瀬戸内海に権利はあるか──自然の権利2.0と憲法学の想像力|植田将暉
瀬戸内海は、いちど保護文明区域として設定されようとしたことがある。
1964年に発表された文書によれば、香川県高松市で開催されたある会議において、以下のような発言が記録されている。
今日みなさんに集まっていただいたのは、未来の立場から計画された瀬戸内構想に、みなさんの質問のママ支持を得たいからであります──。[……]みなさんは〝文明の瀬戸内的状況〟が、どんな未来的価値をもつか、考えた事がおありでしょうか?[★1]
発言者はつづけて語りはじめる。先史、瀬戸内海は陸地であった。植物が生い茂り、ナウマンゾウやオオツノシカたちが悠々と歩き、そして原日本人(明石原人)たちが暮らしていた。そこに突如、海水が流れ込んでくる。轟く奔流、鳴り響く動物たちの阿鼻叫喚。日本先住民の秘密は海底へと失われていった……。そうして述べられた先に、ひとつの文明論が開陳される[★2]。
だが、歴史はそれだけではない──この瀬戸内沿岸は、先史時代よりひらけ、大陸との交流がはじまって以来、日本最古の文化圏がここに成立したのであります。爾来千数百年、瀬戸内はそれ自体もっとも古い歴史となりながら、何一つ過去化することなく、現代にいたるまで生きつづけて来た。その事はまた、瀬戸内の、もっとも高い、文化的ポテンシャルをうみ出したのであります[★3]
瀬戸内海は歴史をつうじて、大陸から日本列島へと、知識文化がもたらされるときの通り道となってきた。そして瀬戸内海地域(瀬戸内)じたいもまた、ひとつの文化圏をかたちづくるようになった。瀬戸内海という文明は、そのなかに悠久の歴史をたたえながら、なおかつ、生きているものとして、その文化をさらに繁栄させているのだ。だからこそ未来人シャロウェルは言った。
みなさん──私は瀬戸内を、保護文明区域の中にいれたいと思います……[★4]
ひとつの海、複数の瀬戸内海
冒頭にいくつか抜粋してきたテクストは、1964年1月に『放送朝日』誌上に連載された、作家・小松左京「エリアを行く」の一節である。小松が日本各地を旅しつつ紀行文をあらわすという企画。その最初の旅先が瀬戸内海だった。
重要なのは、小松があらわした紀行文が「SFルポ」と称されていたことだ。ルポはわかるとして、なぜSFなのか。それは、旅はほんらい自由なものだから。心のおもむくままに行く先を決め、足を運ぶ。にもかかわらず紀行文を書こうとすると、たちまち調査になってしまう。その窮屈さから逃れるために小松が編み出した形式が「SFルポ」だった。
SF作家の想像力を駆使し、フィクションとして紀行文をつくりだす。そこに織り込まれたさまざな「ヨタ話」のおもろさが、作家の苦痛をまぎらわせてくれる。そうやって書かれた瀬戸内海紀行は、のちに『地図の思想』という単行本に収められている[★5]。
そのはじまりはこうだ──あるとき小松は、大阪・西成区山王の居酒屋で未来人2世の青年シャロウェルに出会う。青年はおもむろに瀬戸内海の地図を取り出し、ここで「タカマノハラ計画」をはじめたいと語りだす。
記紀神話において天津神たちが住むところ、高天原。そこから瓊瓊杵尊が降り立った地が、九州・宮崎県の高千穂と言われている。小松とシャロウェル、そして居酒屋の中居・ウメは連れ立って、一路、西へとむかう。
ウメは宮崎に生まれた女性であった。そこから山口、広島、香川、大阪へと流れ着いた。瀬戸内海はそのような移動するひとたちを生みだし続けてきた[★6]。大阪に生まれ育った小松は、その回想を聴きながら感慨にふける。
大阪にあって思う時、瀬戸内は異郷ではないのだ。大阪は瀬戸内の終点であり、大阪自体が瀬戸内にふくまれ、瀬戸内はまた、阪神の延長であり──それは関西の「内面性」の一半を形成しているような気がする。関西には二つの顔がある。一つは歴史的な外交性を含みながら東へむけられ、もう一つは水入らずの親密さをこめて西へむけられ──瀬戸内を通じて、九州、大陸をむいているのだ。東へむかう時、滋賀をすぎたとたんに早くも感ずる一種の異郷感は、瀬戸内ぞいに西へむかう時はほとんど感じられない[★7]。
一行は高千穂にしばらく滞在する。未来人は神代の史跡を探索し、ウメは天の岩戸でストリップを捧げ、そして帰路につく。高千穂からバスで山を下り、瀬戸内海沿いの街・延岡に出る。鉄道で宮崎と大分を北上し、福岡の門司から山口の下関へと海をわたる。そして広島、そして尾道へと海路を行く。神武東征をなぞる道筋である。
なじみの薄い読者のために瀬戸内海の地理を補足しておけば、おなじ沿岸部でも九州(延岡から門司)と中四国(この場合では下関から尾道)は、その風景がかなりのていど異なっている。いずれも海岸線は、山がそのまま海のなかに落ち込んでいく地形である。リアス式海岸と呼ばれる、こみいった入り江と突きだした岬。そのあいだに集落や畑、船着き場がつめこまれている。だが、そのような瀬戸内海的な風景は、より細かな地域ごとにその表情を変えていく。目立つちがいは、島の散らばりかただろう。延岡から大分にむかう日向灘沿いは、島が海岸ちかくにまとまっている。対して、下関を過ぎて広島や尾道のほうにむかえば、海域のすみずみに島が散らばっている。いわゆる「多島海」である。
その多島海に、ちょうど小松はさしかかっていた。船は山口県・周防大島のわきを抜けて、厳島を通り過ぎ、広島へ着く。周防大島からその対岸、四国・松山にかけて、連なるように島々がならんでいる。だが、それははじまりにすぎない。広島湾に入れば、江田島や倉橋島などの大きな有人島がひろがっている。その奥には戦艦大和を生んだ軍港・呉をかかえ、島は軍事都市の後背地として栄えてきた。さらに東へ尾道のほうに進んでいけば、芸予諸島と呼ばれる数百におよぶ島々が待ち受ける。かつて村上水軍と呼ばれた海賊たちのいた根拠地だ。
穏やかな水面に、いくつもの島が散らばって浮かんでいる風光明媚な多島海域。その景色をみて、しかし小松は、「ほとんど嘔吐をもよおさんばかり」の状態になる[★8]。それは船酔いではなかった。瀬戸内海のなかに「すさまじい人工性」を見いだし、圧倒されたのだ[★9]。だが、なぜ海が人工的なのか。
ここまで、瀬戸内海という海があたかも自明に存在しているかのように語ってきた。だが、それは簡単なことではない。瀬戸内海はひとつではないからだ。
ためしに、法律上の定義を確認してみよう。日本国政府が提供している法令閲覧・検索システム「e-gov法令検索」に「瀬戸内海」というキーワードを打ち込んでみる[★10]。179件がヒット。いちばん古いものは会社名の一部だから、2番目に古い「漁業法」(1949年、以下制定年)を見てみると、そこに抜粋表示されている条文(60条3項1号)はこのとおり。
瀬戸内海(第152条第2項に規定する瀬戸内海をいう。)
ここでは定置漁業のうち瀬戸内海でさかんになされる「ます網漁業」について規定されていて、海の定義自体は、ほかの条項でなされるらしい。なので、同法152条2項を確認しにいくと、つぎのようにある。
「瀬戸内海」とは、我が国の排他的経済水域、領海及び内水(内水面を除く。)のうち[……]瀬戸内海の海域(これらに隣接する海域を含む。)で政令で定めるものをいう。
