作品|布施琳太郎
- 陰謀の手応え──擬人の時代について|森脇透青
- 指先から考える──導入のための短い会話|森脇透青+布施琳太郎+石橋直樹+植田将暉
- タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版 タイ現代文学ノート #12|福冨渉
- 斉藤さんへ|伊藤亜和
- AIにメンケアされる私たち──感情労働はいかに代替可能か|佐々木チワワ
- The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉
- 令和カルチャーって、なに|森脇透青+山内萌+吉田とらじろう+植田将暉
- かわいいDIY|山内萌
- 【全文無料】創刊にあたって|『ゲンロンy』創刊号編集委員


