世界は五反田から始まった(21) 武蔵小山の悲哀(3)|星野博美

シェア

初出:2020年09月23日刊行『ゲンロンβ53』

 時局の悪化にともない、武蔵小山商店街を中心に結成された「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓団」は、団員269名、家族770名の、総勢1039名を満州へ送り出した。農業従事者ではなく、都会在住者たちの転業開拓団である。このうち約4割にあたる401名が14歳以下だった。

『品川区史資料編』(品川区、1970年)に、当開拓団の団員たちの前職が掲載されている。職業ごとに数が多かった順に並べると以下のようになる。

 一番多かったのが洗濯業(17名)。続いて飲食業(15名)。青果商と運送業(各13名)。乾物商(11名)。洋服商(8名)。酒類商と写真機商(各6名)。

 4名が靴業、紙類商、理髪業、左官、石工、古物商、陶磁器商、家具業、雑貨商。

 3名が自転車業、魚商、肉商、豆腐業、子供服商、質商、履物商、表具師。

 2名が眼鏡商、茶商、菓子商、呉服商、木工、ブリキ業、鋳物業、燃料商、小間物商。

 1名が自動車、時計、刺繍、染物、造園、浴場、牛乳、煎豆、納豆、洋傘、洋品、蓄音機、アルバム、鍛冶工、電気器具、鋏、大工、印刷、塗装、看板、金物、製本、井戸工事。

 最後に「蒲田(団カ)」という人が1人含まれているのだが、蒲田の人がいたという意味だろうか。

 煎豆屋と納豆屋は別業種だったのか。バラエティーに富んだ店が立ち並ぶ商店街の賑わいが目に浮かぶようで、よりいっそう胸が痛む。写真機商というのはカメラ類を売る店だろうが、この業種が案外多いことに、当時の繁栄ぶりと都会性を感じる。
 
 開拓団結成にあたって書かれた「満州興安東京荏原郷開拓団結成之趣意」は、勇ましいものだ。


 われら団員はつとに国家の配給機関として商業を通じ職域奉公の誠をいたさんとし支那事変三周年記念日たる昭和十五年七月七日「武蔵小山商業報国会」を結成し爾来公憂を以って私憂となし私心を滅して公福に真し士魂以って商道をつらぬく商業報国の実践活動に終始し来った。
 然るにその後大東亜戦争勃発し時局いよいよ急を告げるに及び従来の適正円滑配給の実行を目標とする商業報国運動の不徹底消極性を痛感しここに心機一転国家に殉ずる積極的愛国運動の展開を企図し自ら進んで祖先伝来の家業を奉還し欣然として大陸開拓を決意するに至った。
 従って吾等団員は転業者なるが故に生活の途のみを満洲開拓団に求むるものでは断じてなく大戦完遂のため食糧増産に挺身し日本民族発展の基地を建設しあわせて五族協和の実を捧げんがために敢て転廃業し入植するものである。
 われ等団員は国家が要請する新らしいママ任務を遂行すべき真に日本的なる農家開拓団を一日も速かママに建設せんがために本団を結成する次第である。

 昭和十八年三月 団長 山崎真一 副団長 吉田之吉 副団長 足立守三★1


 転業開拓団であるからこそ、食い扶持を求めて満洲へ渡るのでは断じてない、という勇ましい言葉が連ねられている。

 山崎団長は武蔵小山商店街商業組合理事長であると同時に、東京和紙商業組合連合会長も務めた人物なので、上記の前職リストからすると紙類商だろう。東京呉服商組合支部長でもあった吉田副団長は呉服商、東京婦人子供服商業組合支部長を兼任した足立副団長は、おそらく洋服商と思われる。

改名された現地部落


 入団者は東京都七生村開拓訓練所において1か月の作業、および軍事訓練を受けてから入植した。

 彼らが入植したのは、満州北西部の興安街(王爺廟)西方5キロの地点で、当時は「満州国興安総省西科前旗協和地区」と呼ばれた地域。現在の行政区分では内蒙古自治区に入り、「内蒙古興安盟科右前旗大埧溝郷」という。48万坪という広大な原野を16の部落に分け、団員たちは入植した。もちろんそこには蒙古族や漢族、満州族の人たちが暮らしていて、彼らの土地を強制的に徴収した上での開墾である。
 16の部落は、日本風に改名された。梅家街→大御田おおみた、中鄂家→片敷、刑家窩→岸根いわね、西鄂家→柏、東鄂家→安見、協和屯→鍬形くわかた、西北屯→大綱、発福屯→大和、四方池→千島、東北屯→さかへ、刀池屯→瑞穂、柳樹川→千歳、東孟家→御楯みたて、北柳樹川→御影、六間房→豊、西孟家→敷島、といった具合だ。

 改名の由来とされたのは、戦時中の翼賛運動の一環として推進された、愛国の精神が表現された名歌、百首を選んだ「愛国百人一首」だという。根拠にされたと思わしき歌を挙げてみよう。


