第2章 軍需工場──『世界は五反田から始まった』より|星野博美

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2022年7月20日刊行『世界は五反田から始まった』

第2章 軍需工場



一 焼けて、野原


 二〇一九年、イースターの連休を利用して、香港の親友家族が遊びに来た。香港人の夫、阿波アポーは、一九九〇年代初めに香港で空前のブームになった日本留学組だ。阿佐ヶ谷の日本語学校に二年間通ったあと、留学生枠で日本の四年制大学に入り、日本人女性の利香と結婚して、一九九六年に香港に戻った。私が彼らと知り合ったのは、彼らが香港で新婚生活を始めて間もない、そして私が香港に住み始めた二か月後の、一九九六年十月のことだった。その後生まれた坊やは、十一歳になった。

香港の暦も一国両制


 周知の通り香港は、一九九七年七月一日にイギリスから中国に返還され、「香港特別行政区」となった。中国本土とは異なる特別な行政方式で統治されるが、まぎれもなく中国の一部、という位置づけである。

「一国両制」とは名ばかりで、香港では様々な局面で日に日に中国化が進んでいるが、おもしろいことに、カレンダーだけは一国両制を遵守している。香港の暦は、華人社会の日常生活に深く関わる旧暦(農暦、あるいは陰暦)の、「二十四節気」を重視する。いまではそこに、英国統治の名残と革命中国の幻想が入り混じる構成になっているのだ。

 順に見ていこう。新暦一月一日は、一応英領時代の祝日を継承しているものの、盛大に祝うのはあくまでも旧暦の新年だ。たいてい一月末から二月中旬あたりに旧正月が来て、大型連休げんしょうとなる。新暦十二月二五日の「聖誕節」(クリスマス)から、旧暦正月十五日の「元宵節」(旧正月後に初めて満月となる日で、色とりどりの提灯を灯して祝うことから、ランタン・フェスティバルとも呼ばれる)までは、香港のネオンが最も賑やかになり、香港市民が浮き足立つ季節だ。

 四月に入ると、旧暦三月三日の「清明節」がある。一族郎党で墓参りに行き、会食をして、ファミリーの結束を再確認する、とても大切な日だ。

 それからほどなく、突然英国色が復活し、「復活節」(イースター)がやってくる。耶蘇(イエス)が十字架で処刑された聖金曜日を記念する「耶蘇受難節」(レント)から、復活節翌日のイースター・マンデーまでが連休だ。もともと香港では、この時期が日本のゴールデンウィークのような大型連休の位置づけだった。この連休を廃止しないのは、香港の天主教徒(カトリック)や基督教徒(プロテスタント)に配慮した結果というよりむしろ、長きにわたった英領期間中に香港市民に根づいた、「四月には連休がある!」というささやかな喜びを奪わないためであろう。

 五月に入ると、新暦一日が「労働節」、メーデーの祝日だ。これは返還後の一九九九年から追加された祝日で、もちろん、無産者革命を果たした中国から「輸入」されたものである。中国ではこの時期も連休になるが、イースターと時期が近すぎるためか、香港では一日こっきりだ。
 驚いたことに、一九九九年からは、旧暦四月八日も祝日の列に加えられた。「大五反田」にある、浄土宗の寺院系幼稚園出身である私は、この日に強く反応せざるを得ない。この日は園児にとって、お芝居やお楽しみ会のある最も楽しい日の一つ、お釈迦様の誕生日だったからだ。

 この「佛誕節」が香港の祝日に加えられたことは、意外というか、衝撃ですらある。迷信や宗教を排除して、共産党による一党独裁化を進めた中国では、この日はもちろん祝日ではない。想像するに、「キリスト教由来のイースターを残すなら、こちらにも配慮せよ」と、香港の仏教陣営から強い働きかけがあったのではないだろうか。

 一年の後半に入ると、返還後に追加された祝日は二つある。新暦七月一日は「香港特別行政区成立記念日」。もちろん、返還前には存在するはずのない祝日だ。中国側からすれば、「香港無血開城記念日」といったところだろう。

 そして新暦十月一日が「国慶節」。一九四九年十月一日、北京の天安門の上で毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したことを祝う、中国の建国記念日である。香港ではこの日が祝日になるのみだが、中国ではここが大型連休になる。国の観光客が香港に波のように押し寄せ、ただでさえ日々忍び寄る中国化を否が応でも再認識させられる、香港人にとっては悪夢の時期である。香港市民の愛国教育のために追加された国慶節が、中国に対する違和感を増幅させるという、皮肉な結果につながっている。

 私の親友家族が日本にやって来るのは、復活節の連休、つまり、たいてい四月初めから中旬頃になる。かつては真冬の旧暦正月を利用して来日していたのだが、数年前からイースターにシフトした。旧暦正月の連休は、日本も中国からの観光客だらけとなり、香港人としてはあまりおもしろくないだろう。大陸中国人とバッティングしない大型連休は、彼らにはもう、イースターしか残されていないのである。

香港人と戸越銀座を歩いたら


 親友家族はここ数年、来日する際、成田空港から日本入りして、前半は利香の実家方面で家族や大学時代の友人と過ごし、最終盤は大五反田に南下して私と過ごし、戸越銀座と武蔵小山で最後の買い物をしたり髪を切ったりして、羽田空港から帰国の途につく、という方式を採っている。

 今回彼らとは大崎駅で待ち合わせ、大崎広小路でラーメンを食べ、住宅街を通って戸越銀座に向かった。

 夫の阿波は、六年にわたる日本生活を中央線沿線で送ったため、それ以外の東京をあまり知らない。都会と住宅が隣接した大五反田の、何もかもが新鮮に映るようだった。

「このへんは、香港でいうとどのあたりになる?」と阿波が聞いた。

 それは大変いい質問だった。香港と東京を単純に比較することはできないが、私が香港で偏愛する地域は、たいてい大五反田と似ている。

觀塘クントンかな。あるいは新蒲崗サンポーコンとか。人口が多くて、小さい工場がたくさんあったから」

「へえ、そうなんだ……」

 觀塘は、九龍半島の東側にある、かつては地下鉄の終点だった町で、集合住宅の中に小さな町工場がひしめきあっていた。ここの雰囲気が好きで、香港在住時はたびたび出かけたものだ。

 香港に行ったことがなくても、映画好きの人ならこの町を目にしたことがあるかもしれない。王家衛ウォンカーウァイ監督の『天使の涙』(原題『堕落天使』)で、黎明レオンライが演じる殺し屋の潜伏部屋があった町こそ、觀塘である。

 一方の新蒲崗は、悪名高き、しかしその実はごく普通の市民が多く暮らしていた、あの九龍城塞のすぐ隣にあった町で、工業団地が多かった。九龍城塞で働く元密航者が多く暮らした町でもある。ちなみに阿波のお父さんは、九龍城塞内の闇カジノで、雇われ店長を長年務めていた。

 觀塘と新蒲崗……。気軽にそう答えてはみたものの、直後にものすごい違和感に襲われた。彼とて、この返答では納得できないだろう。いま目の前に広がる風景には、工場などまったくないのだから。

 時空のひずみが生じていた。私が脳裏に描く、觀塘や新蒲崗を彷彿させる大五反田は、私の幼少期にすでに終わりかけていて、父、あるいは祖父が見た風景なのだ。私はこれらの町に、失われた大五反田を求めていたに過ぎない。

 


「お父さんはどこで生まれたの?」と彼が聞いた。「ここだよ。もっと五反田のほうだけど」と答えると、「ここなの」と彼が驚愕した。

 この反応は香港人ならではで、興味深かった。

 清が阿片戦争に敗北し、香港島をイギリスに永久割譲させられたのが、一八四二年の南京条約。それから香港の人口は、中国の歴史に足並みを揃えるように増減を繰り返すが、なんといっても爆発的に増えたのは、一九四九年の中華人民共和国の成立である。彼をはじめ、私の古くからの友人たちの親(全員死に絶えているが、生きていたら八〇代後半から九〇代前半にあたる)は、ほぼ全員がこの時期に中国から身一つで渡ってきた、故郷が中国にある人たちだった。「年寄りはみな田舎出身」という感覚のある彼からすると、都会出身の年寄りである私の父が、新種の動物のように見えるらしかった。

「いつから東京にいるの?」と次に問われたので、「おじいちゃんが来たのが一〇三年前」と答えた。彼は遠いかなたを見つめるような表情をした。親の世代で香港に亡命した彼らは、祖父母と暮らしたことがない。しかも中国との行き来が容易ではなかったため、祖父母や親戚を知らない人が非常に多い。一世紀前となると、有史以前みたいな遠さになるのだった。

「小さい家が多いね」と彼が言う。香港の摩天楼と比べたら、確かにそう見えるだろう。

「古い建物が少ないね。古い建物は香港のほうが多いかな」と続けて彼がつぶやく。いまではだいぶ再開発が進んでしまったが、英領時代の植民地建築は、香港島と九龍半島にまだ少なからず残っている。香港に住んでいた時、歴史ある建造物がゴロゴロある香港を羨ましく思ったものだ。古い建造物の話題を振られたら、東京人はうなだれるしかない。

