水面から飛び出した魚(1) 飛び魚と毒薬(13)|石田英敬

ぼくは独房のなかで深く思考した、水面から飛び出したトビウオのようだった。
「哲学が何であるかは、誰もすでに何等か知っている。もし全く知らないならば、ひとは哲学を求めることもしないであろう。或る意味においてすべての人間は哲学者である。言い換えると、哲学は現実の中から生れる。そしてそこが哲学の元来の出発点であり、哲学は現実から出立するのである」[★1]。高校生のとき父親の書棚から見つけて読んだ、三木清『哲学入門』の始まりの言葉だ。
すべての人間は潜在的に哲学者である。
だれもが、自分の裡に〈哲学者〉をヴァーチャルに秘めている。その潜在態にとどまっていた〈哲学者〉が、種から芽が出るように生長しある偶然がきっかけで現勢態に移行する。現に活動し始める。
哲学する、哲学者になる、とは、そういうことなのだ。
二つの現勢化
ここで現勢化と記すことにする言葉は、フランス語では、passer à l’acteという。潜在的な状態から現在の行為acteあるいは活動acteに移行するpasserという意味だ。
この言葉が、ベルナールが銀行強盗事件で逮捕されて入獄、独房のなかで哲学にめざめ哲学者になるまでの「現勢化」を告白した本のタイトルになっている[★2]。
passer à l’acte、潜勢態から現勢態への移行。
少しでも哲学を囓ったひとなら思い浮かべるのが、アリストテレスによる、「デュナミス」と「エネルゲイア」あるいは「エルゴン」という区別[★3]。潜在態から現勢態への移行のこと。三木清もそれを強く意識して書いている。それは、例えば、種子の状態にとどまっていたヴァーチャルな樹木が、現実の土壌に根を張り日の光を浴びて枝を拡げ葉を茂らせ実際の樹木として生育することだ。
ベルナールの場合、事態は急激かつ複雑で、幾つもの時代的・思想的文脈が折り重なって起こっている。それをこれから少しずつ読み解いていくことにしよう。
まず、彼の場合、二つの現勢化が劇的に起こった。あるいは、別様に言えば、ベクトルの異なる二つの〝現勢化〟が、相前後して起こった、と言うべきか?
というのも、passer à l’acteというフランス語の表現、じつは別の意味もあって(というか、こっちの方が普通の使われ方と言える)、実行する、決行する、そして、(精神分析や精神医学の意味では)衝動的な行動に及ぶ、あるいは、凶行に及ぶという意味もあるからだ[★4]。
銀行強盗という凶行に及ぶ第一のpasser à l’acteがまず起こった。それから、哲学者になるという、第二のpasser à l’acteが起こった。
二つの出来事が、時間的にとても近接して起こったことにも、注目すべきだと思う。
それらの間に、どのような関係があるかがここでのわれわれの関心事だが、そこには、原因→結果というような直接的な因果関係ではなく、「準因quasi-cause」、あるいは、「準因果性quasi-causalité」という、ぼくたちが人生の出来事を考えるうえで興味深く実践的にも大変役に立つ、特異な因果関係が介在していたのだ。これから、少し連載の回を重ねて、順序立てて述べていくことにしようと思う[★5]。
これから語ろうと考えているベルナールの物語の見取り図を予告しておくと、大きく三つの出来事のセリーになっている。
1 まず、狂気への落ち込みがあって凶行に及んだ(これまで物語ってきた「銀行強盗」案件) 2 監獄に入って〈世界〉をエポケーし(括弧に入れて捉えなおし)、独房を「現象学の実験室」にしていった(これが今回からおそらく数回にわたって語ってゆくつもりのシーケンス)。 3 独自の哲学の扉が開き世界の中に出る(監獄からの出口のシーケンス)。
だいたい、こんな順番で、出来事は進んだのだと思うが、その「意味の論理学」(ドゥルーズ)を読み解いてゆくのがこれからのテーマとなる。
独房とグラネル
ベルナールがサン・ミッシェル刑務所に入ったのは、1978年の6月のことだ。
前々回述べたように、自殺の想念が一瞬よぎったが、いや、子供たちのことを考えると更生してはやく世界に戻ろうと決心した最初の数週間の後、頑固にハンストをするなどして一人きりになれる独房を確保して禁欲的な勉強生活のための条件を整えた。
そして、すでに同年の9月には、ESEU(これについては後述)を受験するための準備を始めた。
