世界は五反田から始まった(最終回) 星野製作所の最期|星野博美

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初出:2021年5月21日刊行『ゲンロンβ61』
 2021年2月末、私の父が長年仕事を請け負ってきた、大崎広小路のA工務所が、とうとう廃業した。業務は同業他社に譲渡し、若い従業員と下請けも可能な限りそこに引き継いでもらうという自主的廃業である。

 私の父は1997年に自分の工場を閉鎖して製造業の一線から退いたが、それから23年間にわたり、得意先と下請けの橋渡しをする仲介のような仕事をしてきた。

 製造業は何よりも信用を重んじる世界だ。信用で関係を縛るとでもいおうか、長年付き合いのある人間を介さないと取引先を信用しない。親工場は納期を守って質のよい製品を納品してくれる評判のよい下請け先を求める。下請けもまた然りで、危なっかしい、あるいは胡散臭い新規の得意先とは関わりを持ちたくない。無理をして設備投資をした途端に手を引かれたりでもしたら、大損害をこうむるからだ。そこに、父のような人間の介在する余地があった。

 得意先から図面とともに注文が来ると、父が下請けに発注し、出来上がった製品がうちに納品される。そしてそれをうちから大崎広小路の工場に配達する。父は手数料をもらう仕組みだ。

 2010年に私が車の免許を取得してからは、月に1、2度の配達は、運転の練習という名目で、もっぱら私の担当になった。中原街道を北上して五反田駅で右折し、第二京浜国道に入って大崎広小路へ行く。私が定期的に五反田のゲンロンカフェ前を車で通るのには、そういう理由があった。

軍需と平和利用


 この工務所のA会長は、現在95歳。福井県出身で、先代会長の一人娘と結婚して養子に入り、事業を継いだ人物である。父の周囲のバルブ製造業者には、福井県出身者、そして婿養子が少なくない。

 A会長は、数年前に事務所の階段から落ちて大ケガをしたものの、工場閉鎖までほぼ毎日、事務所に顔を出し、現役として働いていた。うちなどとは事業の規模が異なるが、ここも工場、事務所、自宅が同じ敷地内にある職住一体環境だった。

 A会長も息子がなく一人娘だったため、銀行勤めの婿養子を迎えて後継者としたが、結局は廃業という結論に至った。その決定的な理由はわからない。私からは事業は順調そうに見えたが、工員の高齢化は顕著で、最年少の人が50歳くらいだった。このまま事業を存続させても、先行きは不透明だと判断したのかもしれない。あるいは第二京浜国道に近い交通至便な場所に広大な敷地面積を所有しているので、マンションなどに建て替えるのかもしれない。

 A工務所とうちの付き合いは、現会長の先代と私の祖父の時代に遡る。先代が工場を切り盛りしていた時代、父は高校生の時から出入りしてきたという。父が疎開先から戸越銀座に戻ったのが昭和24(1949)年、16歳の時。この工場から目と鼻の先にある立正高校(現在は西馬込に移転)に通っていたので、学校帰りに立ち寄ることもあった。父はA工務所と70年以上付き合ってきたことになる。
 星野製作所が、戦前は軍需工場の下請けとして、戦闘機関連の部品を製造していたらしいことは本連載ですでに触れた。戦争が終わり、右肩上がりの昭和の高度経済成長期、うちが作ったのはジャグジーや消火用スプリンクラー、火災報知器に使われる部品だった。スプリンクラーに関していえば、大崎広小路のTOC(東京卸売センター)の駐車場に、うちの工場で作った部品がいまだに使われている。

 そして時代が下って日本の経済成長が鈍化した平成の初頭、父は工場を閉鎖し、A工務所と下請けをつなぐ仲介のみに携わることになった。私が定期的にA工務所に配達した螺子や金属製の網は、原子力発電所に使われる部品だった。つまり広義で私は、原発事業の末端の、さらなる末端の配達を担当していたことになる。