「仕方ないね。みんな燃えたから」多少の自虐をこめてそう答えると、彼は真顔で「火事があったの?」と聞き返した。

「火事じゃないよ。戦争だよ」

「どの戦争?」

「第二次世界大戦」

 まだ事情を掴めないらしく、キョトンとしている。

 英領香港も第二次世界大戦の被害を受けた。ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲した頃、ほぼ同時に香港も奇襲を受け、約半月後の一九四一年十二月二五日、駐港英軍が降伏したのである。この日は「ブラック・クリスマス」と呼ばれ、負の記憶として語り継がれていた。それから一九四五年八月十五日に日本が降伏するまでの四年弱、香港は日本に占領された。だから香港では反日感情が大変根強く、私が留学していた一九八六年当時、年配の人たちからずいぶん口撃されたものだ。

 もし香港へ行く機会があったら、半島酒店(ペニンシュラ・ホテル)をぜひ訪れてほしい。壮麗な植民地建築で知られる、日本人観光客にもなじみ深い、香港一の高級老舗ホテルだが、日本による香港占領初期、日本軍の総司令部が置かれていたところである。

焼けて、野原になった


 ペニンシュラ・ホテルが往時の姿をいまもとどめているように、香港は、日本に占領されたものの爆撃を受けなかったため、街並みや建造物はそのまま残った。だから彼は「東京が燃えた」と聞いても、ピンとこないのだろう。

「このあたりは全部焼けたんだよ。もちろん、うちも」

 そう言うと、彼は言葉を失った。

 広島と長崎に原爆が落とされたことは有名だが、東京が焦土と化したことを知らない香港人は意外と多いのか?もしかして、ほとんど知られていないのではないだろうか……。

 それはある意味、仕方がない。香港人がテレビや映画を通して培った日本人のイメージは、カーキ色の軍服姿で銃剣を振り回し、「パカヤロウ!」と叫びながら中国人を蹂躙する、戦争加害者としての姿だったのだから。

 東京が焼けたことを強調して、日本の加害責任を免罪してもらおうとは思わない。しかし、東京に古い建造物が存在しない理由、日本人の思考回路に「スクラップ・アンド・ビルド」が定着してしまった理由は、もう少し知られてもいいと思うのだ。

「全部焼けた。焼けて、野原になった」

「どうしてアメリカはここを爆撃したの? 家があるだけなのに」
 いい質問だった。それが戦争というものだよ、と言いたい気持ちは山々だったが、あいにく大五反田が空襲を受けたのは、米軍が血も涙もないからだけではない。

「工場がたくさんあったからね」

 彼はまだピンときていない。

 香港は加工貿易と金融を主要産業として繁栄した街である。彼が幼少期に目にしたことのある工場製品はさしずめ、あまりに香港製が多かったために世界中で「ホンコン・フラワー」と呼ばれるようになった造花や、プラスチック製品、欧米向けに輸出されるクリスマス・ツリー用の電球や飾り、あるいは、せいぜい衣服の類いだろう。

 しかし帝都・東京の町工場は、そう無垢ではなかったのだ。

「軍と関係があったからだよ」

 これから戸越銀座で爆買いをしようという楽しい気分は、私の一言で水を差された。

二 戻りて、ただちに杭を打て



ねずみ色の工場


 昭和四六(一九七一)年、「大五反田」の周縁に位置する戸越銀座。

 中原街道から小道を入ってじきのところに、そのねずみ色の町工場はあった。工場の入り口には「合資会社星野製作所」という木製の看板がかかっている。業種はバルブコック製造業。バルブとはざっくりいえば「弁」のことで、この工場では液体や気体の量を調節するために開いたり閉じたりする接続部品を製造していた。扱う金属は砲金(青銅)と真鍮(黄銅)である。

 創業者は、外房は御宿・岩和田の漁師の六男、星野量太郎(六八)。芝白金三光町で丁稚をして技術を学び、五反田の下大崎で独立した量太郎がここへ移ってきたのは、昭和十一(一九三六)年のこと。「お得意さんの多い五反田から近い」「大通りに近い」という条件を十二分に満たす土地だった。社長は二代目で、五反田生まれの長男、英男(三八)である。

 量太郎の妻、きよ(六六)は、御宿の山側の出身で、英男の妻、良子よしこ(三六)は、外房・岬町の海側の出身である。工員もほとんどが、外房の中学校を卒業した若者だった。星野製作所は大五反田にありながら、外房の香りが強く漂う町工場だった。英男と良子の間には薫(九)、恵(六)、博美(五)という三人の娘がいた。丙午生まれの不機嫌な末っ子が、私だ。

 鉄製の重い柵をガラガラと引くと、ねずみ色のライトバンが停まっている。車の横には簡素な鉄棒がある。さかあがりがどうしてもできない長女、薫のために、社長自らが作ったものだ。しかし長女は結局、一度もさかあがりに成功することなく、鉄棒が大嫌いになってしまった。いまでは近所の女児たちが遊ぶためのものと化している。

 工場と家は同じ敷地内に隣接して建っている。面積の比率は工場が一、家が二といったところだ。工場の入り口には、工員が常に冷たい水が飲めるように冷水機が備えられている。これは星野製作所のちょっとした自慢で、近所に町工場はあまたあったが、これを持っているのはここだけだった。毎年九月に行われる戸越八幡神社の例大祭で、町会の神輿が路地を練り歩く際、若い衆は星野製作所の前で神輿を下ろし、冷たい水を飲みに来たものだった。

 工場と家の間には、倉庫と、小学校の手洗い場に匹敵するほど大きな流し場がある。流し台の端には、浪花屋製菓の「元祖柿の種」の缶が常備されている。中に入っているのは柿の種ではなく、問屋から買い付ける「砂石鹼」だ。雨が降ったあとの砂のようなジャリジャリした質感を持ち、これをすくって手に塗りつけると驚くほど油汚れがよく落ちる、魔法のような石鹼だ。社長も工員も、食事の前にはここで念入りに手を洗い、指にこびりついた機械油を落とす。手を洗い終わったら、ねずみ色の作業着とズボンをパンパンとはたき、仕事中に全身に浴びた細かい金属の粉を払う。これは工場から家に上がる際の儀式のようなもので、これをしなければ家に上がってはならないのだった。

 ガレージの正面に家の玄関はあったが、家の者と工員は、流し場奥にある勝手口から家に入るならわしとなっていた。玄関は客人、あるいは身なりのきれいな人が出入りする場所で、油で汚れた人と身内は勝手口しか許されない。近所の人が勝手口からふらりと入ってきたりすると、「あら、玄関から上がってくださいよ」「いいの、いいの」「だめだめ、そんなこと言わないで」と押し問答するのも、お決まりの儀式のようなものだった。

金属は永遠なり


 旋盤やボール盤でネジを切る、つまり金属を削る際に飛び散る粉は、厄介な代物だった。それらは素材別に砲金粉、真鍮粉と呼ばれるが、子どもたちには「ホーキンコ」という名で認識されていた。どんなに振りはらっても体のどこかに付着して家に入りこんでしまい、手足に突き刺さる。しかも蚊が大人よりも子どもを好むのと同じように、ホーキンコも裸足で家の中を歩き回る子どもの柔らかい皮膚を集中的に狙った。

 ホーキンコは小さいため、皮膚の中に入りこむ。そうしたらもう、トゲ抜きで抜くことはできない。裁縫用の針を皮膚に刺して肉をかき分け、金属片を掘り出す。この過程が痛いのである。そして注意深く少しずつ上に出していき、皮膚の表面に顔を出したところで、トゲ抜きで一気に引き抜く。

 この微妙な作業は子どもにはできないので、親や祖父母の仕事になる。始終、大人が子どもの手足のトゲ抜きをする様子は、猿の毛づくろいのようだった。子どもたちはもちろん、時々泣いた。うまく取り出せなかった場合は、患部の肉が硬化して魚の目になる。救急箱には「ウオノメコロリ絆創膏」も常備されていた。

 ホーキンコは子どもの大敵だったが、これを憎むわけにはいかなかった。砲金粉と真鍮粉は分けてドラム缶に貯め、満杯となったら地銅商じどうしょうという業者に売るからだ。これにけっこうよい値がついた。そうして買い取られた粉は、鋳物屋で溶かされ、成型され、再び金属部品となって生まれ変わる。金属は永遠なのである。それを知っているから、子どもたちも痛みを我慢するのだった。

町工場の悲哀


 勝手口から家に上がると、台所と食堂がある。家族七人とお手伝いさん一人の計八人が一緒に着ける大きなテーブルで、食堂はほぼ占められている。近所の風呂なしアパートで暮らす工員たちは、夕方六時に仕事から上がるとここで食事をし、風呂に入ってから帰宅する。それらすべてが終わった八時頃から、家族はようやく食事にありつくことができた。家族が全員揃うのはこの食堂で、生活空間は一階が量太郎夫妻、二階は英男の家族と決まっていた。

 英男は忙しかった。工員は定時で勤務を終え、食事と風呂を済ませてアパートに帰れば自由の身になった。しかし社長はそうはいかない。食後に再び工場に行き、一人で十一時頃まで仕事をするのが常だった。

