無垢なる自然よ現われよ──パソナの地域開発と淡路島|林凌

その場所から、山々の稜線はおおむねまっすぐに見えた。
《禅坊 靖寧》。プリツカー賞を受賞した建築家、坂茂の設計による、パソナグループ(以下、パソナ)肝いりの高級リトリート施設である。
山の斜面に抗いながら、水平に突き出す形で建設されているこの建築物。木とガラスを組み合わせた、モダンで、どことなくサイバーパンク的な造形。階段を登った先にある最上階の吹き抜けからは、淡路島北部の丘陵地帯が全面に見える[図1]。

ここで人々は、数万円払うことで、ヨガと坐禅を組み合わせた独自のエクササイズ講習を受け、マクロビオテックにならった菜食を堪能することができる。いかにもインバウンド観光客を狙ったような施設にみえるが、筆者が2022年に訪問した際は、参加者は全員日本人であった。どうやら、パソナに引き抜かれたヨガ講師にファンがついているらしい。
少なくない金額を払うだけあって、この施設での経験はおおむね素晴らしい。しかし、その経験を支えているのは、間違いなく施設そのものではなくパノラマビューによる淡路島の自然美だ。空中回廊から見える、折り重なる山々の陰影と、隙間なく埋まった雑木林。時間の経過とともに日光の角度が変わっていき、木々は次第に濃色を帯びる。瀬戸内特有の少し乾いた空気と、草木が風に揺れる音。無垢な自然が眼前には広がっているからこそ、ここで供されるヨガや菜食に価値があるように感じるのだ。
しかし、この体験は一種の擬制に基づいている。なぜならば眼前に広がる景色は、じつのところ手つかずの自然ではなく、かつて一面のみかん畑となるべく、造成された場所なのだから──。
一見すると無垢な自然が広がっているように見える淡路島北部。これから、その数奇な歴史をたどり返してみたい。今では風光明媚なリゾートしてにぎわうその景色のなかに見えてくるのは、戦後日本において、瀬戸内地方に打ち寄せてきた開発の波とその挫折の歴史である。そしてこの歴史の帰結が、2025年に開催された大阪・関西万博に他ならない。淡路島から大阪湾を挟んだ対岸の埋立地、夢洲でおこなわれたこの博覧会で注目を集めたパビリオンのひとつは、この島の開発を進めている主体でもある、パソナにより運営されていた[★1]。
淡路島北部の自然。その中には、開発による経済効果にわきたつ関西圏と瀬戸内海が抱え持つ、忘れ去られた、しかし重要なある一つの歴史的系譜が潜んでいる。本稿が示すのは、この系譜である。
「パソナ島」としての淡路島
神戸舞子方面から高速に乗り、明石海峡大橋を渡って島に着く。淡路IC──関西圏の人にとっては大観覧車のあるサービスエリア「淡路ハイウェイオアシス」としてのほうが馴染み深いかもしれない──を降りて、そのまま真っすぐ車を走らせよう。農園や牧場が点在する山間に向かって、些か場違いなまでの高規格道路がなだれ込んでいくことに気づくはずだ。
この県道157号線(佐野仁井岩屋線)を走ること数分。おおむね標高100メートル程度の丘陵地帯の中に、パソナ関連施設が集中して立地する地区が存在する。およそ1キロ圏内に、兵庫県立公園のなかに立地するテーマパーク《ニジゲンノモリ》やグランピング施設《グランシャリオ北斗七星135。》。あるいは、飲食店である《オーベルジュフレンチの森》や《海神人の食卓》といった施設が集中している。冒頭で述べた《禅坊 靖寧》もこの内のひとつである。この地を車で走っていると、その密度の濃さに驚かされる。まるで、パソナの開発のために、この道がお膳立てされているようにすら思えるだろう。
もちろん、これはただの錯覚に過ぎない。この道路が整備されたあとに、パソナがこの地に進出してきたからである。では、パソナはなぜ・いかにしてこの道路沿いを選んだのか。その込み入った歴史を追いかけてみよう。
パソナによる淡路島への進出は、2008年の「チャレンジファーム淡路」設立に始まった。これは新規就農を目指す人々を対象とした人材育成事業であり、県道157号線沿いに存在する「北淡路土地改良区」(これについては後述する)の土地を借り受け、農業従事者の育成事業が行われた。この進出が、実質的に当該改良地区における企業進出の口火となり、パソナは兵庫県や淡路市にとって、当該地域の開発における重要なパートナーとなった[★2]。たとえばその後パソナは、兵庫県が2013年に公示した『県立淡路島公園における民間事業提案募集』に「淡路アニメパーク構想」を提案し、「優秀企画の提案者」に選ばれる[★3]。その提案の帰結が、2017年に開業したテーマパーク《ニジゲンノモリ》であった[★4]。
つまり、パソナの開発は、兵庫県や淡路市といった自治体が関係する土地への進出として生じた。初期のいくつかの成功事例がフックとなり、パソナは淡路島開発へと傾斜していく。なかでも衆目を集めたのは、2020年9月に発表されたパソナグループの淡路島への本社機能移転だろう。これはおおむね淡路島北部の東側、すなわち国道28号線沿いにある様々な余剰施設を転用する形で実現された。具体的には、国営明石海峡公園内に立地する、安藤忠雄設計の著名なリゾート施設《淡路夢舞台》、淡路市津名の埋立地に立地する《イオン淡路》などの大規模施設の余剰フロアがオフィスへと転用され、最終的には約1300人の配置転換がなされたという[★5]。また、パソナは2010年代中盤以降、淡路島北部の西側を「淡路島西海岸」と名付け、観光客向けの飲食・商業施設を次々と開業させていった。現在、この「淡路島西海岸」へは、神戸三宮から高速バスが出ており、パソナ以外の事業者も観光施設を設けている。
