世界は五反田から始まった(09) 乳母日傘|星野博美

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初出:2019年09月27日刊行『ゲンロンβ41』
 早いところ焼野原の話に入りたいのだが、うちが焼け落ちるまでにはあと何年かある。それまでの話に、もうしばらくお付き合いいただきたい。

 前回の原稿で、星野製作所が櫻護謨ゴム株式会社という軍需工場の下請けをしていたことが判明した。終戦の時点で12歳だった父に桜ゴムの話を差し向けたところ、「ああ、桜ゴム。聞いたことあるね」とさらりと言ったものの、「何に使われたかまではわからない」と言う。ともあれ、うちで作られた継手金具が、日本軍の使用した「何か」に使われたことだけは確かだと思われる。

 なんとなく、そんな予感はしていたのだ。

 いや、その言い方はおかしい。祖父の手記をみずから清書し、繰り返し何度も読んだのだから、そのこと自体は知っていた。しかし深く考えず、故意にスルーした。「こんな小さな町工場で、たいしたものを作っていたはずがない」と、自分に都合よく考えたのである。

 それは、日本独特の工業形態によって形成された、町工場心理の象徴みたいなものだ。戦闘機や軍艦、潜水艦といった「たいしたもの」は無数の部品で形成されている。それらは町じゅうに広がる小さな工場で作られたあと、磁石のように大工場へ吸い寄せられ、最終形態へ組み立てられていく。

「木を見て森を見ず」ということわざがある。町工場はいわば、自分に割り当てられた木をひたすら忠実に育てるだけで、それがどんな森を形成しているかを俯瞰しない。遅ればせながら私も、ようやくその森の存在を認識した。

 うちの継手金具がどんな「たいしたもの」に使われたかは不明なままだが、軍国日本の軍需産業の最末端にうちがぶらさがっていた、と認識できたことは、個人的には極めて大きい意味を持つ。

 他の人はともかく、私は20歳の頃から香港、中国と個人的な縁がある。本連載第5回でも触れたが、1986年に交換留学のため香港に行った時、3年8か月香港を占領した日本軍の蛮行を記憶している人は多く、反日感情が非常に強かった。

 いまも付き合いの続く友人たちが、日本人であるという理由で私を糾弾する機会は、ほとんどない。しかし彼らの親のなかには、故郷の町に日本軍が進軍し、着の身着のまま香港に逃げてきた人もいる。日本軍による侵略が友人たち一族の運命を過酷なものにさせたことはまぎれもない事実で、彼らとの関係はいまだに痛みを伴い続けている。

 時間の流れと世界の激変のなかで、日本の戦争責任について思考を放棄したくなると、友人たちの存在が引き留めてくれる、とも言うこともできる。私が完全にそれを忘れたら、その時は彼らから見捨てられるだろう。

 奇妙な言い方だが、うちが軍需産業の末端に関わっていたことで立ち位置が定まったような、安堵に似たものすら感じるのである。

つるや旅館


 祖父は手記のなかで、「統制合理化」という見出しに続き、こう記している。


 小さい工場は幾つかの工場が合ペイして軍のカンリ工場になるとか、今迄仕事を頂いて居た国の協力工場になるとかしなければならない。お陰で私の工場は桜ゴムの仕事をして居た関係でいや応なしに桜ゴムの協力工場になって今迄以上に軍の仕事をした。民間の仕事は出来なくなったのです。
 兵役関係者はもちろん、若い者は殆ど戦地に召集され、商店主や勤め人、軍の仕事に関係ない者は徴用令でどんどん召集され、大工場や軍需工場で働かなければならない。自由な身分の仕事が出来なくなったのです。各工場で働いて居る者も労務手帳が出来、工場主が預かって居り、その工場をやめ様と思ってもかんたんにやめる事が出来ない。自由に職場を換へる事が出来ない規ソクになった。


 戦争が激しくなるにつれて国民の管理がいっそう厳しくなり、誰しも国家のお役に立つことが最優先事項となった。祖父の工場でも工員が次々と召集され、仕事を選ぶことはできず、民間の仕事を請け負うことは不可能になった。

 このあたりの記述も、これまではいい加減に読んでいた。戦争は完全に過去の話で、知りたいとは思うが、しょせんはどこか他人事だった。

 しかしいまでは、現在に置き換えて読んでいる自分がいる。「歴史は繰り返す」と言われるが、あいにく同じ顔ではやって来ない。もしかしたらすでに、何かがゆるやかに始まっているかもしれない。その時、無名の一市民である祖父はどのように生きたのか。来たるべき未来に備え、過去を参照している気がする。これを清書した20数年前にはまったくなかった感覚だ。