 それはまさに町工場の悲哀だった。親工場と町工場は、ピラミッドのような構造をしている。親工場から下請けに部品が発注される。下請けは孫請けに、さらにその下へ……と発注を下ろしていく過程で、納期に少しずつロスが生じる。そしてヒエラルキーの末端に近い星野製作所に注文が到達した時点で、納期はいつでも、すぐそこに迫っている。

 お得意さんから「特急で頼むよ」と言われたら、断ることは難しい。断れば、発注ラインから外され、その後の仕事も失うことになるからだ。かといって、納期に間に合わない、あるいは間に合わせようとして雑な仕事をすれば、やはり外される。不良品の発生個数が多くなれば、町工場にとって最も重要な信用を失うことになる。成績が悪ければ、いつでも切られるのである。

「無理を聞き、納期を守り、よい製品を作る」

 それを可能にするためには、社長の長時間労働が必須だった。

 妻の良子も忙しかった。工員、家族の食事と世話を一手に引き受け、その合間に工場の仕事も手伝わなければならない。文字通り、目の回る忙しさだ。

 そのため、幼稚園から戻った孫の子守りはもっぱら、先代の量太郎ときよに任された。子どもが食い、眠り、家の敷地内で誰かが見ていれば、それで十分。

「まあ、生きてりゃいい」

 それが英男たちの教育方針だった。

丁半


 台所から廊下に出ると、左手側に庭がある。庭にはアワビの殻が整然と埋められ、アワビの小道ができていた。岩和田の親戚が自ら潜って採ったアワビが、よく運ばれてきたからだ。その庭に面した日当たりのよい場所に、量太郎夫妻が暮らす八畳間と、安楽椅子やピアノが置かれた洋室があった。

 八畳間からはよく、瀬戸物がぶつかりあうような、カラリンカラリンという音が聞こえてきた。部屋の中央にはざぶとんが置かれ、量太郎と二人の孫が向き合い、真剣な面持ちでざぶとんを見つめている。

 量太郎が湯飲みに何も細工がされていないことを見せ、「よござんすか?」と言う。

「よござんす」と二人の女児が元気よく答える。

「よござんすね」

 すると量太郎は湯飲みに二つのサイコロを入れてカラカラと振り、ざぶとんの上に伏せて置く。

「さあさあ、丁か半か!」

 このサイコロ遊び「丁半」は、二つのサイコロの目を足し、合計が偶数なら丁、奇数なら半、と言い当てる遊びである。年上の賢い恵はこのルールを理解し、頭をくるくる回して計算し、「丁!」「うーん、半!」などと答えた。一方、年下の博美はまだ数字の世界がよくわからない。年子の姉が「丁」と言えば「半」と言い、「半」と言えば「丁」と言えばいい。そういうルールだと独自に解釈していた。

 サイコロでひとしきり遊ぶと、量太郎は次に決まって花札を出す。花札の段になると妻のきよも加わり、四人で遊ぶ。ざぶとんはそのままだ。やるのはたいてい「花合わせ」だった。

 たった二つのサイコロで遊ぶ丁半と、四八枚の札で遊ぶ花札とでは、花札のほうが複雑な脳の動きが必要そうに見える。しかし幼児でもついていけるのは、実は花札のほうだった。図柄や設定が同じものを揃えればよく、画面に要素が多い札の点数が高いことを本能的に理解できたからだ。花札は、字が読めなくても、足し算引き算ができなくても遊ぶことができる。敷居の低い、いま風にいえばユニバーサルデザインの遊戯なのである。

 
 

 
 花札にも飽きると、量太郎は孫たちを膝に乗せ、キリンビールの空き瓶を使って尺八の吹き方を教えたり、歌を歌ったりしたものだった。量太郎は民謡が趣味で、「星野秀鳳しゅうほう」という芸名で自主制作レコードを出すほどの、いわばハイ・アマチュアだったのである。故郷の岩和田に民謡歌手を呼んで演芸会を開いたり、川崎で民謡を教えたりもしていた。

 昔話もよくした。たいていは他愛もない話だった。酒が入っていたのだろう。

「じいさんは漁師の六男だったから、『りょうろくろう』と名付けられるところだったんだ。それを役場のもんが反対して、『りょうたろう』になったって寸法よ」

「岩和田にいた頃な、墓を掘り返したら、死人の髪と爪がボウボウに伸びてたんだ。死んだと思って埋めたが、土の中でしばらく生きていたんだな。あれにはたまげたぞ」

「チョーヘイ検査の日、醬油を一升飲んで真っ青な顔で行ったら、見事に不合格よ」

「星薬(星薬科大学)の近くの柳の下で、女の幽霊を見たことあるぞ」

「メチルだけは飲んじゃいけねえ。あれは『目が散る』つうて、目がつぶれるからな」

 疑うことを知らない博美は、すべてを真に受けた。「漁師の六男」という言葉が頭に刻印されたし、本当は多くの人が生きたまま地中に埋められているのではないか、と怖くなった。醬油をたくさん飲むと顔が青くなるのだ、と学んだ。柳の木には幽霊が多いから、気をつけよう。「メチル」がなんだかは知らないが、とにかく飲んじゃいけないのだ、と肝に銘じた。

 時には少しまともな話もした。酒が抜けていたのだろう。

「ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。家族全員死んでりゃ仕方がねえが、一人でも生き残ったら、何が何でも帰ってくるんだ。わかったな」

 博美にはさっぱり意味がわからなかった。

「そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」

「うん、わかった」

「そうしねえと、どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいるからな」

 よく意味はわからないが、おじいちゃんがそう言うなら、そうしよう。

 いつかここが焼け野原になったら、何が何でも戻ってきて、杭を打とう。

 博美はその時初めて、ここがかつて焼け野原になったらしいということを、おぼろげながらに理解したのだった。

三 池田家だけが残った



祖父の教え


 ここが焼け野原になったら、ただちに戻り、敷地の周りに杭を打て──。

 幼い頃、祖父に言われたことを私は家訓として受け止めてきた。これまでそんな事態が起こらなかったため、守らずに済んだ家訓ではあるが。

 この話は、様々な要素を含んでいる。まず、ふだんは忘れがちだが、わが家を含む大五反田一帯が、焼け野原になったという事実。にもかかわらず、幸いうちからは一人も戦死者が出なかったこと。うちでよく語られる話に「このあたりでは池田家だけが残った」というものがある。「池田さん」は、わが家と戸越銀座商店街のちょうど中間あたりに位置する、地主ではないが、いまでも比較的大きな家だ。焼け野原に一軒だけ家が残っている光景は、「一帯が焦土と化した」と言われるより、逆にリアルに響いたものだった。

 また祖父は、「杭を打て」の理由として「どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいる」ことを挙げたが、その世知辛い感じは、その時点でここがすでに、余所者がひしめきあって暮らす密集地域だったことを物語っている。誰もが顔見知りの祖父の故郷、岩和田では、ありえなかっただろう。

 ところが、だ。最近家族に確認したところ、「杭を打て」という話は誰も聞いた覚えがないというのである。私はふだんから家族にホラ吹き呼ばわりされることが多いが、今回も作り話を疑われてしまった。

 聞いた確率が最も高い父は、「まったく記憶にない」。ここが焼け野原になったのを見ていないのか、と問いただしても、「見てない」。そうだった……戦争が激化することを予測した祖父は、埼玉県の越ヶ谷に家を買って妻子をそこに住まわせ、越ヶ谷と戸越銀座を往復しながら工場を続けていたのだ。

 ということは、「池田家だけが残った」という話も、父が実際に見たのではなく、それを目撃した唯一の人物、祖父の記憶だったことになる。なぜ「池田家」は語り継がれ、「杭を打て」は記憶から消え去ったのか? 謎は深まるばかりだ。

 私と一緒に、祖父から花札とサイコロの手ほどきを受けた次姉は覚えていないだろうか。

「メチルだけは飲んじゃいけねえ、は覚えてる。目がつぶれる、って怖かったから。おじいちゃん、お酒が入ると必ず、メチルメチル言ってた。よっぽどメチルが怖かったんだね。でも『杭を打て』は記憶にない。あんたが勝手に作り出したんじゃない?」

と次姉は言う。ホラ吹き呼ばわりである。「杭を打て」などという話、実際聞いていなければ、どうやって捏造するのだよ……。

 みんな聞いたけれど忘れたのか、あるいは祖父が私にだけ話したのか? 想像の域を出ないが、晩年の祖父と過ごす時間が最も長かった人間が私だったため、ぽろぽろといろんなこぼれ話が出たのではないか。そして、たまたま記憶力の旺盛な年齢だったから覚えていたのではないか、と思う。

ドーリットル空襲


 それはさておき、この地域が空襲にさらされたことは史実である。

 太平洋戦争中、現在の品川区にあたるエリアが初めて米軍から空襲を受けたのは、一九四二年四月十八日のドーリットル空襲だった。前年の十二月八日に日本軍がハワイの真珠湾を急襲したことはあまりに有名だが、その四か月後、米軍が初めて日本本土に実施した爆撃、それがドーリットル空襲である。米軍の航空母艦から飛び立った十六機のB-25は東京、川崎、横浜、横須賀、名古屋、神戸などを奇襲し、その後は中国の蔣介石支配地域(一機はウラジオストック)へ向かった。