敷島:本居宣長 しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花
敷島、大和、栄:藤原為定 限りなき恵を四方よもにしき島の大和島根は今さかゆなり
安見、豊:大倉鷲夫 安見やすみししわが大君おほきみのしきませる御国ゆたかに春は来にけり
安見、大和:大伴旅人 やすみししわが大君の食国をすくには大和もここも同じとぞおも
岸根:有村次左衛門 岩が根も碎くかざらめや武士もののふの国の為にと思ひきる太刀たち 
岸根、大和:真木和泉 大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の日本やまとだましひ
岸根、御影みかげ:西行法師 宮柱したつ岩根にしき立ててつゆも曇らぬ日の御影かな
御影:荒木田久老 初春の初日かがよふ神国の神のみかげをあふげもろもろ
千島:徳川斉昭 あまざかる蝦夷えぞをわが住む家として並ぶ千島のまもりともがな
御楯:鈴木重胤 天皇おほきみの御楯となりて死なむ身の心は常に楽しくありけり
御楯:津田愛之助 大君の御楯となりて捨つる身と思へばかろきわが命かな
片敷:竹田耕雲斎 片敷きてぬるよろいの袖のに思ひぞつもるこしの白雪
大綱:野村望東尼 武士もののふのやまと心をより合はせただひとすぢの大綱おほづなにせよ
千歳:大中臣輔親 山のごと坂田の稲を抜き積みて君が千歳の初穂にぞ
大御田:賀茂真淵 大御田おほみた水泡みなわひぢもかきたれてとるや早苗は我が君の為
鍬形、柏:田安宗武 もののふの鎧に立つる鍬形のながめかしはは見れどあかずけり
瑞穂:橘千蔭 八束穂やつかほの瑞穂の上に千五百秋ちいほあき国の見せて照れる月かも


 地名の1つ1つにも、皇国精神が貫かれている。

貴重な記録


 荏原郷開拓団については、生き残った人による貴重な記録が複数残されている。
『嗚呼第十三次満洲興安東京荏原郷開拓團』(東京都武蔵小山商店街協同組合発行、1957年、非売品)は、この開拓団の副団長だった足立守三が書いた。その25年後、彼の名でさらに『曠野に祈る──満洲東京開拓団隠された真相』(恒友出版、1982年)が発表されるが、これは1972年に没した彼が家族に残した記録と証言テープをもとに、編集部によって編集されたもの。商店街協同組合が発行した最初の著作から4半世紀がたち、さらに本人の死からも10年が経過していることから、開拓団を率いた側の人間として、生前には公表できない諸事情があったものと推察される。

 一方、地獄のような逃避行から九死に一生を得て引き揚げた団員が書いたものに、坪川秀夫『棄て民よ 蒙古風は祖国まで──第十三次興安東京開拓団潰滅の真相』(日本コミュニケーションズ、1994年)がある。坪川さんは明治37(1904)年生まれなので、出版時の年齢は満90歳。命が尽きる前に思いを吐露しなければ、という強い意志が感じられる。

 さらに『慟哭の大地──第十三次興安東京開拓団の最期』(2007年)という自費出版の本がある。こちらの著者は富満ていこという、1929年生まれの女性。父親と継母、祖母に連れられて15歳で渡満し、一家は全滅、八路軍に保護されて中国で暮らし、1953年に引き揚げがかなった人である。

 種明かしが先になってしまったが、何の気なしにこの4冊を同時進行で読み始め、「同じ場面でも、なぜこれほど雰囲気が違うのだろう」と感じたところで、ようやく4冊の毛色の違いに気づいた。3人の著者は、足立副団長は開拓団を率いた側(一家全滅、本人のみ引き揚げ)、坪川さんは率いられた団員(奇跡的に家族全員で引き揚げ)、富満さんは農事指導員の家族(一家全滅、本人は八路軍に保護される)と、奇しくもまったく異なる立脚点からこの開拓団を見ているのだ。

 後世の読者である自分は、3者の立場の違いを念頭に置きながら、当開拓団に何が起きたのかを慎重に読み進めなければならない。その一方で、それぞれが異なる立場で書かれたがゆえに、様々なアングルから開拓団を見ることもできる。あまり広く知られているとはいえない東京の開拓団について、これだけ記録が残されたのは幸いなことである。

生存者の数


 これらの本を読み始め、大きな誤解をしていたいくつかの事柄に気づかされた。
 私は、武蔵小山商店街の人たちが大勢満州へ行ったことは聞きかじっていたものの、商店街に戻った人が多かった、と無邪気に思いこんでいた。

 実際は、ほとんどの人が戻れなかったのである。

 足立副団長は前傾の『嗚呼第十三次……』で「爾来十カ年殉難者八百余名の遺族、親戚、知己等への連絡と厚生省、援護局、復員局、各都道府県への連絡に果断なく忙殺されているけれど今日に至るも杳として生死不明の人々が多く余りの繁雑さに、ともすれば私の心は乱れ勝ちである」と書く。1945年8月9日、ソ連が日ソ国交断絶を宣言してソ満国境を越えて進軍した時、足立副団長は開拓団本部で情報収集にあたり、残された総人員は八百八十余名だったと記している。「開拓団に入れば召集されない」という約束を反故にされ、179名の青年・壮年男性が現地で召集されたため、開拓地には婦女子と老人ばかりが残された。彼らを守るべき関東軍に見捨てられ、ソ連侵入圏内に取り残された開拓団は、自力で退避行動をとることを迫られた。