この場合、政令とは「漁業法施行令」(1949年)のことである。その16条に、ようやく以下のような瀬戸内海の定義がみられる。
次に掲げる直線及び陸岸によつて囲まれた海域
① 和歌山県紀伊日ノ御埼灯台から徳島県伊島及び前島を経て蒲生田岬灯台に至る直線
② 愛媛県佐田岬灯台から大分県関埼灯台に至る直線
③ 山口県火ノ山下潮流信号所から福岡県門司埼灯台に至る直線
なるほど、明瞭だ。四国と紀伊半島のあいだの海峡(紀伊水道)に突きだしたふたつの半島。そして四国と九州のあいだ(豊後水道)に突きだしたふたつの半島。そして本州と九州のあいだ。その3つのポイントに線を引けばあらわれてくる領域。それが「瀬戸内海」なのである。
しかしすぐさま、もうひとつの瀬戸内海があらわれる。1977年に制定された「領海及び接続水域に関する法律」(領海法)に、つぎのようなテクストがある(2条1項)。
基線は、低潮線、直線基線及び湾口若しくは湾内又は河口に引かれる直線とする。ただし、内水である瀬戸内海については、他の海域との境界として政令で定める線を基線とする。[傍点は引用者]
領海法に登場する「瀬戸内海」もまた、具体的な定義は、政令のなかでなされている。同年に制定された「領海及び接続水域に関する法律施行令」(領海法施行令)のなかで、他の海から瀬戸内海を切りだす「基線」は、このように定められている。
第1条 領海及び接続水域に関する法律(以下「法」という。)第2条第1項ただし書の政令で定める線は、次のとおりとする。
1 紀伊日ノ御埼灯台(北緯33度52分55秒東経135度3分40秒)から蒲生田岬灯台(北緯33度50分3秒東経134度44分58秒)まで引いた線
2 佐田岬灯台(北緯33度20分35秒東経132度54秒)から関埼灯台(北緯33度16分東経131度54分8秒)まで引いた線
3 竹ノ子島台場鼻(北緯33度57分2秒東経130度52分18秒)から若松洞海湾口防波堤灯台(北緯33度56分28秒東経130度51分2秒)まで引いた線
経緯度情報が加わっていることだけが注意すべき点ではない[★11]。1項(東端)と2項(南端)の規定はふたつの政令で共通している。だが3項(西端)はどうか。漁業法施行令は「山口県火ノ山下潮流信号所」と「福岡県門司埼灯台」のあいだを直線でむすぶ。領海法施行令は山口県の「竹ノ子島台場鼻」から福岡県の「若松洞海湾口防波堤灯台」のあいだに線を引く。
最初のふたつは関門海峡のちょうどまんなか、関門トンネルの近くに位置している。対して、領海法施行令が定める2点は、関門海峡をちょうどその外(対馬海峡方面)に抜ける場所に置かれている。それぞれ8─10キロメートルちかく離れているのだ。短い海峡のなかであるとはいえ、ひとつの海の境界線が、おなじ日本法のなかで揺れ動いている。
ちなみに、一国の国内法のなかでさえ複数の定義があるのだから、とうぜん国際的にはさらに異なる定義もあらわれる。海図をつくる際の国際的なガイドラインとして国際水路機関(IHO)が1953年に策定した『大洋と海の境界』(第3版=現行版)に「瀬戸内海」が定められている。いわく、その西端は以下のとおり。
下関海峡において、九州の名護屋岬(東経130度49分5秒)から、馬島と六連島(北緯33度58分5秒)を経由し、本州の村崎ノ鼻(北緯34度1分)に至る線[★12]
おそらく地図にプロットしてみればよくわかるだろうが、瀬戸内海の境界線はこの国際文書において、漁業法施行令よりも領海法施行令よりも、さらに外側に、関門海峡から張り出すように引かれているのである。
なお、同文書によれば、瀬戸内海の東端は「本州の田倉崎(北緯34度16分)と淡路島の生石鼻、同島の潮崎(北緯34度11分)と四国の大磯崎を結ぶ線」にあるとされる。それは紀伊水道の北端である。ふたつの政令では、東端は共通していた。だが『大洋と海の境界』においては、そこから約40キロメートルも北上したところに瀬戸内海の境界線がもとめられる。瀬戸内海は、みたび出現するのだ。
瀬戸内海はひとつではない。考えてみれば当然なことだ。海に線を引くことが物理空間においては不可能だからである。いくら水面に線を描いたとしても、すぐに平らに消えてしまう。だからわたしたちは、ある海を名指そうとすれば、政治的・法的な合意によって「人工的」にそうするほかないのである[★13]。
海は自然のものである。境界はない。それゆえ瀬戸内海は、そう名指されるときから自然に人工的であることを運命づけられているのである。
瀬戸内海未来主義
だが、どうして瀬戸内海なのか。瀬戸内海とはなにかを問うまえに、なぜわたしたちは瀬戸内海なる海域について考えねばならないのかをはっきりさせておく必要があるだろう。この点、未来人シャロウェルであれば、「まず第一に、歴史の古さです……」と言う。
広島の沖合いで多島海の人工性に圧倒された小松左京一行は、そのあと尾道から芸予諸島を抜けて、四国は愛媛県の今治市につく。そこからは平野を一直線に抜けて、そのさきには香川県高松市が目的地となる。高松で、シャロウェルは会議を招集する。それこそが、「未来の立場から計画された瀬戸内海構想」について討論するための会合であった。
そこでシャロウェルが打ち出した構想については、すでに冒頭に紹介したとおりである。シャロウェルは、その歴史観から瀬戸内海一帯をとらえ、そこに見いだされるひとつの文化圏を「保護文明区域」に指定し、保存しようとする。未来人いわく、
直線的に文明定住の時間量だけを考えて見ますと、二十世紀まで二千年にわたる日本文明の歴史において、東日本の存在はその三分の一以下の期間しかしめておりません[……]この事を理解していただければ、私が二十世紀の時点にたって日本を考える時、西日本をもって日本を代表させ、近畿──九州圏を両端とする瀬戸内をもって西日本を代表させる考え方を、大体のみこんでいただけると思います。つまり──私どもの歴史概念では瀬戸内こそが日本であると考えているのであります[★14]
わたしたちが瀬戸内海について考えねばならないのは、未来の見地からみて、瀬戸内海地域こそが日本だからである。端的な理由だ。これが瀬戸内海未来主義の核心である[★15]。
だが、小松左京にみられる「瀬戸内海未来主義」は、瀬戸内海をたんに賛美するものでもなかった。この点に注意をうながしておきたい。
造園学者の西田正憲が論じてきたように、瀬戸内海はかねてより風光明媚な地域として知られ、またその明媚さを楽しむことによって「風景」という概念そのものがわたしたちのなかに形づくられてきた[★16]。だが、その風景の誕生は、一方では、日本の近代化にともなって神戸や大阪から瀬戸内海を経て朝鮮半島や中国大陸にむかう外洋航路の利用が増えたという未来主義的な要因にささえられていたが、他方では、その具体的なあらわれをみれば、たとえば万葉集を参照してそのすばらしさを詠うような復古主義的な態度も少なくはなかった。いまも瀬戸内海の沿岸地域には柿本人麻呂や山部赤人らの歌碑があちらこちらに設けられ、その景観の美しさをたたえている。
