世界は五反田から始まった(15) スペイン風邪|星野博美

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初出:2020年03月30日刊行『ゲンロンβ47』
 しばし、無産者託児所の話から離れる。

 二〇二〇年は全世界で波乱含みの幕開けをした。イランとアメリカの緊張。中国の武漢で発生したと見られる、新型コロナウィルスの感染拡大。春節前には対岸の火事を眺めるような傍観者的立場だった日本にも、若干の時間差を伴ってその波は押し寄せた。本稿を執筆中の三月初旬の時点では、すでに北米、ヨーロッパ全域でも感染者が激増し、WHO(世界保健機構)がパンデミック(世界的大流行)に当たるという見解を示した。今後、どのような形で収束に向かうのかは予断を許さない状況だ。

 最近、外出を控えて家にいる時間が長くなったため、普段より祖父の手記を読むようになった。驚いたことに、スペイン風邪の話題が出てきたのである。ちょうどいまから百年前にあたる、一九二〇(大正九)年の記述だ。

 いや、そう言うと若干語弊がある。スペイン風邪に触れた記述があることは前から知っていたが、当時は新型ウィルスにあまり関心がなかったため、たいして注目もせず、スルーしてしまっていた。コロナウィルスの存在によって関心が高まった結果、その記述を再発見した、というのが実情に近い。

 かつては、自分の生きてきた時間が短すぎるため、戦前はもとより、百年前など、霞のかかった、到底想像しきれない時代のように感じていた。しかし自分の年齢が半世紀を越え、親の年齢も九十に近づいてくると、百年というのは、がんばって手を伸ばせば、手触りの感じられる時代に思え始めた。年を重ねるのも、そう悪いことばかりではない。

 いまでは、一九二〇年に十七歳だった祖父と、百年の時を越えて大五反田を共有しているような、奇妙な感覚さえ芽生えている。まして新型ウィルスまで共有するとは、驚きだ。

コロナウィルスとスペイン風邪


 全世界に猛威を振るい、第一次世界大戦による死者の四倍にあたる四千万人もの死者を出したといわれる新型インフルエンザ、いわゆるスペイン風邪(一九一八年~一九二〇年)は、日本でも四十五万人の命を奪った。

 現在進行形のコロナウィルスは、感染力は高いものの、死亡率は高くない。若者や幼児は比較的罹患しにくく(罹患したとしても発症しにくい)、基礎疾患を持った高齢者が感染すると重症化しやすく、死に至りやすいのが特徴だと、これまでのところ判明している。

 基礎疾患持ちで八十代後半の両親と暮らす私は、だからこそそれなりに緊張感があり、日々うがいと入念な手洗いを欠かさないが、一方ではこのウィルスの特性が社会を大パニックから救っている――少なくとも日本では、まだ大パニックは起きていない――ということもできる。高齢者が犠牲になっていくことと、昨日まで元気だった子どもや青年が倒れていくことを比べたら、社会が恐慌に陥るのは、圧倒的に後者のケースだろう。

 一方、百年前のスペイン風邪は後者だった。このウィルスによる死亡は、「二十歳から四十歳の中年層で多く、普段はめったに死なない年齢の者が死亡することで一層怖れられ、人口統計上では平均寿命を縮めた」★1
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後

ゲンロン叢書|011
『世界は五反田から始まった』
星野博美 著

¥1,980(税込)|四六判・並製|本体372頁|2022/7/20刊行

星野博美

1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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