世界は五反田から始まった(26) 焼け野原(3)|星野博美

初出:2021年2月19日刊行『ゲンロンβ58』
赤い竜巻
引き続き、大五反田界隈を焼いた5月24日の城南空襲、そして翌25~26日の東京中心部・西部空襲の記録を読んでいる。
真っ赤に燃えるわが家の方をはるかに眺め、夜の明けるのを待ち、大分静かになったので戻りかけた時だった。天に轟く音、煙の中に舞い上がるトタン板、こんどは爆弾攻撃かとおもい、まわれ右をしてまた逃げた。崖のかげに身をひそめ、何組かの人たちと夜の明けるのを待った。その時黒い雨が降ってきたのを覚えている。
後でわかったことだが、轟音は私鉄の線路を中心におこった竜巻だった。消防自動車も逆さに舞い上がり、私の級友も吹きとばされ意識不明で救助された。[★1]
やっと八分通り焼けつくし、B29はとうに去った午前四時頃、まだ「敵機ではないか」と思われる、ガランゴロンという音がするのです。そろそろ川を引き揚げる頃、ふと戸越方面(一キロ先)を見ると、空はまだ真赤で、何やら大きなかたまりが泳いでいるように見えました。これはたつまきが起きて、トタンや屋根ガワラ、看板などが舞い上がっているのだとききました。その影響で焼跡の火も舞いあがり、危険でその場にも居られず、「早く我が家の焼跡へ行って夫と会いたい……」気がつくと、夜がしらしらと明けてきました。[★2]
B−29戦闘機集団が去った明け方の戸越で、まるで赤い龍が天で舞うような竜巻が沸き上がった。このイメージは脳裏に焼きつけておきたいと思う。
線路(池上線)の東側は豊町から戸越にかけて完全な焼け野原となり、逃げおくれた人達の焼死体がいくつも道路に横たわっていたそうだが、私はそれを見なかった。
富山県へ学童疎開で行っていた妹たちは、先生から荏原は全部焼けて、一軒も残っていない、と聞かされて、友達同士で抱き合って泣いたそうだ。もう親にも兄弟にも逢えなくなってしまったと思ったらしい。
今まで見ることもできなかった地平線が、遠く大井の方まで広がって、鹿島神社の森だろうか、こんもりとシルエットになって、今でも私の脳裡に浮かんでくる。[★3]
最初はあくまで参考資料のつもりで手にとった『東京大空襲・戦災誌』だが、読み進めるうち、おもしろくて(失礼)やめられなくなった。
空襲の体験といえば、パッと思い浮かぶだけでも、内田百閒や永井荷風、吉村昭、早乙女勝元、また先ごろ亡くなった半藤一利といった、多くの作家が書き残している。しかしこれまで、どうも食指が動かないというか、あまり関心が持てなかった。
もちろん自戒をこめてなのだが、物書きというのは自分から見た世界を、あたかもそれが唯一の世界観であるように提示する。「自分はこう感じたが、それは的外れかもしれないし、本当にその時そう思ったかも定かではない」というビクビクした態度では、物書きに仕事は来ない。強い主張をしてなんぼの世界だ。そしてその人物が被災時点ですでに作家だったか、あるいは作家未満だったかどうかにかかわらず、それを発表した時点で読者に読まれることを想定している。発表できたのは、敗戦後だ。その時差の中で、記憶が上書きされ、世界観が脚色されなかったとは誰にもわからない。
さらに、戦中にお国に対してものを言えない同調圧力があったのと同様、敗戦後にはまったく逆、つまり軍国主義に同調した者たちへの反発があったことは容易に想像がつく。お国に対して表立って抵抗はしなかったものの、心の中では「否!」と叫んでいた、といった自己正当化が行われても不思議ではない。
そんな時代背景を想像すると、他者からの視線を常に意識した有名人の戦争体験は少し距離を置いて見なければ、という思いにさせられる。