「いかんせん八百余名の団員家族と、しかも広い土地に前記の如く点在しているのと、加うるに昨年来の相次ぐ現地応召で、いまここに残っている男子は十七才以上の青年から老人を加えて八十名足らず、これが七百余名にのぼる婦女子の保護に当たるわけだから、すぐに満拓と行動を共にするわけには行かぬ」★2

 同じ本の中で、出版当時(1957年)の武蔵小山商店街協同組合顧問の竹内藤太郎は、「勇途空しく僅かに数十名の生存者を残して全員異郷の果て興安郊外に散る桜の花の如く散華し去つた」と書く★3。足立副団長は、2冊の本を通して生存者の数には触れていない。

 一方、引き揚げ者や当開拓団が生み出した中国残留孤児を訪ねる旅を重ね、独自に調査を行った坪川さんは、最終的な調査結果として、生存者78名という数字を挙げる。その内訳は、日本引揚者53名、中国残留者25名である★4

 ちなみに坪川さんは、日本で人口に膾炙した「残留孤児」という名称をけっして使わず、「中国残留者」「残留邦人」という表現に徹している。親たちを知っているからこそ、「孤児」という名称に強い抵抗感があったのではないだろうか。

 坪川説に基づくなら、1000名を越えた荏原郷開拓団のなかで、日本に引き揚げることができたのは、僅か5パーセント。中国に取り残されて生き延びたことが後に判明した人(そのほとんどが子ども)を含めても、1割に満たない。竹内顧問の「僅かに数十名の生存者」という表現は、情報が錯綜した1957年時点の偽らざる印象だったのだろう。

 25名もの子どもが残留を余儀なくされ、中国人に育てられたことに、私は衝撃を受けている。

 前回書いたように、幼少期の私が中国に関心を持つようになったきっかけの1つが、日中国交回復(1972年)を機に始まった、中国残留孤児の肉親探しだった。自分の生まれ育った地域が彼らの育った故郷だったとは、想像もしなかった。

語り継ぐことの難しさ


『嗚呼第十三次……』は「生存せる団員」として、日本に引き揚げた団員の写真を掲載している。意外なのは、その居住地として、仙台、愛知、横浜、山梨、北海道、新潟、伊東、小田原、神奈川……といった、東京以外の地名が並んでいることだ。九死に一生を得て日本に引き揚げたものの、焦土と化した東京では生活を再建できなかった人も多かったようだ。地主はともかく、店舗を借りて商売をしていた人にとっては、引き揚げても商店街に戻る場所はなかった。

 武蔵小山商店街で開拓団の記憶が語り継がれてこなかった現実が、じわじわと実感を伴って迫ってきた。

 私は、島原半島の原城跡を訪れた時を思い出した。

 1637年、ここを舞台に、キリシタン蜂起として知られる島原の乱(現在では島原・天草一揆と呼ばれることが多い)が起きた。幕府は旧キリシタン大名が治めた藩を中心に、多国籍軍ならぬ多藩籍軍を結成して総攻撃をしかけ、城跡に籠城した37000ともいわれるキリシタンの老若男女を、内通した1人を除いて殲滅させた。原城跡はたしかに世界遺産に登録された。しかし、この界隈では、観光客を呼びたい気持ちはや山々なのに、まったくシンパシーは感じていないといった、奇妙な無関心とでも呼びたくなる空気が漂っている。

 それもそのはず、無人の世界になったここにはその後、半島北部の北目や小豆島から移住者が募られ、彼らが現在の住民の先祖となったのである。負の記憶を封印しようという意図が働くも何も、記憶が完全に断絶しているのだった。

 武蔵小山は、島原とは事情が異なる。それでも、送り出した側の商店街は、死者のあまりの多さに、語り継ぎたいという積極性は当然のことながら欠いただろうし、少なすぎた生存者の存在は、この地域の人口密度の高さのなかで次第に埋没していったのだろう。

 しかも彼らは商人である。満州行きを煽った商店街協同組合の責任を追及するような態度をとれば、商売は成り立たなかっただろう。

「戦争を語り継ごう」と部外者が言うのは簡単だが、利害や力関係が複雑にからむ場合には、なかなかできるものではないことを痛感させられる。

「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓団」殉難者の鎮魂を祈る石碑が、武蔵小山駅前の再開発地区に挟まれて「ひっそり」立っていることには、深い意味があるのだった。

★1 足立守三『嗚呼第十三次満州興安東京荏原郷開拓団』、東京都武蔵小山商店街協同組合、1957年、6頁。
★2 同書、15頁。
★3 足立守三『曠野に祈る──満洲東京開拓団隠された真相』、恒友出版、1982年、2頁。
★4 坪川秀夫『棄て民よ 蒙古嵐は祖国まで──第十三次興安東京開拓団潰滅の真相』、日本コミュニケーションズ、1994年、11頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
    コメントを残すにはログインしてください。

    世界は五反田から始まった

    ピックアップ

    NEWS