世界は五反田から始まった(19) 武蔵小山の悲哀|星野博美

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初出:2020年07月17日刊行『ゲンロンβ51』

 大正時代に宅地開発が始まった品川区内の東急線沿線は、駅ごとに独自の商店街がある。ある商店街を歩き、さびれ始めた頃、適当にどこかで道を曲がると、また通りが賑やかさを取り戻し、あらたな商店街が始まる。体の隅々まで栄養を送り届ける毛細血管のようだ。

 関東大震災を機に人口が激増したこの地域の商店街は、傍から見たらみな同じように見えるかもしれないが、毛色はそれぞれ微妙に異なっている。

 たとえば私が暮らす戸越銀座。準観光地化したいまでは、大資本のフランチャイズ店が増えたつまらない町並になってしまったが、少し前までは個人経営の肉屋に八百屋、魚屋、総菜屋、家具屋、タオル屋、果物屋、味噌屋、金物店、電気屋、毛糸屋、文房具店、靴屋などが立ち並ぶ、とりあえず生活必需品は揃う町だった。衣類は、グンゼのパンツやシュミーズ、運動靴などは手に入ったが、よそ行きの服や革靴、食器を買うとなると、武蔵小山へ足を伸ばさなければならなかった。

 外食に関しては、家族で入れる和中洋折衷レストランや中華料理店、寿司屋、蕎麦屋、定食屋、うなぎ屋などがあり、やはり日常生活には困らなかった。ただし、少しおいしいハンバーグや少しおいしい中華料理を食べるとなると、五反田へ向かった。また、戸越銀座には大人が酒を飲んで楽しむ店が少なかった。

【図1】「大五反田」概略図
 

踏みとどまる荏原中延



 戸越銀座から一つ蒲田寄りの、池上線の中では地味な印象のある荏原中延は、意外なことに大人が遊べる場所、最近の流行り言葉でいえば「夜の街」が充実していた。中華料理店と焼き肉店の数が多く、かつては地上を走っていた線路沿いに、飲み屋やスナックがびっしり軒を重ねる一角があった。

 行動範囲が極めて狭かった小学生時代の私が、なぜ例外的にそれを知っていたかというと、「夜の街」の一角にある、質屋が経営する学習塾に通っていたからだ。その質屋夫妻は子どもたちに猛勉強をさせ、息子を東大に、娘をお茶の水女子大に入れることに成功した。そして質屋より受験勉強を教えるほうが儲かることに気づき、学習塾に転業したのだった。午後5時から授業が始まる塾が開くのを路上で待っている際には、閑散とした界隈が、8時に終わって外に出ると、紫色や黄色のネオンが混じった色彩豊かな町に変貌していた。だいぶわびしい感じを醸し出しながらも、いまも存続している。
 荏原中延は、商店街も個人経営の商店や、フランチャイズではない個性的な飲食店ががんばって営業を続けており、好感を抱く。商店街に面した不動産の賃貸料が上がりすぎた戸越銀座では、商店主の多くは店をやめ、不動産経営者になってしまった。地価の高騰は町を本当に味気ないものにする。

 ちなみに荏原中延は、この界隈で最も早い1974年にマクドナルドが進出した町だ(いまはもうない)。また、1987年まで荏原中延オデヲン座という2本立て映画館が存続していた。戸越銀座などより、ずっと都会だったのである。

ミロからカサブランカへ



 荏原中延の夜の顔を知っていただけに、戸越銀座に大人のための店が少ないことが、子ども心にも不思議だった。父にその理由を尋ねたことがある。「戸越銀座は面が割れすぎる」というのが答えだった。

 父は結婚する前――もう60年前の話だ――、戸越銀座商店街がさびれ始めるあたりに位置するスナック「ミロ」に通っていた。10年くらい前までは営業していた、小便臭いスナックだ(いまも店そのものはある)。そこの常連は、父と小学校時代の同級生である八百屋の跡継ぎや金物店の跡継ぎ。八百屋の跡継ぎは酒好きで知られ、「八百屋の店先にぶらさがった現金の入った籠から、金を掴みとっては飲みに行っている」と、親が嘆いていることを、付近の住民なら誰もが知っていた。子どもの私でさえ知っていたくらいだ。客から受け取った現金がザクザク入った、ゴムで天井からぶらさげられた八百屋の籠に手をつっこむのは私の憧れだった。