このように、淡路島北部における東西の海岸沿いへ、パソナは性格の異なる施設を立地させてきた。そのふたつをつなぐバイパスの役目を果たしているのが、先に車を走らせた県道157号線なのだ。
そうしてみれば、2021年以降、パソナが県道157号線沿いにも観光施設を展開していったことに驚きはない[図2]。だが特筆すべきは、この地域がパソナにとって、より多くのお金を費やす観光客を呼び込むためのエリアとして捉えられていることだ。冒頭で取り上げた《禅坊 靖寧》は、まさしく2022年4月にこの地域にオープンした、アッパーな顧客向けの施設のひとつである。

では、なぜ県道157号線沿いが、他よりも高級な観光地として開発されているのだろうか。その理由は、このエリアの価値が「豊かな自然」に求められることにある。
《禅坊 靖寧》のホームページでは、この施設のコンセプトが以下のように謳われている。
淡路島の大自然、東経135度の地で禅体験ができる「禅坊 靖寧」[……]見渡す限りに広がる淡路島の四季折々の景色[……]燦燦とふりそそぐ陽光 澄んだ空気 雄大な緑[……]を堪能できる特別な空間 静寂の中で心と体が癒されていくのを感じる[★6]。
ここで「大自然」は、この場所でのリトリート体験に高い金を支払うことの意義を保証するものとして強調されている。
実際、この記述は決して間違っていない。私自身、ひとりの観光客として《禅坊 靖寧》でヨガを体験してみたのだが、日本杉でできたウッドデッキを裸足で歩き、心地よい風を感じながら瞑想するとき、眼前に広がる木々は、自身が「大自然」の中に埋め込まれた存在であることを確証させるに十分なものだった。
だが、いざ研究者として歴史資料に向き合うと、そのなかに刻印された過去が、観光客としての確証に疑いを向けさせる。たとえば1975年に撮影された航空写真は、現在は一面の緑となっているこの地帯の多くが、かつては土埃が立つ裸の造成地であったことを示している[図3]。

国土地理院の航空写真をもとに筆者加筆
造成地が「大自然」になるまで
どういうことだろうか。なぜかつての造成地に、豊かな「大自然」が売り物とされたリゾート施設が立地しているのか。その理由を探るために、この自然のただなかを通る、県道157号線のルーツに迫ってみよう。
県道157号線はそもそもなぜ整備されたのだろうか。それには、前述した「北淡路土地改良区」が関わっている。この県道が整備された目的のひとつは、この淡路市中央部に広がる丘陵地帯を近代的な農地に変えようとする巨大プロジェクト「北淡路開拓建設事業」のためだった。ひとことでいえば、県道157号線は、この地域へのたんなるアクセス道路であるだけでなく、産業道路として設計された道路だったのである。
1974年、北淡路開拓建設事業が開始して数年が経過したあとのこの地域の様子を、神戸新聞社が以下のように描いている。
道は国営北淡路パイロット事業[北淡路開拓建設事業のこと]の真っ只中を通る。野鳥たちの楽園だった山や谷をブルドーザーで切り刻み大ミカン園にするのだ。広い地域には広い道が網の目のように走る。街道はどこにも見当たらない。「昔の道、ああ、それはこの道ですがな」──教えてもらった道は、迷い歩いてきた幅8メートルもある車道だった[★7]。
かつてこの地は、旧淡路町岩屋地区から続く山道が存在するだけの、自然豊かな場所であった。それが北淡路開拓建設事業によって一変する。この地をみかん畑で埋め尽くすことを目的とした巨大事業が、この土地のあり様を根底から変えていった。
しかし、なぜそのような巨大事業がこの地で行われたのか。この点を理解するためには、当時の淡路島が兵庫県内でどのように位置付けられていたかを理解する必要がある。兵庫県は神戸市や阪神間に代表される都市化・工業化された地域を持つ一方で、その背後に多数の農村地域を抱え込んでいる。特に、丹波但馬と淡路島は、兵庫県の中でも「後進地域」として具体的に名指され、戦後、行政当局より総合開発の対象として絶えず眼指されてきた地域であった[★8]。
兵庫県が淡路島を対象に発行した開発計画として、1961年に発行された『ひらけゆく淡路』という初期の冊子がある。そのなかでは、「後進地域開発計画の主目的」は淡路島と「他地域の経済格差を縮小」することにあるとされ、ゆえに計画は「狭い意味での産業経済の振興とその基盤整備に限定」し遂行されると述べられている[★9]。
このような産業経済の振興において想定されていたのは、原則として農林水産業や観光業であった。これは、当該報告書において「京阪神・播磨地帯の住民を中心に、勤労者及び青少年の健全なレクリエーション活動の基地」として、「全島をゆたかに色どるすぐれた自然的景観と、〝花とミルクとオレンジ〟に象徴される[……]全島産業公園化」を目指すと述べられていることからも明らかである[★10]。淡路島の開発は、優れた自然環境を活かした農林水産・観光業の育成をつうじ、進められようとしていた。
この際、問題となったのが淡路島の急峻な地形とそれに起因する水不足である。特に現在の淡路市を構成している町(淡路町・北淡町・東浦町・津名町)は、その面積の多くが山間部であり、まとまった平野部を持たない。よって、少なくない農家にとって、この地で農業のみで生計を成り立たせることは非常に困難であった。ある報告書は、この地域の農業「労働力の大半は明石、神戸方面に出稼に出て兼業化が甚だしい」と報告している[★11]。
