世界は五反田から始まった(06) 「戻りて、ただちに杭を打て」|星野博美

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初出:2019年06月24日刊行『ゲンロンβ38』

ねずみ色の工場


 1971(昭和46)年、「大五反田」の周縁に位置する戸越銀座。

 中原街道から小道を入ってじきのところに、そのねずみ色の町工場はあった。工場の入り口には「合資会社 星野製作所」という木製の看板がかかっている。業種はバルブコック製造業。バルブとはざっくり言えば「弁」のことで、この工場では液体や気体の量を調節するために開いたり閉じたりする接続部品を製造していた。扱う金属は砲金(青銅)と真鍮(黄銅)である。

 創業者は、外房は御宿おんじゅく岩和田いわわだの漁師の六男、星野量太郎(68)。芝白金三光町で丁稚をして技術を学び、五反田の下大崎で独立した量太郎がここへ移ってきたのは、1936(昭和11)年のこと。「お得意さんの多い五反田から近い」「大通りに近い」という条件を十二分に満たす土地だった。社長は2代目で、五反田生まれの長男、英男(38)である。

 量太郎の妻、きよ(66)は、御宿の山側の出身で、英男の妻、良子(36)は、外房・岬町の海側の出身である。工員もほとんどが、外房の中学校を卒業した若者だった。星野製作所は大五反田にありながら、外房の香りが強く漂う町工場だった。英男と良子の間には薫(9)、恵(6)、博美(5)という3人の娘がいた。丙午生まれの不機嫌な末っ子が、私だ。

 鉄製の重い柵をガラガラと引くと、ねずみ色のライトバンが停まっている。車の横には簡素な鉄棒がある。さかあがりがどうしてもできない長女、薫のために、社長自らが作ったものだ。しかし長女は結局、一度もさかあがりに成功することなく、鉄棒が大嫌いになってしまった。いまでは近所の女児たちが遊ぶための鉄棒と化している。

 工場と家は同じ敷地内に隣接して建っている。面積の比率は工場が1、家が2といったところだ。工場の入り口には、工員が常に冷たい水が飲めるように冷水機が備えられている。これは星野製作所のちょっとした自慢で、近所に町工場はあまたあったが、これを持っているのはここだけだった。毎年9月に行われる戸越八幡宮神社の例大祭で、町会の神輿が路地を練り歩く際、若い衆は星野製作所の前で神輿を下ろし、冷たい水を飲みに来たものだった。

 工場と家の間には、倉庫と、小学校の手洗い場に匹敵するほど大きな流し場がある。流し台の端には、浪花屋製菓の「元祖 柿の種」の缶が常備されている。中に入っているのは柿の種ではなく、問屋から買いつける「砂石鹸」だ。雨が降ったあとの砂のような質感を持ち、これをすくって手に塗りつけると驚くほど油汚れがよく落ちる、魔法のような石鹸だ。社長も工員も、食事の前にはここで念入りに手を洗い、指にこびりついた機械油を落とす。手を洗い終わったら、ねずみ色の作業着とズボンをパンパンとはたき、仕事中に全身に浴びた細かい金属の粉をはらう。これは工場から家に上がる際の儀式のようなもので、これをしなければ家に上がってはならないのだった。

 ガレージの正面に家の玄関はあったが、家の者と工員は、流し場奥にある勝手口から家に入るならわしとなっていた。玄関は客人、あるいは身なりのきれいな人が出入りする場所で、油で汚れた人と身内は勝手口しか許されない。近所の人が勝手口からふらりと入ってきたりすると、「あら、玄関から上がってくださいよ」「いいの、いいの」「だめだめ、そんなこと言わないで」と押し問答するのも、お決まりの儀式のようなものだった。

金属は永遠なり


 旋盤やボール盤でネジを切る、つまり金属を削る際に飛び散る粉は、厄介な代物だった。それらは素材別に砲金粉、真鍮粉と呼ばれるが、子どもたちには「ホーキンコ」という名で認識されていた。どんなに振りはらっても体のどこかに付着して家に入りこんでしまい、手足に突き刺さる。しかも蚊が大人よりも子どもを好むのと同じように、ホーキンコも裸足で家の中を歩き回る子どもの柔らかい皮膚を集中的に狙った。

