世界は五反田から始まった(12) 党生活者|星野博美
初出:2019年12月27日刊行『ゲンロンβ44』
残念ながら、文学作品に五反田はあまり登場しない。
大五反田全域を見渡せば、いくつか見つかる。たとえば向田邦子の『あ・うん』は、祖父が上京後に初めて暮らした芝白金三光町を舞台にしている。三島由紀夫の『宴のあと』。これには白金にあった高級料亭、般若苑が登場する。父は若い頃、お得意さんの金持ちお父さんに連れられ、1度だけこの料亭でごちそうになったことがあるそうだ。
それから古典落語の「井戸の茶碗」。私は落語にまったく詳しくないが、清貧と人情を主題にしたこの作品が好きだ。主人公である屑屋の清兵衛が「くずーい、くずーい」と声をあげながら練り歩く通りが、「清正公様」の界隈。江戸時代、このあたりに武家屋敷が多数あったことがよくわかる物語である。白金にある清正公、正式名「覚林寺」は、丁稚時代の祖父が縁日を楽しみにしていた寺であり、わが家はいまでもここへ初詣に行く。
大五反田の円からはわずかに外れるが、「忠臣蔵」で一躍有名になった、赤穂浪士と浅野内匠頭が眠る泉岳寺。ここは、幼少期に祖母に何度も連れて行かれた思い出深い場所だ。
いずれも残念ながら白金・高輪方面である。
しかし落ちこむなかれ。昭和初期の五反田、しかも五反田駅界隈を書き残してくれた、意外な文学者がいる。小林多喜二(1903~1933年)だ。
大五反田全域を見渡せば、いくつか見つかる。たとえば向田邦子の『あ・うん』は、祖父が上京後に初めて暮らした芝白金三光町を舞台にしている。三島由紀夫の『宴のあと』。これには白金にあった高級料亭、般若苑が登場する。父は若い頃、お得意さんの金持ちお父さんに連れられ、1度だけこの料亭でごちそうになったことがあるそうだ。
それから古典落語の「井戸の茶碗」。私は落語にまったく詳しくないが、清貧と人情を主題にしたこの作品が好きだ。主人公である屑屋の清兵衛が「くずーい、くずーい」と声をあげながら練り歩く通りが、「清正公様」の界隈。江戸時代、このあたりに武家屋敷が多数あったことがよくわかる物語である。白金にある清正公、正式名「覚林寺」は、丁稚時代の祖父が縁日を楽しみにしていた寺であり、わが家はいまでもここへ初詣に行く。
大五反田の円からはわずかに外れるが、「忠臣蔵」で一躍有名になった、赤穂浪士と浅野内匠頭が眠る泉岳寺。ここは、幼少期に祖母に何度も連れて行かれた思い出深い場所だ。
いずれも残念ながら白金・高輪方面である。
しかし落ちこむなかれ。昭和初期の五反田、しかも五反田駅界隈を書き残してくれた、意外な文学者がいる。小林多喜二(1903~1933年)だ。
五反田の藤倉工業
私の小学校時代の同級生、ゆみちゃんの両親がパラシュートを作っていた藤倉航装(旧名・藤倉航空工業)は、昭和14年に藤倉工業(現・藤倉ゴム工業)から分社した。その藤倉工業の五反田工場を舞台に書かれたのが、小林多喜二の『党生活者』なのである。
と、またしたり顔で話を進めようとしているが、私がそれを知ったのはいまから10年ほど前、いまはもうない五反田のあゆみブックスで五反田関連書籍を探していた時だった。そこは、品川や五反田にまつわる書籍をよくとり揃えた、お気に入りの書店だった。地元史のコーナーをぶらぶらしていると、「五反田の藤倉ゴム工業は、小林多喜二の小説『党生活者』の舞台である」というオビ文が目に飛びこんできた。川上允著、「品川の記録」編集委員会監修の『品川の記録 戦前・戦中・戦後──語り継ぐもの』(本の泉社)という本だった。
小林多喜二といえば、何と言っても『蟹工船』、そして小樽。当時は五反田のことをあまりよく知らなかったため、彼が五反田を小説の舞台に選んだ理由が理解できず、ただただ驚愕した。
いまならわかる。五反田に大工場があり、労働者が多数生息していたからだろう。
新潮文庫版の『蟹工船・党生活者』の解説で、蔵原惟人はこう書いている(昭和28年6月)。
作中の「倉田工業」は作者がかつて関係をもった藤倉電線をモデルにしたものであるが、彼はそれをすでに「満洲事変」が発展していたこの時代の「国策」化された工場の一つの典型として描いている。[★1]
この小説の主人公である「私」は小林自身の地下生活者としての体験にもとづいて描かれている。
文芸評論家の蔵原惟人(1902~1991年)は、昭和3(1928)年に全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成して機関誌『戦旗』を発行し、小林多喜二に執筆させるなど、多喜二とは早くから懇意の仲だった。『党生活者』の巻末に「作者附記。この一篇を同志蔵原惟人におくる」と書かれているほど、信頼の篤かった人物である。1929年に日本共産党に入党した蔵原は、多喜二の藤倉潜入の事情をよく知っていたものと思われる(ちなみに多喜二が入党したのは1931年秋のことだった)。
「この一篇」と書かれている理由は、この小説の最後に「前篇おわり」とあるように、多喜二が後篇の構想も練っていたからだろう。確かに『党生活者』は、クライマックスを迎えた物語がいきなりプツンと終わる印象がある。そして後篇が書かれることはなかった。書く前に虐殺されてしまったからだ。
前記『品川の記録』によれば、この小説の舞台となった藤倉工業の工場は、JR五反田駅から目黒寄りに数分歩いた、現在はポーラ株式会社とNTTコムウェアのビルが建つところにあった。この工場で昭和3(1928)年から飛行機用落下傘(パラシュート)と防毒面(ガスマスク)を製造し始めた。戦争に直結した、軍需工場中の軍需工場である。山手線外回り電車が五反田駅を発車したらすぐ左手側に見える上、ゲンロンカフェからもそう遠くはないので、カフェに行く際はぜひ立ち寄ってみてほしい。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後
星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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