このような文脈のもと、淡路島北部の開発においては、農業振興のための大規模な農地開拓が重要であるという認識が、行政や地元財界において広がっていく。1962年に発行された報告書『北淡路の開発』を皮切りとして、兵庫県はこの地に大規模な農地開拓の可能性を見て取った[★12]。1963年には兵庫県が、国が主導していた大規模開拓パイロット事業の候補地として北淡路地区を申請。1964年には県の独自事業として県営ちひろ地区(北淡路地区の北部)における農地造成事業が始まる(1970年完工)。このような取り組みと、度重なる陳情を経て、北淡路開拓建設事業が無事着工するのが、1968年10月。ふたつの農業用ダムと530ヘクタールの農地造成を主眼とし、その先にこの地を一面のみかん畑とすることを企図していた。
開拓事業の開始は、「野鳥たちの楽園だった山や谷をブルドーザーで切り刻」んでいくことを意味していた。現在の県道157号線となる幹線道路が約8キロにわたって建設され、無数の支線道路も整備されていく。雑木林で埋め尽くされた丘陵部が切り開かれ、大規模農業に適した地形へと造成される。今やパソナが運営する観光施設が立ち並ぶこの地は、かつて自然が大きく改変されて作り出された、未来の農業のためのモデル地域だったのである。
沸き立つ土地
もし淡路島北部が、未来の農業のためのモデル地域になっていたとすれば、《禅坊 靖寧》から見える景色は全く異なるものとなっていただろう。冒頭で、この施設があたかも無垢な自然に囲まれているように見えると書いた。なぜ大規模な農地開拓が行われたはずの場所が、無垢の自然であるかのように見えているのだろうか。
《禅坊 靖寧》の施設は、県営ちひろ地区と北淡路土地改良区のちょうど狭間に位置している。ゆえにそこから見下ろすことができる景色はおおむねこのふたつの事業区域に属しているにもかかわらず、今その景色は造成された当初の姿をほぼ留めていない。その理由は、この地におけるみかん農業の定着が失敗したことにある。
これについては幾重もの要因が指摘できる。まずは、この時期のみかん農業をめぐる構造の激変である。
戦後、日本では果物需要が拡大したことで、みかんが収益性の良好な優秀作物として脚光を浴びていた。特に、1960年代から70年代初頭にかけての国営パイロット事業の計画・着工時期は、ちょうどみかん栽培面積が全国的に急増していた時期であり[★13]、北淡路土地改良区の計画もこの動向に連なっていた。この地を一面のみかん畑へと作り変えようとするこの試みは、たんに作物を変更するだけでなく、零細兼業農家が主体であったこの地を、豊かな自営農を中心とした共同体へと作り変えようとするものでもあった。
しかし1972年のグレープフルーツ輸入自由化を皮切りとして、70年代半ばに差しかかるとみかんの生産過剰が課題となり、価格が暴落。生産調整の対象となる[★14]。それまで優良作物であったみかんは、ちょうど作付けが始まろうとしたタイミングで、一挙に不良債権と化したのである。おまけに、この地がみかんの作付けに決して最適な土地ではなかったことも問題に拍車をかけた。淡路島北部の丘陵地帯は、いわば風の通り道であり、冬季になるとしばしば強風が吹きすさび、みかんの育成を阻害したという[★15]。苦労して育てたとしても、有名産地ほどのブランド力はなく、かつ価格も低落傾向であったとすれば、みかん畑への転換が進むわけはないだろう。
とはいえ、それだけの理由であれば、一面のみかん畑ではないとしても、何らかの農業がこの地で展開されていなければおかしいだろう。実際、北淡路土地改良区における開拓事業は、情勢に絶えず対応しようとしていた。75年、80年、87年と、約5年スパンで事業は計画変更を行っているが、その際には、みかん経営の不安定さを背景として、他の果樹(ぶどう・びわ)や野菜、飼料などの生産へと舵を切る記載が再三見られる[★16]。これらの転換は一定程度進んだ。それらの名残は、今でも北淡路土地改良区の現事務所が所在する、常盤ダムを中心とした地域で見ることができる。
だが問題は、こうした純粋に農業的なことがら以外にあった。さきほど私たちは、北淡路土地改良区が現在の淡路ICからほど近い場所にあるということを示した。それこそが農地転用が全く進まなかった理由なのである。淡路島北部は、日本列島改造ブームの中で、投機対象となったのだ。
ある新聞記事はその様子を以下のように記述している。
瀬戸内海の淡路島に、膨大な国費をつぎ込んで進められている農林省直轄事業のみかん畑用の造成地が、いつの間にか投機買いのエジキにされ、民間の別荘地に変身していた[……][昭和]45年に本四架橋(明石─鳴門ルート)が決定し、その連絡道路がパイロット地域を通過することになってから、にわかに土地ブームがわき起こった。京阪神の不動産業者などによる投機買いがはじまり、すでに造成された農地や、造成予定地が次々に手放され、造成前には3・3平方メートル300円だった地価が、いまでは1万2千円以上にハネ上がっている[……]土地買いに潜行している不動産業者の中には「瀬戸内海を眼下に見下ろす別荘地。本四架橋もできることだし投資にも最適」と売買を勧誘しているほど。
地元の農家の間でも「農林省のすすめでみかん経営をしようと思っていたが、昨年のように暴落したのでは先行きが不安だ。それよりも土地として売るか、値上がりを待っていた方が得をする」と、造成地をそのまま放置しているものが多い[★17]。
