世界は五反田から始まった(14) 荏原無産者託児所|星野博美

初出:2020年2月28日刊行『ゲンロンβ46』
桐ヶ谷駅
2019年12月21日のゲンロンカフェ大五反田ツアーでは、小林多喜二の『党生活者』の舞台となった藤倉ゴム工場跡に加え、もう一つ、無産者にまつわる場所を訪れた。荏原無産者託児所跡地である。現在は瀟洒なマンションが建っている。
荏原無産者託児所は昭和6(1931)年11月、荏原郡大崎町桐ケ谷116番地に開設された。ここを舞台に描かれたのがプロレタリア作家、宮本百合子(1899~1951)の『乳房』(初版は竹村書房より昭和12年に発行)だ。その事実を知らされたのも、『品川の記録』だった。
いまから10年ほど前、その事実を知るや否や、私は地図を片手に現地へ駆けつけた。驚いたのはわが家との近さだった。中原街道と第二京浜国道に挟まれた三角地帯の、桐ケ谷通り沿いの五反田側。わが家からそこまで、いまならなんということはない距離だが、この桐ケ谷通りは、幼い私が一人で行動できるテリトリーの北限だった。奇しくもこの通りは明治時代、荏原郡大崎町と平塚村の境界線だった。託児所のあった場所は、町の最後、村の始まり、のような絶妙な地点に位置している。
託児所の近く、東急池上線と第二京浜国道が交差するあたりに、現在は姿かたちもないが、桐ケ谷駅があった。場所柄からして、桐ケ谷火葬場へ行く葬儀参列者が多く利用したことだろう。この駅は昭和2(1927)年に開設されたものの、昭和20(1945)年5月25日の大空襲──うちが焼けた空襲──で駅舎が大被害を受け、7月25日に営業を停止。敗戦後も再開されることはなく、昭和28(1953)年に正式に廃止された。つまり実質18年間しか使われなかったわけだが、その間に無産者託児所は存在した。
『乳房』の主人公、ひろ子のモデルとなった高山智恵子の追想に、こんなことが書かれている。
[宮本百合子は]それから四、五日たって託児所へ来られました。私は池上線の桐ヶ谷駅までお迎えにまいりました。宮本さんは黒字に白い絣のある地味な単衣物で白い夏帯をしめておられました。その晩、もう一人の保母と二人で宮本さんを案内して、近くの長屋のお母さんを訪ねました。託児所へ子供をあずけて、「よいとまけ」に出ている体格のいいおばさんでした。六畳ひと間、小さい台所があるだけの家で部屋の隅には小さい茶箪笥と古びた箪笥が一つありました。
宮本さんはこのような生活をしている人々の気持ちを気持ちよく理解しておられてその場の空気にすっかり調和して落付いた、しかも楽しそうな様子に見えました。「お茶をのみに来たのよ」といわれました。お話もまことに自然でみんなの口から、あとからあとからと続くのでした。おばさんは生地をまるだしにして思うことを遠慮なくおしゃべりして「ポロレタリヤはしとぢゃないと思っている」などと警句をはいたりしました。これは「乳房」の中に出ております。[★1]
女性党員の葛藤
『乳房』は荏原無産者託児所を舞台とした短編小説で、主人公は保育士のひろ子。ほかには子ども、数名の保育士(女性)と子どもを預けた無産階級の母親、託児所に出入りする共産党員(男性)、吝嗇な大家に雇われたゴロツキや私服警察などが登場する。
階級的に正しい託児所にするべきだという建前と、純粋に貧しい子どもの世話をしたい本心との葛藤。託児所の存在を組織作りに利用しようとする党員への疑心。「アカ」に対する世間の偏見や、女性党員が運動のために転落していくことへの危惧などが、あますところなく描かれている。
『党生活者』の主人公「私」は、私服警察や工場内のスパイによる監視、そして生活の維持に苦しむが、「共産主義的な人間」として邁進することに疑いを持っていなかった。一方『乳房』のひろ子は、大家や私服警察のみならず、男性党員からも女性として軽んじられることに忸怩たる思いを抱えている。母親や子どもたちとの接触を通して、貧しい人々の置かれた現実と、崇高な理念に邁進する党員との間で揺らいでいる。