その点、被災した一般市民には世界観を提示するような自意識がない。「あくまでも自分の場所から見た世界の断片ですぜ」という謙虚さがある。それがモザイク状に集まることで、おぼろげながらに世界が立ち上がってくる。だからおもしろい。
3月10日の衝撃
空襲が定期便のように押し寄せた東京で、子どもたちはできるだけ疎開させ、人口が激減していたことは、5月24日の犠牲者を減らした1つの要因ではあっただろう。
三月一〇日の後、夫は目黒警察に呼び出されて、焼跡整理に江東地区へ行かされた。浅草まで地下鉄で行って、そのあと被服廠跡まで歩いて行き、そこでスコップを渡されて、深川の猿江公園で、空襲で焼死した人達の死体を埋める作業をしたという。
夫はその老若男女もわからぬ死体のむざんさに怖れおののいて、帰宅してからは私達にしつこいくらい疎開をすすめたが、幼児二人を抱えた私は、夫と離れてもしも自分達だけ生き残ったら、とても生活できないと思い、死なばもろともと、言うことをきかず、東京に留まった。[★4]
さらに3月10日との決定的な違いとして、消火を諦めて逃げるという、人間の本能として当たり前のことをして助かった人が多かったことは見逃せない点だ。
あの夜(筆者注*3月10日)の旋風、夜空を染めた炎、荏原までとんできた燃え殻、後になって母から聞かされた当時の惨状など忘れられない思い出です。私の家の周囲にも強制疎開で取り壊された地区があり、隣家が壊された跡にかなり堅牢な防空壕がつくられました。そのころになると東京の殆どが焼かれていて、今度はこの辺が焼かれるに違いないと思っていました。[★5]
三月一〇日のあの大空襲で、叔母と二人の従弟を失い、いつかは我が身にもと不安な日々でした。
そうした五月、例年になくみごとな藤の花も盛りを過ぎた二三日の夜半、いつものごとく鳴りひびくサイレンの音で起き、父は警防団の詰所へ、私は一人防空壕の中へ入った。(中略)私は必死になってバケツを持って消火にかけつけ、近所の人びととリレーで水をかけた。があちらこちらから火の手は上がり、直撃弾はどんどん落ち、たちまち炎に包まれてしまい、バケツの水と火たたきで立ち向かう愚かさを悟り、逃げることにした。[★6]
「火叩き」というのは、ありあわせの棒に、切りそろえた縄を取り付けたハタキのような形状の消火用具。これで火を叩いて消火する。あとで登場する「鳶口」とは、トビの嘴のような形状の鉄製の穂先を長い柄の先に取り付けた道具。もともとは江戸時代(!)、鳶職を中心に組織された消防作業に使われ、消火ではなく建物を引き倒すように破壊して延焼を防ぐために使われた道具である。
近くに水源もなく、有効な消火手段のない時代には、火元近辺を破壊することが延焼を防ぐ唯一の手段。物をひっかけたり運んだりする、とび口が活躍しました。[★7]
これらが、空襲下で一般市民が手にすることのできた防空道具だった。
『もう逃げましょう』火叩きを持つ父に、母が叫ぶ。いつまでも諦めきれない我が家を後に、降りかかる火の粉を風呂場の片手桶で防火用水桶の水を、背中のリュックサックにかけかけ江戸見坂を上る。ある者は座ぶとんで火の粉を払いながら、互いに家族の名を呼び合って。[★8]
自分の隣組の様子を見て回った。もはや避難してしまったのか誰も見当たらない。屈強の男子が相当数おったのに、どこの家も森閑として空家になっておる。(中略)といって私はこの人びとを責めることはできない。本所、深川の大空襲で一般都民は嫌というほど新聞、ラジオなどによって惨状が知らされておる。避難第一と皆池上方面へでも待避したのかもしれない。私自身もその惨状を見ておるゆえ、できれば妻子とともども避難したいは山々だ。[★9]
隣組の人びとは、もうとっくに逃げてしまって、人影もまばらになっていた。防空群長をしていた手前、叔父は先にたって逃げるわけにもゆかず、今までふみとどまっていたものの、もはや、ぐずぐずしているわけにはいかなかった。一刻を急ぐ必要があった。