本四架橋のルート争い、つまり瀬戸内海のどこに橋をかけるかという論争は、1960年代に本格化しはじめた。その建設は、1969年の新全国総合開発計画において、3ルート(明石鳴門ルート、児島坂出ルート、尾道今治ルート)が明記されたことにより、着工時期や順番は不確かとしても、現実の計画として具現化した。その結果、70年前後から激化したのが、淡路IC近辺における土地投機であった。
もともとこの地域は明石市など本土側とのつながりが非常に強い地域だった。それが明石海峡大橋の架橋によって、実質的に本土と地続きになる可能性が浮上する。そのような状況のなか、利便性が高いにも関わらず未開発の別荘地として、北淡路土地改良区近辺が急激に投機対象となっていく。島外地主による投機目的での山林所有は、それ以前から、60年代中盤の県営ちひろ地区の開発の際にも問題となっていたのだが[★18]、この時期いっそう顕在化したのであった。
なぜ農業用地の開発であるにもかかわらず、このような用途外への流用を企図した投機が可能であったのか。これには開拓事業のスキームが関係している。本事業は、個々の農家が持っている山林(総面積500ヘクタール以上)に対し、国が75パーセントの事業費を負担したうえで、国営事業で開墾造成を行うというものであった[★19]。つまり、土地の所有権は農家にあるから、農家はそれを移転することができる。また、土地の用途変更はそこで農業が開始されたときになされる。よって、持ち主がそこで農業をしない限り、土地の品目は山林のままであり、農地法による規制がある田畑と異なり、開発用地として不動産市場への流通が可能なのである[★20]。
北淡路における総造成予定地654・36ヘクタールのうち、155・33ヘクタールが非農家のものであり、かつそのうち99ヘクタールは、事業開始後に農家からの転売を受け参加した人々が所有する土地であった[★21]。つまり、相当数の造成地が投機目的で転売されていたのである。この状況は当時の土地の相場にも反映されていた。会計検査院によると、1973年当時、土地価格は、田畑が1反(約990平方メートル)あたり30-40万円だったのに対し、山林は150万から200万円程度で流通していたという[★22]。この価格は上記の毎日新聞の記事と比べると幾分下振れしているが、いずれにせよ過疎地の山林に対し、一般につけられる値段でないことは確かだろう。
さらに興味深いのが、このような投機を行政が半ば誘導していたということだ。本四架橋のルート争いは、1972年の基本計画にて同時着工が明記された後、73年のオイルショックにより凍結。77年に児島・坂出ルートのみが着工するという流れを踏む。そのなかで、少なくとも60年代から70年代初頭にかけては、どこが早期着工するのかという問題が主たる論点として存在していた。
この状況において、兵庫県と神戸市がぶち上げたのが、淡路島北部への新関西国際空港誘致を含めた大規模な開発計画だった[★23]。これは空港誘致による架橋の早期化と、それにともなう淡路島北部における宅地開発を目指したもので、当然のことながら先述した『ひらけゆく淡路』の論調とは齟齬がある。だがこの時期、農業を基調とした開発計画と、架橋と空港誘致を基調とした開発計画は、いささか食い違う未来像を提起しながらも、同時進行的に行政から推進されていた。淡路島北部の宅地開発は行政当局から、夢物語的ながらも具現化しうる未来像として度々提起されていたのであり[★24]、ゆえにこの農業用地の買い占めは単なる投機筋の憶測に基づくものというより、淡路島北部をめぐる大規模な開発計画という確固たる後ろ盾があるものとして理解されていたと考えられる。
いずれにせよ、このような流れの中で当該地の農業用地としての開発は急激に困難となっていく。インフレを加味したとしても、数年で数十倍もの値上がりをし、近い将来宅地活用が見込まれると推測される場所で、新規に農業を始めるインセンティブはほぼないに等しいからだ。そもそも、当該地においては零細兼業農家が主であり、また彼らが現金収入を得る手段も海を渡れば──岩屋港から明石港へはフェリーで15分もあれば着くので、本土で就労することは容易である──豊富に存在した。ゆえに兼業農家たちは、開拓事業の思惑に何が何でもついていく必要はなかった。阪神都市圏に組み込まれようとしていた1970年代の淡路島北部において、農業を主たる収入とする自営農の育成という開拓事業の目的は、もはや現実味が薄いものであったのだ。
再利用される土地、発見される自然
土地ブームに沸いた淡路島北部だったが、結果としてこれはただの狂乱に終わる。投機目的で売買された土地は、実需へと転換されることはなかった。その多くが塩漬けされたのである。
今この地域を訪れてみれば、その風景はかつてそのような投機ブームが存在していたとは思えないほど長閑な山間部そのものだ。かつて投機対象となっていた造成地は、雑木林として復活し、開発全盛期の姿を見出すのが困難な場所も少なくない。そこに、いわゆる耕作放棄地も加わって、淡路島北部は、あたかも手つかずの自然が残っている地域かのように錯覚してしまう。だから、パソナが提示する「大自然」とは、ここ数十年の土地活用の失敗の結果として生じたものなのである。
