斉藤さんへ|伊藤亜和

親にスマートフォンを持たせてもらったのは何才だったか。記憶はかなり曖昧だが、小学生の頃はしょっちゅう父親にケータイを没収されたり、真っ二つに折られたりしていた。真っ二つに折れたということは、二つ折りのガラケーだったのだろう。そういうわけで、スマホを持ち始めたのは中学に入ったあたりだと推測する。クラスの誰もがスマホを持つようになり、前略プロフィールとmixiを見るためだけのものだと思っていたインターネットが、突如私たちの目の前に広大な宇宙として全容を現した。ガラケーの隅にある謎のボタンの向こうに、こんな世界があったなんて。それまで交換日記の延長でしかなかったネット空間が、教室の窓から見える無数の家をひとつひとつ覗くことのできるような、まさしく魔法の道具であることを知った。
ツイッターやインスタグラムを始めたのもこのあたりだが、とりわけ私たちが熱中したのは「斉藤さん」というアプリだった。起動して通話を開始すると、その時に同じく斉藤さんを使っている人物とランダムに通話が繋がるというものだ。べつに斉藤さんだけに繋がるというわけではなく、ここでの斉藤さんは〝名無しの権兵衛〟的な意味である。学校と家の往復という、小さな世界で日々暮らす当時の私たちにとって、名前も知らない誰かと強制的に繋げられるということは、それだけでかなり刺激的なエンターテインメントだったのだろう。部活のない日はたいがい女子だけで私の家に集まって、Wiiでゲームに興じる合間にコソコソと斉藤さんをやるのがお決まりの放課後の過ごし方だった。今思えば、集まってエロ本を読む男子中学生とほぼ同じ振る舞いをしていたような気がする。男子はエロ本に夢中な一方で、女子は斉藤さんに夢中だった。実際、当時の斉藤さんで繋がる相手には、ほとんど露出狂しかいなかった。繋がった瞬間、どアップで画面に映し出される見慣れない性器。そのたびに私たちは「ギャー!」と悲鳴を上げて通話を切るのだが、結局それも「見てはいけないものを目撃してしまう」という、不可抗力に見せかけた好奇心の戯れだったように思える。
キモイキモイと言いながら、私たちは飽きることなく「斉藤さん」に電話をかけ続けていた。ときどきは会話が成立する相手もいたけれど、話しているうちに吐息が荒くなってきて気持ちが悪かった。最初から下心丸出しで来られるより、まともな人間を装って猫なで声で話をされた方が「裏切られた」という気分になってよっぽど不愉快だった。
本当にまともな人に繋がったのは片手で数えられる程度である。そのなかで記憶に残っているのは、ふたりの若い男との通話だ。べつに特別感動的な話があったというわけではない。興味津々の女子中学生数人からの通話に、彼らは終始穏やかに応じてくれた。主にスマホを持っているらしいひとりと会話をしていると、ときどき遠くにいるらしいもうひとりが相槌を打ったり笑ったりして会話に入ってくる。声がやたら遠くから聞こえる感じがしたので「なにしてるの?」と聞いたら「今? 釣りしてんのー」とのんびりした声で返事が返ってきた。ふたりは海で釣りをしながら、獲物がかかるまでの暇つぶしに斉藤さんを弄っているらしかった。白昼堂々、湿り気のない声で爽やかに話す年上のお兄さんたち。テンションが上がって、みんなであれこれ話をした。「電話をかけるとおじさんたちがアソコばかり見せてくる」と私たちが訴えると、彼らは馬鹿みたいに笑ったあと「イチモツ様見せて何になるんや。意味解らん」と不思議そうに言った。当たり前のように性欲をぶつけられるネットの世界で、大人の男はそういうことをするものだと決めつけかけていた私たちにとって、その交流はある種、最も新鮮な体験だった。だから今でも記憶に残っているのだと思う。
2時間ほど通話をして、お互い名残惜しいまま通話を切った。こんなに素敵な人もいるのか。ネットにいる人たちが、皆同じような欲求に囚われて生きているわけではないらしい。「斉藤さん」はひとりひとり違うのだ。そんな当たり前のことに、私たちはそのとき気づかされた。
名前のない人たちとの交流に不思議な魅力を感じた私は、高校に入ってからは2ちゃんねるにハマった。初めはいわゆる「まとめサイト」を読むだけだったのだが、新たな学校生活で思うように友人ができなかった孤独と、周りとは違う容姿が日々視線にさらされるストレスで「私も名無しのひとりになってみたい」と思うようになった。毎日学校の誰とも言葉を交わさないまま真っ直ぐ帰宅しては、ゴマ粒のような小さな文字が羅列されたスレッド一覧からお気に入りのものを見つけ、同じく名無しの人たちとくだらない話を楽しんだ。
