世界は五反田から始まった(28) 焼け野原(5)|星野博美
初出:2021年4月21日刊行『ゲンロンβ60』
再び、「戻りて、杭を打て」
昭和20(1945)年5月24日の空襲で、わが家は焼けた。たまたまその日、妻子を疎開させた埼玉県の越ヶ谷にいた祖父は空襲には遭わず、すぐさま東京に引き返して焼けた工場跡の機械類や残品を片付け、親工場の桜ゴム会社へ報告を済ませ、いったん工場を解散した。
焼け野原といえば私が思い出すのは、幼少期にいくどとなく祖父から聞かされた「戻りて、杭を打て」の話だ。戦争になって焼け野原になったら、誰か一人でもよいから急いで疎開先から戻り、家があった場所の周囲に杭を打ち、権利を主張せよ、という教えである。
この話を本連載に初めて書いたのは、第6回、すでに2年弱も前のことだ。
「ここが焼け野っ原になったらな、すぐに戻ってくるんだぞ。家族全員死んでりゃ仕方がねえが、一人でも生き残ったら、何が何でも帰ってくるんだ。わかったな」
博美にはさっぱり意味がわからなかった。
「そいでもって、すぐ敷地の周りに杭を打って、『ほしの』って書くんだ。いいな」
「うん、わかった」
「そうしねえと、どさくさにまぎれて、人さまの土地をぶんどる野郎がいるからな」
よく意味はわからないが、おじいちゃんがそう言うなら、そうしよう。
いつかここが焼け野原になったら、何が何でも戻ってきて、杭を打とう。[★1]
この話は、二人の姉も父も、聞かされた覚えがないという。なぜ祖父が私にだけしつこく伝えたのか、理由はわからない。おそらくたいした理由などなくて、単に一家で最年少の私が祖父母と過ごす時間が長く、じじばばっ子だったからなのだろう。
そんなわけだから、この話の持つ意味を深く考えたり誰かと共有したりすることは、これまでなかった。
ところが、だ。本連載の第6回「戻りて、ただちに杭を打て」と、第7回「池田家だけが残った」が掲載されるや否や、ゲンロンカフェの会員の方から、ツイッターでこんなリプライを頂いた。
私の祖父も「焼け野原になったら、悔い[筆者注*杭の誤表記]を打て」と「メチルだけは飲んじゃいけねえ」を言ってました(笑)。「池田家だけが残った」を読んでびっくりしました。ちなみに、祖父は目黒に裁縫工場をもっていたようです。いつも星野さんの文章、楽しみにしてます~(@easygoa46、2019年8月8日の投稿)[★2]
この言い伝えが残っているのは、うちだけではなかったのか……。驚くと同時に、祖父にまつわる記憶に信憑性があったこと、そしてそれを共有できる人が現れたことが無性に嬉しかった。ゲンロンカフェなくしてはつながらなかったご縁である。
その後、ゲンロンカフェが主催するイベントで@easygoa46ことOさんと会う機会が何度かあり、さらに電話でも杭の話を聞かせていただいた。
目黒の家
「『焼け野原になったら杭を打て』の話は、母方の祖父と祖母、両方から聞かされました。僕だけでなく、年子の弟も聞いてます。特にこの話をよくしてくれたのは、祖母でした。
うちの場合は、杭を打って土地を守った星野家とは逆で、杭を打たずに土地を失った側だったんです。祖母がこれを話す時は、土地を失った恨みがこもっていました。だから語り継ぐ必要があったのだと思います」
いきなり衝撃的な話で始まった。
同じ「杭を打て」でも、私が聞いたのは「こうして守った」バージョンだったが、Oさんが聞かされたのは「打たなかったから失った」バージョンだったのだ。
Oさんの祖父は栃木県南那須郡の出身で、高等小学校卒業後、上京して大工の丁稚となった。その後、紆余曲折あって石炭商として財を成した。竹芝桟橋に荷揚げされる石炭から粗悪品を買い付け、東京帝国大学などに納入するのが主な業務。良質の石炭は優先的に工場へ納入されるため、余りものを買い付けて売りさばくことに商機を見つけたらしい。浜松町の駅前、いまは文化放送のビルがあるところに30坪ほどの土地を所有し、そこに事務所を持っていた。「羽振りはよかったようです」とOさんは言う。