九月に市電の争議がはじまってから、この託児所も応援に参加し、古参の沢崎キンがつれて行かれてからは時ならぬ時に私服が来た。何だ、返事がないから、空巣かと思ったよなどと、ぬけぬけ上り込まれてはかなわない。ひろ子にはまた別の不安もあった。家賃滞納で家主との間に悶着が起っていた。
(中略)藤井は、こまかい家作をこの辺に持っていて、滞納のとれる見込みなしと見ると、ごろつきを雇って殴りこみをさせるので評判であった、脅しでなく、本当に畳をはいで、借家人をたたき出した。
四五日前にもその藤井がここへやって来た。藤井は角刈の素頭で、まがいもののラッコの衿をつけたインバネスの片袖を肩へはねあげ、糸目のたった襦子足袋を片組みにして、
「女ばっかりだって、そうそうつけ上って貰っちゃこっちの口が干上るからね。──のかれないというんなら、のけるようにしてのかす。洋服なんぞ来た女に、ろくなのはありゃしねえ」
いかつい口を利きながら、眼は好色らしく光らせた。スカートと柔かいジャケツの上から割烹着をつけ、そこに膝ついているひろ子の体や、あっち向で何かしているタミノの無頓着な後つきをじろり、じろり眺めて、ねばって行った。いやがらせでも始めたか。畜生! という気もあって、ひろ子は六畳の小窓を急に荒っぽくあけて外を見おろした。[★2]
『党生活者』の主人公「私」は、私服警察や工場内のスパイによる監視、そして生活の維持に苦しむが、「共産主義的な人間」として邁進することに疑いを持っていなかった。一方『乳房』のひろ子は、大家や私服警察のみならず、男性党員からも女性として軽んじられることに忸怩たる思いを抱えている。母親や子どもたちとの接触を通して、貧しい人々の置かれた現実と、崇高な理念に邁進する党員との間で揺らいでいる。
ひろ子は、そういうやりかたでなく、もっと親たちの心持にも響いてゆくように、託児所の手不足からひろがったものもらいの始末をしたいのであった。夕方、迎えに立ちよるおっかさんの顔を見るなり、
「おっかちゃん! 六坊、きょう先生んとこへ行ったよ、目洗ったんだよ! ちっとも痛くなんかないや!」
ぴんつくしながら子供の口からきかされれば、同じことながら母親たちが感じるあたたかみはどんなに違うだろう。
沢崎がつかまえられているからばかりでなく、特に今そういう心くばりは母親たちの託児所に対する気持の傾きに対しても大切だ。ひろ子にはその必要が見えていた。[★3]
人口の急増
ここでいったん小説から離れ、荏原無産者託児所の成り立ちについて見てみよう。
第一次世界大戦(1914~1918年)の好景気で、大五反田には工場が蝟集し、人口が急増した。
人口増に拍車をかけたのが、大正12(1922)年の関東大震災である。東京市内の大半が焼野原となり、家を失った人々は近郊に移転していった。東京市に接しながらも田園風景が残り、地価が格安だった荏原町(現在の戸越や武蔵小山を含む一帯)にはぞくぞくと低所得層の人々が移り住み、仮工場やバラックが建てられた。なかでも荏原町平塚村(わが家のある、現在の品川区平塚)の人口増は著しく、大正9年の8522人から、昭和5年には13万2108人と、10年間で実に15.5倍という驚異的な伸びを示した。荏原町全体の伸びは14.5倍。この増加率は当時の東京周辺の町村のなかで飛びぬけて高い数字であり、府下の町村で最高の人口を有する町だった[★4] 。
こういった無味乾燥な数字を目で追っていても、私にはぐっとくるものがある。というのも、祖父・量太郎が大五反田へ上京したのが大正5(1916)年だからだ。
