世界は五反田から始まった(23)「回避」|星野博美

初出:2020年11月20日刊行『ゲンロンβ55』
五反田を世界の中心に見立てたこの連載も、もうじき、はや2年になる。
この連載で、戸越銀座の空襲について最初に触れたのは第5回で、約1年半も前になる。もっと早く燃やすつもりが、寄り道をしている間に延ばし延ばしになってしまった。まるで「モヤスモヤスサギ」である。そろそろ本当に燃やそうと思うが、その前にもうしばらく、寄り道にお付き合いいただきたい。
私はこれまで、戦争について語る資格のない人間だと思ってきた。戦争で死んだ家族がいないからだ。たまたま運よく生き残っただけで、何かを語る立場にはない。いまもそんな後ろめたさは若干ある。
しかし彼らは本当に、たまたま、運よく、生き残っただけなのだろうか?
そこに意思や選択や努力は存在しなかったのだろうか?
あえて、そこを考えてみたい。
まずは千葉県いすみ市岬町の、母のファミリーを見てみる。私の母、良子の父親、弥一は日中戦争(1937~1945年)勃発直後に徴兵された。まだ日本が攻勢にあった時期だったため、無傷で生還。帰還の際には村じゅうの人たちがお祝いにかけつけ、大騒ぎだったという。幼かった母は、木製の子ども用ピアノをお土産にもらった。上海かどこかで買ったのだろう。そのピアノは長らく母の自慢で、「みんなが触りに来て、汚されるのがいやだった」という。
弥一の父、弥吉は、日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)の両方に従軍している。こちらも幸い帰還するが、2度の従軍経験がこたえたのか、体を悪くして、弥一が8歳の時に亡くなった。
一家の大黒柱を失った弥吉の妻、げんは、イチかバチかで鰯漁に出資して失敗。負債のかたに多くの田畑をとられ、5年後に急死した。両親を亡くした弥一は、米には困らなかったが、左官や大工、酒屋に勤めるなどして現金収入を得る道を選んだ。そして戦争から帰還後は、外房へ避暑に来る東京の富裕層の別荘管理人を勤めた。若い頃に従事した左官と大工の技術が、役立ったことになる。
母のファミリーは、2代続けて徴兵されたものの運よく生還することができたが、余波で経済的打撃を受けた旧地主、ということになろう。
ここで外房の漁業の特性について、少し説明しておきたい。
母の故郷である岬町は、九十九里浜の最南端、太東岬のわずか南に位置している。小さい頃、母の実家で寝ていると、波が打ちつけるドドーン、ドドーンという響きが聞こえ、怖くて寝つけなかったものだ。海は近いが、周囲には農村風景が広がっている。
背後に広大な農地が広がる九十九里浜一帯では、ふだんは農作業に従事し、鰯が回遊してくる季節になると鰯漁を行った。地主が網元、小作人が水手という、農村のヒエラルキーをそのまま投影した、季節性漁業である。このような形態が可能になるポイントは、遠浅な砂浜の存在だ。鰯をとる巾着網は砂浜に船を揚げられるため、必ずしも港を必要としないのである。
そして地主それぞれが船を持っていたわけではなく、漁の季節になると出資しあって船を出した。豊漁ならば利益が上がるが、貧漁なら出資者が損をかぶる、投機的な商売である。私の曾祖母にあたるげんは、これで多くの土地を失った。
私は小さい頃、母の実家が不思議でならなかった。農村なのに、農家でない。米は作っていないが、どこかから回ってくる。海がすぐそこにあるのに、漁師でもない。「魚をとるのが漁師」「ネジを切るのがネジ屋」といった単純明快な世界観で育った私には、田んぼはあるが耕作をしない母の実家は謎めいて映った。
一方、父方の故郷である御宿・岩和田は、同じく太平洋に面し、岬町から12キロほど南下したあたり。JR外房線にあてはめれば、三門駅と御宿駅で、3駅しか離れていない。しかし前者は農村、後者は漁師町という、まったく別世界なのである。
この連載で、戸越銀座の空襲について最初に触れたのは第5回で、約1年半も前になる。もっと早く燃やすつもりが、寄り道をしている間に延ばし延ばしになってしまった。まるで「モヤスモヤスサギ」である。そろそろ本当に燃やそうと思うが、その前にもうしばらく、寄り道にお付き合いいただきたい。
私はこれまで、戦争について語る資格のない人間だと思ってきた。戦争で死んだ家族がいないからだ。たまたま運よく生き残っただけで、何かを語る立場にはない。いまもそんな後ろめたさは若干ある。
しかし彼らは本当に、たまたま、運よく、生き残っただけなのだろうか?