 その変遷を驚くかといわれたら、製造業の子としては驚かない。製造業というのは、戦時になれば軍需品、平和な時は平和利用、と相場が決まっている。

星野製作所の危機


 父の仲介業が最大の危機に瀕したのは2020年だった。原因はコロナウィルスではなく、骨折である。

 コロナウィルスの感染拡大が日本でも現実的になった3月半ば、父は自宅で転倒し、五反田のNTT東日本関東病院に救急搬送された。たまたま五反田で打ち合わせをしていた私は、打ち合わせを途中で切り上げ、病院に直行した。左大腿骨にヒビが入ったことが判明し、入院、手術、リハビリに約1か月を要した。

 そしてゴールデンウィーク直前に退院したが、その翌日に自宅で再転倒。この時は顔面を強打して前歯が欠けたくらいで済んだが、ゴールデンウィークが終わり、ちょうど私が五反田のゲンロンカフェに登壇していた5月8日、再転倒。なぜ私がたまたま五反田にいる時を狙うようにして、父は転ぶのか、不思議でならなかった。今度は右大腿骨の骨折で、再入院、再手術。あまり早い社会復帰は再転倒の恐れが大きい、と医師に諭され、三軒茶屋のリハビリ病院に転院して重点的なリハビリを行うことになった。入院生活は7月末にまで及んだ。

 その間にもA工務所からはふだん通り注文書が届き、下請けさんはうちからの発注を待っている。感染拡大防止のため、入院中の父には面会できず、しかも父はメールができない。私に図面は書けず、請求書や納品書の書き方もわからない。結局、A工務所から届いた注文書や請求書のファイルを、私がリハビリ病院に運び、受付に託して父に渡してもらう→父が請求書と注文書を書きあげると病院の受付に託し、私が車でとりに行く→それを私から下請けさんにFAXして発注する、という、極めてアナログな方法を採ることになった。私はこの間、戸越銀座、三軒茶屋、大崎広小路の3地点を車で走り回った。ITが発達したいまの時代にばかみたいな労力だが、当方88歳、先方95歳の世界では、誰かが動いて手渡すしかないのだ。そうしてなんとか父の仲介業務を存続させることができた。2020年は私が自動車免許を取得して10年の節目だったが、これほど車で走った年はなかった。

 父がこの仕事を通して受ける報酬は、月平均で10万から20万円ほど。年金も不動産収入もある身としては、切実な金額とはいえない。今後も入院するたび、繁雑なやりとりに誰か──それをするのは間違いなく私だった──が奔走しなければならない。そろそろやめてはどうか、と母は何度も父に提案した。

「金のためにやってるわけじゃない。俺がやめると、お得意さんも下請けも困るからやっているんだ」

 そのたびに父はそう反論した。
 一方、三角地点を車で奔走する私は、正直言って面倒だが、父からこの仕事を取り上げる気にはなれなかった。人工透析を受け、骨もボロボロの父が、少なくとも頭がシャキッとしていられるのは、責任ある仕事に従事しているからだ。父から金勘定を取り上げたら、はりあいを失い、急に老けこんでしまうのではないか。そのほうが私には恐ろしかった。

 加えて、父がいつ仕事をやめるかは、本人が決めることであって、私が介入してよい問題ではない、とも思えた。

 祖父が昭和2(1927)年に創業し、まがりなりに93年も続けてきた家業なのだ。幕を下ろす時は、当事者である父の意思によってでなければならない。

 そうこうするうちに2021年を迎え、じきにA工務所から工場閉鎖のお知らせが来た。父は安堵の表情を浮かべ、「これで仕事をやめられる」とつぶやいた。

「俺からお得意さんに『やめます』と言うことはできない。でも向こうがやめるなら、自然にやめることができる。本当に幸運だ」

 なぜこちらから「やめる」と言えないのか、私には不思議に思えた。ヒエラルキー下部が上部を切ることはできないということなのか?

