世界は五反田から始まった(07) 「池田家だけが残った」|星野博美
初出:2019年07月19日刊行『ゲンロンβ39』
祖父の教え
ここが焼け野原になったら、ただちに戻り、敷地の周りに杭を打て──。
幼い頃、祖父に言われたことを私は家訓として受け止めてきた。これまでそんな事態が起こらなかったため、守らずに済んだ家訓ではあるが。
この話は、様々な要素を含んでいる。まず、普段は忘れがちだが、わが家を含む大五反田一帯が、焼け野原になったという事実。にもかかわらず、幸いうちからは1人も戦死者が出なかったこと。うちでよく語られる話に「このあたりでは池田家だけが残った」というものがある。「池田さん」は、わが家と戸越銀座商店街のちょうど中間あたりに位置する、地主ではないが、いまでも比較的大きな家だ。焼け野原に1軒だけ家が残っている様子は、「一帯が焦土と化した」と言われるより、逆にリアルに響いたものだった。
また祖父は、「杭を打て」の理由として「どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいる」ことを挙げたが、その世知辛い感じは、その時点でここがすでに、余所者がひしめきあって暮らす密集地域だったことを物語っている。誰もが顔見知りの祖父の故郷、岩和田では、ありえなかっただろう。
ところが、だ。最近家族に確認したところ、「杭を打て」という話は聞いた覚えがないと言うのである。私は普段から家族にホラ吹き呼ばわりされることが多いが、今回も作り話を疑われてしまった。
聞いた確率が最も高い父は、「まったく記憶にない」。ここが焼け野原になったのを見ていないのか、と問いただしても、「見てない」。そうだった……戦争が激化することを予測した祖父は、埼玉県の越谷に家を買って妻子をそこに住まわせ、越谷と戸越銀座を往復しながら工場を続けていたのだ。父が戸越銀座に戻るのは、戦後の混乱が一段落した昭和23(1948)年のこと。焼け野原を見ていなくても不思議はない。
ということは、「池田家だけが残った」という話も、父が実際に見たのではなく、それを目撃した唯一の人物、祖父の記憶だったことになる。なぜ「池田家」は語り継がれ、「杭を打て」は記憶から消え去ったのか? 謎は深まるばかりだ。
私と一緒に、祖父から花札とサイコロの手ほどきを受けた次姉は覚えていないだろうか。
「メチルだけは飲んじゃいけねえ、は覚えてる。目がつぶれる、って怖かったから。おじいちゃん、お酒が入ると必ず、メチルメチル言ってた。よっぽどメチルが怖かったんだね。でも『杭を打て』は記憶にない。あんたが勝手に作り出したんじゃない?」
と次姉は言う。ホラ吹き呼ばわりである。「杭を打て」などという話、実際聞いていなければ、どうやって捏造するのだよ……。
みんな聞いたけれど忘れたのか、あるいは祖父が私にだけ話したのか? 想像の域を出ないが、晩年の祖父と過ごす時間が最も長かった人間が私だったため、ぽろぽろと色んなこぼれ話が出たのではないか。そして、たまたま記憶力の旺盛な年齢だったから覚えていたのではないか、と思う。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後
星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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