 ホーキンコは小さいため、皮膚の中に入りこむ。そうしたらもう、トゲ抜きで抜くことはできない。裁縫用の針を皮膚に刺して肉をかき分け、金属片を掘り出す。この過程が痛いのである。そして慎重深く少しずつ上に出していき、皮膚の表面に顔を出したところで、トゲ抜きで一気に引き抜く。

 この微妙な作業は子どもにはできないので、親や祖父母の仕事になる。始終、大人が子どもの手足のトゲ抜きをする様子は、猿の毛づくろいのようだった。子どもたちはもちろん、時々泣いた。うまく取り出せなかった場合は、患部の肉が硬化して魚の目になる。救急箱には「ウオノメコロリ絆創膏」も常備されていた。

 ホーキンコは子どもの大敵だったが、これを憎むわけにはいかなかった。砲金粉と真鍮粉は分けてドラム缶に貯め、満杯となったら地銅商じどうしょうという業者に売るからだ。これにけっこうよい値がついた。そうして買い取られた粉は、鋳物屋で溶かされ、成型され、再び金属部品となって生まれ変わる。金属は永遠なのである。それを知っているから、子どもたちも痛みを我慢するのだった。

町工場の悲哀


 勝手口から家に上がると、台所と食堂がある。家族7人とお手伝いさん1人の計8人が一緒に着ける大きなテーブルで、食堂はほぼ占められている。近所の風呂なしアパートで暮らす工員たちは、6時に仕事から上がるとここで食事をし、風呂に入ってから帰宅する。それらすべてが終わった8時頃から、家族はようやく食事にありつくことができた。家族が全員揃うのはこの食堂で、生活空間は1階が量太郎夫妻、2階は英男の家族と決まっていた。

 英男は忙しかった。工員は定時で勤務を終え、食事と風呂を済ませてアパートに帰れば自由の身になった。しかし社長はそうはいかない。食後に再び工場に行き、1人で11時頃まで仕事をするのが常だった。

 それはまさに町工場の悲哀だった。親工場と町工場の関係は、ピラミッドのようだ。親工場から下請けに部品が発注される。下請けは孫請けに、さらにその下へ……と発注を下ろしてく過程で、納期に少しずつロスが生じる。そしてヒエラルキーの末端に近い星野製作所に注文が到達した時点で、納期はいつでも、すぐそこに迫っている。

 お得意さんから「特急で頼むよ」と言われたら、断ることは難しい。断れば、発注ラインから外され、その後の仕事も失うことになるからだ。かといって、納期に間に合わない、あるいは間に合わせようとして雑な仕事をすれば、やはり外される。不良品の発生個数が多くなれば、町工場にとって最も重要な信用を失うことになる。成績が悪ければ、いつでも切られるのである。

「無理を聞き、納期を守り、よい製品を作る」

 それを可能にするためには、社長の長時間労働が必須だった。
妻の良子も忙しかった。工員、家族の食事と世話を一手に引き受け、その合間に工場の仕事も手伝わなければならない。文字通り、目の回る忙しさだ。

 そのため、幼稚園から戻った孫の子守りはもっぱら、先代の量太郎ときよに任された。子どもが食い、眠り、家の敷地内で誰かが見ていれば、それで十分。

「まあ、生きてりゃいい」

 それが英男たちの教育方針だった。

丁半


 台所から廊下に出ると、左手側に庭がある。庭にはアワビの殻が整然と埋められ、アワビの小道ができていた。岩和田の親戚が自ら潜って採ったアワビが、よく運ばれてきたからだ。その庭に面した日当たりのよい場所に、量太郎夫妻が暮らす八畳間と、安楽椅子やピアノが置かれた板の間があった。