「少し違う。じいさんの代から仕事をもらってきたお得意さんに対して、そういう不義理はできない。できない、じゃなくて、そういうことはしたくなかった。これで本当に、静かにやめられる」

 父はA工務所と2つの下請けさんをつなぎ、今後も引き続き仕事を出すことを確約してもらった。そして今後の発注の流れ、製品の配達方法などを確認し、この仕事から足を洗った。

 2021年3月、こうして星野製作所は完全に廃業した。

 私は家業を継ぐことはなかったし、家業を深く理解しているわけでもなかった。手伝ったのも、おこづかいが欲しかった幼少期と、最後の10年だけだ。でも、祖父が興し、父が継いだ星野製作所の最期をじかに目撃することができて、よかったと思う。

祖父に残された時間


 これまで折に触れては祖父の書き残した手記を引用してきた。今回は最終回ということで、その手記にまつわる話を書いて終わりたい。

 それは、胃癌で──本人には胃潰瘍と伝えられていたものの──残された時間が少なくなった祖父が、自宅療養をした際に書き残したもので、便箋1冊とB6ノート1冊だ。その当時の様子は拙著に書いたことがあるので、僭越ながら引用する。

 私は、ベッドに横たわる祖父の近くで多くの時間を過ごした。自宅療養するようになってからというもの、祖父はよく机に向かって何かを書いていた。
「何書いてるの?」
 かまってもらいたい私が尋ねると、「昔のことを書いてるんだ」と答え、また書くことに没頭してしまう。いままで通り花札や野球拳で遊んでもらいたい私は少し寂しかった。その没頭ぶりは日を追うごとに深まっていくようで、まだ分別のない私にも、何か邪魔をしてはならないような殺気さえ漂わせていた。それでもしつこくつきまとう私を、しまいには「向こうでおばあちゃんと遊びなさい」と追い出した。でもおばあちゃんじゃしょうがない。おもしろい遊びを教えてくれるのは、おじいちゃんだけなのだから。
 手遅れの胃癌であることを家族がいくら隠したところで、祖父自身、自分には時間がないことを自覚していた。だから何かを書き残そうとしたのだろう。★1


 私が祖父の書いた手記を父から受け取ったのは、25歳くらいの時だった。

 と書くと、あたかも父が大切に保管してきたものを受け継いだように聞こえるだろうが、そうではない。手記の存在など誰もが忘れていて、祖父が書く姿を間近で見ていた私だけが覚えていた。それはちょうど自分が文筆業として生きていくことを意識し始めた頃で、残り時間の少なくなった祖父が書いたものは絶対に紛失してはならない、自分が管理すべきだ、と思ったのである。

「おまえも文筆業の端くれだから、おまえの手元にあるのが一番いい」
 こうして祖父の手記は私の手に渡った。
 アパートに戻り、数枚読んだ。おもしろい。しかし私は便箋を閉じた。
 非常に興味深い内容だが、自分のルーツを知るのはまだ早すぎる。これは下手にいま目を通さないほうがいい。心の準備ができないうちに読んでしまったら、感動や驚きが半減してしまう。また心のどこかに、ルーツを知るのがなんとなく怖いという思いもあった。★2


 それから15年ほどがたち、2007年にお葬式で久しぶりに多くの親戚と再会したのをきっかけに、いまこそ手記を読むべき時がきた、と察した。親戚が次々と鬼籍に入り始め、一刻の猶予もなかった。しかしそもそも祖父の家族の名前や関係性、ゆかりの土地といった基礎知識がなかったため、内容がさっぱり理解できない。父と一緒に御宿町役場へ行って明治時代の戸籍を見せてもらったり、親戚の長老に話を聞いたり、漁師の親戚にイワシ漁のいろはを教えてもらったり、お墓を調べたりして、ようやく祖父の手記が理解できるようになった。

 手記の解読が進むと、その話を父や親戚に向け、彼らが思いもよらぬ昔話を思い出すことがある。昔話を頼りに手記を解読し、手記がさらに昔話を呼び起こすという相乗効果があり、ようやく手記が身近に感じられるようになった。
 原本はわが家の宝なので、金庫にしまい、ふだんはWordで清書したものを読んでいる。

 星野製作所も廃業したことだし、手記の原本を見たくなり、久しぶりに金庫を開けて取り出した。

 手記は、自分の生い立ちやファミリーの古い話などは便箋に書かれ、その便箋が終わるとB6のノートに移っていた。くしくも、B6に移行してから戦争の時代に突入した。1ページ目にはこうある。