ずいぶんと着々と事が運んだようなのだが、アリアドネーの糸を提供してくれたのは、事件より前に知己を結んでいた哲学者のジェラール・グラネルだった。
ジェラール・グラネルGérard Granel(1930-2000)はフランス現代哲学を知る人ぞ知る、たいへん人間味のある、情熱的な──今流に言えば、アツい!──哲学者。ベルナールより20歳ほど年長ながら、ジャズバー『日々の泡』にやってきて以来、音楽好きで意気投合、和気藹々の関係だった。
パリ16区の裕福な家庭に育ち、高等師範学校に首席で入学、1953年には3位で哲学のアグレガシオン(高等教育教授資格)に合格(その2年前フーコーが2位で合格、デリダは3年後の一九五六年に14位で合格)[★6]。そのあたりは、普通に超エリートだ。リンク先の一九六一年に撮られた写真を見てもらうと[★7]、そのフツーに秀才な若い先生時代の肖像が映っている(三列目の真ん中の背広でネクタイを締めて正対しているのが彼)。一九六〇年頃は、先生は背広でネクタイを締めているというのが常識な世界だったのだよ(この連載でも紹介した、『ある夏の記録』が一九六〇年撮影、一九六一年公開)。
そのグラネルだが、1972年には、トゥールーズ第二大学 ル・ミライユ校L’Université de Toulouse II - Le Mirail(現在の名称は、トゥールーズ大学第二 ジャン・ジョーレス校L’Université Toulouse- II Jean Jaurès)に教授として赴任し、1990年の退任までトゥールーズの哲学界を代表するユニークな思想家として活躍していく[★8]。
その業績は多岐にわたるが、論文『フッサールにおける時間と知覚の意味』で国家博士号を取得[★9]、フッサール、ハイデガー、ヒューム、ヴィトゲンシュタイン、グラムシなどを翻訳、独自の哲学を展開した。1980年にはTrans-Europ-Repressという出版社を自分自身で立ち上げて[★10]、未翻訳の重要書籍を対訳付きで出版するというイニシアティブを始めている。個人的な思い出で申し訳ないが、ぼく自身、フッサール研究の基本文献である『フッサールにおける時間と知覚の意味』をはじめ、フランス語版のハイデガー『思惟とは何の謂いか』とかフッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』とか、彼の著作集やTERの訳書には大変お世話になってきた[★11]。
逸話には事欠かない人物だが、1968年に出版されたハイデガー「存在の問いへ」の仏語訳で、ハイデガーのAbbauを「dé-construction」と翻訳したのが、デコンストリュクシオン(脱構築)が用語として広まる震源になったとよく話題になる[★12]。1967年に『クリティック』誌に発表した「ジャック・デリダと起源の抹消」はデリダの脱構築を正面からとりあげた最初の論考だし、この論文が、のちにフーコー・デリダ論争の引き金になったこともよく知られた事実だ[★13]。あるいは1980年代には、ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』がフランス思想界で巻き起こした大きな論争の渦中で[★14]、ハイデガーを擁護するなど左派の論客として中心的な役割を果たす。
だが、グラネルの活躍は、それだけにはとどまらない。
音楽の愛好者だった彼は、例えば、La Souris Déglinguée(「ボロボロのネズミ」ぐらいの意味、通称 LSD)という1976年結成のオルタナ系のロックバンド(パンクだけでなく、レゲエ、スカ、アジア音楽などのテイストのバンド、ボーカルはヴェトナム系フランス人)の発足初期にレコード制作資金を支援したり[★15]、若いミュージシャンの活動を積極的に援助したりしている。
エピソードには事欠かず、とにかくアツい!哲学者なのだ。
ベルナールも、「トゥールーズの哲学者といえばジェラールで、そういう言い方は嫌ったに決まっているが、トゥールーズの文化シーンのある種の『名士 』と目されていた」と証言している。
大学に獄中入学
そんなグラネルだが、ベルナールが引き起こした事件には大変驚き、心を痛め、心配しただろうことは、想像にかたくない[★16]。若い友人を立ち直らせるべく、懸命に支援した様子が見て取れる。
