世界は五反田から始まった(04) 「Phantom of Gotanda」|星野博美
初出:2019年04月19日刊行『ゲンロンβ36』
2024年12月25日追記
この半径約1.5kmの「大五反田円」を、私はレーダーの感知範囲、あるいは猫のテリトリーのように認識していて、ここに何かが入ってきたり事件が起きたりすると、その地点がピコピコ点滅し、自動的に関心を寄せる精神構造になっている。ゲンロンカフェとの出会いにしてもそうだ。ゲンロンカフェのほうが、私のシマに入ってきたのである!
2018年10月、東京都内のある土地をめぐって、地面師(土地の所有者になりすまして売却をもちかけ、多額の代金を騙しとる、不動産をめぐる詐欺を行う者)と呼ばれるグループが暗躍し、住宅メーカー大手の積水ハウスが55億5000万円もの現金を騙しとられた事件が報道されたのを覚えておいでだろうか。私がその大規模詐欺疑惑を知ったのは、犯行グループが逮捕される1年以上前、風呂につかりながら『週刊現代』を読んでいた時だった。その告発記事で舞台となった土地の場所を知り、驚きのあまり、雑誌をお湯の中に落としそうになった。
五反田の、あそこではないか……。
「あそこ」とは、ゲンロンカフェの隣のファミリーマートから、目黒川沿いの道を川上、つまり目黒方向へ遡り、桜田通りを越えたところにひっそりと建つ、古めかしい和式旅館「海喜館」である(地元では「かいきかん」と呼ばれていたという)[★1]。
界隈では昔から有名な旅館だった。私は泊まったことはないが、桜の季節に門から入って石畳を歩き、建物の入り口まで入ったことは何度かある。大正ロマン風の旅館本体が朽ちかけているのに対し、植木はきちんと手が入れられているのがなんともアンバランスで、目黒川沿いの桜から落ちた花びらが庭に舞い、それは美しかった。記憶にある限り、2010年にあのあたりで花見をした際にはまだ営業していたが、ここ数年は営業しているのかいないのか、判別できなかった。
場所柄からして、かつては芸者などを呼んで遊興にふける旅館だったのだろう。池上線の終電を逃して深夜にここの前を通ったりすると、亡霊たちの奏でる三味線の音が流れてきそうな気がしたものだ。
五反田駅から徒歩3分という好立地に、再開発されずにぽっかりと残された約600坪という広さ。庶民にはまるで実感がないが、アジアの富裕層による投機目的の購入もあり、23区内の新築マンション価格は高騰し続けている。この土地に高層マンションを建てれば、かなりの利益を上げられるだろうと、大手不動産業者や住宅メーカーには垂涎の土地に映っただろう。積水ハウスは、そこにつけこまれた。
実行犯のグループが逮捕され、事件の概要は明らかになりつつある。逮捕直前にフィリピンへ高飛びした主犯格のカミンスカス操容疑者(当時58)が話を持ちかけ、土地の所有権者の知らない間に本人確認用の印鑑登録証明証やパスポートなどを偽装して、羽毛田正美容疑者(当時63)が所有者になりすまし、手付金をまんまと騙しとった。
そう聞くと巧妙な詐欺のように思えるが、実際はけっこうお粗末な点が多かったことに、驚いてしまう。『地面師』の著者、森功氏がウェブメディア『現代ビジネス』に2018年12月8日付けで記した記事によれば、羽毛田容疑者が生年の干支を答えられなかったり、五反田が実家であるはずなのに「ゴールデンウィークは田舎に帰る」と答えてしまったり、肝心の土地登記証がカラーコピーであったりと、ふだんから怪しい人脈と付き合いの多い詐欺コンシャスな人間なら簡単に見破れるような致命的な失敗を、彼らはいくつか冒していた。実際、当初打診された複数の中小不動産会社や業者は偽装を見破り、詐欺には遭わずに済んだという。
おかしな点はいくつもあったのに、後戻りできず、突き進んでしまった。利益や成績に目がくらんだ、大手企業のサラリーマンだからこそ騙された事件、と言えるかもしれない。