支那事変も終るどころか益々はげしくなりとうとう十六年十二月八日亜米利加との本格的戦争に迄発展した。八日早朝ラヂオにかじりついて日本軍の大勝のニュースを聞いた。又海軍軍艦マーチを聞いて胸おどらせた。さあこれからが大変だと思った。(量太郎手記)


 賑やかな家族の思い出話を便箋に書きつづっていた時は、筆力も強く、余白に挿絵を描く余裕もあったというのに、B6ノートに入ってからは明らかに筆致が異なる。黒いペンになったり万年筆になったり、しっかりした字の時があるかと思えば、数行後には弱々しい字になったりと、様子が著しく不安定になっていた。

 それは祖父の体調が思わしくなかったことを意味しているのだろう。やっとのことで数行書き、書けない日が続く。これでは時間が足りなくなってしまう、と焦り、またペンをとる。しかし体力がもたない。また数行で終わる。そうやってなんとか戦時中の話を書き残そうとしたことが、ノートに残された文字から伝わってきた。

 しかし体調の悪化は意外に早く、B6ノートは9ページ目で終わっていた。そしてこの最後のページに書かれていたのが、祖父の家と工場を焼いた、昭和20(1945)年5月24日の城南大空襲だったのである。

越ヶ谷へ帰ったときの空襲時等、今頃東京ではどうして居るかと心配はして居るものの昼のつかれかぐっすりとよく寝られた。五月二十四日の夜東京城南方面は大空襲があったとラヂオで聞いた。朝早めに起き来て見ると住居も工場もあとかたもなく焼けて居た。何時かは焼けるものとは思って居たが、焼けた機械だけが四、五台元の位置に並んで居た。機械類を一ケ所に集め焼けた残品等の上をとたんでおほひ一応片付けた。(量太郎手記)


 家が焼かれたところでノートは終わっていたのか……。自分で清書したプリントアウトばかりを見てきたので、これまで気づかなかった。

 焼け野原まで書かないと終われない。体調の悪さを押して、なんとかここまで書き進めたのだろう。そのことに、心から感謝する。父は家と工場が焼け野原になったところを見ていない。祖父が書き残してくれなければ、本当に知る機会がなかった。

 B6ノートの後ろに、1枚の紙が挟んであった。ピンク色の新聞の折り込みチラシを半分にちぎったものである。それは、ある中堅企業の求人広告だった。
「東京電波は、昭和9年創業、約40年の歴史を誇る中堅企業で、主要製品の水晶振動子は業界のトップメーカーとして躍進中です。会社は、本門寺の裏側にあり、住宅街に囲まれた静寂な環境で、冷暖房の完備した静かな職場です」「昼夜125名の方が活躍中です」というパートタイマーの初任時給は300円、隔週休2日制の女子社員の初任月給は5万8000円、とある。

 この広告の裏に、30行ほどの文章が書かれていた。祖父の手記の、最終部分である。

親工場桜ゴム会社の方へ焼けた事を報告し、復興するいろいろな手ツヅキをした。工員も召集されたり他の職に変ったりして残った人は五、六名居たが、この先仕事する迄はそうとうな時間がかかるので皆とも相談して自由にする事にした。義弟・義夫は山梨県の甲府市の近い所に妻の従兄が居るのでそちらへソ開して近所で働く様になった。(量太郎手記)


 その紙に書かれた文字は、特に弱々しく、乱れ、筆力がなくても書ける万年筆で書かれていた。かなり体調が悪くなってから書いたに違いない。

 そして改行し、復興に向けて動き出したことをつづっていた。

東武線越ヶ谷駅から約一時間位の所に花崎といふ小さな駅がある。乗降客が少ないせいか駅長只一人なのです。その駅から徒歩二十分位の所に、五千羽以上居る養ケイ場があるが、その片隅のところを借りて工場をやる事にした。越ヶ谷住居から近いからといふ事もある。焼けた機械を運び、修理すれば何とか使えるので全部そこへ運んだ。電動電気は隣町の加須町の電気会社へ行って一日も早く使用出来る様依頼した。(量太郎手記)