そこに意思や選択や努力は存在しなかったのだろうか?
あえて、そこを考えてみたい。
不幸中の幸い中の不幸
まずは千葉県いすみ市岬町の、母のファミリーを見てみる。私の母、良子の父親、弥一は日中戦争(1937~1945年)勃発直後に徴兵された。まだ日本が攻勢にあった時期だったため、無傷で生還。帰還の際には村じゅうの人たちがお祝いにかけつけ、大騒ぎだったという。幼かった母は、木製の子ども用ピアノをお土産にもらった。上海かどこかで買ったのだろう。そのピアノは長らく母の自慢で、「みんなが触りに来て、汚されるのがいやだった」という。
弥一の父、弥吉は、日清戦争(1894~1895年)と日露戦争(1904~1905年)の両方に従軍している。こちらも幸い帰還するが、2度の従軍経験がこたえたのか、体を悪くして、弥一が8歳の時に亡くなった。
一家の大黒柱を失った弥吉の妻、げんは、イチかバチかで鰯漁に出資して失敗。負債のかたに多くの田畑をとられ、5年後に急死した。両親を亡くした弥一は、米には困らなかったが、左官や大工、酒屋に勤めるなどして現金収入を得る道を選んだ。そして戦争から帰還後は、外房へ避暑に来る東京の富裕層の別荘管理人を勤めた。若い頃に従事した左官と大工の技術が、役立ったことになる。
母のファミリーは、2代続けて徴兵されたものの運よく生還することができたが、余波で経済的打撃を受けた旧地主、ということになろう。
ここで外房の漁業の特性について、少し説明しておきたい。
母の故郷である岬町は、九十九里浜の最南端、太東岬のわずか南に位置している。小さい頃、母の実家で寝ていると、波が打ちつけるドドーン、ドドーンという響きが聞こえ、怖くて寝つけなかったものだ。海は近いが、周囲には農村風景が広がっている。
背後に広大な農地が広がる九十九里浜一帯では、ふだんは農作業に従事し、鰯が回遊してくる季節になると鰯漁を行った。地主が網元、小作人が水手という、農村のヒエラルキーをそのまま投影した、季節性漁業である。このような形態が可能になるポイントは、遠浅な砂浜の存在だ。鰯をとる巾着網は砂浜に船を揚げられるため、必ずしも港を必要としないのである。
そして地主それぞれが船を持っていたわけではなく、漁の季節になると出資しあって船を出した。豊漁ならば利益が上がるが、貧漁なら出資者が損をかぶる、投機的な商売である。私の曾祖母にあたるげんは、これで多くの土地を失った。
私は小さい頃、母の実家が不思議でならなかった。農村なのに、農家でない。米は作っていないが、どこかから回ってくる。海がすぐそこにあるのに、漁師でもない。「魚をとるのが漁師」「ネジを切るのがネジ屋」といった単純明快な世界観で育った私には、田んぼはあるが耕作をしない母の実家は謎めいて映った。
一方、父方の故郷である御宿・岩和田は、同じく太平洋に面し、岬町から12キロほど南下したあたり。JR外房線にあてはめれば、三門駅と御宿駅で、3駅しか離れていない。しかし前者は農村、後者は漁師町という、まったく別世界なのである。

JR外房線は、三門の次、大原駅を過ぎたあたりからトンネルだらけになり、海岸線のすぐ背後に岩山が迫った世界になる。山側には農村が広がるが、海側には耕作地がほとんどなく、海が生活の中心となる。こちらは岬町界隈で行われた季節性漁業ではなく、網元が資本家、専業漁師が労働者、という経済構造になる。
御宿には「月の砂漠」で知られる美しい砂浜があるものの、岩和田という名が示す通り、一歩海に入れば岩だらけで、特定の港にしか船は接岸できない。漁師たちは港の周りに集住する。彼らは現金収入なので、米も野菜も、すべて買わなければならない。山側の農民が作った農作物を売買する市が定期的に立ち、漁民はそこで米や野菜を買い、農民は魚を買う。いまでも勝浦に大きな定期市が立つのは、その名残だ。