しかし、なぜ土地の塩漬けが生じたのか。まず、周知の事実として、明石海峡大橋の架橋が、1998年と大幅にずれ込んだということが指摘できる。1960年代後半から70年代前半にかけて、明石架橋は早急に実現しうるものとして、淡路島の人々に対し再三提示された。しかしそれは最終的に、オイルショックに伴う総需要削減政策という外部的要因により延期され、着工は1986年となる。つまり、約15年に渡って人々の期待はお預けとなったのである。
私たちは淡路島北部の山林の価格が、架橋構想に伴い暴騰したことを見てきたわけだが、であるならばその所有権を架橋前に手放すことは心理的にも実益的にも困難だろう。宅地開発が念頭に置かれている以上、山林から農地に転換してしまうこともできないとなれば、塩漬けにする他ない。
ただし、そもそも当該地域において農業従事意欲が低落傾向にあったという事実を無視するべきではない。淡路島北部における農業従事者の多くは兼業農家であり、阪神圏での賃労働従事に家計の大半を依存していた。つまり、彼らにとって農業とは自家消費を主目的としたものであり、家計を成り立たせるうえで必ずしも必要なものではなかった。
先に引用した記事にて、会計検査院の検査官は、しばしば開拓地の未利用が問題となるが、その理由は労働力の過剰計上にあると指摘している。つまり、農業を継がせる気のない息子娘が、書類上は労働力として計上されて事業が遂行されるが、実際には彼らは都市部へ働きに出てしまうので、管理不良になる傾向があるというのである[★25]。この指摘は淡路島北部に限ったものではないが、都市部への便がより良い北淡路であればこそ、この問題は深刻であったと考えておそらく差し支えない。事実、県営ちひろ地区や北淡路土地改良区に関する報告書では、しばしば農家の離脱や土地の管理不良が指摘されている[★26]。
このように、北淡路の開拓パイロット事業は、関西圏における大規模インフラ整備に伴う都市システムの改変と、それに伴う人々の期待の変化によって、挫折に追い込まれた。結果として残されたのは、造成されたものの利用されていない多くの未利用地である。1984年にこの地域に開発事業の事務所所長として配置された高橋三夫は、その状況を「赤茶けて空しく立つスプリンクラー、錆びた鉄柱に垂れ下がる喪服のようなビニールネット、草むらに横たわるカラタチか、スダチにかえった樹」と形容している[★27]。
もちろん、この状況が放置されたわけではない。観光農園化や新たな指定作物の追加など、関係者が不断の努力をしたことは明らかだろうし、この地域が1988年の淡路島リゾート構想において「丘陵観光農業ゾーン」として指定されたり(ただし、このリゾート構想は地元住民の反対やバブル崩壊によって、92年に見直しの対象となり、一部事業を除いてなし崩し的に雲散霧消してしまう)、99年に設立された兵庫県立淡路景観園芸学校の校地として選定されたりしたことは、その努力を明確に示している[★28]。しかし、これらの取り組みは、結果として構造的な問題である、担い手不足を解消するものではなかった。
このような開発停滞の文脈を踏まえるなら、2008年にパソナが当地域の農地を借受、農業事業に参入したことがどれほど行政にとって意義あることだったかがわかるだろう。担い手不足・高齢化が慢性化していた当該地域において、外部からの企業参入は喉から手が出るほど欲しいものであり、その最初の実績を作り出したのがパソナであった。実際、2022年度の実績を見ると、北淡路土地改良区における農業参入事業者に貸付された面積は66・9ヘクタール、見込みとして36・1ヘクタール、計103ヘクタールが計上されており[★29]、これは当該区の総農地面積が339・37ヘクタールであることを考えると相当のインパクトである[★30]。今、北淡路土地改良区の真ん中を突っ切る県道157号線をドライブすると、真新しい施設を伴った農地をいくつか見ることができるが、その多くはこうした外部の事業者参入によって実現している。
しかし、当然のことながらこれですべての耕作放棄地がなくなったわけではない。北淡路土地改良区においては2022年度において未だ86・71ヘクタールの耕作放棄地があり、また県営ちひろ地区については具体的な統計がないものの、相当数の耕作放棄地が残されていると推定される[★31]。特に、《禅坊 靖寧》から見える直下の景色の部分は、ちょうどこの両区双方の耕作放棄地が集中して所在するエリアで、近年の農業参入がほぼ影響していない。皮肉めいた話だが、この地域における農業の失敗こそが、高級リトリート施設の価値たる、「大自然」の眺望を可能とする条件だったのだ。
地域開発における自然の生産
ここまで私たちは、高級リトリート施設の価値を支える自然美が、過去の地域開発の失敗の帰結として成立したものであることを確認してきた。この事実は、淡路島に「無垢の自然」をみてしまう一般的な観光客の認識を裏切るものではある。だが、これだけの説明であれば、本稿はただ単に淡路島北部の歴史に関するトリビアルな知識を提供するものに過ぎない。この事例を通じて、私たちはどのような知見を得ることができるのだろうか。
まず、この淡路島北部における地域開発の歴史は、現代社会における開発の重層性を指し示している。冒頭で示したようにパソナによるこの地への進出は大規模かつ面的なものであり、かつその開発(のうち一部)は緑に包まれた自然豊かな地を切り開くことで成立している。このような現状からは、一見すると純粋な自然を破壊し、自らの利益のために観光施設を立地させる大規模事業者の姿が浮かび上がる[★32]。この見方からすれば、私たちは、あるいは行政はなぜこのような企業の開発を食い止められないのか、という批判が出てくることだろう。
