運動についての一考察、あるいは中年を生きるということ 前略、塀の上より(19)|高橋ユキ
いろんな刑事裁判を傍聴したり、事件を取材したりして記事を書いている。裁判取材の際は、法廷の前に1時間以上並ぶこともあれば、寒空の下、傍聴券の抽選に並ぶこともある。事件取材では、数時間歩きながら、その地域の人々を訪ねることもある。たまに限界集落を歩き回ることもあるし、地元の人の案内で、小一時間山歩きをすることもある。つまり何が言いたいかといえば、この仕事はかなり体力を使う。しかも私は、なるべく長くこういう生き方をしたいと思っている。にもかかわらず、不安になる出来事があった。3年ほど前のことだ。
激しい雨の日、裁判の開廷に遅れそうになっていた私は、駅の階段を小走りで駆け降りていた。そのとき恐ろしいことに、足を滑らせ激しく転倒した。転倒というよりも、足を滑らせたまま、階段を尻で滑り台のようにドンドンドン……と滑り落ちたというほうが正しい。これにより背骨を圧迫骨折した。痛みが引かず、翌日、近所の整形外科にかかったところ、コルセットを巻かれしばらく安静に過ごすよう言い渡されたのである。
この出来事によって私は、将来……いや老後をかなり真剣に考えた。なるべく長くこういう生き方をしたい、老婆になっても取材をしたい。だからこそ、不注意や自己管理不足でその時間が短くなることは避けたいと強く思った。今回はむしろ運が良かった。転び方が悪ければ、もっと深刻な結果をもたらしていたことだろう。よくよく振り返ってみれば私はとにかくよく転んでいた。午後の裁判に間に合うために、あそこの信号を渡っておきたい。そんな思いから信号目指してダッシュしたところ、激しく転び、コートが破れた。高校時代の体育祭でもそうだ。リレーでモタモタと走り終え、バトンを次の走者に渡した瞬間に激しく転び、体の前面にまんべんなく擦り傷を作った。恥ずかしくて起き上がれずに倒れたままでいたら、なおさら皆の注目を浴びた。ちょっとおしゃれしてヒールの靴を履いた時にかぎって、足を捻ってまた激しく転ぶ。……この辺まで考えてみて閃いたのは、履いている靴が悪いんじゃないか? ということだった。そこで同業の友人に、転ばない靴はないか、と尋ねたところ、失笑され、運動を勧められた。
正直に言えば、運動はなるべく避けたい。とにかく運動神経が悪いのである。当たり前だが足も遅い。区の施設でヒップホップダンス教室に参加してみたら「盆踊りじゃないですよ」と泣ける指摘をされたこともあったし、学生時代、ソフトボールのクラスマッチでは、私と一緒のチームになった級友らに申し訳ない気持ちになった。それでも練習を重ねて本番を迎えたその日、なんとかバットにボールを当てて一塁めがけてモタモタと一生懸命に走っていると、キャッチャーから飛んできた球が耳に当たり鼓膜が破れ、そのまま病院に連れて行かれた。そんなわけで私は運動神経が悪いうえに、運動に全くいい思い出がないのだ。
体育祭が嫌すぎて、こんな行事を強制的にやらせる学校という組織、大人たちは狂っている……と思春期をこじらせにこじらせた。すべては運動のせいである。しかし、背骨を圧迫骨折するほどどんくさい私は、むしろ運動して少しぐらい転ばない体づくりをしたほうがいいのではないか? 老後が見えてきた中年真っ盛りであることも手伝って、今回初めて、運動の必要性を痛切に感じ、アクションを起こすことにしたのである────。
と、このようにいつも前置きが異常に長いことで有名になりつつある本連載、今回はなんと事件とは離れ、息抜き回として運動をテーマにお届けしたい。すこし前から、ある獄中の人物に対して行なっていた文通取材の件[★1]で各方面から取材が殺到し、疲れてしまっていることが理由である。自分のことであれば、誰に気を使うこともない。たまにはそんな文章を書いてみたくなったのだった。
さて、ここで私が考えた末に何をすることにしたかといえば筋トレだ。自慢じゃないがジムには通ったことがある。水泳だけは人並みなのだ。社会人になって間もない頃は、出社前に泳いでいたこともあった(自慢げ)。しかしまた水泳をチョイスすれば、多分私は怠けて、プールの端の「歩くエリア」で水中ウォーキングをするだけになってしまうだろう。パソコンが入ったリュックに濡れた水着を入れて一日過ごすのもなんだか気が重い。なにより、そんな言い訳じみたことを考えてしまうこと自体、水泳は今回のチョイスから外れている証拠だといっていい。自分の内なる声が、今回は水泳じゃないと叫んでいるのは分かった。う〜ん、全身筋肉をつけるためには何をすればいいのだろう。
運動が苦手な私が数ヶ月、必死に考えて出した結論は筋トレだった。この結論が正しいかはともかく、決めれば早い。次はどのジムに行くかである。宅トレなどは初めから選択肢に入っていない。絶対にやらなくなるどころか、むしろ始めることもしないからだ。などなど、このようなアホらしい熟考を重ねた末、最終的に、黄色いロゴでお馴染みの、あるジムをチョイスした。運動に疎い私は、筋トレマシンの使い方も皆目分からない。運動神経が悪いので、正しい体の動かし方も分からない。筋トレは、そんな危険で無知な初心者(私)が独学で手を出せるような領域ではなく、夜間はスタッフがいなくなる24時間営業のジムで見よう見まねでやっても、体を痛めるような気がした。自分の運動神経の悪さは自分が一番よく分かっている。区のダンス教室のように、ジムのダンスレッスンに参加することも少し考えたが、ジムの人間関係に巻き込まれて行きたくなくなる可能性を感じた。自分以外の要因で行動が制限されるのは避けたい。それに普段、あらゆる人に取材をしているからこそ、運動の時は人間関係を放棄して、純粋に自分の体だけに向き合うのもいいんじゃないか。そんな思いであれこれググってみたら、くだんのジムは、入会者に対してトレーナーさんがマシンの使い方をしっかり教えてくれるとある。素晴らしい!!! キミに決めた!