当時、あれほど防空訓練を行ない、"空襲なんぞ恐るべき"と歌った心意気は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか?[★10]
人家の少ない馬込方面に逃げようと逆もどりした。しかし、皆、浅草の経験があるので逃げる人が大勢だ。荷車にいっぱい積んで引く人、大きなつづらを背負う人、ふとんを抱え子供を連れていく人、いろんな人がノロノロ、ノロノロ。これでは先に進むことができない。木のある山の手の道に入ろうと、焼けてないところを選んで逃げるのは人情と思い、少し進む。
(中略)朝九時頃だったか六丁目に向かったが、さすが浅草の経験があるので、死体はたまに見かけるくらい。やはり見聞はものを言ったのだ。浅草の時とは大変な差だ。[★11]
逃げることは犯罪だった
こういう件を読むと、3月10日の大空襲による犠牲者の屍の上に私たちは生きているのだと感じる。
犠牲者の死を悼みつつも、なぜ彼らが死ななければならなかったのか、その理由を知り、次に生かすことはできる。荏原で生き残った人々は、3月10日の教訓を生かし、消火を諦めて逃げたのだった。庶民の知恵のバトンタッチである。戦争を語る大切さの1つがここにある。
3月10日の犠牲者が逃げられなかった理由に、物理的に逃げ場を失ったことだけでなく、「逃げるわけにはいかなかった」、つまり消火を放り出して逃げたら非国民と非難される、他者の視線に呪縛されたことがあったとしたら、戦慄する。
実際、昭和16(1941)年11月に防空法が改定され、空襲時の避難禁止と消火義務が規定された。避難禁止である! 消火せずに逃げることは、後ろ指をさされるのみならず、違法行為でもあった。しかし3月10日の衝撃により、法に問われる恐怖より、むざむざ殺される恐怖のほうを人々は優先させたのだった。
荏原が空襲されているさなかにも、逃げる人を非難する者はいた。
中目黒の駅前通りは逃げ出した住民で大混雑だった。大八車、リヤカー、自転車などに家財を積んだ人びとが、てんでの方向へ逃げようとしてぶつかり合っていた。隣組でバケツリレーや火たたきの防火訓練をしていたはずなのに、誰一人火災を消そうとする人はいない。私達の隊長は『逃げるとは何事だ、非国民! 家を守れ!』と怒鳴ったが、誰もそんな言葉に耳をかす人はいなくて必死で逃げるだけだ。[★12]
昨夕、お前達二人が逃げだしたあと、我が家の防空壕に少しばかりの物を持ち運んでいるところへ、火たたきを持った男が、わめきながら、夫に向かって、この非国民め、空襲のさ中に、自分の物を助けるやつがあるか、貴様を殺してやると言って、おそいかかってきたので、その場を夢中で逃げたので助かったようなものの、日本人に殺されるところだと話していた。その男を、夫は全然知らない警防団の人だったと話す。おそろしいことだ。[★13]
強制疎開の功罪
犠牲者が少なくて済んだもう1つの理由は、功罪両面があるとはいえ、建物の強制疎開だろう。
本連載第22回でも触れたが、東京が定期的に空襲に見舞われるにつれ、防空上の理由から建物疎開、つまり延焼を防ぐための家屋強制取り壊しが急ピッチで進められた。既存の空地や河川・鉄道などを利用して密集地帯に設ける疎開空地帯、重要工場の周辺に設ける重要施設疎開空地、駅や線路周辺に空地を設ける交通疎開空地、そして住宅密集地域に強制的に作り出す疎開小空地などである。
関東大震災を機に人口が激増した荏原区には、木造家屋が密集していた。宅地開発をする暇もなく人家が急増したため、行きどまりの道や、人がすれ違うのもやっとな細い路地が少なくない(2019年暮れのゲンロン総会「大五反田ツアー」参加者は、そんな風景を思い出すだろう)。どこかで火が上がれば、ひとたまりもない。ちなみにこの地域にはいまでも、消防車が中まで入ってこられない火災危険区域が多い。