「漁村」というと、いかにもひなびて人口密度の低い光景を思い浮かべる人が多いと思うが、「漁師は現金収入、だから町が必須」の構図はぜひ頭の隅に置いてほしいと思う。港の規模が小さくても、不特定多数の人間が行きかい、にぎやかな町になるのだ。
この、海側で魚をとるのが父方の祖父、量太郎、山側から市に農作物を持ってくるのが、祖母、きよの属した世界だ。父方、母方を合わせると、戸越銀座の家に、外房で生きた漁民、農民、旧地主の末裔が、はからずも勢ぞろいしていたことになる。
徴兵検査
さて、父方では、これまでも述べてきたように、明治36(1903)年生まれの祖父、量太郎は、戦争に行っていない。祖父は20歳の時、大正12(1923)年5月1日に地元の大原小学校で行われた徴兵検査で、第二乙種と判定され、徴兵されなかった。
きびきびした検査官のタイ度。身長体重から始まる。身長五尺四寸、体重十五貫二百匁で、当時は合格の体であった。耳も聞こえた。検査官が小さな声で『勝浦』といったから大きな声で『勝浦』と答えた。よし、次の若者が大きな声で『天ぷら』と答えたので、くすくすと笑った。眼の所でまごついた。右眼は良いが左が乱視であったので遠くはぼんやりして見えなかった。
私はもう一ぺん眼の所へ行って来る様言われた。アン室でよく調べられた。悪いものは悪い、とうとう第二乙種といふ事であったので兵役はなかったのです。それ迄めがねはかけなかったが検査後めがねをかける様になったのです。
このように祖父は、死ぬ直前に書き残した手記では、視力の悪さを兵役免除の理由に挙げている。しかし幼かった私の記憶は違う。祖父は、徴兵検査の日に「醤油を飲んで、真っ青な顔をして行ったら不合格になった」と自慢げに語ったものだった。祖父はしょっちゅうその話をし、「しかしメチルだけは飲んじゃいけねえ。あれは死ぬからな」と付け加えるのが定番だった。まあ、目も悪かったし、醤油のせいで顔色も多少は悪かったのだろう。
ちなみに祖父の兄弟を見てみると、漁師の長兄、大工の次兄、漁師の三兄は、いずれも徴兵され、生還している。徴兵されなかったのは量太郎だけだ。さらに言うと長兄は、量太郎よりも目が悪かった。
祖父は確かに眼鏡を手放さない人だった。が、体格はよいし、工場でネジを切り続けていたわけだし、兵役が免除されるほど視力が悪かったとは、私にはどうも思えない。まして、徴兵検査までは眼鏡をかけていなかったのだ。祖父程度の視力と顔色の悪さで兵役免除だったら、そこらじゅうの国民が戦争に行かずに済んだのではないだろうか。
その理由がずっと不思議でならなかったのだが、今年のコロナウィルスの感染拡大がヒントを与えてくれた。
ちょうど100年前の1920年、日本を「スペインかぜ」の猛威が襲った頃、祖父は金属の粉塵が舞う工場で働き続けたことが原因で肺浸潤となり、半年間入院していた。肺浸潤は、かつては肺結核の初期の意とされ、死につながりかねない病気だった。
14歳で上京、17歳で肺浸潤、20歳で徴兵検査という流れを考えると、徴兵検査では肺病の病歴がひっかかったのかもしれない。
町工場に舞う粉塵が、祖父を兵役から遠ざけてくれたのか……。戦争にかりだされるより、生きる確率は高い。粉塵に感謝したい気持ちだ。
次に、祖父より上の世代を見てみる。量太郎の両親になると、江戸時代最後の世代だ。私の曽祖父にあたる、文久三(1863)年年生まれの父親、勘太郎、通称「勘助」は、鰯網の漁師だった。
「コンニャク屋」という屋号を持つ父方のファミリーは、代々鰯漁に従事してきた。2艘の船で鰯の群れを挟み、網で根こそぎ群れをとる、巾着網である。この鰯網漁船の総司令官を「おっけどん」(沖合殿)という。1艘に20数名が乗りこみ、総勢約50名で行う巾着網の乗組員は完全な能力主義で、一握りの人間しかおっけどんまで登りつめられない。勘助は、このおっけどんだった。
それほど体格的に恵まれ、統率力にも秀でた勘助だったが、結論から先に言うと、これまた戦争に行っていない。ほぼ同世代と思われる母方の曽祖父、弥吉が日清、日露の両戦争に行ったことを考えれば、幸運極まりない。これも手記に記述がある。