高名な哲学者としての自分の地位を使って、かなり強引にベルナールへの自由な面会を刑務所に申し入れたという。鉄格子越しの面会ではなくて、対面で自由に話ができる「弁護士」としての接見の権利を認めさせた。
そして、グラネルは言った。
「ベルナール、君は、ESEUを受けなければいけない」。
ESEUというのは、「大学入学特別試験l’Examen Spécial d’Entrée à l’Université」の略称。1956年からある制度で、これに合格すれば大学に入ることができる(日本にも「高等学校卒業程度認定試験」──かつての「大学入学資格検定」──がある)。
ベルナールは、〈68年5月〉の出来事で高校をドロップアウトして以来、共産党での活動や文化サークルをとおして、芸術や文学や思想に触れてはいた。しかし、学歴としては、日本で言えば高校中退にとどまっていた。フランスでは、バカロレア(大学入学資格試験)に合格しないかぎり、高等教育に進むことができない。だが、ESEUに合格すれば大学入学資格が認定される。
そこで、1978年9月から11月にかけて、歴史、地理、フランス語、英語の猛勉強をして大学入学資格を取得した。もともと学校での勉強はできたのだから、学力の点では、おそらくそれほどの苦労はなかっただろうとは想像できる。
〈68年5月〉以後の刑務所改革によって、受刑者も大学の通信教育コースに入学することが認められていたようだ。遠隔教育をラジオ放送で受けて、レポートなどは郵便で提出、添削のうえ返送される。単位認定の試験などは、大学の教員が刑務所に出向いて実施していたらしい。
〈読む〉という、この実践
グラネルの助力で、刑務所図書室の書籍以外にも、面談のたびに手渡してくれる本を読むことができるようになった。一方で入獄後数カ月の間は物語を書こうと試みたが、挫折したとベルナールは証言している。
少年時代から詩や小説を書いたり、芸術的表現を試みたりということはあった。しかし、獄中での最初の数カ月、何か物語のようなものを多量の紙に書きつづけてみて挫折した。自分の書いたものを見て、これはまったくなさけないものだ、結局、自分には何も言うべきことがないんだ、ということが心底分かった。それは、書くことの困難、空しさ、そして書く必然性とは何かを悟ったということでもあった[★17]。その困難、空しさ、必然性と対峙するなかで、書き始めること、書きたいと願うこと自体を忘れてしまったのだ、と述懐している。
文学に関してはそれなりの読書を重ねてきていたし、思想的なものも読んできてはいた。しかし、書くことの挫折の経験がもたらした空虚は大きかった。そして、その穴を埋めるように開始したのが、〈読む〉という行為だ。それまでの自分は、おそらく本当に読む──lire en acte(現勢態において読む)──ということができていなかったのだと思った。
刑務所では毎夕6時頃に「飯盒」(刑務所ジャーゴンでアルミ容器に入れて配られる食事)の時間となり、その食事を終えると、夜は小説を読むことが習慣になった。グラネルが差し入れてくれたソシュールの『一般言語学講義』を熟読してからは、朝の時間には「詩学の本」を読み込むことに夢中になっていった。ここでベルナールが詩学の本と言っているのは、具体的には、ジェラール・ジュネット、ツヴェタン・トドロフ、ロラン・バルトといった文学理論書、フィリップ・ソレルスやジュリア・クリステヴァらが主宰していた『テル・ケル』誌のグループによる『集合論』という論集、ロマン・ヤコブソンの言語学、ロシア・フォルマリズム論集、クリステヴァのマラルメ、ロートレアモン論『詩的言語の革命』などのことだ[★18]。
少し注釈すれば、この時代、これらの著作は文学理論研究では一般的な必読書で、私たちの世代の文学系の学生ならだれもが読んでいた。私は、この1978年から1979年頃には、第一回目のフランス滞在から帰国した直後で、その前の年(1977年)のバルトによるコレージュ・ド・フランス講義にも出ていたし、ジュネットやトドロフ、クリステヴァなどの読書経験はすべて共通している。
ベルナールはこの時期以後、朝起きるとまず必ず30分はマラルメの詩や散文を読むことを日課にするようになった。プレイヤード版の『マラルメ全集』とアンリ・モンドール編集の『マラルメ書簡集』を手に入れて毎朝それを読むようになったのだ(ベルナールのマラルメ読書については、今後少し詳しく触れることにする[★19])。
ソシュールからデリダへ