 この時、品川エリアで空襲を受けたのは、大井関ヶ原(現在の東大井六丁目)、大井滝王子(大井五丁目)、東品川(天王洲界隈)、西品川(下神明界隈)だった。特に東品川の東亜製作所、大井関ヶ原の芝浦マツダ工業、そして西品川の国鉄大崎被服工場の被害が大きかったという(川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録戦前・戦中・戦後』)。

 わが家は、この時の空襲では焼けていない。しかしふだんなじみ深い地域、特に下神明や東品川界隈が、日本本土で最初に米軍の空襲を受けた場所だといまになって知り、なかなか衝撃を受けている。

 ここが一大工業地帯だったからだろう。

 ここでいま一度、大五反田の歴史についておさらいしておきたい。『品川の歴史』(東京都品川区教育委員会)によると、大正初期までこのあたりは、目黒川沿岸に広がる水田地帯と、北側の台地(池田山)に広がる旧大名屋敷、そして西側は平塚村へと広がる畑地帯からなる静かな近郊農村だった。

 景観が急変するのは大正四(一九一五)年頃のことだ。目黒川流域の平地に大小数多くの工場が建つようになった。この地が選ばれた理由は、目黒川の水運によって海と直結し、近くに大崎貨物駅があった、つまり陸水運の交通が至便だったこと、田畑が工場敷地として転用しやすい状態だったこと、そして土地が廉価だったことが挙げられる。

 なぜこのタイミングで急変貌を遂げたのか?

 


 第一次大戦の勃発によって、現品川区地域の近代工業も新しい発展の段階を迎えた。と『品川の歴史』はさらりと書く(一九一頁)。

 大五反田は第一次世界大戦の賜物だったのか! 第二次でなく、第一次であるよ……。


現在の品川区地域で大正七年に工場二〇一を数えたが、その半数近くが第一次世界大戦下の創業であった。大戦による好況、工業ブームの結果であることはいうまでもない。総工場数のうち、業種では機械・金属・化学などが七〇%以上を占め、それは日本経済の重化学工業の芽ばえを示していた。(一九二-一九三頁)


 日露戦争勃発の前年、明治三六年に外房の漁村に生まれ、大正五年に十三歳で上京した祖父は、この地域が第一次世界大戦の波に乗って一大工業地帯として変貌を遂げる様子を、リアルタイムで見ていたのだった。

 これらの工場群は、地域的に三つのグループに分けられるという。第一グループは目黒川沿いに並んだ化学・窒素系工場、鉄工所など、原燃料や製品が重量物資で、目黒川の水運を利用した工場群だ。第二グループは大崎貨物駅を中心に立地した、機械器具工場群。そして第三グループは、目黒川北の旧御成街道沿いに立地した電気・金属系工場群。

 この時期、現在の品川区域に工場が進出した企業を挙げてみると、官営の品川硝子、品川白煉瓦、日本酸素、東洋酸素、日本製鋼、東洋製罐、藤倉合名会社、明電舎、荏原製作所、沖電気、園池製作所、日本精工、日本光学、三共製薬、星製薬、日本ペイント……と、今日にまでつながる企業が少なくない。

 そして昭和初期に入ると、これらの中核工場の隙間に多数の下請け的な小工場が乱立し、目黒川を遡って上大崎方面にまで広がっていった。

 自家用車はまだなく、仕上がった金属製品は、大八車に載せ、人力でお得意さんの工場へ運んだ時代である。当然ながら、親工場やお得意さんからそう遠い所には住めない。この地域はいうなれば、「工業」という名の王が君臨する城下町のような、特殊な様相を呈していたのである。

町工場と戦争


 さて、祖父が戸越銀座に住居と工場を構えたのは昭和十一(一九三六)年、三三歳の時だった。満洲事変が昭和六(一九三一)年に起き、すでに相当きな臭くなり始めた時代である。世代としてはいつ徴兵されてもおかしくなかったはずだが、祖父は一度も戦争へは行かなかった。祖父は酔うとよく、「醬油を飲んで青い顔をして行ったら徴兵検査に落ちた」という話をしたものだったが、事実は少し違う。徴兵検査を受けた大正十二(一九二三)年五月一日の様子を手記に書き残しているのだ。

 私が「祖父の手記」と呼ぶものは、祖父が死ぬ前に書き留めた便箋の束で、父が読まずに保管していたところ、いまから四半世紀ほど前に私が受け継いだ。それを解読してワープロで清書するのは一苦労だったが、祖父の想定より死期が早かったため、A4に印刷して二四枚しかない、短いものだ。


 右眼は良いが左が乱視であったので遠くはぼんやりして見えなかった。私はもう一ぺん眼の所へ行って来る様言われた。アン室でよく調べられた。悪いものは悪い、とうとう第二乙種といふ事であったので兵役はなかったのです。それ迄めがねはかけなかったが検査あとめがねをかける様になったのです。


 不合格の直接的な理由は、視力だった。

 加えて祖父は十六歳の時、粉塵舞うバルブ工場で働いたことで肺浸潤を患い、一年間の入院生活を送ったことがあった。レントゲンで肺に影くらいはあったかもしれないし、醬油も多少は飲んだのかもしれない。さらに、戦争が激化した頃にはすでに四〇代に入っていた。様々な条件が重なりあい、祖父は戦争に行かずに済んだ。当時の日本では、相当幸運なほうだったというべきだろう。

 私は長いこと、祖父が戦争に行かずに済んだことを素直に喜んでいた。

 戦争で死ななくて、よかった。

 戦地で人を殺さずに済んで、よかった。

 ずっとそう思ってきた。家族の感情としてそう思うこと自体に、あまり罪はなかろう。

 しかし東アジアの人たちと関わるようになってから、それでは済まないことを思い知らされた。

 一九八六年に香港へ留学していた時、私はよく日本の戦争責任を追及される場面に出くわした。前にも触れたが、香港は一九四一年に真珠湾が爆撃された同日、十二月八日に日本軍に奇襲され、同月二五日に英軍が降伏した。そして一九四五年八月十五日に日本が降伏するまでの四年弱、日本に占領されたため、幼少期に日本軍による蛮行を目撃した人も少なからずおり、反日感情が大変根強かった。寮父さんや寮母さんの機嫌が悪いと──私は品行不良な留学生だったため、彼らの機嫌を損ねることがたびたびあった──、決まって日本軍の話を引き合いに出された。当時は理不尽だと思っていたが、中国や台湾を頻繁に訪れるようになってから、変化が生じた。

 日本の領土的野心が、どれだけ多くの人の命を奪い、人生を破壊したかいうまでもなく、東アジアではそれが国を分裂させ、無数の家族を離散させることにつながった。その末裔の人たちと向き合う時、「いや、祖父は戦争に行ってないから」という言い訳をするわけには、まったくいかなくなった。

 しかも日本の工業の裾野を支えていた以上、うちの町工場が戦争と無縁でいられたはずがない。

 うちも、戦争に加担していたのである。

四 軍需工場



胃潰瘍の手術


 私が「祖父の手記」と呼んで参照している一連の書きものを祖父が書き始めたのは、一九七三年八月七日だった。


 手術[一九七三年六月十六日]前丈夫な時の体重が六十四K位あったのが、今八月七日、五十三Kに減ってしまいました。胃を三分の二切り取り少量の食事ですので、当分は増へないでせう。
 
 今の所、食事以外に用がないので、七十年間永い間今迄の色々あったこと等、書いて見たいと思ひます。


 六月十六日に行われたのは胃癌の手術だった。当時はまだ「インフォームド・コンセント」という概念がなく、患者の病状や治療法は本人ではなく家族に説明され、それを本人に告知するか否かは家族の裁量に任されていた。父は祖父に告知しないことを選択した。そして本人には「胃潰瘍の手術」を行うと伝え、しかも手術は成功したと嘘をついた。実際は想定以上に癌の進行が早く、なすすべもない手術だったにもかかわらず。それから自宅療養に入った祖父は、残された時間はあまり長くないと悟ったのか、死ぬまでの十か月間をかけて便箋に思いを書き始めたのである。

 私は七歳だった。祖父が熱心に何かを書き始めたことはよく覚えている。なぜならそれが私には、大変不満だったからだ。

 ラジオ体操や学校の水泳教室から帰ると、「子どもは大人のいる部屋で過ごすこと」というわが家の掟に従い、相変わらず祖父母の部屋で過ごしていた。入院する前の祖父は、花札やサイコロやビールの空き瓶でさんざん遊んでくれたものだったが、退院したら別人になったように大きな机に向かい、一心不乱に何かを書いていた。私たちが囲むべきは机ではなく、ざぶとんなのだ。おもしろくない。ちょっかいを出す。最初のうちはなおざりにかまってくれるが、そのうち「おばあちゃんと遊びなさい」と放り出す。