一方祖母は、栃木県喜連川町の地主の長女だった。和裁が得意で、結婚前は和裁職人として、銀座か日本橋三越の呉服屋に勤め、落語家の3代目三遊亭圓歌の着物を縫っていたという。そして結婚後は、「和服裁縫練習所」という和裁道場を自宅に開いた。自宅兼の和裁教室のようなものだろう。家は目黒雅叙園の近く。Oさんはこの家を「目黒の家」と呼ぶ。
暮らし向きがよいにもかかわらず、祖母が自ら生計を立てる道を確保したのは、戦争と関係がありそうだ。Oさんの祖父は2度出征している。いずれも出征先は内地で、幸い復員することができたが、もし生きて帰れなければ残された家族は路頭に迷う。Oさんの祖母は、先を見すえて準備を怠らず、自分の力量で稼ぐ気概に満ちた、独立心の旺盛な女性だったことがうかがえる。
1枚のモノクロ写真を見せてもらった。それはOさんの祖父が2度目の出征をする際、「目黒の家」の玄関前に見送りの家族が集結し、総勢14人で撮られた記念写真だ。撮影日は、そこに映った赤子であるOさんの母親の誕生日を考えあわせると、おそらく昭和19(1944)年7月13日以降だという。「和服裁縫練習所」という看板が映り、「品川區」と書かれた幟が見える。立派な門構えである。
「目黒の家」と呼ばれた所以は、そこが目黒駅から近かったからだろうと思われる。が、そこは目黒区ではなく品川区上大崎で、戦前の住所区分も品川区だった。わが家が親戚筋から「五反田の星野」と呼ばれるのと似ている。
「その写真に赤ん坊として映っている母はもう亡くなりましたし、雅叙園とかまったく行ったことがないので、そのあたりがどういう場所だったのかは想像もつきません」とOさんは言う。が、広大な和式庭園を持った雅叙園の近くという立地を聞いただけで、私には往年のO家の羽振りの良さが想像できる。大工場が建ち並ぶ五反田の目黒川沿いとは異なり、目黒駅界隈の目黒川沿いは緑あふれるお屋敷街だ。そこに和裁教室を開けるだけの面積を持った家を構えるには、それ相応の経済力が必要だったはずだ。
またこの界隈にはもう一つ大きな特色があり、ドレメ通りという名称がいまも残るように、大正15(1926)年に杉野芳子が設立した洋裁教育の草分け「ドレスメーカー女学院(戦時中は戦時統制のため杉野女学院と改称。現在のドレスメーカー学院)」関連の建物が建ち並んでいることだ。いま「ドレメ」と聞いても、あまりピンと来ない人が多いかもしれないが、この学校は、森英恵、島田順子、山口小夜子といった、好景気時代の日本のファッション業界を牽引したビッグネームの女性を輩出している。かつて目黒は、思い思いのファッションに身を包んだ女性たちで賑わい、駅周辺には気の利いた名画座やライブハウス、寄席がある、五反田とは一味違う文化の香りがするエリアだった。
洋裁技術を持つ女性が戦前から行きかっていたドレメの近くに、和裁教室を開いたOさんの祖母は、なかなか商才のある人物だったといえる。ちなみにおばあさんの妹は、同じく目黒(柿の木坂)で美容室を、その夫は目黒で時計屋を経営していたそうだ。
いま広く読んでほしい、東京の片隅から見た戦争と戦後
星野博美
1966年東京・戸越銀座生まれ。ノンフィクション作家、写真家。『転がる香港に苔は生えない』(文春文庫)で第32回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『コンニャク屋漂流記』(文春文庫)で第2回いける本大賞、第63回読売文学賞「紀行・随筆」賞受賞。主な著書に『戸越銀座でつかまえて』(朝日文庫)、『島へ免許を取りに行く』(集英社文庫)、『愚か者、中国をゆく』(光文社新書)、『のりたまと煙突』(文春文庫)、『みんな彗星を見ていた―私的キリシタン探訪記』(文春文庫)、『今日はヒョウ柄を着る日』(岩波書店)など、写真集に『華南体感』(情報センター出版局)、『ホンコンフラワー』(平凡社)など。『ゲンロンβ』のほかに、読売新聞火曜日夕刊、AERA書評欄、集英社学芸WEBなどで連載中。
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