そうやって1979年に大学入学資格を得て、トゥールーズ大学の通信教育コースに入学すると、最初の年は「哲学」ではなくて「言語学」専攻に登録した。ソシュールを読み始めていたので、「言語学についてすべてを知りたい」と思ったからだ[★20]。
そのときの先生は、ジャン゠リュック・ネスプルJean-Luc Nespoulousだった。1947年生まれだから、当時はまだ若い気鋭の学者というところだったのではないかと思うが、のちにトゥールーズ第二大学教授。専門は神経心理言語学で、脳損傷による言語障害(失語症)研究の第一人者、CNRS
銀メダル(フランス国立科学研究センターCentre national de la recherche scientifiqueが優れた研究に対して贈る賞)を受賞している世界的な言語学者だ。
ただ、ベルナールは、言語学、記号論、詩学、物語論、テクスト論、間テクスト性や、古代、あるいは現代の文学を研究するという当初立てていた研究計画をその頃すでに変更して、哲学の研究をすることを決意していた(後から考えると、ネスプル先生の神経心理言語学や身ぶり言語の研究などは、その後のベルナールの仕事に大いに関係する領域に重なっていたはずだが、若いときの出会いは、いつも、巡り合わせと順番の問題だ)。
というのもソシュールから先ほど述べた詩学理論書へ、そして、テル・ケルへと読み進めるうちに、デリダの「la différance 差延作用」という概念に出会ったからだった。そしてそこからは、『散種』、『エクリチュールと差異』、『グラマトロジーについて』、と続き、アンドレ・ルロワ゠グーラン『身ぶりと言葉』へ至り、ハイデガー『存在と時間』、さらに『形而上学入門』、あるいはフッサール『幾何学の起源』とデリダによる同書の『序説』へと読書は連なっていく[★21]。これは、ベルナールの著作を知る読者にとってはおなじみのコースなのだが、ここでは、これらの主要テクストがどのように読まれていったのかには深入りせずに、その入り口の部分についての考察にしばらく時間を割きたい。
独房のなかのシニフィアン
なぜ、言語学の研究ではなくて、哲学の研究へと向かったのか? ベルナールは、それが青春時代から描いていた夢を実現する道だと悟った、という。このあたりはとても重要なことなので、難解な言い回しをしているのだけれど、引用しよう(以下、引用中の[]は石田による補足)。
自分が閉じこもって生きていた完璧な沈黙のなかで、ぼくは、結局、言語の問題こそ自分の主要な関心事なのだと悟った、あるいは、そう悟ったと信じたのだ。〈意味するものle signifiant〉と〈意味されるものle signifié〉の対ではなくて、(ソシュール、ラカン、レヴィ=ストロース、バルトの後で)〈意味するもの、シニフィアン〉と呼ばれていたものを、〈意味しないものlinsignifiant〉と〈意味しない─わけではないものle non-insignifiant〉との間の緊張関係として理解し、実践しなければいけない、と考えるようになっていた。そのせいで、のちに、[ギリシア語で真理を意味する]ア─レテイアα-λήθεια(a-letheia)をハイフンを使って〈signi-fiance意味─するはたらき〉と訳すようになった。すなわち、異常[=extra-orninaire通常─の 外]が通常(l’ordinaire)から脱出するように、〈意味しないものlinsignifiant〉から外へ出て、〈意味しない─わけではないもの〉として記号を送ってくるような〈意味しない─わけでないもののはたらきnon-insignifiance〉という含意を込めてそう翻訳したのだった。[★22]
うむ、だいぶ、難解でしょう? 少し噛み砕こう。
まず、ソシュールのシニフィアンとシニフィエの区別は皆さんも知っているでしょう。/uma/という音の響き──ふつう、言語学では音素の結合と理解される──をシニフィアンと言い、[馬]の概念をシニフィエと言う。
それに対して、独房に閉じこもって何週間も誰とも会話を交わさず独り言あるいは内言でのみ生活しているという状況を考えてみよう。これは、フッサールの『論理学研究』の第一研究「表現と意味」に出てくる「孤独な心的生活」の問題と同じだ[★23]。
