世界は五反田から始まった(05) 焼けて、野原|星野博美

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初出:2019年05月30日刊行『ゲンロンβ37』

 イースターの連休を利用して、香港の親友家族が遊びに来た。香港人の夫、阿波(アポー)は、一九九〇年代初めに香港で空前のブームになった日本留学組だ。阿佐ヶ谷の日本語学校に二年間通ったあと、留学生枠で日本の四年制大学に入り、日本人女性の利香と結婚して、一九九六年に香港に戻った。私が彼らと知り合ったのは、彼らが香港で新婚生活を始めて間もない、そして私が香港に住み始めた二ヶ月後の、一九九六年十月のことだった。その後生まれた坊やは、十一歳になった。

 周知の通り香港は、一九九七年七月一日にイギリスから中国に返還され、「香港特別行政区」となった。中国本土とは異なる特別な行政方式で統治されるが、まぎれもなく中国の一部、という位置づけである。

「一国両制」とは名ばかりで、香港では様々な局面で日に日に中国化が進んでいるが、おもしろいことに、カレンダーだけは一国両制を遵守している。香港の暦は、華人社会の日常生活に深く関わる旧暦(農暦、あるいは陰暦)の、「二十四節気」を重視する。いまではそこに、英国統治の名残と革命中国の幻想が入り混じる構成になっているのだ。

 順に見ていこう。新暦一月一日は、一応英領時代の祝日を継承しているものの、盛大に祝うのはあくまでも旧暦の新年だ。たいてい一月末から二月中旬あたりに旧正月が来て、大型連休となる。新暦十二月二十五日の「聖誕節」(クリスマス)から、旧暦正月十五日の「元宵節」(いわゆるランタン・フェスティバル)までは、香港のネオンが最も賑やかになり、香港市民が浮足立つ季節だ。

 四月に入ると、旧暦三月三日の「清明節」がある。一族郎党で墓参りに行き、会食をして、ファミリーの結束を再確認する、とても大切な日だ。

 それからほどなく、突然英国色が復活し、「復活節」(イースター)がやってくる。耶蘇(イエス)が十字架で処刑された聖金曜日を記念する「耶蘇受難節」(レント)から、復活節翌日のイースター・マンデーまでが連休だ。もともと香港では、この時期が日本のゴールデンウィークのような大型連休の位置づけだった。この連休を廃止しないのは、香港の天主教徒(カトリック)や基督教徒(プロテスタト)に配慮した結果というよりむしろ、長きにわたった英領期間中に香港市民に根づいた、「四月には連休がある!」というささやかな喜びを奪わないためであろう。

 五月に入ると、新暦一日が「労働節」、メーデーの祝日だ。これは返還後の一九九九年から追加された祝日で、もちろん、無産者革命を果たした中国から輸入されたものである。中国ではこの時期も連休になるが、イースターと時期が近すぎるためか、香港では一日こっきりだ。

 驚いたことに、一九九九年からは、旧暦四月八日も祝日の列に加えられた。「大五反田」にある、浄土宗の寺院系幼稚園出身である私は、この日に強く反応せざるを得ない。この日は園児にとって、お芝居やお楽しみ会のある最も楽しい日の一つ、お釈迦様の誕生日だったからだ。

 この「佛誕節」が香港の祝日に加えられたことは、意外というか、衝撃ですらある。迷信や宗教を排除して、共産党による一党独裁化を進めた中国では、この日はもちろん祝日ではない。想像するに、「キリスト教由来のイースターを残すなら、こちらにも配慮せよ」と、香港の仏教陣営から強い働きかけがあったのではないだろうか。

 一年の後半に入ると、返還後に追加された祝日は二つある。
 新暦七月一日は「香港特別行政区成立記念日」。もちろん、返還前には存在するはずのない祝日だ。中国側からすれば、「香港無血開城記念日」といったところだろう。