 



 ここに1枚の家族写真がある。

 父は、昭和ヒトケタ生まれにしては幼少期の写真が多いほうだ。カメラ好きだった祖父は、多摩川の河川敷で花見をすればパチリ、登山してもパチリ、息子に子ども用の自転車を買ってやればパチリ、工場の工員、家政婦、犬、猫、自分の野球チーム……と様々な写真を撮り、みずからアルバムの形にまとめた。この写真も、そんなアルバムの1冊に収められていた1枚だ。
 それは海岸で撮影された家族写真である。浴衣を着た夫婦に子どもが3人、波打ち際に並んでいる。いずれも、表情は少々硬い。夫婦は30代後半にさしかかった私の祖父母で、3人の子どもは、父と妹の弘子、そして当時わが家で預かっていた、祖母の弟の娘、朋子である。父の年齢は8、9歳といったところ。昭和18(1943)年生まれの弟、光正の姿がないので、昭和16~17年頃の夏に撮られたものと推測できる。

 子どもの頃父は、毎年夏になると熱海へ家族旅行に出かけていた。この写真にはたまたま祖父が写っているが、忙しい祖父が同行することのほうが珍しく、通常は祖母が子どもたちを連れて電車で熱海温泉へ行き、『金色夜叉』の「お宮の松」の正面に建つ「つるや旅館」に1週間ほど泊まるのが常だった。帰りの日は多少延びることがあった。迷信深い祖母が、帰るのにふさわしい日時を占い師に決めてもらっていたからだ。

 つるや旅館は、昭和9(1934)年創業の、熱海温泉で最も著名だった高級旅館である。1967年にはつるやホテルとして生まれ変わるが、1984年には事業家の買収によって創業一族の手を離れ、バブル時代には巨額の融資の担保となったりするなど紆余曲折があり、長いこと廃墟となっていた。廃墟マニアの間では垂涎の的だったようだ。どことなく、五反田の海喜館を彷彿させる没落ぶりである。

 さびれゆく一方だった熱海温泉の状況が一転するのは、昨今のインバウンド需要の高まりによるものである。つるやホテルの廃虚は、最終的に香港の企業が所有権を獲得し、跡地に全室温泉付きスイートルームが売りの5つ星リゾートホテル、「熱海パールスターホテル」が開業することになった(2019年5月1日開業予定だったが、まだ開業していない)。

 この「熱海での避暑」は、わが家では比較的よく知られた昔話だった。特に、母が父の軟弱さをやんわりと批判したい時などに、この話を持ち出す機会が多かった。そして最後は

 「あんたはおん母日ばひがさのボンボンだから、頭を使わないのよ!」

などと言って、トドメを刺す。家庭内の小さな階級闘争である。

 母の神経を逆撫でるのは、「避暑」という行為そのものだった。

避暑


 私の母・よしは昭和10(1935)年、外房の海沿いにある岬町で生まれた。周囲のほとんどは米作農家だったが、母の家は、先代が日露戦争の頃に地曳網の投資に失敗して田畑を手放した旧地主で、わずかに残された農地で小作人が作る米が命綱だった。そこで父親のいちが現金収入として考えついたのが、その頃外房に急速に増え始めていた、東京から来る避暑客の別荘管理と身の回りのお世話だった。

 岬町は、九十九里の最南端あたりに位置する、太平洋に面した美しい砂浜が広がる地域である。そこから少し北にある一宮町は、「サーフィンとともに生きる町」を掲げてサーファーの誘致を積極的に行い、2020年東京五輪ではサーフィンの試合が行われることが決まっている。非常によい波が来るところなのだ。

 このあたり一帯は、東京からさほど遠くない避暑地として明治時代から人気があり、岬町には作家の森鴎外、林芙美子、さらには孫文の革命に財政支援をしたことで知られる、長崎出身の富豪にして日本活動写真株式会社の創始者、梅屋庄吉といった人たちの別荘があった。作家の宮本百合子は、近所の知り合いが営む旅館に滞在していた。

 梅屋の別荘は、母の生家から一本道を10分ほど歩いたところにあり、日本亡命中の孫文や蒋介石が一時期身を寄せていた。岬町の国道沿いには「以徳報怨之碑」という記念碑が立っている。

「岬町江場戸えばど海岸に、今なお跡の残る翁(筆者注 梅屋庄吉)の別荘には、日本亡命中の国父孫文が秘そかに身を寄せられ、蒋介石総統も若き日に、しばしば訪れ、中華革命の烈士ともども、幾度もの挙兵の策を練られた」。