私は海喜館が大好きだった。ここが五反田に残されている。それだけで、激変を遂げる五反田は、かろうじて記憶喪失から逃れられていた。
さらに、営業しているのかいないのかわからない状態は、所有権者のここに対する強い愛着を物語っているようだった。旅館として営業を続ける気力は残っていない。しかしつぶして売るには、思い出がありすぎる。本心を言えば、閉めたい。しかし廃業したことが誰の目にも明らかになってしまうと、不動産関係の胡散臭い人物たちが押し寄せそうで、たまらない。ならば、開いているのか閉まっているのかわからない、曖昧な状態にしてしまおう……。そんな葛藤を感じたのである。
犯行グループ逮捕の一報を聞いた時に私は、狡猾な彼らよりも、騙された積水ハウスのほうに腹を立てた。五反田の貴重な記憶遺産をつぶして、高層マンションを建てようとしていたとは! そんな邪なことを考えるから、つけこまれるのだ。
土地の所有権者は事件にまったく関わっていないため、建物はそのまま残されている。いずれは壊され、五反田の記憶から消滅する運命なのかもしれないが、少なくともこの事件の発生により、廃墟旅館はしばらく延命した。いまは立ち入り禁止になり、大崎警察によって守られている。
ゲンロンカフェに立ち寄る人は、ついでに訪れてみてはいかがだろうか。そしてかつての五反田の繁栄に思いを馳せてみてほしい。
しかし、ゆめゆめ立ち入ってはいけません。警報が作動して、大崎警察が駆けつけますので。
さて、その海喜館とゲンロンカフェのちょうど中間あたりの目黒川沿いに、「TGI FRIDAYS」というアメリカンレストランがある。ここにはかつて、「五反田TOEIシネマ」という映画館があった。
この映画館の前身は、大正時代に開業した「大崎館」だという。1945年5月24日の大空襲(これについては、いずれまた取り上げるだろう)で全焼、戦後に再建、経営母体や名前が変わったりと紆余曲折を経て、1977年に洋画の名画座として開館した。
ここは目黒川が氾濫すると一気に水が押し寄せる映画館として知られ、ロビーには土嚢が常備されていた。いまはだいぶ水質が改善されたものの、私が小さい頃の目黒川はそれはそれはひどいもので、橋の上から水面をのぞきこむと、水面に浮かんだ油が七色にぬらぬらと光っていた(この、油が織りなす七色の光が、実は嫌いではなかったのだが)。大昔、うちにはディズニーの『不思議の国のアリス』の紙芝居があり、私たち姉妹の大のお気に入りだった。小さくなってしまったアリスが小瓶の中に入り、自分の涙でできた海を漂う場面があるのだが、そのカーキと濃い灰色を混ぜたような海が、まさに目黒川の色だった。その後遺症で、目黒川を通りがかるたび、いまだに自動的にアリスを思い出すという、奇妙なことになっている。
そして橋の上に立つと、ぷうんと漂ってきた、どぶのような匂い。当時から川沿いには桜並木があったが、どぶ臭さのせいで、ここへ花見に出かける人はあまり多くなかった。
愚痴はさておき、そんな目黒川に面した五反田TOEIシネマに私が頻繁に通ったのは、高校中盤から大学初期、時代でいうと1982-85年頃のことだ。学校帰りに五反田で山手線を降りると、池上線には乗らずに地上に降り、五反田TOEIシネマに歩いていく。そして上映スケジュールが掲載されたチラシをもらい、気になる作品があれば土曜日に見に行った。当時は映画や小劇場、コンサートにライブハウスの情報を掲載した情報誌『ぴあ』や『シティーロード』の全盛時代だったが、そんな情報誌を買うお金も節約したかったのだ。
