前略、塀の上より(3) インターネットという「村」における「田舎の闇」 山口連続殺人放火事件から10年|高橋ユキ
事件は、関東からUターンした当時60代の男が起こした。年老いた両親を看取ったのち、ひとりで暮らしていたその男は、人口わずか12人の集落の一員だった。草刈りや祭りの手伝いなど集落の作業には参加せず、近隣との交流を断っていたという。所持金が底をつきかけたとき、突如5人を殺害し、そのうち2軒の家に火を放ったのだった。
「つけびして 煙喜ぶ 田舎者」
事件発生時から姿を消していた男の家の窓ガラスには、そんな不穏な川柳が貼られていたことから、犯行予告かと騒がれた。くわえて、田舎の集落で一晩のうちに村人が立て続けに殺害されたという事件の内容が、1938年に岡山県で起こった津山三十人殺しを連想させるためか “平成の八つ墓村” などと呼ばれたりもした。
さらには事件発生当時、男が集落でいじめられていたという報道が出たことで、「殺害された被害者らが実は加害者の男をいじめていた」という「うわさ」が、その後もインターネット上に根強く残ることとなった。
私が取材を始めるきっかけも、こうした「いじめ」にかかわるものだった。男は、戦時中にある家と諍いがあり、それが現在まで尾を引いている……と語っていたため、当初はその諍いの存否を確かめに行ったのだ。そのため「いじめ」についてはかなりしつこく取材をしたのであるが、実際に集落で何度話を聞いても「いじめ」の確たる証拠は得られない。一方、男は事件よりもはるか前から妄想性障害を患っていたということが裁判で明らかになってきていた。判決では次のように認定されている。
〈親が他界した平成16年(2004年)頃から、近隣住民が自分の噂や自分への挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった〉(一審・山口地裁判決)
実際に男に面会してみると、2017年当時の彼の話の主題は「警察の証拠でっち上げ」であり、「いじめ」の話は、こちらが振っても、キョトンとした表情で要領を得ない返答が返ってくるばかり。妄想が深まっているという印象を受けた。同書で私は、被害者たちによる「いじめ」を否定している。
そんな本を出して4年が経った今年、共同通信が7月3日付で、こんな記事を配信した。
山口5人殺害、死刑囚が特別抗告 再審請求退けた高裁決定に不服
(URL= https://nordot.app/1048413020302754487?c=39550187727945729)(現在は配信停止)
男は2019年夏に最高裁で死刑が確定したが、同年11月、再審請求をはじめていた。山口地裁は2021年3月に請求棄却を決定したが、男はこれを不服として即時抗告。広島高裁は昨年11月、棄却の決定を出した。男はさらにそれを不服として昨年12月付で最高裁に特別抗告していることがわかった、という内容だ。
高橋ユキ
1 コメント
- Kokou2023/08/11 09:33
SNSとジャーナリストの違いについて考えることができる非常に興味深い記事であった。この夏はいくつかダンスの公演を観た。元々、演劇を観ることが多いのだが、同じ劇場でダンスの公演があったりするので、たまに観るようになった。ゲンロンでイベントのあった金森穣氏が率いるNosimも観た。そのイベントや他のダンス公演後のアフタートークで、殊更にライブで観ることの重要性を語っていたことが印象に残っていた。 無理やりなように思えるが、ジャーナリストが事件について興味を持ち調べることは、ライブで演劇なり、ダンスなりを見ることに似ているように思う。事件がおこった環境なり、人々の生活、もっと言うと、動きを観ることで面白さを見つけ出していく。 対して、SNSはギャップの面白さに乗っているのだと、著者は推測している。私はそこに加えて構造的な要因もあるのではないかと思った。SNSはフローの情報である。ある話題について、面白いことおかしく話している状態だ。その話題を止めないように、みんなが盛り上がれるトピックが必要なのであろう。ツッコミや正論は、そのフローの淀みになってしまう。 現地やライブにも行かず見切ったような態度より、行ってみて想像と違ったり、ここは面白かったという経験の方が、豊かな人生になりそうだなと、そんなことを考えながら、色々な作品を観る夏にしようと思った。