ときどき自らスレッドを立てて顔をさらしたりもして、チヤホヤされて気が済んだらまた名無しに戻る。お互いを「おまえら」と呼び合う空間の中で、私たちは果てしないひとつの生命体のようだった。身体の細胞が日々入れ替わっていくように、「おまえら」も日々入れ替わっていく。私はどこの誰と会話をしているかも知ることはできないし、ふとした時に心が通ったどこかの誰かは、次の瞬間には死んでこの世からいなくなっているかもしれなかった。〝ヌクモリティ〟に浮足立って「おまえら愛してるぞ」なんて書き込んでみる。私が愛していると言ったのは、誰だったのだろう。現実の世界では憎み合うことになるかもしれないのに、そこではあらゆる人に無責任に親しむことができた。
あるとき、自分の顔をさらしたスレッドがまとめサイトに載っているのを見つけた。サイト内でもその記事はなかなか注目を集めたらしく、たくさんの人がSNSにリンクをシェアしたようだった。シェア数が表示されているボタンを押してみると、ツイッターのユーザーたちが各々コメントをつけて呟いているようすが見える。おおむねコメントはポジティブなもので、私は嬉しくなってそのアカウントたちを自分のアカウントで片っ端からフォローしていった。フォローに気づいたユーザーたちは「本人だ! スレッド見てたよ」と次々にメッセージをくれた。なるほど、私が戯れていた「おまえら」は、この人たちのことだったのか。引きこもりのお姉さん、地方の褐色フェチの会社員、ネトウヨのおじさん。種明かしのように「おまえら」のヴェールを脱いだ人々が、私の前にひとりの人間として姿を現した。私たちは大きな名無しという生物から分離して、ひとりひとりの独立した人間になった。ほとんど使っていなかったSNSのアカウントは、それから彼らとの交流の場になり、一部の人は文化祭に来てくれたり、私が出演する舞台を観に来てくれたりもした。
人間になった私たちは、当然考え方が合わなかったり、距離の取り方を誤ったりして煩わしい存在になることもあった。でも、私は変わらず彼らと繋がっていたかった。だって彼らは「おまえら」だったのだから。ひと時でも同じ世界の住人として、私たちは言葉を交わし合ったのだから。きっと分かり合えない人たちなんかじゃない。彼らが今のフォロワーの土台となって、私のアカウントは今に至るまで成長し続けている。何年も同じアカウントを使っているうち、気がつけばアカウントが消えてしまったり、消えていなくても投稿がぱったりとなくなってしまったりした人もいた。それに気づくたびに、私は言いようもなく寂しくなる。名無しの時は認識できなかった人々の消滅が、どこかで起こってしまったかもしれない病や死を想像させる。ここから観測できなくなれば、人生が交わることはもう二度とないのだ。
私は彼らの顔を知るべきではなかったのだろうかと、少し後悔するときがある。それでもインターネットは、それが生まれる前からすれば想像もつかなかったような人生を目の当たりにさせる。見上げた先のマンションや、丘の下に広がる住宅街は、変哲もない生活の背景ではなく、そのひとつひとつに人が住んでいて、何十年もの人生が詰まっていた。頭では理解していたはずのことが、無数に流れてくる投稿のひとつひとつや、無限に湧き上がるスレッドによって思い知らされる。私がそのすべてを知りたいと両手一杯に掬ってみても、それらは指の隙間から砂のようにこぼれていく。私はいつの間にか、現実の自分の手が届くところだけで満足することができなくなっていた。きっとインターネットがなかったら、こんなことは考えもしなかっただろう。あの時の斉藤さんも、私が見つけることのできないどこかできっとまだ生きていて、音もなく死んでいくのだ。
私はできることなら、彼らにひとこと「ありがとう」と伝えてみたいのだと思う。あの日の対等で平和なやりとりがあったおかげで、私は今も顔も知らない誰かの優しさを信じ続けることができている。あなたたちが「斉藤さん」だったおかげで、私は誰と向き合うときも、あの時の彼らかもしれないと、親しみと敬意を持って向き合うことができる。私が書き物をしたり、テレビに出たりして、もっとたくさんの人たちに自分を知ってもらいたいと願っているのは、きっとそういう人のうちの、ひとりでも多くに私を憶えていてほしいからだ。私がどこからでも見える大きな目印になれば、ネットの世界から消えていった彼らにも、きっとまた会えるような気がする。どうかまた私を見つけてほしい。いまや名前を検索すれば、ネットには私の本や写真が並んでいる。私はもう名無しには戻れない。こうしてこれから命が尽きるまでずっと、私は私のひとつしかない顔と名前を大きく掲げて、ネットの海を泳いでいこうと思う。
1年ほど前から更新が止まってしまったアカウントのことを思い出した。覗きにいっても相変わらず更新されていないままで、また寂しさが押し寄せる。
「元気にしてる?」とダイレクトメッセージを送ってみた。数日待ったが返事はない。きっとネットに飽きただけで、彼女はどこかで元気にしているのだろう。そう信じている。



伊藤亜和
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