たしかに小松は本稿冒頭で引いたように、未来人シャロウェルをして、瀬戸内海は「何一つ過去化することなく、現代にいたるまで生きつづけて来た」と言わしめる。だが同時に、自分自身の感情として、このようにも書く。
正直いって、この瀬戸内の旅は、当初から──というのは、その第一歩をあの高千穂に印した時から、奇妙にいらだたしい気持につきまとわれていた。その気持が下関から厳島、広島へと進むにつれて、次第にはげしくなりはじめ、多島海域にはいるとともに、まったくたえがたいまでになってきた。チマチマとした島々──島かと思えば山なり、山かと思えば岬なり、の光景をながめた時、私はほとんど嘔吐をもよおさんばかりだった[★17]。
多島海をみてもよおさんばかりになった嘔吐の原因が「すさまじい人工性」にあったということは、すでに触れたとおりである。だがその「人工性」は、小松にとって、わたしたちが見てきたような瀬戸内海という海域法的擬制をつくりだすの人工性とはべつに、もっと具体的に、多島海的景観のなかに見いだされるものだった。
小松はつぎのようにその理由をまとめている。
まず瀬戸内では、自然そのものが、複雑微妙な風景の起伏を見せるようでいながら、その実まったく同じパターンのくりかえしなのだ。海辺にせまる緑の山、山と同じような形の島や岬、入江、湾、白砂、青く凪いだ海、早い潮流──どこもかしこも──そしてその同じ連続模様の微細な一単位の中に、まったく同じような人間の設営がある。
[……]神武天皇や神功皇后や弘法大師の遺跡や伝説を、また海賊や龍宮や水神や海の主の伝説を、いったいいくつの島や海岸できかされたろう? 源平や戦国の古蹟を、何カ所で見ただろう?[★18]
瀬戸内海の島にはなにもかもが詰め込まれている。「一つの島なり群島なりが、相互関係ないしは全体との関係に立って、自己を特徴づけるのではなくて、ちいさな島の中に何もかもとりいれて行く[★19]」と小松は言う。この指摘をどのように受け止めるべきだろうか。
というのは、わたしたちの思想史において「島」はひとつの重要なメタファーであるからだ。ジル・ドゥルーズの無人島論、エドゥアール・グリッサンの関係の詩学、マッシモ・カッチャーリの多島海論、さらには島尾敏雄らのヤポネシア論や南島論……。ここ数年でも、カリブ海哲学の文脈でふたたび注目されているように思われる[★20]。
島や海洋をめぐる思想史的な布置。そのなかで小松左京の瀬戸内海論が浮き上がるのは、そこでは「多島海」がたんに肯定的なニュアンスだけではなく、「嘔吐」という否定性をつねにおびているからである。この否定性を展開するためには、もうひとり、海をめぐって陰影のある思考をひろげた、ある法学者のテクストを召喚せねばならない。
自然の権利2.0
大地は、神話的な言語において、法の母と名づけられる──そう述べたのは、20世紀を代表する公法学者、カール・シュミットだった[★21]。
いわく、法は陸地取得によって生みだされる。陸地を「取る」とは、単に占有することではない。線を引き、境界を定め、区画し、名づけ、配分し、そこに住み、耕し、守る──そうした大地に根ざした行為が、法と正義を立ち上げる。シュミットは、陸地取得や都市創設といった空間的な秩序形成を、「ノモス」すなわち「法」の原点とみた。
だが、なぜシュミットはそのような法秩序の創出をめぐる歴史哲学を打ちださねばならなかったのか。それを理解するには、なによりもまず、「ナチの桂冠法学者」と呼ばれる彼の二つ名に言及せねばならないだろう。下層中産階級のカトリックに生まれ、そこから「立身出世」をなして大学教授の職をえたシュミットは、『現代議会主義の精神的地位』(1923年)や『憲法論』(1928年)、『政治的なものの概念について』(1932年)といった主著をあらわしながら、しだいにナチ体制に近づいていく。
もっとも、ナチと法学者の関係は、いつまでも蜜月ではありえない。シュミットは二重に挫折することになる。いちどはナチ体制から批判され、つづいて敗戦後に糾弾されたことによって。1936年にユダヤ人法学者をはげしく攻撃していたシュミットは、同時期、みずからもはげしい批判を集めるようになる。ヒトラーの「権力の前室」における権力闘争のなかで身の危険をおぼえはじめたシュミットは、桂冠法学者の地位から転落し、私的内面に隠遁することを余儀なくされる。さらにそこにニュルンベルク裁判が追いうちをかける。その先にひらかれたのが、文明論的な歴史哲学をともなった法理論であった[★22]。
1950年、シュミットは1冊の浩瀚な書物をあらわした。『大地のノモス──ヨーロッパ公法という国際法における』と題されたその著作は、本節の冒頭に引いた、法と大地をめぐる神話的な一文にはじまっている。
後期シュミットを代表するこのテクストは、敗戦後の断絶を生きるしかなくなったシュミット自身の、反省と諦念が滲みでた書物といえる。ナチ法学に奉仕した経歴は、戦後の公的世界から彼を事実上締め出した。大学や論壇から離れ山荘に引きこもった彼は、しかしそれでもなお、法とはなにかをひたすら問い直していた。そしてたどりついたのは、第二次世界大戦によって、ヨーロッパの大地を基盤にして成立してきた従前の国際法秩序(Jus Publicum Europaeum)が崩壊し、かわって新大陸のアメリカ合衆国が主導する普遍主義が海洋を介して全─地球を飲み込んでいき、新たなる法秩序がかたちづくられているという文明論だった。その歴史哲学が圧縮されたのが、大地は「法の母」であるという言明だったといえる。
その主張は、たんなる復古主義にもみえる。だが、それだけだろうか。その言葉は『大地のノモス』が著されてから1世紀が経とうとしているいま、あらためてアクチュアルに響きはじめている。たとえば、わたしたちが直面している気候危機の時代とは、まさしく「大地」がふたたび法の基盤としてせりだしてきている時代である。
それぞれの世紀には、その時代を象徴する法律がある。18世紀がフランス人権宣言、19世紀がドイツ民法典、20世紀が国連人権規約であるとすれば、21世紀はエクアドル憲法であるだろう[★23]。
赤道直下の国、エクアドル。その特徴のひとつは、ラテンアメリカを縦断するアンデス山脈が、東にひろがるアマゾン低地の熱帯雨林と西側の太平洋沿岸部に国土を分かつことだろう。高地と低地の標高差、そしてさらに西の洋上に浮かぶガラパゴス諸島などの存在が、エクアドルに多種多様な自然をもたらした。
その豊かな自然が、いま危機に瀕しているという。アンデスで大規模に実施される鉱山開発、アマゾンで進む石油採掘、違法に捕獲・飼育される野生動物、そして全─地球的に影響をおよぼす気候変動。あいつぐ環境破壊に対して、エクアドルはある特筆すべき法制度に行き着いた。それが「自然の権利」である。
スペイン語において “Derechos de la Naturaleza”、 英語において “Rights of Nature” と記される「自然の権利」は、よく同一視される「自然権」(Derechos naturales, Natural Rights)とはまったく別物の概念だ。この点はよく誤解されがちなので強調しておく。「自然権」とは、あらゆる人間が自然法によって生まれながらに有するとされる諸権利のこと。かつては「天賦人権」とも呼ばれていた。それに対して「自然の権利」は、人間だけではなく、動物や植物、山や川、森林や大地などの自然が諸権利を有するという概念である。後者が議論されるようになったのは比較的最近のことである[★24]。