強制立ち退きは、対象となった住民にとって、理不尽で非人道的だったろう。とりわけ、家が取り壊しの対象となったことがきっかけで、満州へ渡る決心をしてしまった人たちが二葉町や戸越に少なくなかったことを思い出すと、胸が痛む。
余談だが、多くの人が満州へ渡ったために空き家となった武蔵小山商店街の家々は、強制立ち退き対象者に提供された。そう証言するのは、桐ケ谷火葬場の近くに生まれた昭和7(1932)年生まれの吉岡源治さん。桐ケ谷火葬場周辺は、いまも町工場がひしめきあう地域で、源治さんの父親は鉄工場で働いていた。
本連載第21回で触れた通り、武蔵小山商店街からは6軒の写真屋が満州へ渡っている。源治さん家族が割り当てられた家も、そんな写真館の空き家だったようだ。
余談だが、多くの人が満州へ渡ったために空き家となった武蔵小山商店街の家々は、強制立ち退き対象者に提供された。そう証言するのは、桐ケ谷火葬場の近くに生まれた昭和7(1932)年生まれの吉岡源治さん。桐ケ谷火葬場周辺は、いまも町工場がひしめきあう地域で、源治さんの父親は鉄工場で働いていた。
私たちの家もすぐ目の前が鉄工場だったため、ついに立ち退き命令が出た。隣近所約三十世帯あまりが昭和十九年の秋に、いやも応もなく"お国"の都合でわが家を壊されてしまったのである。移転先として、私たち家族は数世帯とともに、目蒲線の武蔵小山駅前の商店街の空家に収容されることになった。
聞くところによると、ここの商店街の人々は戦争の激化とともに商売ができなくなり、さりとて機械を動かす技術もなく、炭坑などに徴用して力仕事をさせるわけにもいかないため、国策にそって大陸に送り、食糧増産にあたらせようと、昭和十九年の四月二十六日に"国策移民"として、家族ともども満州(中国東北地方)に開拓団として送りこまれたということだった。[★14]
私たち家族が割り当てられた家は、武蔵小山駅から西小山駅方面に向かって右側、すぐのところにある写真屋の家だった。歩道からひと目で店内の様子が見わたせる総ガラス張りで、入り口のしゃれたドアには、爆風でガラスが四散しないように、和紙がたすき掛けに張られていた。[★15]
本連載第21回で触れた通り、武蔵小山商店街からは6軒の写真屋が満州へ渡っている。源治さん家族が割り当てられた家も、そんな写真館の空き家だったようだ。
立会川が救った多くの命
こうして人の人生を左右させた強制疎開だったが、その対策で設けられた空地に逃げて助かった人の多かったことが、証言からうかがえる。
家の五〇メートルばかり先を、立会川という川が流れていて、私の家の前の家から川までの間は、強制疎開で、全部家が取りこわされていて、そこに防空壕が掘ってあった。[★16]
二四日は、私と母と妹と三人、品川区小山小学校(当時、国民学校)の近くの荏原五丁目三〇五の原田さんの二階に住んでいた。
私の妹二人は、すでに学童疎開として栃木県安蘇郡常磐村の石材店の父方の叔母の所に行かせてあった。立会川の近くの我が家(二階建てと貸家三軒)は四月中に強制疎開となり、祖父の知人の町工場の主人、原田さん方にいるようになったのである。
(中略)火は防ぐすべもないようになっている、私達はこれまでと思い、急いで今まで入っていた防空壕に持って行けぬ物を投げ入れ、土を被せ、水をかぶりながら逃げだした。
火は煙とともに町を舐め、通りにはすでに人の姿も見えない。私は妹(満子)とともに必死になって逃げた。途中大きな地主さんの長い塀に沿って行けば、例の立会川の強制疎開跡に出られる、ここなら安全と急いだ。[★17]