私はその数年前、中学生の時、荏原中延駅裏にあった「荏原オデヲン座」で、『スター・ウォーズ』と『キタキツネ物語』という、なんともシュールな組み合わせの2本立てを見ている。1970-80年代の日本には、有楽町や新宿、渋谷といった「盛り場」の大型映画館で封切されてヒットした作品が、忘れた頃に町の小さな映画館で2本立てになるという、お財布にやさしいシステムがあった。小学生までは親に連れられ、盛り場の映画館で封切作品を見たものだが、中学に上がれば映画は小遣いから捻出しなければならないため、最小限の金で最大限の効果を得たいというコストパフォーマンス意識が芽生える。交通費だって節約したいのだから、歩いていける映画館の存在は本当に重要だった。
五反田TOEIシネマは、そういう「小さな町の2本立て映画館」の類ではなかった。ここがどんな映画館だったかは、私が見たものを挙げればおおかた想像がつくはずだ。
ルキノ・ヴィスコンティ特集では、『熊座の淡き星影』と『夏の嵐』を見た。ヴィスコンティ作品はほとんど見ているが、よりによって最も嫌いな2本を五反田で見たのは痛恨の極みだ。土曜日しか行けないから、選択肢がなかったのである。
スタンリー・キューブリックの『時計じかけのオレンジ』をここで見ている最中に貧血を起こしたのは、いまとなってはよい思い出だ。あの暴力の量は、10代の自分のキャパシティを超えていた。ロビーでしばらく介抱してもらい、そのまま帰ったので、2本目が何の作品だったかは覚えていない。
『ロッキー・ホラー・ショー』を上映した回は、この映画館で初めて目の当たりにした、立ち見が出る盛況だった。何人かのグループで来た客が、場面に合わせて傘をさしたり歌ったりしていたのが、なんとも哀れに映った。そういうことは、盛り場でやらないとサマにならない。五反田でやっても、虚しいばかりであった。ものすごい期待をして見たが、ビジュアルだけで核心の感じられない、拍子抜けの作品だった。
ほとんどの客は『ロッキー・ホラー~』が目当てだったようで、映画が終わるや否や席を立ち、客席に人の姿はまばらになった。私も二本目にはまったく期待していなかったが、『ロッキー・ホラー~』が不発だったし、なけなしの小遣いを費やした分、なんとか投資金額を取り戻したいという気持ちが強く、そのまま座り続けた。そして2本目が始まった。『ファントム・オブ・ザ・パラダイス』である。
この映画には脳天をぶち割られた。いまでも自分の好きな映画ベストテンに入っている。この映画はブライアン・デ・パルマが1974年に監督したB級作品で、アメリカでは興行的に大失敗、ヒット・メーカーとして知られるデ・パルマの「稀有な駄作」のように評されることが多いが、まったく理解に苦しむ。五反田でこの映画に出会った。そのことが何より嬉しいのである。
この映画館は1990年に閉館した。私はその頃、阿佐ヶ谷の、日がまったく当たらない風呂なしアパートに住んでいて、閉館をしばらく知らなかった。
客観的にはともかく、個人的には、天安門事件やベルリンの壁崩壊が起きた1989年から90年にかけて、日本の景気は最も良く、人々がなんだか狂っていた感触がある。五反田TOEIシネマは、まさにその渦中にひっそりと幕を閉じたのだった。
あらためて計算してみたら、ここが五反田の地で名画座を営業したのは、たった13年間だった。思春期にこの映画館と出会えた私は、幸運だったと思う。
(つづく)
★1 追記(2024年12月25日)
五反田の「海喜館」に関して。呼称を「うみきかん」とする情報が多いが、本連載を単行本化した『世界は五反田から始まった』刊行後に五反田図書館で行ったトークショーにオーナーの親類がいらっしゃり、「私たちは昔から『かいきかん』と呼んでいた」という話をして下さった。その他、二名の参加者からも「『かいきかん』と呼んでいたね」という話があったため、本記事ではその呼称を追記した。(星野博美)
星野博美
世界は五反田から始まった
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