瀬戸内海に権利はあるか──自然の権利2.0と憲法学の想像力|植田将暉
瀬戸内海は、いちど保護文明区域として設定されようとしたことがある。
1964年に発表された文書によれば、香川県高松市で開催されたある会議において、以下のような発言が記録されている。
今日みなさんに集まっていただいたのは、未来の立場から計画された瀬戸内構想に、みなさんの質問のママ支持を得たいからであります──。[……]みなさんは〝文明の瀬戸内的状況〟が、どんな未来的価値をもつか、考えた事がおありでしょうか?[★1]
発言者はつづけて語りはじめる。先史、瀬戸内海は陸地であった。植物が生い茂り、ナウマンゾウやオオツノシカたちが悠々と歩き、そして原日本人(明石原人)たちが暮らしていた。そこに突如、海水が流れ込んでくる。轟く奔流、鳴り響く動物たちの阿鼻叫喚。日本先住民の秘密は海底へと失われていった……。そうして述べられた先に、ひとつの文明論が開陳される[★2]。
だが、歴史はそれだけではない──この瀬戸内沿岸は、先史時代よりひらけ、大陸との交流がはじまって以来、日本最古の文化圏がここに成立したのであります。爾来千数百年、瀬戸内はそれ自体もっとも古い歴史となりながら、何一つ過去化することなく、現代にいたるまで生きつづけて来た。その事はまた、瀬戸内の、もっとも高い、文化的ポテンシャルをうみ出したのであります[★3]
瀬戸内海は歴史をつうじて、大陸から日本列島へと、知識文化がもたらされるときの通り道となってきた。そして瀬戸内海地域(瀬戸内)じたいもまた、ひとつの文化圏をかたちづくるようになった。瀬戸内海という文明は、そのなかに悠久の歴史をたたえながら、なおかつ、生きているものとして、その文化をさらに繁栄させているのだ。だからこそ未来人シャロウェルは言った。
みなさん──私は瀬戸内を、保護文明区域の中にいれたいと思います……[★4]
ひとつの海、複数の瀬戸内海
冒頭にいくつか抜粋してきたテクストは、1964年1月に『放送朝日』誌上に連載された、作家・小松左京「エリアを行く」の一節である。小松が日本各地を旅しつつ紀行文をあらわすという企画。その最初の旅先が瀬戸内海だった。
重要なのは、小松があらわした紀行文が「SFルポ」と称されていたことだ。ルポはわかるとして、なぜSFなのか。それは、旅はほんらい自由なものだから。心のおもむくままに行く先を決め、足を運ぶ。にもかかわらず紀行文を書こうとすると、たちまち調査になってしまう。その窮屈さから逃れるために小松が編み出した形式が「SFルポ」だった。
SF作家の想像力を駆使し、フィクションとして紀行文をつくりだす。そこに織り込まれたさまざな「ヨタ話」のおもろさが、作家の苦痛をまぎらわせてくれる。そうやって書かれた瀬戸内海紀行は、のちに『地図の思想』という単行本に収められている[★5]。
そのはじまりはこうだ──あるとき小松は、大阪・西成区山王の居酒屋で未来人2世の青年シャロウェルに出会う。青年はおもむろに瀬戸内海の地図を取り出し、ここで「タカマノハラ計画」をはじめたいと語りだす。
記紀神話において天津神たちが住むところ、高天原。そこから瓊瓊杵尊が降り立った地が、九州・宮崎県の高千穂と言われている。小松とシャロウェル、そして居酒屋の中居・ウメは連れ立って、一路、西へとむかう。

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植田将暉