だが、論じてきたように、この地におけるパソナの事業は、一貫してかつての行政主導による大規模開発の痕跡が残る地で行われている。つまり、見方を変えればそれはかつての大規模開発に伴う過去の失敗の尻拭いをしているとも取れるのである。一面のみかん畑を作り出すことが夢見られ造成された地が、時間の経過とともに雑木林に戻り、ヨガや坐禅をする人々の目を楽しませる「大自然」として再定義される。このとき、私たちは先述した単純な見方とはいささか異なる形で、この地の開発が動いていることに気づくはずだ。パソナによる一見無秩序にも見える大規模な開発行為ですら、戦後日本において積み重ねられてきた開発の波に強く拘束されている。ここで商業的価値の一翼をなしている自然は、無垢なものという私たちが一般に持つ自然に関するイメージを裏切り、過去の人々の開発の手垢がついたものとしてしか定義されえない。
以上の議論を踏まえ、私たちは淡路島北部における開発のプロセスを、近年興隆しつつある都市政治生態学の議論と関連付けることができる。詳細については紙幅の都合もあり他の著者の議論に譲るが[★33]、ここで重要なのは、「自然」と「都市」、あるいは「自然」と「人間社会」の二項対立を前提してきた従来の地理学・社会学などを批判した新しい潮流の研究を参照することで、この淡路島北部における開発の歴史を、「新たな「自然の生産」を介した関西圏における都市化プロセス」として理解可能になるという点にある。つまり、それはこの地が、度重なる開発を通じて関西圏の都市システムに組み込まれる中で、新たな自然が生産されていく過程としてみなせる。
そもそも、この地における開発行為は、海を隔てられてはいるが、都市化された地域に近接しているという地理的特質と常に関連してきた。北淡路開拓事業の行く手を阻んだのはこの特質であり、かつ、それは時代を経るごとにこの地が関西圏という都市システムと不可分の関係を結んでいくことでより強固になっていった。出稼ぎと兼業農家を主体とした家計を、大規模果樹園を主体とした専業農家に置き換えるという開発の目的そのものが、都市での賃労働を求めていた兼業農家の思惑によって掘り崩される。そして、海という地理的隔壁を無効化する明石架橋構想が具現化されるやいなや、実質的に地続きの場所として、この地は「農地」ではなく「宅地」のための場所として理解され、投機買いが横行する。人々の糧として生み出されようとしていた農地は、都市化により、宅地化されるべき対象として捉えられていったのだ。
しかし、この都市化の過程は、単純な自然の撲滅を意味するのではない。関西圏という都市システムの辺縁部である淡路島北部においては、他方でこの地に対し、「豊かな自然」が存在することが絶えず望まれたからだ。北淡路開拓事業が1980年代以降方向転換を余儀なくされる中で、観光という解決策が打ち出されたのはこの文脈による。60年代後半から70年代前半における関西新国際空港誘致が頓挫した後、淡路島の開発は「〝花とミルクとオレンジ〟に象徴される[……]全島産業公園化」という想像力を脱することがなかった。ゆえに、この場所の開発は、都市化の圧力に絶えずさらされながらも、都市住民にとって魅力的な自然を生産しようとしてきたのである。今行われている、北淡路土地改良区への企業参入と自然に価値を見出すリゾート開発は、これまでの営みが行政にとって望ましい方向に結実しつつあることを意味している。
パソナという主体の活動は、この文脈に位置づけられねばならない。彼らの開発行為については様々な論点がありうるが、本稿の議論からすれば彼らの活動は、特に《禅坊 靖寧》のそれに注目するのならば、この地に新たな自然を生産しようとする実践のひとつとみなせるだろう。眼前に広がる耕作放棄地を「大自然」と呼称し、自らが運営する施設の売り物とする。この過程において土地が抱え持つ歴史は当然のことながら抹消されているのだが、本稿はこのことを批判したいのではない。このような抹消が、この土地において「自然の生産」と「都市化」がいかに同時に進行してきたのかを示している、と指摘したいのである。
都市の辺縁部でありながら自然豊かであること。淡路島北部は、このふたつの価値をどのように具現化するのかという点において、絶えず揺れ動いてきた。その揺れ動きの帰結が北淡路土地改良区をめぐる顛末であったわけだが、《禅坊 靖寧》はこの失敗をむしろ売り物へと変えることに成功した。開発に失敗した土地の景観を、彼らは高級リトリート施設の価値を高める資源のひとつとして捉え返したのである。
もちろん当然のことながら、パソナの実践によってこの地に「大自然」が創造されたわけではない。それはあくまでも、大都市近郊部という観光施設が立地しやすいこの場所に付けられた、新たなキャッチコピーにすぎない。
些か逆説的だが、この場所が盛んに自然豊かな場所として喧伝されるようになったのは、そこが都市化され、関西圏に完全に組み込まれた空間となったがゆえなのである。そしてこの都市化のプロセスは、「勤労者及び青少年の健全なレクリエーション活動の基地」としての「全島産業公園化」を謳った、1960年代の総合開発計画の延長線上に存在している。ここに、私たちは戦後日本における地域開発史の一つの帰結を見て取ることができるだろう。無垢な自然、都市に疲れた人々がリフレッシュする場としての「大自然」は、絶え間ない都市化の中で生産されてきたものとして捉えられねばならないのである。