私の家の真裏は、幅約七メートル、深さは地面から水面まで約三メートル、水の深さ約五〇センチ、その頃はザリガニとかエビガニとか生きものもいたきれいな水、上流は目黒あたりから下流は大森の森ケ崎の海へ流れ込む有名な立会川です。この川へみんなで飛び込んで、中には腰の骨、足の骨を折った人、また焼夷弾の直撃を頭に受けて即死した人、一〇歳の男の子の足にやはり直撃を受けた近所の人もおりましたが、とにかくこの川で助かった人は数知れませんでした。(中略)その川は身動きできない人で、水はお湯のように熱くなっていました。[★18]
立会川は、品川区立の小学校で「品川区にある有名な川」として目黒川とともに名前を覚えさせられる川で、現在はほとんどが暗渠となり、その大部分が遊歩道となっている。特に西小山の旧立会川は桜並木が美しく、桜の季節には多くの人々で賑わう。
この川がどれくらいの規模かというと、暗渠化された立会道路はやっとすれ違える片側1車線ていどだ。こんな小さな川でも、空襲時には多くの人の命を救ったのである。今後は歩く時の心持も変わってきそうだ。
暗い方へ逃げろ!
いざという時、どこへ逃げるべきか。3月10日のあと、いつかは自分たちも焼け出されることを覚悟した都民が、どこへ逃げるべきかのシミュレーションをしていた様子がうかがえる記述もある。こういう心の準備は大切だ。空襲をたびたび経験したことにより、都民もバージョンアップしていた。
すぐ近くには従兄夫婦や二〇年来のつき合いをしてきた家もありましたが、それらの人びとと一緒に逃げることを考えたことはありませんでした。以前から避難するなら馬込と決めていました。小学生のころ、毎年春になると、近所の友達何人かで、おたまじゃくしや、土筆をとりに行った馬込はどの道もよく知っていましたし、きっと私を守ってくれると思っていました。[★19]
三月一〇日の江東地区空襲の際、最後まで消火活動して逃げ場を失い、死者多数と伝えられてより防空意識、消火意欲喪失し、待避第一、生命保全の風潮が広まっていた。(中略)右に、左にゾロゾロと歩く人が多くなっていた。「離れるな」と父母と三人、父は鉄兜、鳶口、母と私は、綿入れの防空頭巾に防毒面、という装い、いまだ黒々とした我が家を後にした。差し迫って火に追われているわけではないので、先ずは広い所、と線路沿いの強制取り壊しの跡へ行くことになり表通りに出るとすでに人の流れ。暗い方へ暗い方へと押され歩く。
(中略)人波に揉まれながら我が家を横目に見て通り、第二国道へ出るとさすがに広い。いざ、という時の道路、と言われていたが、充分使命を果たしていた。
大森方面に向かい、立会川を渡り坂を登ると左側の倉庫が燃えていて熱気で熱い。右側も燃え出している。通り抜けなければ、と三人で苦しみながら駆け足。大森と荏原の区境に来ると、大森側はヒッソリとしていて、荏原側とは別世界であった。[★20]
焼夷弾による火の海では、防空壕にとどまっていては蒸し焼きになる。防空壕はあくまでも家財道具を隠す場所にし、とにかく空いている土地へ逃げたことも、度重なる空襲から学習したおかげだった。
この焼夷弾と火の手に、我々のヘルメットと火叩きがどれだけの役に立つだろうか。そんな思いより先に、ただ『恐ろしい』という気持だった。我々全員は寮を捨てた。わずかしか離れていないが、無我夢中で皆が、工場長宅まで走った。寮が四方を邸宅で囲まれているのとことなり、この家の南側は広い空地になっている。建物疎開でとりこわされた跡のようであった。三月の下町空襲のとき、火に包まれて逃げ場を失い、むし焼きにされた避難民の姿が頭にあったので、この空地があれば火に包まれる心配はないと思った。[★21]