「おじいちゃんはこのごろ、サービスがわるいね!」

 そんな暴言を吐く始末だった。

 仕方がない。小さいから、祖父がもうすぐ死ぬであろうことをまったく知らなかった。両親が言うように、「いかいようのしゅじゅつ」が成功したから退院したのだと信じていたし、日を追うごとに数が増えていく見舞客も、「よくなったから会いに来た」のだと思っていた。すべては逆だったのだ。

 すでに書いたように、それはワープロに起こしてA4で二四枚に過ぎない短いものである。最後の数か月はほぼ寝たきりだったので、書く体力があったのはおそらく半年に満たなかったのではないだろうか。祖父が想定したより、ずっと早く死は訪れた。

 私がちょっかいを出して邪魔をしたりしなければ、あと一枚、二枚は、長く書けたかもしれないと思うと、胸が痛む。

脱線癖


 さて、読み始めた頃は祖父の家族関係や来歴を詳しく知らなかったため、人名や地名の確認に苦労した。さらに祖父は、小学校高等科二年の一学期を終えた時点で中退し、芝白金三光町の工場で働くために十三歳で上京した、いわゆる学のない人間である。誤字は多いし、話題はあちこちへ飛ぶしで、「ここをもっと読みたかったのに」と感じることもしばしばだった。

 たとえばこんな具合だ。


 結婚してから五年子宝にめぐまれなかったが、昭和八年、待望の男子が誕生した。丁度節分二月四日でした。目方は八百二十もんめ、西五反田の工場へ引っ越してからである。名前は英男とつけた。


 この「西五反田の工場」は、下大崎の後、戸越銀座へ移るまでの三年ほど暮らした場所である。前にも述べたように、ゲンロンカフェからすぐ近くの、目黒川沿いにあった。

 ようやく第一子である私の父が誕生した喜びを書き、しばらくこの話題が続くのだろうと思いきや、いきなり話題が飛ぶ。


 その頃素人野球が流行しだした。私の工場でも人数は九人ようやくでしたが、チームを造れるようになった。然し試合場所取りに一苦労でした。朝早く起き品川や芝浦埋立地迄行きネットを張って待機しなければならないのです。少しでもおそいと場所がなくなるのです。いつも成績は悪く、勝った事がない位でした。


 当初は祖父特有のこういう脱線に出くわすたび、苦笑したものだった。もっと大事なことがあるだろう。その頃起きた重大ニュースとか、ひたひたと忍び寄る戦争の気配とか。

 しかし自分が歳を重ねたいまでは、こんな枝葉の部分にこそ惹かれる。

 想定される読者は家族のみ。そんな場で、妙に客観的になったり、かっこつけたりする必要がどこにあろう。真面目な話を書こうとすると、次々と楽しかった思い出が脳裏によみがえり、ついつい脱線してしまう。祖父にとっては、大好きな野球をするため、星野製作所のユニフォームを作ったり誰かを球場へ場所取りに行かせたりすることも、ことのほか大切だったのだろう。

 さらに祖父にとって手記は、お世話になった方々への感謝という位置づけだったらしく、恩のある取引先の名前がつらつらと登場する。西五反田時代、つまり昭和八-十一年の祖父の取引先は、東京瓦斯の指定工場だった「近所」の磯村産業株式会社、芝白金三光町の椎橋合金、品川の樋口合金、大崎の伊藤合金、大崎の松井合金などだった。いずれも大五反田域内である。

 戦争の気配が登場し始めるのは、二一ページだ。西五反田から戸越銀座へ引っ越した翌年の記述である。


 昭和十二年、満州の方で支那軍と日本関東軍の間でいざこざが起こりだんだんひどくなった。とうとう七月に戦争の第一歩、支那事変が始まった[七月七日の盧溝橋事件]。方々で召集され穏やかではなくなって来た。弟子の貝塚藤吉[星野製作所の従業員で、岩和田出身の親戚]も召集された。田舎の生家の星野哲次郎[祖父の姪の夫]も召集された。兵役関係者はびくびくして居た。
 
 工場もだんだん軍需品を造る様になり、小工場迄仕事が変って来た気がした。歌謡曲等も次第に軍歌調に変って来た。
 
 大崎の在郷軍人仲間で詩吟の会を造って練習して居る方が居た。私も取引の有るメッキ工場柳原氏のすすめで入会させてもらった。中々勇壮で腸一ぱい歌ふので気持ちがよかった。


 盧溝橋事件を皮切りに始まった日中戦争の長期化が見込まれると、総力戦遂行のため、国家のあらゆる資源を統制し、運用する権限を政府に与える委任立法が、昭和十三(一九三八)年、第一次近衛内閣のもとで公布・施行された。「国家総動員法」である。これは労務、資金、物資、物価、企業、動力、運輸、貿易、言論など、国民生活の全分野を統制する権限を政府に与えたもので、これに基づいて国民徴用令、生活必需物資統制令をはじめ、無数の勅令が発せられた。

 祖父の経営する星野製作所も、もちろん影響は避けられなかっただろう。大工場を頂点とし、裾野に町工場が位置するピラミッド型の工業形態はいわば、生産ラインが町に広がった状態といえる。親工場が軍需品を扱えば、町工場も自動的にその末端部品を作ることになる。大工場の周囲に町工場が乱立するという、独自の形で発展した東京の工業地帯は、日中戦争を機に、「地域全体がゆるやかな軍需工場」のような様相を呈し始めたといえはしないか。

祖父が作っていたもの


 祖父は当時、どのような「品物」(うちでは製品のことをこう呼ぶ)を作っていたのだろう。


 世田谷の笹塚に桜ゴム株式会社といふ会社有、主としてゴムホースとそれに附帯する継手つぎて金具を造って居た軍需工場があった(今でも現存です)。私の得意先の緑工業所さんが取引して居たのでいつもそこの仕事をして居た。継手金具、特に砲金鋳物仕上は私の方で造って居た。


 つまりお得意さんである緑工業所(場所は不明)の紹介で、桜ゴムという軍需工場の下請けを始めたわけだ。「軍需」の登場で、取引先が大五反田域外に出たことになる。

 ゴムホースとそれに付帯する継手金具、という観点に立てば、桜ゴムが頂点に君臨する。しかし桜ゴムが納品した製品は、他の各種部品とともにさらに上のヒエラルキーに吸収され、最終形態に組み立てられていく。気体や液体を送るゴムホースと金具が使われる最終形態は、それこそ多岐にわたる。素人頭でも、消火設備や何かを噴射するもの、空調設備等々が想像できる。

「継手金具」の画像をネットで検索してみた。これは……幼い頃、うちの工場にゴロゴロあった金属製品がこういうものだった。こんな真鍮製のネジを一つ一つ古新聞で包み、木箱に詰めるのをよく手伝った。ちょっとしたおこづかいをもらえたからだ。当時それらが使われたのは、消火用スプリンクラーや、銭湯の湯舟で空気を噴射する(いまでいうジャグジー)部品だった。

 


 私の幼少期に父が作った品物は、最も近場を挙げると、五反田の東京卸売りセンター(通称TOC)の地下駐車場用スプリンクラーに使われていた。うちは当時、目黒にある「ホーチキ」という、その語感からしてもちろん火災報知器関連を扱う会社の下請けをしていた。そのことを誇らしく感じていた父は、納品後もたびたびTOCの駐車場に出かけ、スプリンクラーを眺めたという。

「スプリンクラーってのは、火災が起きなきゃ動かない。必死で作った品物が、どうか動きませんように、って祈らなきゃならない。おかしなもんだ」とは父の弁である。

 


 平和な時代は、駐車場のスプリンクラーやジャグジー部品で済む。しかし戦時中はそうはいかない。


 軍の突貫仕事はよく来た。図面が来て二十日間で仕上げる様とのきつい達し。鋳物四K位三組合せ金具五十組から百組位の数が多かった。木型屋が五日間、鋳物工場が六日間、機械加工仕上が一週間、然も仕上寸法もうるさく納期間が厳しいのでよく午后十二時頃迄やって間に合せた事がある。鋳物屋は蒲田の三共合金へ注文したが、よく間に合せてくれた。納期に仕上りテストも合格した時は気分も格別です。桜ゴム会社の方も喜んでくれた。


 木型屋が五日間で木型を作り、それに金属を流しこんで鋳物屋(三共合金)が鋳物に仕上げるのに六日間。それが星野製作所に納品され、七日間で仕上げた、ということだ。そして厳しいテストを経て桜ゴムに納品され、軍に渡る。

 軍から依頼を受けて星野製作所が作った品物は、最終的に何に使われたのだろう。手記には書かれていない。幼少期のことだから、さすがに父もわからないという。手掛かりはないものかと、ネット検索してみた。
「桜ゴム」というのは、いまも渋谷区笹塚に本社を置く「櫻護謨さくらごむ株式会社」だった。大正七(一九一八)年に「各種ゴム製品製造を目的として」創立された会社で、戦時中は「陸・海軍軍需工場に指定」された、とウェブサイトに書かれている。