「自然の権利」についてはすでに概説的な論文を書いているので、ていねいな説明はそちらを読んでほしい[★25]。要点をかいつまんで言えばこういうことだ。従来「自然の権利」は非現実的な発想だと思われていた。しかし今日では、「自然の権利」は、たんなる現実の法制度である。わたしの整理では、そのような現実的な法制度として「自然の権利」がかたちづくられる過程は、歴史的にみて、二段階に分けられる。第一に、1972年を重要な年とする「自然の権利1・0」、そして第二に、2008年のエクアドル憲法改正に象徴される「自然の権利2.0」である。
ふたつのちがいはどこにあるのか。端的にいえば、「自然の権利」を実現するための過程が「司法」(裁判所)か「立法」(議会)かというちがいである。
現代的な「自然の権利」の出発点とされるのは、1972年にアメリカ合衆国連邦最高裁判所で言い渡されたシエラクラブ対モートン事件判決におけるウィリアム・O・ダグラス裁判官の反対意見と、その執筆に影響を与えたカリフォルニアの法学者クリストファー・ストーンによる同年刊行の論文「樹木はスタンディングを有すべきか」である[★26]。
この事件で争点となったのは、カリフォルニア州・シエラネバダ山脈のなかに広がる自然ゆたかなミネラルキング渓谷が、スキーリゾートとして開発されようとしていることの是非をめぐるものだった。反対する環境保護団体シエラクラブは、開発計画の差止めをもとめて訴訟を起こす。しかし当時の合衆国では、この場合、環境保護団体には訴えを起こす資格(スタンディング)が認められていなかった。環境訴訟を起こすことができるのは誰であるべきか。その難問に画期的なアイデアを提示したのが、ダグラス裁判官だったのである。彼はこのように述べた。「この事件は、ただしくは「ミネラルキング渓谷対モートン事件」と呼ばれるべきだった」。すなわち、自然が権利を守るためにみずから訴訟を提起すべきだと主張したのである。
この提案は大きな反響を呼んだ。とはいえ、ダグラスやストーンは、すくなくとも当時は自分たちの考えかたを「自然の権利Rights of Nature」として定式化していたわけではなかった。1970年代から90年代にかけて、さまざまな論争や訴訟を経て、しだいに「自然の権利」論として輪郭をおびはじめる。日本では、1995年に「アマミノクロウサギ訴訟」(奄美「自然の権利」訴訟)が提起され、「自然の権利」という言葉が、学問の世界で、あるいは社会のなかでも、知られるようになっていった。
だが合衆国ではその後、「自然の権利」が訴訟のなかで認められることはなかった。日本でも状況は同じだった。どちらの場合にも、「自然の権利」は既存の法制度になじむことはなかったのだ。司法の場において「自然の権利」を主張しつづけることには限界がある[★27]。そのように言われはじめたとき、ひとつの画期的な立法がなされる。それが、2008年に改正されたエクアドル憲法だった。
司法の判断は、根本的には、現行法の枠組みをくつがえすことができない。それを可能にするのは立法の役割である。エクアドル憲法が画期的であったのは、それが「自然の権利」を明文で認めていたからだ。新憲法の制定という政治的な行為によって、「自然の権利」という新しい権利とそのための法制度が創出された。このとき、「自然の権利1・0」は「自然の権利2.0」へと移行したのだ[★28]。
エクアドル憲法第10条は、訳すと以下のようになる。
個人、コムニダーデス(comunidades)、プエブロス(pueblos)とナシオナリダーデス(nacionalidades)、コレクティーボ(colectivos[★29])は、憲法と国際的な法文書において保障される諸権利の帰属主体(titulares)であり、それらを享受する。
自然は憲法がそれに認める諸権利の主体(sujeto)である。
ここではじめて「自然の権利」は、ひとつの国家の憲法典のなかに制度化された[★30]。その具体的な権利内容は、71条に定められている。そこにはつぎのような法文がある。
自然すなわちパチャママ(La naturaleza o Pacha Mama)は、生命が生まれ存在するところであり、その存在が完全に尊重される権利、並びに生命の循環、構造、機能及び進化過程の維持及び再生の権利を有する。
すべての個人、コムニダーデス、プエブロス、ナシオナリダーデスは、自然の権利の遵守を公的機関に対して要求することができる。これらの諸権利を適用し解釈するにあたっては、該当するかぎりにおいて憲法に定められた諸原則が考慮されるものとする。
国家は、自然人および法人、ならびにコレクティーボが自然を保護することを奨励し、生態系を構成するすべての要素に対する尊重を促進する。
自然はその存在を完全に尊重され、生命の循環や進化の過程などが守られる。そして個人と諸共同体は国家に対して諸権利の保障を求めることができる。
2008年の制定後、この憲法上の権利はいくつかの環境訴訟にもちいられ、実際に森林や河川、動物などの保護につながっている[★31]。「自然の権利」が現実の法制度であるというのは、たんに制定済の法として法文上に存在しているだけではなく、司法過程をつうじて具体的な救済に結実しているということを意味しているのだ。
だが、問題はまだ残っている。そこで言われる「自然」とはなにか、という問いだ。
というのはエクアドル憲法71条において、権利の主体となる「自然」は「パチャママPacha Mama」と言い換えられているからである。この聞き慣れない言葉こそが重要なのだ。アンデス先住民の言語において、パチャママとは「母なる大地」を意味している。
母なる大地とマリトリオ
現代アンデスにおいて「パチャママ主義」と呼ばれる政治運動が勢いを増している[★32]。それは、一方では環境危機に立ち向かうために「母なる大地」の尊重を主張する左派的・先住民的な運動である。しかし重要なのは、同時に、右派的・国家的な政治運動としても、「母なる大地」の尊重があらわれてきているということである。
たとえばエクアドルの隣国・ボリビア共和国では、2010年と12年に「母なる大地」の尊重を定めた法律が制定されている[★33]。それを推し進めたのは、当時の大統領であったエボ・モラレス。はじめて先住民から選出された大統領であり、反米的なスタンスを明瞭に打ちだした人物であり、ポピュリストであると非難されたり、アンデス先住民の伝統的な儀礼(たとえばパチャママに捧げ物をする国家的な式典)を取り入れたりと、話題に事欠かず、そして評価もむずかしい政治家である。