 八畳間からはよく、瀬戸物がぶつかりあうような、カラリンカラリンという音が聞こえてきた。部屋の中央にはざぶとんが置かれ、量太郎と2人の孫が向き合い、真剣な面持ちでざぶとんを見つめている。

 量太郎が湯飲みに何も細工がされていないことを見せ、「よござんすか?」と言う。

「よござんす」と2人の女児が元気よく答える。

「よござんすね」

 すると量太郎は湯飲みに2つのサイコロを入れてカラカラと振り、ざぶとんの上に伏せて置く。

「さあさあ、丁か半か!」

 このサイコロ遊び「丁半」は、2つのサイコロの目を足し、合計が偶数なら丁、奇数なら半、と言い当てる遊びである。年上の賢い恵はこのルールを理解し、頭をくるくる回して計算し、「丁!」「うーん、半!」などと答えた。一方、年下の博美はまだ数字の世界がよくわからない。年子の姉が「丁」と言えば「半」と言い、「半」と言えば「丁」と言えばいい。そういうルールだと独自に解釈していた。

 サイコロでひとしきり遊ぶと、量太郎は次に決まって花札を出す。花札の段になると妻のきよも加わり、4人で遊ぶ。ざぶとんはそのままだ。やるのはたいてい「花合わせ」だった。

 たった2つのサイコロで遊ぶ丁半と、48枚の札で遊ぶ花札とでは、花札のほうが複雑な脳の動きが必要そうに見える。しかし幼児でもついていけるのは、実は花札のほうだった。図柄や設定が同じものを揃えればよく、画面に要素が多い札の点数が高いことを本能的に理解できたからだ。花札は、字が読めなくても、足し算引き算ができなくても遊ぶことができる。敷居の低い、今風に言えばユニバーサルデザインの遊戯なのである。

 花札にも飽きると、量太郎は孫たちを膝に乗せ、キリンビールの空き瓶を使って尺八の吹き方を教えたり、歌を歌ったりしたものだった。量太郎は民謡が趣味で、「星野秀鳳」という芸名で自主制作レコードを出すほどの、いわばハイ・アマチュアだったのである。故郷の岩和田に民謡歌手を呼んで演芸会を開いたり、川崎で民謡を教えたりもしていた。
 昔話もよくした。たいていは他愛もない話だった。酒が入っていたのだろう。

「じいさんは漁師の六男だったから、『りょうろくろう』と名付けられるところだったんだ。それを役場のもんが反対して、『りょうたろう』になったって寸法よ」

「岩和田にいた頃な、墓を掘り返したら、死人の髪と爪がボウボウに伸びてたんだ。死んだと思っていたが、土の中でしばらく生きていたんだな。あれにはたまげたぞ」

「チョーヘイ検査の日、醤油を一升飲んで真っ青な顔で行ったら、見事に不合格よ」

「星薬(星薬科大学)の近くの柳の下で、女の幽霊を見たことあるぞ」

「メチルだけは飲んじゃいけねえ。あれは『目が散る』つうて、目がつぶれるからな」

 疑うことを知らない博美は、すべてを真に受けた。「漁師の六男」という言葉が頭に刻印されたし、本当は多くの人が生きたまま地中に埋められているのではないか、と怖くなった。醤油をたくさん飲むと顔が青くなるのだ、と学んだ。柳の木には幽霊が多いから、気をつけよう。「メチル」がなんだかは知らないが、とにかく飲んじゃいけないのだ、と肝に銘じた。

 時には少しまともな話もした。酒が抜けていたのだろう。

「ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。家族全員死んでりゃ仕方がねえが、1人でも生き残ったら、何が何でも帰ってくるんだ。わかったな」

 博美にはさっぱり意味がわからなかった。

「そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」

「うん、わかった」

「そうしねえと、どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいるからな」

 よく意味はわからないが、おじいちゃんがそう言うなら、そうしよう。

 いつかここが焼け野原になったら、何が何でも戻ってきて、杭を打とう。

 博美はその時初めて、ここがかつて焼け野原になったらしいということを、おぼろげながらに理解したのだった。

(つづく)

いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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