 戸越銀座が焼け野原になり、工員も召集や疎開で散り散りになったいま、もとの形で復興するには時間がかかる。そこで、東京に固執せず、埼玉をベースにした復興を祖父は考えたのだった。

 それにしても、養鶏場の片隅を借りて工場を開いたり、地元の電気会社を頼りにしたりと、発想が柔軟性に富んでいる。

 失ったものの大きさを嘆いてばかりいても仕方がない。誰もが多くを失ったのだから。

 遠くを見すえながら、足元を固めること。いま、ここで自分にできることを、とりいそぎすることから始めた。

 昭和2(1927)年に祖父が創業し、2021年に完全廃業した星野製作所は、養鶏場の片隅で復興の産声をあげたのか。そうやって事業の灯を絶やさず、ここまで続けてきたのかと思うと、ちょっとじんときた。父が仕事をやめる決断を延ばし延ばしにした気持ちが、ようやく私にも想像できた。ただやめるだけではない。94年続いた家業に終止符を打つということなのだ。それは重い決断だったに違いない。

 そして、焼け野原で手記を終わらせず、たった紙ペラ1枚でも、復興に向けて動き出したところまで書いてペンを置いたことを、祖父らしいと思った。絶望で終わるより、希望を感じられる話を残したい。のちのち、これを読むであろう私(あるいは私たち)に対する心遣いだろう。

 ふと、折られた広告の裏紙を開いた。折られて隠れたほうに、最後の1行が残っていた。

然しその間にも空襲は多く、はげしくなって来た。
 戦争、まだ終わっていなかった!

 後世を生きる私は、戦前・戦後という時代の分け方を何の疑問もなく行い、まるで二つの違う時代があったような錯覚を起こしていた。そして当然ながら、復興は戦後から始まった、と思いこんでいた。

 しかしその時代を実際生きた人の感覚は違ったのだろう。祖父の中にあったのは、焼ける前と焼けたあと、という区分だった。空襲がまだ続いていても、すぐさま復興に向けて動く。おまえもそうやって生き延びろよ、と祖父から活を入れられたような気がした。
 

戦前の星野製作所(戸越銀座)で撮影された一枚。前列中央で犬を抱いているのが、祖父の量太郎だ。 提供=星野博美
 

「五反田のことを書いてほしい」

 ゲンロンの東さんと上田さんからそう打診を受けた時、「五反田のためなら喜んで」と二つ返事で引き受けたのが、もう2年半前のこと。当初は五反田にまつわるおもしろい話を書くつもりが、やはりここに流れる家族の歴史から逃れることができず、ほとんど家族にまつわる話になってしまった。

 大五反田エリアが工場地帯として急変貌を遂げ始めた大正4(1915)年から、百年と少しがたった。祖父が上京したのがその翌年なので、わが家は3代かけ、1世紀にわたって五反田界隈と付き合ってきたことになる。

 父が完全に仕事をやめて製造業から足を洗ったことは、思いのほか大きな喪失感を私に与えた。1997年に工場を閉鎖した際は、これほどのダメージは受けなかった。私が年をとったことも理由の一つかもしれないが、それよりこの連載でちょうど、城南大空襲や祖父の奮闘を書いていたことが大きな理由だと思う。

 そこに製造業があったからこそ、祖父は外房から五反田へやって来た。その製造業という柱が消滅してしまったいま、体内の血液が急に薄くなって体がふわふわするような、妙に心細い気持ちがしている。

 重心を取り戻すまでいったん休み、気を取り直して再開したい。

 一日も早く、ゲンロンカフェでみなさんと再会できますように。
 

「世界は五反田から始まった」は今号で連載終了となりますが、大五反田をめぐる思索の旅はまだまだ続きます。充電期間ののち、星野さんのつぎなる連載を楽しみにお待ちください。本連載をまとめた単行本は弊社より今秋刊行予定です。(編集部)
 

★1 星野博美『コンニャク屋漂流記』、文藝春秋、2011年、14頁。
★2 同書、15‐16頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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