 大五反田の工業地帯としての発展は、大正三-七年の第一次世界大戦がきっかけだったと前節で書いたが、櫻護謨もそのタイミングでの創業だったとは、興味深い。

 ついでに、父が下請けをしていた「ホーチキ株式会社」(本社は品川区上大崎)も調べてみた。こちらも大正七年の創業であった……。

 櫻護謨に話を戻すと、現在の事業は消防防災部門、航空宇宙機器部門、工業用品部門、不動産賃貸業に分かれている。

 消防防災部門では「消防ホースをはじめ、様々な消防・防災用品、救助資機材を製造・販売しています。今日も日本のどこかで、市民の安全を守る消防士が、私たちの作ったホースを手に火災と戦っているのです」という。

 注目するのは航空宇宙機器部門だ。

「航空機用金具、ホース、ゴム部品等を製造・販売しています。航空自衛隊、ボーイング社等の認定工場となっており、その技術力・品質は高く評価されています。宇宙航空研究開発機構(JAXA)のH-IIA/H-IIBロケットのエンジンチュービングも櫻護謨の製品が使われています」

 そして、航空自衛隊の戦闘機の写真が掲載されていた。

 祖父の作った継手金具は、もしかしたら戦闘機の一部に使われたかもしれない。

 うすうす感じてはいたが、その可能性はぐっと高まった。

五 乳母日傘


 早いところ焼け野原の話に入りたいのだが、うちが焼け落ちるまでにはあと何年かある。それまでの話に、もうしばらくお付き合いいただきたい。

 前節で、星野製作所が櫻護謨株式会社という軍需工場の下請けをしていたことが判明した。終戦の時点で十二歳だった父に櫻護謨の話を差し向けたところ、「ああ、桜ゴム。聞いたことあるね」とさらりと言ったものの、「何に使われたかまではわからない」と言う。ともあれ、うちで作られた継手金具が、日本軍の使用した「何か」に使われたことだけは確かだと思われる。

 なんとなく、そんな予感はしていたのだ。

 いや、その言い方はおかしい。祖父の手記を自ら清書し、繰り返し何度も読んだのだから、そのこと自体は知っていた。しかし深く考えず、故意にスルーした。「こんな小さな町工場で、たいしたものを作っていたはずがない」と、自分に都合よく考えたのである。

 それは、日本独特の工業形態によって形成された、町工場心理の象徴みたいなものだ。戦闘機や軍艦、潜水艦といった「たいしたもの」は無数の部品で形成されている。それらは町じゅうに広がる小さな工場で作られたあと、磁石のように大工場へ吸い寄せられ、最終形態へ組み立てられていく。

「木を見て森を見ず」ということわざがある。町工場はいわば、自分に割り当てられた木をひたすら忠実に育てるだけで、それがどんな森を形成しているかを俯瞰しない。遅ればせながら私も、ようやくその森の存在を認識した。

 うちの継手金具がどんな「たいしたもの」に使われたかは不明なままだが、軍国日本の軍需産業の最末端にうちがぶらさがっていた、と認識できたことは、個人的には極めて大きい意味
を持つ。

 他の人はともかく、私は二〇歳の頃から香港、中国と個人的な縁がある。以前にも触れたが、一九八六年に交換留学のため香港に行った時、三年八か月の間香港を占領した日本軍の蛮行を記憶している人は多く、反日感情が非常に強かった。

 いまも付き合いの続く友人たちが、日本人であるという理由で私を糾弾する機会は、ほとんどない。しかし彼らの親の中には、故郷の町に日本軍が進軍し、着の身着のまま香港に逃げてきた人もいる。日本軍による侵略が友人たち一族の運命を過酷なものにしたことはまぎれもない事実で、彼らとの関係はいまだに痛みを伴い続けている。

 時間の流れと世界の激変の中で、日本の戦争責任について思考を放棄したくなると、友人たちの存在が引き留めてくれる、ということもできる。私が完全にそれを忘れたら、その時は彼らから見捨てられるだろう。

 奇妙な言い方だが、うちが軍需産業の末端に加わっていたことでようやく立ち位置が定まったような、そんな思いに駆られるのだ。

つるや旅館


 祖父は手記の中で、「統制合理化」という見出しに続き、こう記している。


 小さい工場は幾つかの工場が合ペイして軍のカンリ工場になるとか、今迄仕事を頂いて居た国の協力工場になるとかしなければならない。お陰で私の工場は桜ゴムの仕事をして居た関係でいや応なしに桜ゴムの協力工場になって今迄以上に軍の仕事をした。民間の仕事は出来なくなったのです。
 
 兵役関係者はもちろん、若い者は殆ど戦地に召集され、商店主や勤め人、軍の仕事に関係ない者は徴用令でどんどん召集され、大工場や軍需工場で働かなければならない。自由な身分の仕事が出来なくなったのです。各工場で働いて居る者も労務手帳が出来、工場主が預かって居り、その工場をやめ様と思ってもかんたんにやめる事が出来ない。自由に職場を換へる事が出来ない規ソクになった。


 戦争が激しくなるにつれて国民の管理がいっそう厳しくなり、誰しも国家のお役に立つことが最優先事項となった。祖父の工場でも工員が次々と召集され、仕事を選ぶことはできず、民間の仕事を請け負うことは不可能になった。

 このあたりの記述も、これまではいい加減に読んでいた。戦争は完全に過去の話で、知りたいとは思うが、しょせんはどこか他人事だった。

 しかしいまでは、現在に置き換えて読んでいる自分がいる。「歴史は繰り返す」といわれるが、あいにく同じ顔ではやって来ない。もしかしたらすでに、何かがゆるやかに始まっているかもしれない。その時、無名の一市民である祖父はどのように生きたのか。来るべき日に備え、過去を参照している気がする。これは手記を最初に読んだ二十数年前にはまったくなかった感覚だ。

 


 ここに一枚の家族写真がある。

 父は、昭和ヒトケタ生まれにしては幼少期の写真が多いほうだ。カメラ好きだった祖父は、多摩川の河川敷で花見をすればパチリ、登山してもパチリ、息子に子ども用の自転車を買ってやればパチリ、工場の工員、家政婦、犬、猫、自分の野球チーム……と様々な写真を撮り、自らアルバムの形にまとめた。この写真も、そんなアルバムの一冊に収められていた一枚だ。

 
 

 
 それは海岸で撮影された家族写真である。浴衣を着た夫婦に子どもが三人、波打ち際に並んでいる。いずれも、表情は少々硬い。夫婦は三〇代後半にさしかかった私の祖父母で、三人の子どもは、父と妹の弘子、そして当時わが家で預かっていた、祖母の弟の娘、朋子である。父の年齢は八、九歳といったところ。昭和十八年生まれの弟、光正の姿がないので、昭和十六-十七年頃の夏に撮られたものと推測できる。

 父は子どもの頃、毎年夏になると熱海へ家族旅行に出かけていた。この写真にはたまたま祖父が写っているが、忙しい祖父が同行することのほうが珍しく、通常は祖母が子どもたちを連れて電車で熱海温泉へ行き、『金色夜叉』の「お宮の松」の正面に建つ「つるや旅館」に一週間ほど泊まるのが常だったという。帰りの日は多少延びることがあった。迷信深い祖母が、帰るのにふさわしい日時を占い師に決めてもらっていたからだ。

 つるや旅館は、昭和九(一九三四)年創業の、熱海温泉で最も著名だった高級旅館である。一九六七年にはつるやホテルとして生まれ変わるが、一九八四年には事業家の買収によって創業一族の手を離れ、バブル時代には巨額の融資の担保となるなど紆余曲折があり、長いこと廃墟となっていた。廃墟マニアの間では垂涎の的だったようだ。どことなく、五反田の海喜館を彷彿させる没落ぶりである。

 さびれゆく一方だった熱海温泉の状況が一転するのは、昨今のインバウンド需要の高まりによるものである。つるやホテルの廃墟は、最終的に香港の企業が所有権を獲得し、跡地に全室温泉付きスイートルームが売りの五つ星リゾートホテル、「熱海パールスターホテル」が開業することになった(二〇一九年五月一日開業予定だったが、二〇二二年五月現在まだ開業していない)。

 この「熱海での避暑」は、わが家では比較的よく知られた昔話だった。特に、母が父の軟弱さをやんわりと批判したい時などに、この話を持ち出す機会が多かった。そして最後は

「あんたは乳母日傘おんばひがさのボンボンだから、頭を使わないのよ!」

などと言って、トドメを刺す。家庭内の小さな階級闘争である。

 母の神経を逆撫でするのは、「避暑」という行為そのものだったに違いない。

避暑


 私の母・良子は昭和十年、外房の海沿いにある岬町で生まれた。周囲のほとんどは米作農家だったが、母の家は、先代が日露戦争の頃に地曳き網の投資に失敗して田畑を手放した旧地主で、わずかに残された農地で小作人が作る米が命綱だった。そこで父親の弥一やいちが現金収入として考えついたのが、その頃外房に急速に増え始めていた、東京から来る避暑客の別荘管理と身の回りの世話だった。

 岬町は、九十九里の最南端あたりに位置する、太平洋に面した美しい砂浜が広がる地域である。そこから少し北にある一宮町は、「サーフィンとともに生きる町。」を掲げてサーファーの誘致を積極的に行い、二〇二一年の東京五輪ではサーフィンの試合が行われた。非常によい波が来るところなのだ。