入会したのが昨年3月。20年目になる裁判傍聴を始めたのも3月。なんだか続きそうで、幸先が良いではないか。なんと驚くことに、今も筋トレは続いている。素晴らしすぎる! と毎日自分を褒めている。今では「ビッグ3」の意味も分かるし、ダンベルとバーベルの違いも分かる。デッドリフトで手に豆ができるのも、今までの人生にない経験でとても新鮮だ。同年代である松嶋菜々子がデッドリフト105キロを上げたというニュースを見て、私にもいつかできる! と目標にしているが、現時点で私はまだ35キロしか上げられない。それでもいいのである。運動神経の悪い私がここまでできていることに、大きな意味があるのだ。
悲しいことに、加齢によって、今まで何も考えずにできていたことが、できなくなってくる。ビジュアルも老人に近づきつつあり、朝起きて鏡を見ると、玉手箱を開けたのかと思う時がある。ところが筋トレを続けていると、持ち上げられる重量が増えたりする。まさかこの年齢になって、肉体に関してポジティブな変化が起きることがあるとは思わなかった。加えて筋トレしている方々はおおむね、同じように筋トレに励んでいる方に優しい。くだんのジムには筋肉ムキムキでなければ立ち入れないような勝手な偏見があったが、全くムキムキになれていない私でも入会できたし、続けられている。今では地方取材の際も、夜にジムに行くほどになってしまった。
転ばないためにという低レベルな理由から始めた筋トレ。その扉を開けてみたことで、フィジカルだけでなくメンタルにも変化が生じた。なにより、努力が目に見える形で結果として現れることがいい。これはとんでもない話である。努力しても報われないことが多いこの世界で、努力が報われる領域が存在することが奇跡である。普段の仕事では、自分がコツコツと続けてきたことが報われた! などと思える瞬間はそんなに多くない。むしろ頑張っていても悲しい結果を生むことがままある。にもかかわらず、筋トレは続けるだけで報われる。こんなことがあっていいのだろうか。何か大きなトラップが潜んでいるのではないか? 最初はそう疑うほどだった。そして、そんな毎日を続けていると、徐々に自己肯定感も上がってゆくのである。なぜかと言えばそんな時間がなくなるからだ。
もともと私には通称「くよくよタイム」というものがあった。自分の失敗をあれこれと思い返し、もう自分の人生は終わった……というところまで考えを深めてしまう時間である。過去のうつ病時代はこの「くよくよタイム」と親友レベルの関係を築いていた。ところが今は、真夜中の「くよくよタイム」を迎える前に、筋トレ効果で激しく眠くなってしまうのだった。子供か? と突っ込まれそうだが、私にとっては非常に重要なことだ。なんと眠ってしまうと、くよくよする時間がなくなる。とんでもないな! と叫びそうになった。悟りを開いたかと思うほどの衝撃だった。
物書きである以上、物事を熟考する時間も必要なんじゃないかネ。だからキミは浅いんじゃないかネ? このように、私の親友「くよくよタイム」から放出されたネガティブ胞子が脳内で架空の、かつ巨大な(20メートル四方ぐらいの)大御所文筆家となって暗闇から意見してくることは、今もたまにある。この思考は根深いのだ。なにしろ太宰治を読んで育った私の頭の中には、そんな暗黒面がなければ人間失格なのだという根拠なき方程式が深く刻まれており、消えることは決してない。しかしこれまで私は寝る間を惜しんで、必死にくよくよしていたのであるから、その時間はさすがにちょっと、寝てみようじゃないか。もう先もそんなに長くないのだから。という気分になっている。「くよくよ」を単位とすれば、これまでが100くよくよ、今が90くよくよ、なレベルなので、頭の中の太宰治はまだ許してくれると思う。
そして肝心の、転ばなくなったかどうかということに関しては、確かに転ぶ頻度は下がった。しかしこれがイコール、筋トレのおかげとはいいきれない。圧迫骨折という経験を経て常日頃から注意するようになったからではないかと私は見ている。とはいえ私の生活と思考に多大な変化をもたらした筋トレには感謝してもしきれない。さらに言えば、転ばない靴はないかと聞いた私に、最初に運動を勧めてくれた友人にも感謝だし、ジムでラットプルのフォームを指摘してくれたママ友にも感謝である。なんといってもパーソナルトレーナーさんにも……など感謝が止まらないのでこの辺でダンベル……じゃなくて筆を置きたい。
★1 高橋ユキ「たつの市女児刺傷事件で逮捕された勝田州彦からの手紙|高橋ユキの事件簿 #361」、theLetter、2024年11月10日。URL= https://tk84yuki.theletter.jp/posts/ed98ac60-9e6d-11ef-a497-0b4859feb019
高橋ユキ
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