私は高等科二年[いまの中学二年に相当]は卒業するつもりで居た。一学期も終り、夏休み中頃、隣の加治屋の母から「私の親戚のもので東京で機械工場を初めて子僧さんが入用だから是非行ってやってくれないか」と話があった。機械工場とはよくわからないが、これからは何でも機械の世の中だから、そういふ商売もよいと思った。(星野量太郎手記より)
そして目黒川沿いに引っ越したのが昭和5(1930)年で、戸越銀座に越したのが昭和11(1936)年。祖父の世界の中心点は、大五反田の変貌と足並を揃えるように南下し、より人口密度の高いほうへと移動していった。
それにしても昭和5年当時、ここが東京府下の町村で最高の人口を有していたとは驚きだった。私は小学生の頃、人口密度の低いソ連やカナダにえもいわれぬ憧れを抱き、「人口の少ないところへ行きたい」と思っていたものだが、子ども心にも人口密度の高さを体感していたのだろう。
『品川区史』に、私たち姉妹と父の出身校である品川区立京陽小学校の、大正末期から昭和初期にかけての児童数の推移が掲載されている。私の卒業年次(昭和53年)、全校生徒は約700人だったが、大正15年には2973人だった。一学年につきおよそ500人という、驚異的な数字である。
住民の多くは低所得層の若い移住者である。昭和後期生まれの私は祖父母が面倒を見てくれたが、当時は三世代同居が少なかったはずだ。当時の平塚村界隈がそんな状況だったと知ると、日中の未就学児童の世話が喫緊の課題であったことは想像に難くない。
昭和6(1931)年10月、共産党員が中心となって設立した大崎無産者診療所(大五反田ツアーで訪れた。あらためて後述する)内に「無産者託児所設立準備会書記局」がおかれ、託児所設立の準備が始まった。そこで発表された綱領は以下のようなものだった。
「趣意書」には、さらに激しい文言が並んでいる。
それにしても昭和5年当時、ここが東京府下の町村で最高の人口を有していたとは驚きだった。私は小学生の頃、人口密度の低いソ連やカナダにえもいわれぬ憧れを抱き、「人口の少ないところへ行きたい」と思っていたものだが、子ども心にも人口密度の高さを体感していたのだろう。
『品川区史』に、私たち姉妹と父の出身校である品川区立京陽小学校の、大正末期から昭和初期にかけての児童数の推移が掲載されている。私の卒業年次(昭和53年)、全校生徒は約700人だったが、大正15年には2973人だった。一学年につきおよそ500人という、驚異的な数字である。
忽ち学校中がはち切れるような子供で手のつけられぬさわぎになり、先生が、これまたいくら集っても足りないほどの大学校になった。児童数も三、二〇〇余人となり、山浦校長は名前も顔も知らない先生が一年以上も前から来ていると聞いて、びっくりしたという冗談まで出る人数になった。(中略)星商業[現在の星薬科大学]の講堂も臨時に借りて分教場にしたがそれでも二部三部というさわぎだった。[★5]
住民の多くは低所得層の若い移住者である。昭和後期生まれの私は祖父母が面倒を見てくれたが、当時は三世代同居が少なかったはずだ。当時の平塚村界隈がそんな状況だったと知ると、日中の未就学児童の世話が喫緊の課題であったことは想像に難くない。
ついに無産者託児所設立
昭和6(1931)年10月、共産党員が中心となって設立した大崎無産者診療所(大五反田ツアーで訪れた。あらためて後述する)内に「無産者託児所設立準備会書記局」がおかれ、託児所設立の準備が始まった。そこで発表された綱領は以下のようなものだった。
一、我等は一切の反動的欺瞞的託児所を絶対に排撃する。
二、我等は勤労無産階級の立場より児童保育の公正を期する。
三、我等は無産者託児所の設立によって労農救援の任務を果たし解放戦線の一翼に参加す。[★6]
「趣意書」には、さらに激しい文言が並んでいる。