ボリビアの「自然の権利」法は、多くの場合、環境保護に資するものとして肯定的に評価されている。だが、モラレスと同様に、その評価は多面的になされるべきだ。わたしが気になるのは、ある地理学者によるつぎの指摘だ。いわく、モラレスは、一方では「母なる大地」を守るために自然の保護を訴える。だが他方では、国家の繁栄を目指して、資源開発を推し進めている。開発はとうぜん環境破壊をともなうものだ。その矛盾をモラレスは家父長制的なロジックで解消しようとしているという。──大地は母である。その権利を、国家が守っている。であれば母は、返礼として天然資源を国家に与えるべきなのだ[★34]。
ほかの多くの法概念や政治思想と同様に、「自然の権利」もまた、左派的な政治運動だけに利用されるものではない。右派的な政治運動、あるいは国家による統治のなかにも「自然の権利」は組み込まれうるのである。だからこそ、「自然の権利」は、環境保護団体によって法廷で主張されるだけでなく、ときには「憲法」のかたちをとって、民主主義に支持され、国家の法体制のなかに実装されうるのである。
もうひとつ気になる動向がラテンアメリカにあらわれている。アンデス山脈の南の端に、チリ共和国という国家がある。2022年、この国で新憲法の是非をめぐる国民投票が実施された。賛成派が優勢であるという下馬評を裏切って、じっさいには大差で否決されてしまったこの新憲法の草案には、さまざまに興味深いものがふくまれていた。
そのひとつが「自然の権利」規定を有していたことであるのは、言うまでもない。だが、わたしがそれ以上に関心を引かれているのは、チリの憲法草案にとつぜん姿をあらわした “maritorio” なる聞き慣れない法概念なのである。
マリトッツォであればパンに生クリームが挟まれたイタリア菓子だが、この場合は「マリトリオ」というスペイン語。それは「海mar」と「領土territorio」を組み合わせた造語であって、領土(陸地)でもなく領海(海)でもない「陸地と海にまたがる領域」のことを指し示している。
憲法草案の検討過程では、「チリ国家は、マリトリオの存在を法的カテゴリとして認める。これは領土と同様に、社会的・文化的・環境的・経済的な固有の特性を認識するような特定の規範的な規制を備えるべきものである」という法文を新憲法に盛り込むことが提案されていたと報じられている[★35]。これは「自然の権利」とも共通しているが、環境危機への懸念から、さらには自然と結びついた文化や社会を保護しようという意識から、チリの学者や政治家たちは、既存の法体系には存在しない新しい空間領域さえも、法的につくりだすことを試みたのだ。 このことにわたしが強く関心をおぼえるのは、理論的には、「マリトリオ」という新しい空間概念の創出が、歴史をつうじて憲法(学)が行いつづけてきた存在論的な操作を浮き彫りにしているからだと説明できる[★36]。
まず、国家や国民という存在者をつくりだす。そのうえで近代憲法学は、「人権」概念を法制度のなかに確固たるものとして実装することで、法的世界のなかに「人間」という存在者をたしかにつくりだすことに成功した。そうして形成された近代法学の存在論は、たとえば公民権運動によって、「人間」のなかに「黒人」をふくむように、あるいはフェミニズムによって「女性」をふくむように、しだいに訂正されてきた。そしてまた、「自然の権利」を実現しようとする法学者たちは、「自然」という存在者を法学の存在論のなかに付け加える作業をいまも試みつづけているということができるだろう。
法学や立法・司法が行なっているのは存在論の再定義なのであって、そのことを空間概念の創出というかたちできわめて明確に行なったのが、チリ新憲法草案だったのだ[★37]。
だが、率直にいえば、「マリトリオ」への関心はそのような小難しい理論的な動機だけにささえられていたわけではない。(なによりうまそうな名前だということに加えて)もっとシンプルで具体的な理由から、わたしはその概念に関心をもったのである。
チリにおいて、「マリトリオ」として保護されるべき海域はどこか。世界地図をひらくと、その国の領土には、まず「本土」と呼びうる大陸部分があって、それと外洋(太平洋)のあいだにたくさんの島々が浮かんでいることが見て取れる。なかでもチロエ島という大きな島があって、それと本土側のあいだには多島海のさまを示す、「内海」が広がっているのである。
つまり「瀬戸内海」がチリにもある。そして、その海が「マリトリオ」という新しい空間概念として、新憲法によって再定義されようとしている。それは憲法学の問題というよりも、むしろ瀬戸内海未来主義の問題なのだ。
消失する瀬戸内海
さて、話を小松左京に戻そう。 ネタバレを躊躇せずに記してしまえば、小松の瀬戸内海ルポはつぎのような幕切れに終わる。さまざまなことがあって──これについてはもとの作品を味わい、その意味についてぜひ考えていただきたい──小松たちは東京をめざして東へむかうことになる。
そうして国道1号線を通って滋賀県についたとき、「何やらピシッという音」があたりに響き渡る。
おどろいて足もとをみると──国道一号線に突如として、するどい亀裂が走っていた。亀裂は道と直角にみるみる長くのび、傍の山の木々までが一瞬ざわめいた。地震か?──とふと思ったが地鳴りも振動もなく、──さらにおどろいた事に、ふみしめたアスファルトの亀裂を境いに、西側の大地が、徐々にもち上り出したのだ![……]県境のラインでスカッときりとられた近畿が、その見事になめらかな切口の地層を見せながら、みるみるうちに上昇しはじめた。──信じられない思いを味わいながら、私は呆然と空中に持ち上がりつつある西日本を見つめた[★38]。
瀬戸内海が宙に浮き上がり、西日本がまるごと消失してしまう。──この途方もないオチを、わたしたちはどのように受け止めるべきだろうか。
じつは小松左京のSFルポには、もうひとつのテーマがあった。それは「地方」と「中央」(つまり東京)との関係である。たとえば山口県下関市にて、未来人シャロウェルはこのように言う。
問題は、地方が中央の簒奪に対して、いかにたたかうべきか、という戦略と戦術よ。その前に、地方人が、こういった地方における歴史から、その対立のパターンをしっかりつかみとる事ね。そのために地方知識人の果たす役割りが……[★39]
なぜここで地方と中央をめぐる問題が出てきたのか。もっとも小松自身は、瀬戸内海紀行を終えたあとに「もう二度とこんなものを書く必要がないように、ルポの結末で西日本をきれいさっぱり消してしまった[★40]」と述懐している。だから、「瀬戸内消失」はたんにヨタ話のアクセントにすぎないのかもしれない。だが、すくなくとも未来人シャロウェルにはこのような理屈があった。
高松市で開催された会議の場で、シャロウェルはある懸念を表明する。それは、このままでは東京をつうじて瀬戸内地域に「世界」が入り込んできてしまうだろう、という心配であった。ひらたくいえば、グローバル化への反発である。交通や情報、金融のネットワークが地域をこえて張りめぐらされると、あらゆるひとが「地球市民」になってしまう。すると文明が拡散し、抽象化が進み、人間はたんなる「流動する記号群」のなかをただよう存在になっていく。
だが、瀬戸内海はちがう、とシャロウェルは言う。「瀬戸内では、工場すら、風景化されてしまっているではありませんか?」──だから、そのような瀬戸内海を「保護文明区域」に設定すべきなのだ。