その状況において、きみは、世界のほとんどの事象から遠ざけられている。それらの事象は、コトバだけの「不在」になっている。この状況において、コトバについて突き詰めていくとしよう。その場合、シニフィアンとさきほど呼んでいた、コトバの音声面だけを徹底的に考えていくことになる。そうすると、ある瞬間、きみは、その音声の組み合わせさえ、何を意味していたのか分からなくなってしまうはずだ。つまりシニフィアンの意味が分からなくなってしまって、〈意味しないもの〉にまで還元されていく。
それは言ってみれば、言語の音声形式を意識のトレーニングによって現象学的に還元する思考実験だ。そこが、まず〈意味するものle signifiant〉が〈意味しないものl’insignifiant〉にまで、還元される過程だ。
だけれども、そこまで還元し尽くされた〈意味しないもの〉ですら、コトバであるかぎりは、何かを意味しているように思えてくるはずだ。それは、〈意味しない─わけではないものle non-insignifiant〉という二重否定の働きを通して(これをデリダは差延作用la différanceというんだ)、立ち現れてくるはずですね。そのときにこそ、コトバの経験の核のようなゆらぎ──コトバの本質的な意味作用──がアかされ(開かされ=明かされ)る。それがベルナールが言っていることではないだろうか。
例えば、
わたしが、花という ! そうすると 私の声がいかなる輪郭も残しはせぬ 忘却の外に 知られた萼 とは 異なる 何ものかとして 音楽的に 立ち昇るのだ あらゆる花束からは 不在の 甘き 観念 そのもの が。 Je dis : une fleur ! et, hors de l’oubli où ma voix relègue aucun contour, en tant que quelque chose d’autre que les calices sus, musicalement se lève idée même et suave, l’absente de tous bouquets.[★24]
という、マラルメ「詩句の危機」のなかの有名な一節を、獄中のベルナールとともに考えてみよう。
数週間のあいだ、誰とも会話は一切なく、世界から遠ざけられ、完全な沈黙に閉ざされたこの無音室のなかで、きみは、いま、ただ、ひと言、「花 ! une fleur ! 」と呟いてみる。
もちろん、きみの沈黙の部屋の灰色のコンクリート製の固定机の上には、花などはない。実物の花を見たのはいったいいつごろだっただろうか? いましがた、/hana/(/yn flœʁ/)と独りごちた、その単語の音韻の組み合わせの余韻が、あたりにはまだ漂っているようにも思える。発話の瞬間は忘却のうちに遠ざかり消え去りつつあるようでもあり、具体としての花は、いかにしても、この場所には不在でもあり、コトバだけが事物としての〈花〉の不在を響かせるばかりであるのだが、そのいかなる輪郭も残しはせぬ、忘却の外側で、/hana/(/yn flœʁ/)という音韻の組み合わせが奏でるのは、いかにもその「花 une fleur」というコトバの口当たりのよい音楽であって、その甘味な音楽として、浮かびあがってきたのは、まさしく、どの花束にも属さぬ、花というコトバに隠されていた観念そのものというべきものなのだ。
という、ことなのだよ。分かったかな? 事物を前にしてこのように考える思考の手続きを、フッサールの現象学では、事物の「エイドス的還元」(あるいは「本質的還元」)と呼ぶ。フッサール的に整理すると
1 言葉の発話(Je dis : une fleur !)によって、個別的な経験が括弧に入れられる(エポケー)。
2 個別の対象ではなく、花の観念が現れる(エイドス的還元)。
3 その観念は、音楽的に、物理的な対象から独立した形で響く。
4 言葉は「指示する」だけでなく、「エイドスを開示する」ものとして働く。
つまり、マラルメの詩は「言語の経験そのもののエイドス的還元のプロセス」を詩的に表現していると解釈できると、フッサールなら言うだろう。
ただし、すでに獄中でデリダの「差延作用」を読んでいたベルナール君は、コトバの問題にこだわっている。そこが、「言語の問題」を哲学的に考察しようと計画し始めた深い理由になっているのだ[★25]。