 ある日父は、いつものようにミロへ行き、遅くまで飲んでいた。すると息子の帰りが遅いことを案じた過保護な母親――私の祖母、きよ――が、商店街の寿司屋や蕎麦屋を1軒1軒訪ね、「うちの息子は来ていないか?」と聞いて回った。自宅から商店街まで、徒歩3分である。酔いつぶれたとしても、這って帰れる距離だ。何を案じる必要があるのか、と人は思うだろうが、父に対しては過干渉ぶりを発揮するのが祖母の常だった。祖母はとうとうミロの扉を開けた。見知った客の面々の中に、息子がいた。同級生たちの前で母親に面子をつぶされた若い父は、それからミロへ行かなくなった。

 戸越銀座で面が割れることを嫌った父の気持ちは、よくわかる。とにかく多くの住人が午前も午後も商店街を行き来しているので、どこで知り合いや家族に出くわすかわからない。私も喫茶店に行く際、地元の平塚1~3丁目にある店は避け、同じ戸越銀座でも、大通りを越えた向こうの異なる商栄会や大崎広小路まで足を伸ばす。こうして初めて、町に出た解放感が得られる。

 戸越銀座に大人の店が少ないのは、職場と家が一体化した町工場が多く、どこも顔見知りだらけの地元では自由になれないからだろう。
 ミロを諦めた父は、お得意さんと五反田で飲むようになった。五反田には、いくらでも大人の店の選択肢がある。父が接待でよく使ったのは、キャバレー「カサブランカ」。東急池上線の五反田駅ホームに隣接した駅ビルは、今年に入って「レミィ五反田」から「五反田東急スクエア」にリニューアルされ、ますます住民の需要と乖離したトンチンカンな商業施設となってしまったが、昭和30年代の駅ビルは白木屋だった。カサブランカは、白木屋の上層階のツーフロアをぶち抜いて営業する店だった。

 客が店内に入ると「いらっしゃいませ」の掛け声とともに、ジャジャーンと銅鑼が鳴らされ、気分良くホステスのいる席に案内されたそうだ。どことなくチャイナタウン味を感じさせる演出である。夜の街の妖しさが駅ビルにまで進出していた五反田のありし日の姿は、いまでは想像もつかない。

武蔵小山の多様性



 目蒲線(いまでは蒲田を切り捨てて「目黒線」というが、私はしつこく目蒲線と呼びたい)に目を転じると、目黒から一つ目の不動前は、目黒不動や羅漢寺といった大きな寺のある寺町である。ここには商店街と呼べるほどのものはないが、桐ケ谷火葬場のアクセスが最もよい駅であるため、駅周辺にはそこそこ夜の街があり、夜遅くまで賑わっていた。不動前まで散歩すると、観光地へ来たような気分を味わえたものだ。しかしその一帯はすでに再開発され、いまではフランチャイズの飲食店が増えて、あまり特色の感じられない町になっている。

 五反田ほど規模は大きくないが、駅前に一大歓楽街があったのが、不動前の次の武蔵小山だ。武蔵小山といえば、かつて「東洋一」と呼ばれた(誰がいいだしたのかは知らない)長い長いアーケードのパルム商店街が有名だが、アーケードと線路がぶつかるT字路の東側一帯、つまり駅の真ん前にどどーんと歓楽街があった。その一角に足を踏み入れると、人とすれ違うのもやっとな路地の両脇に、「会員制」「暴力団追放の店」といったステッカーが貼られた小さなスナックや飲み屋がひしめきあっていた。まったく日本語メニューのないフィリピン料理屋やモロッコ料理屋などもあった。

 駅からの距離や面積、一帯に流れる空気は、吉祥寺のハモニカ横丁と似ている。そう、ハモニカ横丁と同様、ここも戦後の闇市があった場所なのだ。

 ここを歩くたびに、戸越銀座からやってきた私は「負けた」と思わされた。私の地元に、ここまでの多様性はない。ここと比べたら、戸越銀座はお子さまと年寄りの町だった。

 おもしろいことに、この歓楽街には女子プロレスとプロレスのポスターが貼られた店が非常に多かった。かつて武蔵小山には女子プロレスのレスラーが多く住んでいて、いまでも引退したプロレスラーが経営する飲み屋がいくつもあるのだ。またこの界隈の定食屋で食事をしていると、「絶対レスラーだろう」という見事な体格の人がごはんを何杯もお代わりをしていることがあった。