今夜はやられる、と夫が早口に言う。おれは残って寝具を庭先の防空壕へ入れて逃げるから、叔父さんと早く逃げろと言って、地下足袋のまま、ふとん類を廊下に運び始めた。話すことも口からは出ず、叔父さんと前後して表に飛び出すと、軒先伝いに、どこをどうして走ったのか、わからない。隣組の防空壕も、まったく役には立たず、遠くへ逃げろ逃げろと男の声がする。
前もって、「へい」や「バラ線」(筆者注*有刺鉄線のこと)をとりこわしておいたのが、逃げ道となったことは、助かったと思った。[★22]
ようやく大きな原に出た。ここなら心配ない。家が無ければ焼かれることもあるまい。幸い爆弾攻撃はないので、まず一服とタバコに火をつけて下方をみると、大勢の人たちが来る。[★23]
読み続けるにつれ、奇妙な感覚が芽生え始めていた。戦争が起きた場合のハンドブックのような感覚で読んでいるのだ。
以前だったらこんな読み方はしなかっただろう。戦争は起こしてはならない。平和を守るために、どのように思考し、行動すればよいのか。そんな抽象的なことばかりを考えていたような気がする。
しかしいまは少なくとも、戦争、あるいは戦争に擬似した何かが起こることは十分ありうる(というか、すでに始まっている)と潜在的に察知しているらしく、そんな場合に生き延びるためのヒントを探しているようなのだ。
戦時中というと、軍国主義一色に染まり、監視しあう空気の中、大本営の情報をただ鵜呑みにして独自の判断力を失った無知蒙昧な日本国民、という印象が強い。
しかし被災した一般市民の語りに耳を傾けてみると、けっしてそんなことはない。国に対して声を上げることこそしなかったが、自分の頭で考え、生き延びる方法を必死に模索していたのである。
次回は2021年3月配信の『ゲンロンβ59』に掲載予定です。
★1 竹中宮子(15歳)の証言。『東京大空襲・戦災誌』第2巻、東京空襲を記録する会、1973年、432頁。
★2 佐野芳子(35歳)の証言。同書、662頁。
★3 茅野芳郎(19歳)の証言。同書、661-662頁。
★4 竹内きゑ(35歳)の証言。同書、644頁。
★5 海老沢節子(13歳)の証言。同書、663頁。
★6 青木かほる(12歳)の証言。同書、435-436頁。
★7 「なつかしの消防道具」、京都市消防局ホームページ。URL=https://www.city.kyoto.lg.jp/shobo/page/0000159144.html
★8 星野淳代(22歳)の証言。同書、425頁。
★9 木内脩(37歳)の証言。同書、440頁。
★10 青山哲夫(14歳)の証言。同書、652頁。
★11 黒岩直一(27歳)の証言。同書、667-668頁。
★12 菊山泰二(16歳)の証言。同書、656頁。
★13 見上時子(26歳)の証言。同書、445頁。
★14 吉岡源治『焼跡少年期』、中公文庫、1987年、21頁。
★15 同書、22頁。
★16 唐木照子(13歳)の証言。前掲書、659頁。
★17 石川清(21歳)の証言。同書、424-425頁。
★18 佐野芳子(35歳)の証言。同書、662頁。
★19 海老沢節子(13歳)の証言。同書、664頁。
★20 大平進(15歳)の証言。同書、433-434頁。
★21 神山研(22歳)の証言。同書、657-658頁。
★22 見上時子(26歳)の証言。同書、443頁。
★23 黒岩直一(27歳)の証言。同書、667頁。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後


星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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