さきほど引用した、ア─レテイアについてのベルナールの文章は、こうしたコトバと真理の問題を説明しようとしている。ア─レテイアは、ハイデガーにはよく出てくる議論で、真理(アレテイア)を字義通りに「隠されていないもの」という意味(「ア」が否定の接頭辞)で捉え返すものなのだけれど、ここでは、言葉の問題をとおして、それが説明されている。ふつうの日常的な言葉のやりとりのなかでは忘却されていた(隠されていた)コトバの〈意味─する〉(より正確には〈意味しない─わけではない〉)はたらきが、いま説明したようなシニフィアンの還元の筋道をとおして、想起のように浮かびあがってくるのだ。だから、そのような二重否定の含意が分かりやすいように、ア─レテイアをsigni-fianceとフランス語に訳すことにした、とベルナールは述べているのだと思う。
グラネルは、ベルナールの言語への関心の持ち方を見て「君がやりたいのは言語哲学だね」と言ったようだ──「ソシュールから出発して[……]グラネルが、君の言語哲学と呼んでいたものに、自分は没頭していった(この時期、グラネルやエリザベト・リガルからヴィトゲンシュタインを学んでいたし、フンボルトを読むように再三勧められた)」と証言している[★26]。このときグラネルが言った「君の言語哲学ta philosophie du langage」は、いわゆる英米系の分析哲学ではなくて、言語をめぐる哲学、ソシュールおよび構造主義言語学の言語論を手がかりにして言語の存在論を考える哲学という意味だったはずだ。
実証的なサイエンスとしての言語学、つまり「言語科学la science du langage」をやろうとしているのではなくて、「言語の問題」を入り口に哲学に向かおうとしている。デリダの「差延作用」に導かれ、フッサールやハイデガーを読み込んでいて、文学や芸術への強い関心をもっていて、さらには、独房のなかの内省の生活を考えても、それこそがこの若者にはふさわしいと、グラネルはきっと考えたのだと思う。グラネルは、素晴らしい先生だったのだよ。教師を永年務めた私からみても、ああ、ほんとうにいい先生だったんだな、とつくづく思う。
現象学の実験室
自分にとって独房は、「現象学の実験室」になっていったのだ、とベルナールは繰り返し語っている。
先ほどの、マラルメにおける「花」のシニフィアンのエイドス的還元も、現象学的還元のエクササイズのひとつだ。「孤独な心的生活」をつうじて、独房は現象学的な思考トレーニングの場になっていった。
サン・ミシェル刑務所で過ごした3年間を通じて、ぼくは独房が、一定の条件の下では、現象学の実験室になりうることを発見した。そこでは、現象学的還元の実践が、2003年の『現勢化』で「他者─である─私le moi-l’autre」と呼んだ、もうひとつの自己[=孤独な省察と内的対話をとおして明かされる「超越論的な自我」のこと]を見いだす発見となる経験を幾つも可能にしてくれた。その「他者─である─私」は、[独房のなかでのように]世界が不在であればあるほど、まさにそのときこそ特に、世界に向かって手を広げて[世界を]抱きしめようとするものなのだ。[★27]
デカルトの『方法序説』や『省察』は、皆さんも読んだことがあるでしょう。
デカルトが「方法」を見出したのは、1619年11月10日、三十年戦争のドイツの冬営地ノイブルクの暖炉に暖められた部屋のなかでだった。そして、『省察』の第一省察で、「たとえば、いま私がここにいること、炉ばたに坐っていること、冬着をまとっていること、この紙を手にしていること」、「この手そのもの、この身体全体が私のものであることを、どうして否定できよう」、「これを否定するのは、まるで私が狂人たちの仲間入りをしようとするようなものである」と狂気を払いのけていたのは、そのほぼ20年後、1640年頃のことだった[★28]。
そのようなデカルトの思考の実験室から3世紀半ほど経過した、トゥールーズのサン・ミシェル刑務所の独房のなかで、日常世界から遠く離れて、ベルナールが開始したのは、フッサールの標語でいえば「デカルト的省察」と呼ぶにふさわしい、思考の厳粛なトレーニングだった。
行為への移行[本稿冒頭に述べた、第一の現勢化passer à l’acte]の結果として、サン・ミッシェル刑務所に投獄されることで、ぼくの行為は停止され、ぼくの行動は中断されることになった[世界がエポケーされた]。それこそが、監獄というものの機能なのだ。しかし、停止と中断は哲学の始まり[……]でもあって、ぼくにとっては、行為への移行(現勢化)一般とは何かを考える契機となった。そして、それはまた、そこにいたるまで自己を導いたあらゆる行為を想起することでもあったのだ。[★29]