 母より10歳年上の姉・あいは生前、「梅屋の別荘では豚をたくさん飼っていて、中国人の少女が世話をしていた」と話してくれたことがある。その女の子が憐れで、よくサツマイモを届けてあげたのだ、と。さらに、「チャイナドレスを着たきれいな中国人の奥さんが使用人を叱り飛ばすのを見た」とも話した。蒋介石夫人の宋美齢かもしれない、と私は勝手に想像しているが、確証はない。

 それはさておき、私の母方の祖父・弥一が管理人を務めたのは、猪俣浩三というクリスチャンの社会党衆議院議員の別荘だった。代議士を引退してからはアムネスティ・インターナショナル日本支部を設立し、理事長となった人物である。猪俣夫人から特にかわいがられたのは、前述の伯母・あいで、毎日お茶の時間に呼んでくれ、一緒にラジオを聴いたり西洋菓子を食べたり、当時はまだ珍しかったランドセルや文房具をもらったりしたという。

 猪俣一家は、当初は休みの期間に一時滞在しに来るだけだったが、戦争が激化するとその別荘に疎開し、そこで終戦を迎えた。

 つまり母は、父とは逆に、東京から避暑に来た人を受け入れる側だったのだ。避暑に対しては、いろいろ複雑な思いがあるようである。それが時折、避暑をする側だった夫に向けて噴出する。まあ、気持ちはわからないでもない。

 話を東京に戻そう。なぜ私が熱海の写真に固執するかというと、この1枚が原因で「戦時下とはいえ、うちは割とのんびり、裕福に過ごしていたのだな」という刷りこみがなされたからだった。そしてそのことは、なんとなく、大きな声で人に言ってはいけないような気がしていた。
 私は戦争を知らない世代ではあるが、幼少期を送った高度経済成長に沸く日本には、まだ戦争の気配が残っていた。

 祖母の親友は息子を戦争で失い、軍人恩給で暮らしていた。「こんなこと言っちゃなんだけど、あの子が一番親孝行だ」とよく言っていた。

 近所で町工場を営む社長は、お祭り好きで、近所の子どもにとても優しいチャーミングな人だったが、シベリア抑留経験者だった。伯母の同級生には、許嫁、あるいは新婚間もなく夫が召集されて戦死した人が多かったため、手に技術を持った職業婦人が多かった。祖母に連れられて泉岳寺の縁日に行くと、駅から寺へ通じる道に傷痍軍人がたくさん立っていて、震え上がった。

 ふだんは気づかないけれど、じっと目を凝らすと、戦争は日常のあちこちに、そっと潜んでいた。

 いまとなっては、いろんなことが腑に落ちる。

 若い者は次々と戦地に召集され、商業従事者や勤め人も徴用されるなか、年齢が少し上で工場主である祖父は、戦争に行かずに済んだ。それは確かに幸運だった。しかしそれだけではない。軍需工場の「協力工場」に指定され、「今迄以上に軍の仕事をした」ことで、むしろ経営基盤が安定したのである。

 ありていに言えば、戦争をきっかけに裕福になったのだ。

再びドーリットル空襲


 さて、現在の品川区にあたる地域が初めて米軍から空襲を受けたのは、昭和17(1942)年4月18日のドーリットル空襲だった、と前々回書いた。要は、真珠湾攻撃のリベンジとして米軍が日本本土を初爆撃するにあたり、選んだ場所の1つが品川だったわけだ。

 これまで何度も目を通しながら気づかなかった自分の目の節穴さに呆れるばかりなのだが、あらためて読み返したら、祖父の手記にもこの空襲がさらりと登場していた。


 十七年四月十八日正午頃、突然空襲警報がなって人々を驚かせた。私も隣組の指導員をして居たのですぐ表へ出た。多摩川方面から飛行機が一機来た。米機か日本の飛行機か判らないが高航砲は飛行機目がけて撃って居た。一般の人々は演習をやって居るのだろうとぐらいに思って居た。丁度私の工場の上をテイ空で飛んで行った。すぐ其後裏の隣組の方から大声あり、バクダンが落とされたから応援頼むとの事。すぐかけつけた。五、六名防空ゴウに埋まって居た。大急ぎで掘り返し全員助けたが中に手を合わせ拝んで居る婦人も居た。隣の町会では七、八名の死者が出たが初めて出会った空襲でどぎもを抜かれた。又白昼一機で空襲に来た敵機のダイタンさにも驚いた。
 これからも時々空襲もあるのではないか。田舎の親せき等へソカイする人も出て来た。


 日本を襲った初めての空襲が、祖父に決断をさせた。自分だけ戸越銀座に残り、家族は疎開させることに決めたのだった。

 うちが焼け落ちるまで、あと3年1か月である。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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