その理由がずっと不思議でならなかったのだが、今年のコロナウィルスの感染拡大がヒントを与えてくれた。
ちょうど100年前の1920年、日本を「スペインかぜ」の猛威が襲った頃、祖父は金属の粉塵が舞う工場で働き続けたことが原因で肺浸潤となり、半年間入院していた。肺浸潤は、かつては肺結核の初期の意とされ、死につながりかねない病気だった。
14歳で上京、17歳で肺浸潤、20歳で徴兵検査という流れを考えると、徴兵検査では肺病の病歴がひっかかったのかもしれない。
町工場に舞う粉塵が、祖父を兵役から遠ざけてくれたのか……。戦争にかりだされるより、生きる確率は高い。粉塵に感謝したい気持ちだ。
徴兵回避
次に、祖父より上の世代を見てみる。量太郎の両親になると、江戸時代最後の世代だ。私の曽祖父にあたる、文久三(1863)年年生まれの父親、勘太郎、通称「勘助」は、鰯網の漁師だった。
「コンニャク屋」という屋号を持つ父方のファミリーは、代々鰯漁に従事してきた。2艘の船で鰯の群れを挟み、網で根こそぎ群れをとる、巾着網である。この鰯網漁船の総司令官を「おっけどん」(沖合殿)という。1艘に20数名が乗りこみ、総勢約50名で行う巾着網の乗組員は完全な能力主義で、一握りの人間しかおっけどんまで登りつめられない。勘助は、このおっけどんだった。
たとへば野球のカントクの様な者で、サシヅの上手下手によって大漁するか小漁するかといふくらいですから大役です。一挙手一合図で網をはる、舟を進め返すですから、非常に神経も使ひます。父も二十五年間ひとつの網元大多喜屋でこのおっけどんを大過なくやって来ました。漁をしなければやめさせられるか、自分でやめるかしなければいけないのです。たいてい二、三年でやめる方が多い中で、父が長い頃やっていられたのをほこりと思ふ。時の夷隅郡長から漁労長永年勤続として表ショウされました。
大漁のあった時等、父と歩いて居る時、「おっけどん、今日はよかったですね。おめでとうございます」といわれる時、私迄もうれしかった。
それほど体格的に恵まれ、統率力にも秀でた勘助だったが、結論から先に言うと、これまた戦争に行っていない。ほぼ同世代と思われる母方の曽祖父、弥吉が日清、日露の両戦争に行ったことを考えれば、幸運極まりない。これも手記に記述がある。
父の兄弟は男ばかり四人、長男勘助(私の父)、次男長之助(田原家)、三男由蔵(御宿浜の大谷家)、四男酉蔵(千葉市で分家)。昔は徴兵検査は長男は兵役免除であったので、父は五尺八寸位で立派な身体をして居たが兵役はなかった。次男以下でも他の家の相続すれば兵役は免除になるので、次男、三男は養子に行った。四男は小さい時から目が悪く、色々治療したが逆に失明した。
つまり勘助たちの父親である、天保14(1843年)生まれの勘次良──私の高祖父──には、「息子たちをとられたくない」という意思があったわけである。ちなみに勘次良もまた、安房の平館から来た婿養子だった。
しかし長男の勘助は幸運だったが、次男の長之助はそうはいかなかった。
北清事変……義和団事件か! 徴兵を嫌って他家の養子にまで入ったというのに、徴兵令改正で兵役免除にならなくなってしまった不運な長之助。「チョウノスケ」という語感としくじり感をかけて、「チョーヘイ」と家族が笑う……。なんて口が悪いのだ。しかし、いかにもそういうことで大笑いしそうな家族である。
勘次良の上の世代となると、当主は文政6(1823)年生まれの清三良であるが、世代と職業からして、戦には行っていないだろう。
それはさておき、声高には主張しないものの、「戦争にとられるのは御免だ」という気配が漂う家風だったことは言えると思う。戦争というより、「お上の都合で好き勝手にされること」かもしれないが。逃げる鰯の群れを追ってきたファミリーだから、逃げ足が速いのか。