私は、瀬戸内を、時空連続体から切りはなし、保護領域として、世界史の流れの外におきたい、と思います[★41]
かくして、瀬戸内海は浮上していく。大地から切り離され、高くまいあがり、そして紺碧の空へと消えていった。
天空に消えていく瀬戸内海の様子をイメージすると、あまりに荒唐無稽な物語に思われる。しかし理論的に考えると、そうめずらしい話でもない。
このエッセイ的な論考のなかで、わたしはいくつかの法文を引用しながら、日本法のなかに瀬戸内海は(すくなくとも)みたび現れるということを指摘した。つまり法令によって瀬戸内海の定義は揺れ動いている。わたしはその理由をほんらい自然がひとつづきであるということに求めたが、言葉を裏返せば、それは「瀬戸内海」という空間が法によって切りだされているということにほかならない。未来人シャロウェルは瀬戸内海を大地から切り離したが、すでに瀬戸内海は法によってほかの海から切り離されていた。
ここにこだわるのは、まさしくその「切り離す」という行為こそ、現代の「自然の権利」研究にとってもっとも悩ましいテーマであるからだ。つまり、権利主体となる自然とはいったいどこまでで、具体的になにを指し示しているのかという問題が「自然の権利」にはつねに生じてくる。
もっとも、法によってなにかをほかの領域から切り離すという行為じたいは、とくに「自然の権利」だけに見られるものではない。たとえば憲法の制定は、まさしく「切り離す」行為にほかならない。領土を明確にする。国民の条件を決める、予算をつける、権利を与える……。おおよそあらゆる場面で、法によってなにかがほかのものから区別されている。ありふれたことだ。
だが、小松のSFルポの痛快さは、ある一定の領域をまるごと大地から物理的に切り離し、空に浮かべて、消失させてしまった点にある。ある空間が大地から切り離されて、ほかとは異なる領域になる。それは自然の人格化でもあり、地域主義の表現でもあり、国家の創設でもある。
瀬戸内海に権利はあるか
1892年11月30日、愛媛県沖の瀬戸内海に、1隻の船が沈没した。日本海軍の新造砲艦・千島だった。
「千島艦事件」と呼ばれるこの沈没事件が記憶されているのは、その事故が不平等条約改正をめぐる論争を引き起こしたからだ。千島艦と衝突したのはイギリスの汽船会社が所有していた商船・ラヴェンナ号だった。当時の日本は安政五カ国条約によってイギリスに領事裁判権を認めていた。それゆえ千島艦とラヴェンナ号との衝突は、イギリス領事裁判所とその上級審である英国高等領事裁判所で審理された。
結果は日本側の敗訴に終わる。そしてそのことが、現行条約励行運動などを引き起こし、不平等条約をめぐる日本国内の議論を活発化させた──のだが、それを振り返ることはここでの本題ではない。そうではなく、その敗訴の理由のひとつが、裁判のなかで瀬戸内海が「公海」であるとされたせいだったということが、わたしの関心を惹きつけるのだ。
当時、領海の範囲をめぐる国際的な合意はまだ形成されていなかった。それゆえ英国高等領事裁判所は、領海の範囲を沿岸から3海里(約5・5キロメートル)とする立場を採用した。すると瀬戸内海のなかであっても、千島艦とラヴェンナ号の衝突した場所は国際公海であるという評価になる。
とはいえ、その衝突事故が起きた先は、愛媛県の県庁所在地・松山市から、電車と船を乗り継いでも小一時間で行くことができる興居島の沖合である。四国本土のすぐそばだ。そもそも瀬戸内海は、「内海inland sea」と呼ばれるくらい、目にみえて日本列島のなかに囲い込まれている。それなのになぜ、国外の裁判所で判断がなされ、さらには日本の主権が及ばない領域であると結論づけられなければならないのか。
当然、国内世論は紛糾した。改進党の鳩山和夫らは国会において、「政府の千島号に関する措置は条約の明文に由らず正当の条理に基かず叨みだりに帝国を挙げて英国の主権の下に屈従せしめたるものにして実に千古の失体なり」と、ときの政権を糾弾したという[★42]。そして日本は、国家を挙げた条約改正交渉へと向かっていった。
さきにわたしは、瀬戸内海はみたび現れると書いた。そのような海の曖昧さが、日本近代史のなかでも、ときに国家の存続をあやうくさせるようなインパクトをもって、時代の前面にせり出していた。だからこそ、ひとつづきの海は、法によって切り離されなければならなかったのである。
大地を切り離すことによって法が誕生したならば、その法は、海を切り離すことによって国家を成立させてきた。そのさきにあらわれたのが、「マリトリオ」というチリの多島海的な風土が生みだした、新しい法概念だった。
敗戦後のいささか反動的な動機もあって、伝統的なヨーロッパの公法秩序に対して新大陸の法秩序があらわれているという歴史哲学を構築したシュミットだが、その洞察は正しかった。事実、法の歴史において、新大陸には固有の法秩序がつくられてきた。たとえば「ラテンアメリカ国際法」と呼ばれる国際秩序がある。それは西洋諸国の支配に対してラテンアメリカ諸国がつくりだしたものだった[★43]。また近年では、「新ラテンアメリカ立憲主義」と呼ばれる憲法上の動向がある。「グローバル・ノース」と呼ばれる先進国たちが富を収奪し、環境を破壊し、そのツケを「グローバル・サウス」が一身に引き受けている。ラテンアメリカ諸国はまさしくサウスに位置している。だからみずからの憲法をもちいて、権利を保障し、北側諸国に対抗しようという動きだといえる[★44]。
このように、独自の法秩序の形成は、既存の法秩序への対抗としてなされるものだと言える。ある法秩序のなかで疎外されてきたものたちが、みずからを旧体制から切り離し、新たな体制を築こうとする。そのダイナミズムにしたがって、法の歴史はかたちづくられてきた。それは日本においてもおなじである。
瀬戸内海的想像力が憲法学の常識をつくりかえている。チリ憲法草案に現れた「マリトリオ」を真剣に受けとめてみるとすれば、そのような認識にたどりつく。では、わたしたち自身の瀬戸内海からはどのような憲法学的想像力が立ち上がるだろうか。そのように考えたとき、わたしのイメージは、小松左京のSFルポに回帰する。
その結末、未来人シャロウェルの「保護文明区域」計画によって瀬戸内海は天空に浮かび上がる。そのあとには、なにもない海だけが残されている。
だが、その海底はどうだろうか。なにもないということは、窪みがある。窪んだ地形といえば盆地である。盆地といえば、たとえば「小盆地宇宙論」という議論が、じつは日本論の系譜のなかに存在している。文化人類学者の米山俊直が、日本を単一民族国家とみる言説に対して提示した、「地域」からの日本論である[★45]。
あるいは四国を代表する文学者・大江健三郎に言及してもよいだろう。大江作品においてもまた「盆地」が重要な地形として登場してくる。その小さな谷間の村が、国家論へ、そして宇宙論へと展開していく。『同時代ゲーム』における「村=国家=小宇宙」である。
