匿名化が損なわせる情報の信頼性──実名と匿名のはざまで 前略、塀の上より(7)|高橋ユキ
普段、刑事事件の傍聴をしているため、事件報道をよくチェックする。ひとつの報道機関の記事だけでなく、複数を見る。同じ事件でも、社によって報じていることと報じていないことがあったりするためである。このように色々見ながら思うのは、当事者の実名の取り扱いの難しさだ。匿名にするか、実名で報じるか。時代や事件の内容によって変わるだけでなく、報道機関ごとに異なる場合もあるし、あるいは書き手によっても違う場合がある。
直近で思い浮かぶのは、ふたりの特定少年の報道時の実名取り扱いについてだ。一つ目は2021年10月に甲府市で起きた事件。当時19歳の少年(以下、元少年A)が、同市の会社員男性(当時55)宅に侵入し、男性とその妻(当時50)を殺害し、夫婦の次女に対してもナタで襲って怪我を負わせ、さらに男性宅に火をつけ全焼させた。甲府地裁で裁判員裁判が始まったことから、最近、この事件の裁判報道を意識して読む。2022年4月の少年法改正で、犯罪行為に及んだ少年のうち18歳と19歳を特定少年とし、家庭裁判所から検察官送致となる対象の事件を拡大したほか、起訴後の実名報道が可能となった。この事件については地検が22年4月に起訴して元少年Aの実名を公表していた。だが、その実名を報じるかは、各社方針が異なる。
裁判員裁判のウェブ記事を見てみると、共同通信[★1]ほか複数社は実名を報じていた(公開前の確認タイミングである2023年11月21日現在は、複数の記事が公開期限を過ぎて削除されている)。実名を出さず「元少年」と表記しているのは読売新聞[★2]だ。そもそも昨年4月に地検が実名を公表した際に、各報道機関がどう報じたかについては朝日新聞が詳しい[★3]。これによると「甲府地検の発表を受け、朝日新聞を含む翌9日の全国5紙はすべて、朝刊の記事で被告の実名を掲載」した。しかし他方で、「毎日新聞や読売新聞、日経新聞は紙面もネットも実名で報じているが、ネット上では実名が書かれた部分は有料会員しか読めない設定にした」という。また「事件が起きた山梨県の地元紙、山梨日日新聞は、発表当日はネット上も実名で配信したうえで、翌日は匿名化した」のだそうだ。山梨日日新聞では「『半永久的に残り、将来過度な制裁を受ける可能性がある』と判断した」という。
更生を重視し、実名は伏せるか。それとも事案の重大さに鑑み、実名のままで報じるか。また、紙媒体ではどう取り扱い、ウェブではどうするか。各社が悩みながら決断したことがうかがえる。
東京地裁立川支部でも、現在「元少年」の裁判員裁判が開かれている。こちらは甲府の事件よりも4ヶ月前の2021年6月に起きた。当時19歳の少年(以下、元少年B)が立川市のホテル内で風俗店勤務の女性(当時31)を殺害し、さらに現場に駆けつけた同店の従業員の腹などを包丁で刺したという事案だ。元少年Bも検察官送致され、公開の裁判で裁かれることになったが、各社、裁判記事において実名はまったく報じていない。検察官送致後、起訴されたとの報道が当時はあったが、実名を公表という記載は見当たらなかった。被告が成年に達してから行われた裁判でも、報道機関はこうした経緯のため実名を報じていない可能性もある。実名を報じたのは逮捕後の『週刊新潮』のみだった。
私はどちらの初公判も傍聴し記事を書いた。立川の元少年Bは、事件当時に心神喪失状態で責任能力がなかったとして無罪を主張している。いっぽう甲府の元少年Aが主張しているのは心神耗弱。元少年Bが判決で心神喪失を認められれば無罪となる。実名を報じないのは、その可能性も考慮したうえでのことだろう。ちなみに、裁判所にはその日の予定が掲示される「開廷表」があるのだが、元少年Aはこの開廷表に実名が書かれていたのに対し、元少年Bは「被告人」と記されていただけだった。こうした違いも、報道に影響したのだろうか。ただし、元少年Bについては、法廷では弁護人が実名を連呼しまくっていた。なので私は取り扱いに困ってしまったが、最終的に開廷表の記載に倣った。