祖父の祖父が徴兵回避のために息子たちを養子にやったというこの話、私が祖父の手記の中で発見するまで、実は家族は誰も知らなかった。父は、祖父から一度も聞かされた覚えがなく、驚いていた。戦前の日本の空気を想像すれば、一族が積極的に徴兵を回避したことなど人様に自慢できるわけがなく、息子に話して他人に洩れるのも恐ろしくて、おそらくひた隠しにしてきたのだろう。
だとするとなおさら、よくぞ書き残してくれたと私は思う。
祖父は高等小学校の1年しか終えておらず、世界情勢を熟知していたとは思えない。戦争反対や資本家による搾取を訴えたりする、同い年の小林多喜二のような政治的人物でもない。軍需工場の下請けに組みこまれて軍需部品を造りながら、にらまれないよう、警戒されないよう、頭を低くして、細心の注意を払って生きてきたはずだ。
戦火はもう、避けられそうにない。ならば次に考えるのは、死ぬ確率を低くすること。
そんな判断を迫られた時、代々、笑い話とともに家に伝わってきた徴兵回避──控えめにいえば生き延びるための努力──は、おおいに祖父を励ましたのではないだろうか。
そしてそれを祖父が最後に書き残したことに、「いざという時は、おまえも逃げろよ」というメッセージを感じるのだった。
しかし長男の勘助は幸運だったが、次男の長之助はそうはいかなかった。
次男は親戚の与十へ養子に行ったが、徴兵令改正で其の年から誰れでも全部兵役免除はない事になった。長之助は第一回目の兵役に服したので、皆次男の事を「徴兵」と呼んだ。北清事変、日清戦争と出征した。
北清事変……義和団事件か! 徴兵を嫌って他家の養子にまで入ったというのに、徴兵令改正で兵役免除にならなくなってしまった不運な長之助。「チョウノスケ」という語感としくじり感をかけて、「チョーヘイ」と家族が笑う……。なんて口が悪いのだ。しかし、いかにもそういうことで大笑いしそうな家族である。
勘次良の上の世代となると、当主は文政6(1823)年生まれの清三良であるが、世代と職業からして、戦には行っていないだろう。
それはさておき、声高には主張しないものの、「戦争にとられるのは御免だ」という気配が漂う家風だったことは言えると思う。戦争というより、「お上の都合で好き勝手にされること」かもしれないが。逃げる鰯の群れを追ってきたファミリーだから、逃げ足が速いのか。
祖父の祖父が徴兵回避のために息子たちを養子にやったというこの話、私が祖父の手記の中で発見するまで、実は家族は誰も知らなかった。父は、祖父から一度も聞かされた覚えがなく、驚いていた。戦前の日本の空気を想像すれば、一族が積極的に徴兵を回避したことなど人様に自慢できるわけがなく、息子に話して他人に洩れるのも恐ろしくて、おそらくひた隠しにしてきたのだろう。
だとするとなおさら、よくぞ書き残してくれたと私は思う。
祖父は高等小学校の1年しか終えておらず、世界情勢を熟知していたとは思えない。戦争反対や資本家による搾取を訴えたりする、同い年の小林多喜二のような政治的人物でもない。軍需工場の下請けに組みこまれて軍需部品を造りながら、にらまれないよう、警戒されないよう、頭を低くして、細心の注意を払って生きてきたはずだ。
戦火はもう、避けられそうにない。ならば次に考えるのは、死ぬ確率を低くすること。
そんな判断を迫られた時、代々、笑い話とともに家に伝わってきた徴兵回避──控えめにいえば生き延びるための努力──は、おおいに祖父を励ましたのではないだろうか。
そしてそれを祖父が最後に書き残したことに、「いざという時は、おまえも逃げろよ」というメッセージを感じるのだった。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後


星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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