全世界の資本主義は極度に行詰って資本家地主は産業の合理化によって馘首又は賃下げを行い、失業者を続出せしめるていると共に労働者農民一般無産者の生活を極悪の状態に陥入れている。ここに於て失業者は就職を要求し労働者農民一般無産者は馘首反対賃下げ反対立毛差押[立毛は青田のこと。当時は小作地の稲を収穫前に差し押さえる青田差し押さえが問題になっていた]反対の闘争によって一致団結してお互いの生活を守らねばならない。こうした時に一番困る問題はお互いの「子供の問題」である。子供を安心して預けておいて失業反対闘争やストライキや小作争議に参加することが出来たらどんなに無産者にとつて力強いことであろうか。この意味に於いても一時的に子供を預けることの出来る設備が絶対に必要だ。[★7]
素直に驚いた。この託児所は、日中子どもを預ける場所が欲しい、という欲求より先に、無産労働者が安心してストライキや労働争議に参加できることを目的としていたのだ。
そればかりではない。日常に於いても工場に勤める労働者、農繁期の農民その他の職場を持つ一般無産者が自分達の子供を自分達の託児所に預けておいて労働することができればどんなに都合がよいことであろうか。これは既に全無産者大衆から切実に要求されている所である。これまでもブルジョアのオンケイ的欺瞞的意図によって、各府県市町村又は宗教団体の申訳ばかりの託児所の施設がなされている。しかしそれは何の為に存在しているか。ほんの少数食うに困っている失業者の子供を預かりその事によって労働者農民一般無産者の階級意識を眠らせようとしているのだ。我々はかかる欺瞞的託児所を絶対に排撃して我々無産者の立場に立つ託児所を設立しなければならぬ。[★8]
胸がチクチク痛む。私の父、英男が戸越へ引っ越したのは無産者託児所が閉鎖されたあとだったが、通ったのは戸越八幡神社近くの私立成志幼稚園だった。父のアルバムに、通園当時の白黒写真が1枚残されている。園児の坊やたちもお嬢ちゃんたちもぽっくりとした厚手のセーターを身に着け、革靴を履いている。明らかに、無産者の子どもたちではなかった。彼らの語彙を借りるなら、「ブルジョアのオンケイ的欺瞞的意図によって建てられた欺瞞的幼稚園」ということになる。昭和10年代、この地域にもすでに貧富の差が生じていたことを痛感させられる。
我々無産者の子供は我々無産者の未来を持つ社会の子供だ。故に我々は之を労働者農民一般無産者の共同責任として最も正しい託児所を一日も早く設立し我々無産者の立場から子供を保育しなければならない。
全国の労働者農民一般無産者諸君。我々の子供は我々で守ろう!
我々の任務を充分果たす為にそして未来を持つ無産階級の子供の為に、無産者託児所の設立に大衆的に一人残らず協力しようではないか。資本家地主の恩恵によらぬ託児所を持とうではないか。[★9]
次回も引き続き『乳房』を見ていこう。
★1 川上允著、「品川の記録」編集委員会監修『品川の記録 戦前・戦中・戦後――語り継ぐもの』、本の泉社、2008年、79頁。
★2 宮本百合子「乳房」、『宮本百合子全集』第5巻、新日本出版社、6頁。
★3 同書、10頁。
★4 東京都品川区編『品川区史』、1974年、470頁。
★5 『品川区史』580頁掲載の京陽小学校開校九〇年記念誌より。
★6 『品川の記録』、60‐61頁。
★7 『品川の記録』、63頁
★8 同右。
★9 『品川の記録』、64頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後


星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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