このように、事件が起こるたび、その当事者の実名をどうするかという問題に直面する。ここ数年、何より大きく変化してきたと感じるのは、被害者の実名の扱いだ。刑事裁判では被害者秘匿の決定がなされることがあり、法廷で審理されるときに匿名で進められることが珍しくなくなった。特に2016年に神奈川県相模原市の障害者施設で発生した殺傷事件をめぐる報道は、被害者の報じ方について深く考えさせられるものだったのではないか。この事件では報道側が被害者の実名を伏せたのではなく、警察発表の時点ですでに伏せられていた[★4]。障害者施設で起こった事件であることや、遺族の要望などが理由だったという[★5]。ただし、警察発表で伏せられてしまうと、今後も別の事案に際して捜査機関による隠蔽がなされる危険をはらむ。そのため個人的には疑問を覚えるが、この措置で問題ないと考える方もおられることだろう。かように実名の取り扱いは、取材者にとっても報道を受け取る側にとっても、考え方が異なる問題であることを痛感する。
なかでも匿名が多いのは、事件について証言する関係者である。広く報じられた場合のさまざまな影響を考慮し、あるいは当人の希望により、関係者はしばしば匿名で報道に登場する。しかしここには大きな問題がある。視聴者あるいは読者には、その「匿名の関係者」が本当に関係者なのか、判断する材料がないのだ。ニュースやドキュメンタリーなどの映像では、その「匿名の関係者」が実際に登場している様子が映されたりする。匿名だが実在する人物だ……との印象を抱かせるし、実際に匿名の関係者である場合もあるだろう。だが、多くの人にとって、その人がどういった関係者なのか、そもそも本当に関係者なのかは確かめようがないのが実情だ。
匿名報道の問題として記憶に残っているのは、2014年に放送された『クローズアップ現代』におけるやらせ問題である[★6]。多重債務者を出家させ、戸籍上の下の名前を僧侶としての名前に変えることで次々と別人に仕立て上げ、金融機関から融資を騙し取る……という「出家詐欺」を特集する番組内で、ある男性をその詐欺に関わるブローカーとして匿名で紹介したが、のちにその男性が自分はブローカーではないと申し立てたのだった。
今年発生した殺人事件報道においても、こうした匿名の人物による「虚偽証言」騒動があった。札幌・ススキノのホテル一室で、男性が首を切断された状態で発見されたという、いわゆるススキノ頭部切断事件。精神科医の父、その妻、そしてその娘、と親子3人が逮捕された。この事件は世間の耳目を集め、報道も加熱したが、その最中、「娘がキャバクラやヘルスで働いていた」というウェブ記事が配信される。証言者はX(旧Twitter)で「すすきの夜食めし」という匿名アカウントを運営していた人物。自身の系列店で、その娘が働いていたと匂わせる発信をしたところ、報道機関による取材依頼が複数舞い込んだ。そのうち一社が、このアカウントからの証言をもとに記事を配信した。ところがのちに、情報提供者である匿名アカウントは、これが虚偽だったとXで明かしたのである[★7]。当時公開されていた記事で、匿名アカウントはこんな証言をしていた。
「数年前、私が働いている店舗のグループ店で働いていました。業態はナースをコンセプトにしたファッションヘルスで、彼女は人気のキャストだったんです。顔も可愛くて、対応も良かった。昼の仕事と掛け持ちをしていたようですが、出勤は週に3~4回と頻繁でした」(2023年7月26日公開「FRIDAYデジタル」より。現在は削除されている。 公開時URLは https://friday.kodansha.co.jp/article/323527)
なかなか具体的であるが、これが本当かどうか、読者は確かめようがない。のちに記事が削除されていることから、虚偽だったのだろう、と推測できるのみである。
情報の受け取り側は、事実を報じるのが報道機関であるという認識を持っている。そのため、報道機関の発信する情報は事実なのだろうと思い込む。一方で、実際の関係者が匿名を望む場合もあり、匿名証言は一般化している。本連載では前回、性犯罪の記事において、詳細を書くとプラットフォーム上で「見えなくなる」ような配慮がなされることがあると書いた[★8]。その問題と並んで、今回のような問題もある。ウェブ上では、その事象の全てが見えるようで実は靄がかかったようにぼんやりとしてしまう。