 そして新暦十月一日が「国慶節」。一九四九年十月一日、北京の天安門の上で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したことを祝う、中国の建国記念日である。香港ではこの日が祝日になるのみだが、中国ではここが大型連休になる。中国の観光客が香港に波のように押し寄せ、ただでさえ日々忍び寄る中国化を否が応でも再認識させられる、香港人にとっては悪夢の時期である。香港市民の愛国教育のために追加された国慶節が、中国に対する違和感を増幅させるという、皮肉な結果につながっている。

 私の親友家族が日本にやって来るのは、復活節の連休、つまり、たいてい四月初めから中旬頃になる。かつては真冬の旧暦正月を利用して来日していたのだが、数年前からイースターにシフトした。旧暦正月の連休は、日本も中国からの観光客だらけとなり、香港人としてはあまりおもしろくないだろう。大陸中国人とバッティングしない大型連休は、彼らにはもう、イースターしか残されていないのである。

 


 親友家族はここ数年、来日する際、成田空港から日本入りして、前半は利香の実家方面で家族や大学時代の友人と過ごし、最終盤は大五反田に南下して私と過ごし、戸越銀座と武蔵小山で最後の買い物をしたり髪を切ったりして、羽田空港から帰国の途につく、という方式を採っている。

 今回彼らとは大崎駅で待ち合わせ、大崎広小路でラーメンを食べ、住宅街を通って戸越銀座に向かった。

 夫の阿波は、六年にわたる日本生活を中央線沿線で送ったため、それ以外の東京をあまり知らない。都会と住宅が隣接した大五反田の、何もかもが新鮮に映るようだった。

「このへんは、香港で言うとどのあたりになる?」と阿波が聞いた。

 それは大変いい質問だった。香港と東京を単純に比較することはできないが、私が香港で偏愛する地域は、たいてい大五反田と似ている。

 「觀塘(クントン)かな。あるいは新蒲崗(サンポーコン)とか。人口が多くて、小さい工場がたくさんあったから」

「へえ、そうなんだ……」

 觀塘は、九龍半島の東側にある、かつては地下鉄の終点だった町で、集合住宅の中に小さな町工場がひしめきあっていた。ここの雰囲気が好きで、香港在住時はたびたび出かけたものだ。

 香港に行ったことがなくても、映画好きの人ならこの町を目にしたことがあるかもしれない。王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『天使の涙(原題「堕落天使」)』で、黎明(レオン・ライ)が演じた殺し屋の潜伏部屋があった町こそ、觀塘である。

 一方の新蒲崗は、悪名高き、しかしその実はごく普通の市民が多く暮らしていた、あの九龍城塞のすぐ隣にあった町で、工業団地が多かった。九龍城塞で働く元密航者が多く暮らした町でもある。ちなみに彼のお父さんは、九龍城塞内の闇カジノで、雇われ店長を長年務めていた。

 觀塘と新蒲崗……。気軽にそう答えてはみたものの、直後にものすごい違和感に襲われた。彼とて、この返答では納得できないだろう。いま目の前に広がる風景には、工場などまったくないのだから。
 時空のひずみが生じていた。私が脳裏に描く、觀塘や新蒲崗を彷彿させる大五反田は、私の幼少期にすでに終わりかけていて、父、あるいは祖父が見た風景なのだ。私はこれらの町に、失われた大五反田を求めていたに過ぎない。

 



「お父さんはどこで生まれたの?」と彼が聞いた。「ここだよ。もっと五反田のほうだけど」と答えると、「ここなの?!」と彼が驚愕した。

 この反応は香港人ならで、興味深かった。

 清が阿片戦争に敗北し、香港島をイギリスに永久割譲させられたのが、一八四二年の南京条約。それから香港の人口は、中国の歴史に足並みを揃えるように人口の増減を繰り返すが、なんといっても爆発的に人口が増えたのは、一九四九年の中華人民共和国の成立である。彼をはじめ、私の古くからの友人の親(全員死に絶えているが、生きていたら八十代後半から九十代前半にあたる)は、ほぼ全員がこの時期に中国から身一つで渡ってきた、故郷が中国にある人たちだった。「年寄りはみな田舎出身」という感覚のある彼からすると、都会出身の年寄りである私の父が、新種の動物のように見えるらしかった。