しかし、このような無垢な自然像は、どこであろうと人々の中に喚起できるものではない。観光施設が立地する場所が特別なところだと思わせるためには、そこがどのような経緯をはらんでいようとも、実際に自然豊かな場でなくてはならない。だから、鬱蒼とした雑木林に囲まれながら、なぜか高規格の道路が走っているこの北淡路土地改良区近辺が、こうした観光施設の立地先としてうってつけであったことは言うまでもないだろう。過去、一大農業用地の開発に失敗したこの地は、その失敗ゆえに高級リトリート施設が立地するに適した条件を整えていた。
過去に生産された自然は、新たな自然を生み出す土台となる。しかしそれは独立したプロセスではなく、絶え間ない開発とそれに伴う都市化を契機として生成されている。「自然」と「都市」は二項対立ではなく、開発という人々の諸実践を介し、相補的に形作られるものなのである。淡路島北部のある土地が辿った数奇な歴史は、この現代社会における新しい自然の産出を、その長閑な景色の中に物語っている。
謝辞
インタビューに協力頂いた、淡路市、および淡路市住民の方々に深く感謝いたします。 本研究はJSPS科研費21J00046の助成を受けたものです。
★1 大阪・関西万博におけるパソナのパビリオン「PASONA NATUREVERSE」については、以下で取り上げている。林凌「ヴィジョンなき〈未来〉──脱政治実践としてのパソナパビリオン」、酒井隆史、山下雄大編『エキストリーム・センター』、以文社、2025年。
★2 兵庫県「総合特区指定申請書」、兵庫県ホームページ、2011年、18、21頁。URL=https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk06/documents/tokku_sinseisyo.pdf
★3 兵庫県「県立淡路島公園における民間事業の企画提案募集」、2013年。
★4 こうしたパソナによる事業展開の詳細と、その兵庫県がこれまで行ってきた事業との関係については、以下を参照されたい。林凌「新自由主義地域──パソナ・淡路島・地域開発」、『アレ』11、2023年。林凌「新自由主義的『官民連携』の条件──兵庫県淡路島における地域開発の系譜から」、『社会学評論』74(4)、2024年。
★5 「パソナ、淡路島着任の社員が1300人に 当初目標達成」、日本経済新聞、2024年7月23日。URL=https://www.nikkei.com /article/DGXZQOUF2396Y0T20C24A7000000/
★6 《禅坊 靖寧》公式ホームページの紹介文より。以下、[ ]は引用者。URL=https: //zenbo-seinei.com/
★7 神戸新聞社『兵庫の街道』、のじぎく文庫、1974年、360頁。
★8 兵庫県企画部総合開発課『総合開発の理論と実際』、兵庫県、1960年、26頁。
★9 兵庫県『ひらけゆく淡路 淡路地域総合開発計画書』、兵庫県、1961年、1頁。
★10 同書、22頁。
★11 農林省農地局開墾建設課『農用地開発事業総覧』、土地改良新聞社、1970年、55頁。
★12 なお、本資料については北淡路開拓建設事業の公式記録である『事業誌 北淡路』に記載があるものの、その存在を公文書館や図書館などで確認できていない。ただし、兵庫県においては戦後行政史に関する公文書の資料保存が網羅的でなく、度々散逸していることを鑑みると、この事実がその資料の実在を疑うべき確固たる根拠とはなり得ない。今後の資料調査を期待されたい。『北淡路の開発』については以下を参照。近畿農政局・北淡路開拓建設事業所『事業誌 北淡路』、近畿農政局・北淡路開拓建設事業所、1990年、32-34頁。
★13 清水徹郎「みかんの需給動向とみかん農業の課題」、『農林金融』55(8)、2002年、4頁。
★14 近畿農政局・北淡路開拓建設事業所『事業誌 北淡路』、139頁。清水徹郎「みかんの需給動向とみかん農業の課題」、5頁。
★15 近畿農政局・北淡路開拓建設事業所『事業誌 北淡路』、162頁。同様の意見は、2023年1月13日に行った県営ちひろ地区関係者へのインタビューでも聞くことができた。
★16 同書、59頁。
★17 「国の開拓地も投機のエサ」、『毎日新聞』、1973年1月31日。
★18 農林省構造改善局計画課『農用地開発事業の実態と問題点』、共進、1974年、40頁。
★19 榊原昭「北淡路開拓建設事業について」、『会計と監査』24(2)、1973年、13頁。
★20 会計検査院農林検査第二課「北淡路開拓建設事業について」、『会計検査資料』9(3)、1973年、7頁。
★21 榊原昭「北淡路開拓建設事業について」、14頁。
★22 会計検査院農林検査第二課「北淡路開拓建設事業について」、8頁。
★23 兵庫県『関西新国際空港の構想について』、兵庫県、1967年。都市科学研究所『関西新国際空港建設に伴う土地利用調査及び地域計画構想研究報告書』、都市科学研究所、1968年、など。なお、この淡路島北部における新関西国際空港誘致を巡る顛末については、以下を参照のこと。林凌「いかにして空港誘致は挫折したのか──関西国際空港(淡路国際空港)の用地選定過程における住民運動の役割」、『ソシオロジスト』28、2026年。