以前『つけびの村』で編集を担当してくれた藤野眞功氏が、ノンフィクションとは検証が可能であるものだ……といったことを話していた。事実を報じるはずの報道機関やジャーナリストが、実際は間違っていることもある。匿名化は、関係者のプライバシーを守ることもできるが、その内容の検証を極めて困難にする。プライバシーの保護を重視しすぎるあまり、匿名化が進んでいった場合、何をもってその情報を信じたらいいのだろう。本当に難しい問題だ。
★2 「ナタで襲われ姉と逃げた次女『幸せが崩れるって、こういうことを言うんだね』…甲府殺人放火公判」、「読売新聞オンライン」、2023年11月3日。URL=https://www.yomiuri.co.jp/national/20231102-OYT1T50237/
★3 「殺人罪などで起訴の19歳、大半が実名報道 対応分かれたネット配信」、「朝日新聞デジタル」、2022年4月22日。URL=https://digital.asahi.com/articles/ASQ4C751ZQ4CUTIL039.html
★4 「障害者殺傷事件、なぜ犠牲者は匿名なのか 障害者に対する日本の姿勢が問われている」、「東洋経済オンライン」、2016年9月23日。URL=https://toyokeizai.net/articles/-/137282
★5 青木良樹「あらためて問われる“実名”の在り方~やまゆり園追悼式・熱海土石流災害から~」、「FNNプライムオンライン」、2021年7月23日。URL=https://www.fnn.jp/articles/-/214798
★6 「敏腕記者の暴走 チェック機能も麻痺」、「産経ニュース」、2015年4月28日。URL=https://www.sankei.com/article/20150428-EPYJQGQUPZIK7NJ6BDOJIXOSC4/ 「BPO人権委も『倫理上問題』 NHK『クロ現』やらせ疑惑」、「日本経済新聞電子版」、2015年12月11日。URL=https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG11H7Z_R11C15A2000000/
★7 URL=https://togetter.com/li/2194205
★8 高橋ユキ「性暴力の記事が『目立たなく』なる インターネットの見えざる力 前略、塀の上より(6)」、「webゲンロン」、2023年10月26日。URL=https://webgenron.com/articles/article20231026_01
高橋ユキ
2 コメント
- TM2023/12/04 19:12
お恥ずかしながら実名報道されるのか否かがここまでケースバイケースに決定されているとは知りませんでした。匿名化が固有名に集る悪意を退ける可能性を持つ一方、固有名を隠すことで責任や言葉の所在も曖昧にしてしまう。難しい問題ですね。 単純で浅い決まりごとで線びかれるよりも、高橋さんのように匿名にするか実名にするかで起こり得る可能性を吟味して進むしかないのかもしれません。 実名か匿名か。今度からはもっと立ち止まって考えてみたいです。
- qpp2023/12/04 19:13
匿名問題。今のネット社会の中で実名を晒す重みは数十年前とは比べものにならない。加害者の更生に関心がある身としては、全て匿名でも良いのではないかと思うくらいだが、きっとそれは間違っている。 加害者も被害者も第三者もすべてが匿名になったとしても起こったことは消えない。 加害者は罪を償うべきだが第三者による社会的制裁は必要ない。 けれど、匿名性は人を守る事もあれば更に傷つける事もある。 罪が償われず曖昧なまま流れてしまうのは、結果的には罪を犯した本人にとっても良い事ではない。 事実を正確に…そこに立ちはだかるのは匿名性に守られた人の自己顕示欲だったり承認欲求だったりもするのだろうけど、実名にしても人は思い込みや感情で話してしまったりする。 そして間違った事を言えばまた別の匿名の誰かに糾弾される。 結局は匿名性がいけないのか? などなど、つらつらと考えてしまいました。 自分自身も匿名の存在として。
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