世界は五反田から始まった(20) 武蔵小山の悲哀(2)|星野博美

初出:2020年08月21日刊行『ゲンロンβ52』
最近週末になると、武蔵小山駅前大型再開発企画の第2弾にあたる「シティタワー武蔵小山」の折り込み広告が入ってくる。地上41階、総戸数506戸という巨大なタワーマンション。東京メトロ南北線と都営地下鉄三田線により、都心へのアクセスが極めて便利で、眼下には都内有数の商店街があるという庶民性も見逃せない。しかも近隣には緑あふれる林試の森公園があり、ちょっとしたニューヨークのセントラルパーク気分を味わえる。販売価格帯は6000万円(41.58平米)から1億4000万円(82.19平米)と、なかなか強気の設定だ。
そのマンションの足元には、墓地を伴う寺がひっそりと建っている。日蓮宗の興栄山朗惺寺だ。本堂の手前には大きな石碑がある。
「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓団殉難者 慰霊碑」
武蔵小山商店街は戦時中、満洲へ開拓団を送り、多くの団員と家族が帰らぬ人となった。
本当に偶然なのだが、武蔵小山駅を取り巻くタワーマンションに囲まれ、見下ろされる形で慰霊碑は立つ。マンションの最上階からこの墓地を見下ろしたら、深い井戸の中に吸いこまれるような錯覚を起こすのではないだろうか。
戦後、父の代になってもその傾向は続いたが、従業員の顔ぶれは少し変わり、母の姉が養護教員を務める外房の中学の卒業生が主流となった。また、うちの向かいのアパートには母の甥が、うちからほんの数十メートル先のアパートには祖母の姪姉妹が下宿するといったように、「うちが面倒を見る」という理由で上京が許された親戚たちがいた。
さらに就職先を世話することもあった。わが家で長らく働いたお手伝いさん(母の実家の隣家の娘)の妹は、武蔵小山商店街の用品店に、祖母の末弟の娘も、やはり武蔵小山の薬屋に、うちの口利きで就職した。
私は香港に住んでいた時、中国から逃れてきた彼らが親戚や同郷の人たちと固まって住み、助け合って生きる姿を目にしては、「すごい結束力だ」と驚いたものだった。が、振り返ればうちもそうだった。香港でも東京でも、ほんのひと昔前、生き馬の目を抜くような都会で転落せずに生き抜くために、地縁や血縁で縛られたセイフティーネットを活用していたのだ。
就職先を斡旋する場合、うちが属する戸越銀座ではなく、ある程度顔は利くものの日常のテリトリーから外れ、ふだん顔を合わせる必要がなく、戸越銀座よりは格段に都会である武蔵小山を紹介する、というのがわが家のやり方だった。親しい人間同士で商売はしない。関係を損ねかねないからだ。一方、商売相手に対しては信用を重視するため、必要以上に親しくせず、一定の距離をおいて付き合う。親しくなりすぎると、重大な懸案事項が発生した場合、関係を断つことが困難になるためだ。おそらく、人が好すぎて貸した金を踏み倒されてばかりいた祖父の姿を見て、父が得た教訓だったのだろう。私もその家訓を守り、同業者や編集者と親しくなりすぎないよう、気をつけている。
それはさておき、満洲開拓の話である。武蔵小山の人々が満洲へ行ったという話を最初に聞いたのが、いつだったかは、よく覚えていない。少なくとも子どもの頃ではなく、成人して地元を離れ、再び戻ってきたあとだ。教えてくれたのは戸越銀座育ちの父ではなく、結婚してからこの界隈へ住み始めた母だった。
母がそれを知ったのは、うちのお手伝いさんの妹が働く店が、満洲からの引き揚げ組だったからだ。そこは、目黒区の高級住宅街に屋敷をかまえるほど商売が繁盛していたが、先代のおばあさんは死ぬまで店頭に立ち、商売に目を光らせていたという。
「さすが苦労人だな、と思った」
さらに、近所の奥さんの兄が婿入りした草履屋や、狭い店先で来る日も来る日も天ぷらを揚げていた揚げ物屋も、開拓団からの生還組だった。
「なんとなく知っていた。でも直接聞いたことはない。戦争の話は、軽々しく人にするものじゃないからね」