 このあたり一帯は、東京からさほど遠くない避暑地として明治時代から人気があり、岬町には作家の森鷗外、林芙美子、さらには孫文の革命に財政支援をしたことで知られる、長崎出身の富豪にして日本活動写真株式会社の創始者、梅屋庄吉といった人たちの別荘があった。作家の宮本百合子は、母の実家に近い旅館に滞在していた。

 梅屋の別荘は、母の生家から一本道を十分ほど歩いたところにあり、日本亡命中の孫文や蔣介石が一時期身を寄せていた。岬町の国道沿いには「以徳報怨之碑」という記念碑が立ち、この地域と蔣介石の縁について触れている。


岬町江場戸えばど海岸に、今なお跡の残る翁[梅屋庄吉]の別荘には、日本亡命中の国父孫文が秘そかに身を寄せられ、蔣介石総統も若き日に、しばしば訪れ、中華革命の烈士ともども、幾度もの挙兵の策を練られた。


 母より十歳年上の姉・あいは生前、「梅屋の別荘では豚をたくさん飼っていて、中国人の少女が世話をしていた」と話してくれたことがある。その女の子が憐れで、よくサツマイモを届けてあげたのだ、と。さらに、「チャイナドレスを着たきれいな中国人の奥さんが使用人を叱り飛ばすのを見た」とも話した。蔣介石夫人の宋美齢かもしれない、と私は勝手に想像しているが、確証はない。

 私の母方の祖父・弥一が管理人を務めたのは、猪俣浩三というクリスチャンの社会党衆議院議員の別荘だった。代議士を引退してからはアムネスティ・インターナショナル日本支部を設立し、理事長となった人物である。猪俣夫人から特にかわいがられたのは、前述の伯母・あいで、毎日お茶の時間に呼んでくれ、一緒にラジオを聴いたり西洋菓子を食べたり、当時はまだ珍しかったランドセルや文房具をもらったりしたという。

 猪俣一家は、当初は休みの期間に一時滞在しに来るだけだったが、戦争が激化するとその別荘に疎開し、そこで終戦を迎えた。

 つまり母は、父とは逆に、東京から避暑に来た人を受け入れる側だったのだ。避暑に対しては、いろいろ複雑な思いがあるようである。それが時折、避暑をする側だった夫に向けて噴出する。まあ、気持ちはわからないでもない。

 話を東京に戻そう。なぜ私が熱海の写真に固執するかというと、この一枚が原因で「戦時下とはいえ、うちは割とのんびり、裕福に過ごしていたのだな」という刷りこみがなされたからだった。そしてそのことは、なんとなく、大きな声で人に言ってはいけないような気がしていた。

 私は戦争を知らない世代ではあるが、幼少期を送った高度経済成長に沸く日本には、まだ戦争の気配が残っていた。

 祖母の親友は息子を戦争で失い、軍人恩給で暮らしていた。「こんなこと言っちゃなんだけど、あの子が一番親孝行だ」とよく言っていた。

 近所で町工場を営む社長は、お祭り好きで、近所の子どもにとても優しいチャーミングな人だったが、シベリア抑留経験者だった。伯母の同級生には、許嫁、あるいは新婚間もなく夫が召集されて戦死した人が多かったため、手に技術を持った職業婦人が多かった。祖母に連れられて泉岳寺の縁日に行くと、駅から寺へ通じる道に傷痍軍人がたくさん立っていて、震え上がった。

 ふだんは気づかないけれど、じっと目を凝らすと、戦争は日常のあちこちに、そっと潜んでいた。

 いまとなっては、いろんなことが腑に落ちる。

 若い者は次々と戦地に召集され、商業従事者や勤め人も徴用される中、年齢が少し上で工場主である祖父は、戦争に行かずに済んだ。それは確かに幸運だった。しかしそれだけではない。軍需工場の「協力工場」に指定され、「今迄以上に軍の仕事をした」ことで、むしろ経営基盤が安定したのである。

 ありていにいえば、戦争をきっかけに裕福になったのだ。

六 疎開



防災頭巾をかぶった女の子


 父と私は、戸越銀座にある同じ品川区立の小学校の出身である。選挙があるたびにその小学校を訪れる。昨今はセキュリティが強化されて自由に出入りすることができないため、選挙は母校を訪れるまたとない機会でもある。

 校門から中に入ると、かつて私も耕したことのある小さな水田がある。その水田の前には銅像が立っている。二宮金次郎ではなく、愛らしい女児の銅像だ。防災頭巾をかぶり、布製の鞄を斜めがけにして、もんぺを穿いた女の子である。ぷくぷくと太り、満面の笑みを浮かべて、実にかわいらしい。ほとんどの人はその存在にすら気づかず素通りしていくが、私は必ずこの銅像に軽く会釈をすることにしている。像の足元に貼りつけられた銅板のプレートはすでに風化が始まり、かなり読みづらくなっているが、こう書かれている。


 私たちが小学生のとき戦争がありました。戦争は相手の国の人々との殺し合いです。
 
 空襲で家を失い、懐かしい校舎も焼かれ、大好きな先生も戦死され、友達もたくさん失いました。学童疎開では、毎日家へ帰りたくて泣いてばかりいました。
 
 私たちが経験したこの恐ろしい戦争が、再びあなた方の前に起きてはならないし、起こしてはいけないのです。
 
 何よりも生命を尊び、平和を大切にしていかなければなりません。
 

一九四四年に六年生だった卒業生より




 この銅像は卒業生からの寄付金で作られ、平成十一(一九九九)年三月に完成した。そしてその年の卒業式、六年生とともに、「一九四四年の六年生」が一緒に卒業式を行った。彼らが卒業するはずだったのは、一九四五年三月。東京大空襲があった月だ。

 その老いた卒業生の中に、当時六六歳だった父がいた。「お向かいのMさんの孫と一緒に卒業したんだよ」と、思い出しては照れ笑いをする。

 戦争の激化に伴い、都市防衛の強化と学童身命の防護を目的に、政府が学童集団疎開を閣議決定したのは昭和十九(一九四四)年六月三〇日のことだった。品川地域では、第一陣として八月四日に城南第二国民学校が西多摩郡瑞穂町へ出発。続いて諸学校が八王子市、西・南多摩郡、静岡県、富山県へと学童たちを送り出した。静岡に疎開した児童たちの一部は、静岡が米軍の攻撃対象に含まれているという理由から、さらに青森へ疎開。八王子に疎開した児童の中
には、終戦間際の八王子空襲によって命を落とした子どももいた。

 現在の品川区を形成する品川・荏原地区別で疎開先を見ると、品川地区の疎開先が東京三多摩地区、荏原地区は静岡(のちに青森)と富山だった。父が学童疎開をしていたなら、静岡か富山になっていたはずだ。東京都から集団疎開した学童は二三万七〇〇〇人といわれる。

 しかし父は幸運にも(といってよいだろう)、学童疎開をせずに済んだ。戦争の激化を懸念した祖父が、家族を独自に疎開させたからだ。学童疎開させない方針は、実は祖母の意向が強かった、と父は言う。ふだん自己主張などほとんどしない祖母が、子どもを手放すことについては断固拒否したのだそうだ。

 軍需部品を作る祖父は、仕事が忙しくなればなるほど、軍からの突貫工事の依頼が増えれば増えるほど、戦争の激化を肌で感じられる立場にあった。黙々と軍の下請けをこなしながら、戦火を避ける算段をひそかに考え始めていたのかもしれない。

 現在の品川区にあたる地域が初めて米軍から空襲を受けたのは、昭和十七年四月十八日のドーリットル空襲だった、と以前に書いた。要は、真珠湾攻撃のリベンジとして米軍が日本本土を初爆撃するにあたり、選んだ場所の一つが品川だったわけだ。

 これまで何度も目を通しながら気づかなかった自分の目の節穴ぶりに呆れるばかりなのだが、あらためて読み返したら、祖父の手記にもこの空襲がさらりと登場していた。


 十七年四月十八日正午頃、突然空襲警報がなって人々を驚かせた。私も隣組の指導員をして居たのですぐ表へ出た。多摩川方面から飛行機が一機来た。米機か日本の飛行機か判らないが高航砲は飛行機目がけて撃って居た。一般の人々は演習をやって居るのだろうとぐらいに思って居た。丁度私の工場の上をテイ空で飛んで行った。すぐ其後裏の隣組の方から大声あり、バクダンが落とされたから応援頼むとの事。すぐかけつけた。五、六名防空ゴウに埋まって居た。大急ぎで掘り返し全員助けたが中に手を合わせ拝んで居る婦人も居た。隣の町会では七、八名の死者が出たが初めて出会った空襲でどぎもを抜かれた。又白昼一機で空襲に来た敵機のダイタンさにも驚いた。


 日本を襲った初めての空襲が、祖父に決断をさせた。自分だけ戸越銀座に残り、家族は疎開させることに決めたのだった。

疎開先の選定




 これからも時々空襲もあるのではないか。田舎の親せき等へソカイする人も出て来た。又小学校の生徒も集団で山国のお寺とかお宮へソカイする学校もあった。
 
 私も玉川に近い町に二十五坪(当時二万円)の家を買ってあった。が玉川でも戸越でも空襲は殆ど同じ、も少し遠い山辺の方へソカイすべく毎朝の様に新聞を見ては出かけてみたが適当な所はなかった。