大江がその出生においていだいていた四国山地の谷間=盆地的想像力が、文学作品を経て、宇宙論へと行き着いてしまうことが興味深い。なぜならひとつには、「自然の権利」研究において重要なアンデスでは、まさしく「山」をめぐる先住民たちの想像力が「パチャママ」のイメージにつながり、ついには国家の憲法典に書き込まれるに至ったのだから。四国山地の想像力もまた、いつか日本国憲法を書き換えてしまうことがあるのだろうか。
だが、大江は護憲派であった。それゆえ、その盆地的な想像力が憲法を改正することはないかもしれない。だからわれわれは──べつに改憲を積極的に推進したいわけでもないのだが──ほかの想像力に頼るほかあるまい。そこで現れるのが、未来人シャロウェルが消失させた瀬戸内海の跡地におそらくできる、広大なる盆地である。瀬戸内海という盆地から、どのような宇宙論を立ち上げられるだろうか。
もっとも、これは小松のSFルポのオチを使って、わたしが適当なことを書き連ねているというわけでは、じつはない。さきの米山俊直は、その小盆地宇宙論のなかで瀬戸内海沿岸の「平野」もまた盆地であると言っている。だとすれば、海と平野、そしてその背後に控える山々からなる瀬戸内海宇宙論をわたしたちは考えることができるだろう。あるいは、小松が見抜いていたように、瀬戸内海は「人工性」に満ちた空間である。であれば、その海において考えられるべきは、宇宙論だけでなく文明論であるかもしれない。
小松左京は、瀬戸内海紀行の「あとがき」で言う。
ひょっとすると、複合民族である日本においては、海洋史観、平野史観、それにもう一つ、ずっと山に住みつづけてきた山岳民の、山岳史観というものが、存在するかも知れない[★46]。
いささか出来すぎた話ではあるが、じつは瀬戸内海には、すでに「海洋史観」は用意されている。『文明の海洋史観』(1997年)という主著をもつ経済史家の川勝平太が「直島論」を書いている[★47]。直島とは、香川県の沖合に浮かぶ、現代アートの世界的な聖地となっている島だ。ちなみに小松もルポのなかで、いちばん瀬戸内海的要素がある島として言及している。そこから文明論的な書物が世に問われていたことの意味は大きいだろう。
平野史観については小盆地宇宙論があり、山岳史観については大江健三郎の作品がある。だから四国山地が「村=国家=小宇宙」という図式を導きだしたのなら、そのすぐそばの瀬戸内海は、たとえば「海=国家=大宇宙」という図式をもって応答できるだろう。ぼくたちは、瀬戸内海から、日本を、世界を、そして宇宙を考えねばならないのだ。
壮大な話になってしまった。とはいえ、瀬戸内海について考えるとはこういうことなのだ。ある地域について論じるのであれば、そこから西洋近代をひっくり返すくらいの大言壮語をできなければおもしろくない。実際、瀬戸内海地域からは、長州藩の幕末志士にせよ、宮崎を発ったらしい神武天皇にせよ、メディア産業の覇権を握った菊池寛にせよ、なんらかのかたちで既存の体制をつくりなおす者たちがあらわれてきた。その想像力のほとばしりを、ひとりの瀬戸内海人として、わたしも継承したい。
「自然の権利」に関心が向かうのは、現代の法学において、そのような想像力のほとばしりをみせているのが、この分野にほかならないからだ。アンデス先住民の宇宙論に、活動家たちの環境保護意識、そしてさらには資源ナショナリズムを推し進める大統領の野心と欲望さえ巻き込んで、「自然の権利」は、ついには新たな憲法体制を創設するに至っている。わたしが「自然の権利2.0」として捉えようとしているのは、まさしくそのような法学的想像力のダイナミズムなのである。
未来人シャロウェルは「保護文明区域」をぶち上げて、瀬戸内地域を浮遊させ消失させるに行き着いた。だが、わたしは未来人でもなければSF作家でもない。憲法学者として地に這いつくばって、この現実とともに考えないといけない。チリの改憲論者たちは「マリトリオ」という新概念をつくりだした。シュミットは敗戦後の反省から『大地のノモス』という歴史哲学を生みだした。では、わたしたちは瀬戸内海からどんな未来を思い描けるのか。
かくして、瀬戸内海未来主義が立ち上がる。それが問うのは、たとえばわたしにとっては、たんに瀬戸内海地域の未来だけではなく、人類全体の未来なのだ。だからこそ、瀬戸内海もアンデスもシュミットも日本論も、みんないっしょに考えることができる。瀬戸内海では、山に暮らすひとも、平野に住むひとも、海に生きるひとも、みなひとつの地域性を帯びている。大阪から九州まで、ひとつづきの海がつながっている。
そう、瀬戸内海にはすべてがあるのだ。瀬戸内海がすべてなのである。
★1 小松左京『地図の思想』、講談社、1964年、111-113頁。以下、[ ]は引用者。以下、別記を除き傍点は原文。
★2 同書、114-115頁。明石原人はじめ、SFルポには偽史的想像力も織り込まれている。なお、瀬戸内海は、空海とうどん伝来、邪馬台国四国説、そして木村鷹太郎の存在など、偽史的世界観のホットスポットとも言える。
★3 同書、115頁。
★4 同書、122頁。
★5 『地図の思想』は以下に再録されている。『小松左京全集 第27巻 地図の思想/探検の思想』、イオ、2019年。こちらの全集版には関連する座談会なども収められているが、図版の地図が収められていないのが玉に瑕。
★6 遍路文化もこの歴史のなかに位置づけられよう。
★7 小松左京『地図の思想』、20頁。
★8 同書、81頁。
★9 同書、85頁。
★10 URL=https://laws.e-gov.go.jp/
★11 経緯度情報が法文のなかに書き込まれるようになったことは、たとえば法学と地理学の横断的研究によって取り組まれるべき現象だろう。しかし法学において地理的なものへの関心は残念ながらにぶい。
★12 正確には日本海の南東端の規定。訳は引用者。Limits of Oceans and Seas (Special Publication No 28), 3rd Edition, International Hydrographic Organization, 1953, p.32. URL=https://www.iho-ohi.net/iho_pubs/standard/S-23/S23_1953.pdf
★13 ちなみに『大洋と海の境界』は「日本海」の名称をめぐる日本と韓国の論争においてもしばしば話題に上がる文書である。
★14 小松左京『地図の思想』、115-116頁。
★15 瀬戸内海未来主義を別のかたちで発見している論者に、建築家の藤村龍至がいる。藤村は広島県倉橋島の架橋事業に「日本列島改造論」のプロトタイプを見いだし、それを「瀬戸内海改造論」と呼ぶ。URL=https://tokion.jp/2021/08/01/architect-ryuji-fujimura-part2/
★16 西田正憲『瀬戸内海の発見──意味の風景から視覚の風景へ』、中公新書、1999年。
★17 小松左京『地図の思想』、80-81頁。
★18 同書、82頁。
★19 同書、84頁。
★20 中村隆之『カリブ─世界論──植民地主義に抗う複数の場所と歴史』、人文書院、2013年。中村達『私たちが諸島である──カリブ海思想入門』、書肆侃侃房、2023年。「埋め立て」や「再野生化」の問題も共有できるだろう。