そのマンションの足元には、墓地を伴う寺がひっそりと建っている。日蓮宗の興栄山朗惺寺だ。本堂の手前には大きな石碑がある。
「第十三次満洲興安東京荏原郷開拓団殉難者 慰霊碑」
武蔵小山商店街は戦時中、満洲へ開拓団を送り、多くの団員と家族が帰らぬ人となった。
本当に偶然なのだが、武蔵小山駅を取り巻くタワーマンションに囲まれ、見下ろされる形で慰霊碑は立つ。マンションの最上階からこの墓地を見下ろしたら、深い井戸の中に吸いこまれるような錯覚を起こすのではないだろうか。
満蒙開拓団
話は少々横道にそれるが、戸越銀座で町工場を営むわが家は、外房に住む父方、母方の親戚や地縁関係者の、東京での受け入れ先、あるいは仲介役のような位置づけだった。その基礎を作ったのは祖父だ。祖父の工場は戦前、甥や故郷の顔見知り、祖母の弟といった、非常に近い関係の親類縁者で占められ、彼らは独立すると品川区や大田区へ散らばっていった。戦後、父の代になってもその傾向は続いたが、従業員の顔ぶれは少し変わり、母の姉が養護教員を務める外房の中学の卒業生が主流となった。また、うちの向かいのアパートには母の甥が、うちからほんの数十メートル先のアパートには祖母の姪姉妹が下宿するといったように、「うちが面倒を見る」という理由で上京が許された親戚たちがいた。
さらに就職先を世話することもあった。わが家で長らく働いたお手伝いさん(母の実家の隣家の娘)の妹は、武蔵小山商店街の用品店に、祖母の末弟の娘も、やはり武蔵小山の薬屋に、うちの口利きで就職した。
私は香港に住んでいた時、中国から逃れてきた彼らが親戚や同郷の人たちと固まって住み、助け合って生きる姿を目にしては、「すごい結束力だ」と驚いたものだった。が、振り返ればうちもそうだった。香港でも東京でも、ほんのひと昔前、生き馬の目を抜くような都会で転落せずに生き抜くために、地縁や血縁で縛られたセイフティーネットを活用していたのだ。
就職先を斡旋する場合、うちが属する戸越銀座ではなく、ある程度顔は利くものの日常のテリトリーから外れ、ふだん顔を合わせる必要がなく、戸越銀座よりは格段に都会である武蔵小山を紹介する、というのがわが家のやり方だった。親しい人間同士で商売はしない。関係を損ねかねないからだ。一方、商売相手に対しては信用を重視するため、必要以上に親しくせず、一定の距離をおいて付き合う。親しくなりすぎると、重大な懸案事項が発生した場合、関係を断つことが困難になるためだ。おそらく、人が好すぎて貸した金を踏み倒されてばかりいた祖父の姿を見て、父が得た教訓だったのだろう。私もその家訓を守り、同業者や編集者と親しくなりすぎないよう、気をつけている。
それはさておき、満洲開拓の話である。武蔵小山の人々が満洲へ行ったという話を最初に聞いたのが、いつだったかは、よく覚えていない。少なくとも子どもの頃ではなく、成人して地元を離れ、再び戻ってきたあとだ。教えてくれたのは戸越銀座育ちの父ではなく、結婚してからこの界隈へ住み始めた母だった。
母がそれを知ったのは、うちのお手伝いさんの妹が働く店が、満洲からの引き揚げ組だったからだ。そこは、目黒区の高級住宅街に屋敷をかまえるほど商売が繁盛していたが、先代のおばあさんは死ぬまで店頭に立ち、商売に目を光らせていたという。
「さすが苦労人だな、と思った」
さらに、近所の奥さんの兄が婿入りした草履屋や、狭い店先で来る日も来る日も天ぷらを揚げていた揚げ物屋も、開拓団からの生還組だった。
「なんとなく知っていた。でも直接聞いたことはない。戦争の話は、軽々しく人にするものじゃないからね」
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後


星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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