 
 

 

「山国」「山辺」というざっくりした書き方が、外房の漁師の息子だった祖父らしい。米軍機は海のほうからやってくる。山のほうがより安全だ、という感覚があったのだろう。

 祖父が言う「玉川の家」だが、私が祖父から実際に聞かされたのは「大森の家」だった。しかし父に確認すると、「雪ヶ谷だ」と言う。大森なのか、雪ヶ谷なのか……。調べてみたら、なんということはなく、当時の住所表記が「東京都大森区雪ヶ谷町」だっただけのことだ。この家に父は一度も行ったことはないが、こちらは比較的早くから手に入れていたらしい。

 そしてようやく、手ごろな物件が見つかった。埼玉の越ヶ谷から目黒に通勤している取引先の「宮田製作所」の宮田さんが、生まれ故郷の北海道に疎開することを決め、越ヶ谷の家を売りたがっていたのだ。祖父は即断してその家を購入することにした。


 戸越から約二時間(池上線戸越銀座から乗り五反田から国鉄上野乗換へ北千住乗換へ東武線越ヶ谷下車徒歩十五分)の所です。土地三百坪、家二十坪、瓦葺倉庫四坪、隣に田百五十坪(小作に造らせていた)、建築好きの宮田さんの事、実に立派なしっかりした築三年くらいの家であった。庭には梅の古木二本(梅三斗位とれた)、柿八本、あんず三本等があった。倉庫には一年分位の薪が積んで有り、家の床下にはじゃがいもが一ぱいあった。後困らない様残して置いてくれた。
 
 値段は三万七千円で買い求め、引っ越したのは十九年八月でした。私も一日おき位に東京へ通った。前の玉川の家は二万一千円で他に譲ったが、空襲でも焼けづに残って居た。


 宮田さんは、戦後北海道から目黒に戻り、父の代でもお得意さんだった。
 うちでは家族の間でよく話題に上がる、一つの疑問があった。

 父は疎開先の越ヶ谷で地元の子たちから「もやしっこ」といじめられたため、埼玉が嫌いになってしまった。なぜ祖父は自分の故郷であり、親戚が多く、周囲からのサポートをいくらでも受けられる外房の御宿・岩和田を疎開先に選ばなかったのか。祖父が縁もゆかりもない越ヶ谷を選んだことは、ずっと家族の間で疑問として残っていた。

 しかし手記を再読するうち、なんとなくその理由が見えてきた。

 島国の日本では、敵は必ず海の向こうからやってくる。故郷の岩和田は、太平洋にはりついた集落だ。祖父は、海から少しでも距離を置きたかったのかもしれない。

 もう一つは食糧問題である。祖父の故郷は漁村で、魚は太平洋で勝手にとることができるが、耕作地はまったくない。疎開は第一に空襲を避けるためのものであるが、そこで食糧に困るようであれば、移動する甲斐がない。宮田さんが困らないように残しておいてくれた薪やじゃがいも、庭の果樹の記述が登場するあたり、食糧事情を重視していた様子がうかがえる。

 父によると、庭にはもう一種類、いちじくの木が三本あった。

「そのいちじくが、おいしくておいしくて」

 父がいちじく好きだったとは、初めて知った。

疎開者の悲哀




 全校の三分の二以上は農家の師弟[ママ]でしたが、食糧事情が悪くなるにつれお弁当はコマッタ。農家の子供は銀しゃりといって真っ白なお米のお弁当を持って行かれたが、ソカイ者の子供はじゃがいもやすいとん等の人も居て可愛そうな様でした。当時主食米の配給は育ち盛りの子供には一食分くらいの分量しかなく、殆ど代用食でした。子供も母が畑で働いて居るので、じゃがいもやすいとんを造る手助けをよくして居た。近所に農家があるので物々交換とか、いくらか高いお金なら米も何とかなったのですが、成る可く代用食で間に合う様にした。


 私は麦が好きで、ふだん白米に押し麦を混ぜて食べるのだが、父は絶対にそれを認めず、いまだに銀シャリしか食べない。銀シャリを食べられなかった恨みは大きいのだ。

 これまで父に「越ヶ谷時代のことを聞かせてほしい」と頼んでも、「ほとんど忘れた」の一点張りで、なかなか話してくれなかった。ところが最近、どういう風の吹き回しか、夕飯を食べている時など、ポツポツと断片的に話してくれるようになった。

 人から昔話、特に戦争時代の話を聞き出すのは本当に難しい。私は四六時中そのことを考えていて、相手を質問攻めにしてしまったりするのだが、あいにく向こうは常にそのことを考えているわけではないし、積極的に思い出したいとも限らない。

 さらに、記憶をたどるという行為は、人によって得手不得手がある。優劣、ではなく、得手不得手だ。記憶の検索が得意な人、たとえば私の母の記憶の保管庫は図書館のようで、かつてどこの図書館でも備えられていた目録カードのように整理整頓されており、質問に応じてピッピッと的確なカードが検索され、記憶が飛び出してくる。

 一方、思い出すのが不得手な人、たとえば父の記憶の保管庫は、シリコンのような弾力性のある素材でできた金魚鉢に似ている。誰もが年齢を重ねれば記憶の容量が減る。すると金魚鉢の背丈が低くなっていき、最近の記憶から先に、水のように外へ流れ出していってしまう。昔の記憶は、金魚鉢の底に堆積して、手つかずのまま眠っている。私が知りたいことは、この堆積した砂の中にある。しかし金魚鉢の外からいくら呼びかけても、底の砂はなかなか浮かび上がってこない。何かの拍子に鉢の中の水が撹拌され、砂が浮かび上がってきた瞬間に掴むしかない。

 それが父の場合、食料難の時代だっただけに、食事の時間に撹拌されることが多いのだった。

 祖母は越ヶ谷の家の庭でじゃがいも、なす、きゅうりを作っていた。子どもたちは田んぼのあぜ道に生える野ビルを摘み、持って帰るのが日課だった。ネギの代用食だ。

 悲しい記憶として残っているのは、二つのエピソード。一つは、クラス全員でイナゴをとりに行くと、一匹も捕まえられずに地元の子どもたちからバカにされたこと。もう一つは、越ヶ谷の家の前を通る一本道を、牛が連れられていくのを見るのが哀しくてしょうがなかったこと。

 ある日父は、好奇心に駆られて牛のあとを追っていき、そこで牛がハンマーで頭を一撃され、屠畜される姿を見てしまった。その様子に衝撃を受けた父は、二度と牛のあとを追わないようになったが、一方ではこうも思ったという。

「越ヶ谷にいた時、牛肉なんて一度も食べたことはない。とにかく野菜しか食べた記憶がない。それなのに、日々、近所で牛が屠畜されていた。こんな時代でも、どこかで牛肉を食べてる奴がいるんだな、と思った」

 米の話にも触れておきたい。ここは、戦時中でも米に困らず、戦争激化前は別荘滞在者、激化後は疎開者を受け入れる側だった母の記憶に、補ってもらうことにしよう。

「戦争で食糧事情が悪くなると、都会と田舎の立場が逆転するのよ。米を持つ人間が一番強くなる。都会から来た人たちは、言われた値段で米を買うか、着物や珍しい物と米を交換してもらうしかない。ところが足元を見られて法外な値段をふっかけられたり、『着物ばかりもらってもしょうがない』と意地悪されたりね。『こんな高価な着物が、これだけの米にしかならなかった』と泣かされた人をたくさん見たよ。うちは、近くに疎開していた石井子爵の家から、米と引き換えにミシンと勉強机をもらった。四本足の勉強机が子ども心に嬉しかったよ。戦争になったら、とにかく米。覚えておきなさい」

 そんな話を聞くと、祖父が書いた「いくらか高いお金なら米も何とかなった」という表現が、なかなか含みをもって響いてくる。

 


 子どもだった父は疎開先で多少辛い思いをしたようだが、それでも戸越銀座で死ぬよりはましだ。祖父が、戸越銀座が焼けることを想定して早め早めに行動していたこと、さらに疎開先の選定にあたって細かい点を考慮するのも忘れなかったことを再認識し、私は新鮮な驚きを感じている。

 すべては、自分たちが生き残るためだ。

 祖父は、なかなかに聡い小市民だった。

 日本では、戦争で「みんな」がどれだけ苦労したかを語ることは好むが、どのような手段を使って個人が生き残ったか、あるいは逃げ延びたかをあまり伝えたがらない傾向がある。平時でさえ「あいつはうまくやった」の類いが好きではないというのに、ましてや国民総動員、徴兵、一億玉砕、隣組による監視体制が強まる戦時中、生き残ろうとすることにはそれなりの同調圧力がかかっただろう。

 祖父は年端もいかない私たちに向け、なんとか死ぬ前に、生き残りの術を伝授しようとしていたのではないか、という気がし始めた。(『世界は五反田から始まった』へ続く)
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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