「いつから東京にいるの?」と次に問われたので、「おじいちゃんが来たのが一〇三年前」と答えた。彼は遠いかなたを見つめるような表情をした。親の世代で香港に亡命した彼らは、祖父母と暮らしたことがない。しかも中国との行き来が容易ではなかったため、祖父母や親戚を知らない人が非常に多い。一世紀前となると、有史以前みたいな遠さになるのだった。

「小さい家が多いね」と彼が言う。香港の摩天楼と比べたら、確かにそう見えるだろう。

「古い建物が少ないね。古い建物は香港のほうが多いかな」と続けて彼がつぶやく。いまではだいぶ再開発が進んでしまったが、英領時代の植民地建築は、香港島と九龍半島にまだ少なからず残っている。香港に住んでいた時、歴史ある建造物がゴロゴロある香港を羨ましく思ったものだ。古い建造物の話題を振られたら、東京人はうなだれるしかない。

「仕方ないね。みんな燃えたから」

 多少の自虐をこめてそう答えると、彼は真顔で「火事があったの?」と聞き返した。

「火事じゃないよ。戦争だよ」

「どの戦争?」

「第二次世界大戦」

 まだ事情を掴めないらしく、キョトンとしている。

 英領香港も第二次世界大戦の被害を受けた。ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲した頃、ほぼ同時に香港も奇襲を受け、約半月後の一九四一年十二月二十五日、駐港英軍が降伏したのである。この日は「ブラック・クリスマス」と呼ばれ、負の記憶として語り継がれていた。それから一九四五年八月十五日に日本が降伏するまでの四年弱、香港は日本に占領された。だから香港では反日感情が大変根強く、留学していた一九八六年当時、年配の人たちからずいぶん口撃されたものだ。

 もし香港へ行く機会があったら、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)をぜひ訪れてほしい。壮麗な植民地建築で知られる、日本人観光客にもなじみ深い、香港一の高級ホテルだが、日占初期、日本軍の総司令部が置かれていたところである。

 ペニンシュラ・ホテルが往時の姿をいまもどどめているように、香港は、日本に占領されたものの爆撃を受けなかったため、街並や建造物はそのまま残った。だから彼は「東京が燃えた」と聞いても、ピンとこないのだろう。

「このあたりは全部焼けたんだよ。もちろん、うちも」

 そう言うと、彼は言葉を失った。
 広島と長崎に原爆が落とされたことは有名だが、東京が焦土と化したことを知らない香港人は意外と多いのか? もしかして、ほとんど知られていないのではないだろうか……。

 それはある意味、仕方がない。香港人がテレビや映画を通して培った日本人のイメージは、カーキ色の軍服姿で銃剣を振り回し、「パカヤロウ!」と叫びながら中国人を蹂躙する、戦争加害者としての姿だったのだから。

 東京が焼けたことを強調して、日本の加害責任を免罪してもらおうとは思わない。しかし、東京に古い建造物が存在しない理由、日本人の思考回路に「スクラップ・アンド・ビルド」が定着してしまった理由は、もう少し知られてもいいと思うのだ。

「全部焼けた。焼けて、野原になった」

「どうしてアメリカはここを爆撃したの? 家があるだけなのに」

 いい質問だった。それが戦争というものだよ、と言いたい気持ちは山々だったが、あいにく大五反田が空襲を受けたのは、米軍が血も涙もないからだけではない。

「工場がたくさんあったからね」

 彼はまだピンときていない。

 香港は加工貿易と金融を主要産業として繁栄した街である。彼が幼少期に目にしたことのある工場製品はさしずめ、あまりに香港製が多かったために世界中で「ホンコン・フラワー」と呼ばれるようになった造花や、プラスチック製品、欧米向けに輸出されるクリスマス・ツリー用の電球や飾り、あるいは、せいぜい衣服の類だろう。

 しかし帝都・東京の町工場は、そう無垢ではなかったのだ。

「軍と関係があったからだよ」

 これから戸越銀座で爆買いをしようという楽しい気分は、私の一言で吹き飛んだ。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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