 2019年12月に開催したゲンロン総会の「大五反田ツアー」で、藤倉工業工場跡地の少し手前に位置する、数多くの王者を輩出した五反田のワタナベボクシングジムを紹介したが、武蔵小山には高田延彦が主宰する高田道場が、戸越銀座の駅裏にはバルセロナオリンピックの柔道金メダリスト、吉田秀彦が主宰する吉田道場があった(高田道場はK-1ジムに変わり、吉田道場はすでにない)。五反田と武蔵小山、戸越銀座で格闘技三角地帯だったのである。

武蔵小山の再開発



 しかしその歓楽街も、残念ながら、いまはもうない。

 2006年に目蒲線が蒲田を切り捨てて「目黒線」「多摩川線」となり、東京メトロ南北線と都営地下鉄三田線が乗り入れた頃から、武蔵小山はどこへ向かおうとしているのか、漠然とした不安を抱いていた。その予感が当たったように、2014年、「武蔵小山駅前通り地区第一種市街地再開発事業」が決定され、駅前歓楽街を区画整理して超高層マンションが建設されることになった。

 戦後闇市の気配を残した場所は、都内に数少なくなった。その貴重な空間をつぶすとはなんともったいない、と残念に思ったが、経営者の高齢化もあり、再開発計画への反対運動はさほど起こらなかった。地元であからさまに反対していたのは、母の友達の共産党員たちで、それも「昭和の遺産」を守るという理由より、周辺住宅の日照権の観点からだった。

 この跡地には、地上41階、地下2階、総戸数624戸の超高層タワーマンション「パークシティ武蔵小山」が建設され、2020年1月に竣工した。

 さらに第2弾としてもう1棟、地上41階、地下2階、総戸数506戸の「シティタワー武蔵小山」が目下建設中で、2021年6月に竣工予定。まだ続く。第3弾も計画中で、地上39階、地下2階、約950戸になるそうだ。

 こんなに建てて大丈夫なのか? というのが正直な感想だ。町のキャパシティを完全に越えた、過剰供給に思えてならない。

 私は時々、怖いもの見たさでパークシティ武蔵小山を見に行く。いつかはこの風景にも慣れるのかもしれないが、いまのところ、庶民的な町に突如出現したバベルの塔、といった趣で、異物感が半端なく漂っている。また、竣工してじきにコロナウィルスの感染拡大が起きたタイミングの悪さが重なり、商業施設部分のテナントはまだ埋まっていない。すでに入っている店舗も、フランスのスーパーや高級茶など、町の住民のニーズとは方向性が若干ズレており、ガラガラである。大丈夫か? 本気で心配している。
 マンションが隣接するパルム商店街にも、変化が表れ始めている。一大再開発の影響で、界隈の地価が上昇し、自動的に商店街の店舗の賃貸料も上がった。それは不動産所有者にとっては、本来好ましいニュースのはずだ。ところがもともと個人商店の多かったここでは、店舗がさほど広く設計されておらず、駅最寄りのブロックを除き、広い面積を必要とする大資本のフランチャイズが進出しにくいのである。

 せっかく強気の賃料を設定できる状況にもかかわらず、中長期的に契約してくれる店子が見つからない。すると何が起きるかというと、1週間単位で流れの商人に店舗を貸す、7 days shopが増え始めているのだ。

 1週間店舗で扱う商品の多くは、ドラッグストアの在庫整理商品や、いかにも著作権料を払っていなさそうなキャラクターグッズ、靴下、下着、激安韓国化粧品など。この5月、6月は、多くの1週間店舗がマスクとアルコールジェルを山のように並べ、拡声器で叫びながら投げ売りをして、価格崩壊が起きていた。そういう店舗の安売り合戦を眺めていると、一瞬、香港の安売り露店街にいるような錯覚を覚える。

 町本来のキャパシティに見合わないタワーマンションが建って地価が上がった結果、かえって場末の雰囲気が色濃くなり始めている商店街。あまりに皮肉である。

 こうして隣町の切ない変化を目の当たりにすると、個性のない店が増えたのは残念ではあるが、住宅が密集しすぎて大型再開発ができない戸越銀座は、実に幸いなのかもしれない、と思う。

 駅前のタワーマンションをひやかしたあとは、その裏手にひっそり建つお寺に寄る。そのお寺と墓地は、かつての歓楽街のちょうど真横にあり、完成したタワーマンションと建設中のタワーマンションの二つから見下ろされる形となっている。

 ここには武蔵小山の歴史を語る、大切な慰霊碑があるのだ。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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