★21 カール・シュミット『大地のノモス──ヨーロッパ公法という国際法における』、新田邦夫訳、慈学社出版、2007年、14頁。
★22 後期シュミットの思想的特徴については、たとえば以下が手短にまとまっている。蔭山宏『カール・シュミット──ナチスと例外状況の政治学』、中公新書、2020年。
★23 法学について詳しくない読者のために補足しておけば、これは筆者が勝手に主張している思いつき(たわごと)である。
★24 ただし、と余計な補足をせねばならない。厳密にいえば、近代自然法論を援用した自然権論(とくに社会進化論と結びつくかたちで明治期の日本に導入された、いわゆる天賦人権論)のなかには、現代でいう「自然の権利」に重なる発想がみられる。つまり、そこでは人間は動物や植物から進化してきたものとしてとらえられるため、人間が諸権利を有するには、前提として動物や植物もあるていどの諸権利を有していることになる。
たとえば明治27年(1894年)に書かれた『民権論』と題された書物では、「植物権」(ここでは「植物がもつ権利」の意)や「動物権」(「動物の権利」の意)が登場し、それと「人権」の関係について論じられている。ハーバート・スペンサーの翻訳も精力的に行なっていたらしい詳細不明の著者はこのように言う。「真に民權を理會せんと欲ば先づ植物權と動物權の差別を觀察し然後動物權と人權の區別に入り然る後人權と臣權の區別に入らざるべからず」。山口松五郎『民権論』、山口松五郎、1894年、6頁。国会図書館デジタルコレクションにて閲覧できる。URL=https://dl.ndl.go.jp/pid/783733
★25 植田将暉「21世紀の「自然の権利」と大地の人類学──法学の存在論的転回?」、『文化人類学研究』25巻、2024年。
★26 クリストファー・ストーン「樹木の当事者適格──自然物の法的権利について」、岡嵜修、上田敏雄訳、『現代思想』1990年11月号、青土社。
★27 90年代は紹介者であった加藤尚武の主張をみよ。『環境倫理学のすすめ』増補新版、丸善出版、2020年、142頁。
★28 わたしが既出の論文で「21世紀の「自然の権利」」と呼んでいるものが「自然の権利2.0」にあたる。
★29 コムニダーデス、プエブロス、ナシオナリダーデス、コレクティーボは、それぞれエクアドル憲法にみられる特有の共同体・集合体概念であるが、これらを日本語の概念として訳出することは筆者の能力を超えている。
★30 ただし、2002年にアメリカ合衆国のナバホ・ネーションで「自然の権利」法と評価できる法律が制定されている。ナバホ・ネーションは、アメリカ法上は「国内の従属国」と理解されている存在であって、エクアドル憲法をめぐる「国家による初の承認」という語りのなかにこの事例をどのように位置づけるかは悩ましい問題である。
★31 たとえば以下の記事を参照。URL=https://www.theguardian.com/world/article/2024/jul/07/ecuador-court-river-pollution-violates-rights
★32 「パチャママ主義」については、文化人類学者マリソル・デ゠ラ゠カデナの議論がスタートラインとなるだろう。『地のものたちEarth Beings』が主著だが、要点をまとめた論文が翻訳されている。わたしの研究は、政治理論としてのコスモポリティクスを、さらに憲法理論として読み替えるというものだ。「アンデス先住民のコスモポリティクス──「政治」を超えるための概念的な省察」、『現代思想』2017年3月臨時増刊号、青土社。Marisol de la Cadena, Earth Beings: Ecologies of Practice Across Andean Worlds, Duke University Press, 2015.
★33 Ley 071 de Derechos de la Madre Tierra (2010), Ley Marco de la Madre Tierra y Desarrollo Integral para Vivir Bien (2012).
★34 Miriam Tora, “Between Pachamama and Mother Earth: Gender, Political Ontology and the Rights of Nature in Contemporary Bolivia,”, Feminist Review 108, 2016.
★35 訳は引用者。URL=https://www.emol.com/noticias/Nacional/2022/01/17/1044161/maritorio-nueva-constitucion-convencion-constitucional.html
★36 さきほど、「コスモポリティクス」を憲法理論として読み替えるということを書いた(注32)。デ=ラ=カデナはいわゆる「人類学の存在論的転回」や「政治的存在論」の中心人物であって、わたしが「存在論」と言う場合にはその現代人類学・現代思想的な文脈をまず念頭に置いている。しかし「社会的存在論」という言葉は、たとえば政治哲学においてもひとつの領域をなしている。このような重なり(と隔たり)を考えたい。
★37 たとえばこのような論集が刊行されている。Ana Isabel Márquez Pérez, Juan Felipe Pérez Díaz, Maritorios y acuatorios latinoaméricanos y caribeños: Perspectivas socioculturales e históricas, Colección AcerVos, 2025.
★38 小松左京『地図の思想』、134-135頁。
★39 同書、61頁。
★40 同書、161頁。
★41 同書、125頁。
★42 中川未来「「千島艦事件」再考──一八九〇年代における対外硬言説の流通と地域社会」、『愛媛大学法文学部論集人文学編』51号、2021年、3頁。引用時に誤字を修正した。
★43 中井愛子『国際法の誕生──ヨーロッパ国際法からの転換』、京都大学学術出版会、2020年。
★44 Javier Couso, “Latin American New Constitutionalism: A Tale of Two Cities,” The Oxford Handbook of Constitutional Law in Latin America, Oxford University Press, 2022.
★45 米山俊直『小盆地宇宙と日本文化』、岩波書店、1989年。
★46 小松左京『地図の思想』、387頁。
★47 三宅親連、石井和紘、川勝平太『自立する直島──地方自治と公共建築群』、大修館書店、1995年。

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植田将暉