★24 たとえば1967年5月号の『調査月報』──当時神戸市が肝いりで発行していた、明石架橋並びに淡路島への国際空港誘致のための技術資料や具体的な建築案などが掲載されている雑誌である──においては、梅棹忠夫・小松左京・加藤秀俊と言った文化人と、工学系大学人ならびに神戸市職員らの対談記録が掲載されている。ここで梅棹や小松らは神戸市の意を組みつつ、おそらく大阪万博などを念頭に置きながら、淡路島が架橋に伴い住宅地化していくであろうことを好意的に予測している。梅棹は言う。「淡路島が道路で結ばれている限り、通勤者が住む住宅じゃなしに、高級住宅街として発展していく……それを目的に橋をかけるわけにも行きませんけれども、淡路島の問題がたいへん基本的に変わってくる」。梅棹忠夫ほか「(2)『港湾と地域開発』懇談会」、『調査月報』33、1967年、103頁。
もちろんこの雑誌を多くの人が読んでいたわけはないが、こうした論調は、当時の架橋に対する期待を一種象徴的に示していると言えるだろう。
★25 会計検査院農林検査第二課「北淡路開拓建設事業について」、10頁。
★26 近畿農政局・北淡路開拓建設事業所『事業誌 北淡路』、139-149頁。兵庫県農林水産部農地整備課編『兵庫の土地改良史』、兵庫県、1990年、1259頁。
★27 近畿農政局・北淡路開拓建設事業所『事業誌 北淡路』、198頁。
★28 兵庫県『総合保養地域の整備に関する基本構想:淡路島リゾート構想』、兵庫県、1988年。石原憲一郎「造園教育の新たな展開について──兵庫県立淡路景観園芸学校の開校について」、『公園緑地』60(4)、1999年。
★29 北淡路土地改良区『北淡路でチャレンジ農業ビジネス 北淡路先端ファームの形成』、北淡路土地改良区、2022年、4-5頁。
★30 2023年1月13日の北淡路開拓事務所関係者へのインタビュー時に頂いた、質問回答書に基づく。
★31 瀬尾綾子、美濃伸之、浅田増美、一ノ瀬友博「地理情報システムを用いた兵庫県淡路町の土地利用変遷の分析」、『農村計画論文集』3、2001年、171頁。
★32 なお、この発想が全く間違いだというわけではないことは付記しておきたい。たとえば、《禅坊 靖寧》などの観光施設の立地の際に問題となったのは、当該施設の排水を農業用水となるため池──県営ちひろ地区開発の際に整備したものである──に流してよいのかというものであった(県営ちひろ地区関係者へのインタビューより)。また、淡路島の北端に存在するパソナが運営するホテルである《望楼 青海波》や《禅坊 靖寧》などの開発は、兵庫県レッドデータブックに記載されている植物群落を破壊しているのではないかとの指摘を地元住民から受けている(2025年2月20日と5月22日に行なった淡路市住民インタビューより)。こうした意見に対し、パソナは下水道施設の追加など、一定の配慮をしているものの、総体として、地元住民との対話にそれほど積極的ではないようである。
★33 淺野敏久、中島弘二「自然の地理学──自然と社会の二元論を越えて」、淺野敏久、中島弘二編『自然の社会地理』、海青社、2013年。遠城明雄「自然・都市化・インフラストラクチャー──「都市政治生態学」に関する覚書」、『史淵』153、2016年。馬渡玲欧「惑星都市理論における『自然の生産』の位相」、平田周、仙波希望編『惑星都市理論』、以文社、2021年。


林凌
『ゲンロンy 創刊号』
- ついに発売!『ゲンロンy 創刊号』はウェブでも読める
- 【全文無料】『ゲンロンy 創刊号』編集後記|植田将暉+五月女颯+森脇透青+栁田詩織
- ヒューモアとしての菜食主義|河村賢
- 簒奪される空間体験|四宮駿介
- 口腔表現のルネサンス──なぜ若者は口で音楽を奏でるのか?|杉村一馬
- 共病のすすめ──フリーダ・カーロと病いを生きること|のしりこ
- 『ゲンロンy 創刊号』投稿論文──総評・投稿作品一覧
- 瀬戸内海に権利はあるか──つくられた海と「自然の権利2.0」|植田将暉
- 無垢なる自然よ現われよ──パソナの地域開発と淡路島|林凌
- 四国には日本のすべてがある|三宅香帆+谷頭和希+植田将暉
- 政治認識論の意義 惑星的なものにかんする覚書(6)|ユク・ホイ 訳=伊勢康平
- デジタル帝国と電車男──専制と民主主義のはざまで|李舜志
- はてなき天下の夢──現代中国の「新世界秩序」について|伊勢康平
- 陰謀論を育てる──ジョージアのディープな夢|五月女颯
- 新しい帝国とその時代|石橋直樹+伊勢康平+五月女颯+森脇透青+植田将暉
- 聖なるルーシと狂った夢──戦時下のロシアから|大崎果歩
- 天球から怪物へ──国学の図像的想像力|石橋直樹
- フィンガーメイド時代の芸術作品|布施琳太郎
- 陰謀の手応え──擬人の時代について|森脇透青
- 指先から考える──導入のための短い会話|森脇透青+布施琳太郎+石橋直樹+植田将暉
- タイのキャラクターとマイペンライにまつわる覚書、2025年版 タイ現代文学ノート #12|福冨渉
- 斉藤さんへ|伊藤亜和
- AIにメンケアされる私たち──感情労働はいかに代替可能か|佐々木チワワ
- The Streets Are Alright.──ストリートは反革命の場となるか|中村拓哉
- 令和カルチャーって、なに|森脇透青+山内萌+吉田とらじろう+植田将暉
- かわいいDIY|山内萌
- 【全文無料】創刊にあたって|『ゲンロンy』創刊号編集委員