この行為の「停止」と世界の「括弧入れ」、「省察」と「想起」、日常世界の海から、外に飛び出した、ベルナールの思索の軌跡を、次回以降、引き続き追うことにしよう。
★1 三木清「哲学入門」。引用は青空文庫(URL=https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/43023_26592.html)から。三木清はすごい哲学者なんだぜ。みんな読んだ方がいい。
★2 原著はBernard Stiegler, Passer à l’acte, Galilée, 2003.邦訳はベルナール・スティグレール『現勢化──哲学という使命』、ガブリエル・メランベルジェ、メランベルジェ眞紀訳、新評論、2007年。
★3 アリストテレスの「デュナミス」と「エネルゲイア」あるいは「エルゴン」という概念対は、英語やフランス語では、それぞれ、potentiality / actuality、puissance / acteという言葉が使われる。
★4 ベルナールのタイトルは、passer à l’acteをアリストテレスに遡って、語源的に捉え返していると理解すべき。日本語訳は『現勢化』を採用している。ちなみに英語訳はActing Outで、精神分析用語を採用している。Bernard Stiegler, Acting Out, Stanford University Press, 2008.
★5 ついでに言っておくと、わたし自身も、第10回で読んでもらったように、自分の悲惨な出来事を語ってきているのだが、そこにもまた、いかに人生の出来事を自分の必然として生き直すのかという、準因果性の問題系が絡んでいる。この連載を「クロス・バイオグラフィー」として書いている理由を分かってもらえたらうれしい。
★6 これらの順位は以下のサイトで検索できる。URL=http://rhe.ish-lyon.cnrs.fr/?q=agregsecondaire_laureats
★7 以下を参照。URL=https://www.politproductions.com/gerard-granel
★8 フランスの大体の大学人が、最終的には自分が高等教育を受けた首都のパリに戻ってこようという〝帰巣本能〟(!)をもっていることは、日本の大学人が東京とか京都に戻ってこようとするのと同じだ。大学人は自分の生まれた川に戻ってこようとする鮭とかと同じなのだ。だけど、グラネルは違う。パリ16区という最もブルジョワな地区で生まれ、ルイ・ル・グランという超名門リセを出て高等師範学校にトップで入学した大秀才だけれど、自分はラングドックの薔薇色の古都トゥールーズに独自の知の根拠を築こうとした。偉いね!
★9 Gérard Granel, Le Sens du Temps et la Perception chez E. Husserl. Edition Gallimard, 1969.
★10 公式サイトは以下。URL=http://www.ter-editions-philo.com/
★11 グラネルの生涯と業績については、以下のWikipediaを参照のこと。URL=https://fr.wikipedia.org/wiki/Gérard_Granel
★12 グラネルは1959年にハイデガーの『思惟とは何の謂いか』を仏訳(Qu’appelle-t-on penser?, PUF, 1959.)。その機会にハイデガー自身と最初に面会している。「存在の問いへ」(原題 Zur Seinsfrage, 1956. 邦訳題「有の問いへ」、『ハイデッガー全集第9巻 道標』所収)は“Contribution à la question de l’être”のタイトルでHeidegger, Question I (Gallimard, 1968)に所収。この翻訳作業の時期とデリダとの交友は重なるから、そのなかで訳語は共有されていたのだろうと考えられる。その翻訳でAbbau(破壊、解体)がdé-constructionとフランス語訳されている(同書240頁)。
★13 Gérard Granel “Jacques Derrida et la rature de l’origine,” Critique 23, n° 246 (novembre 1967) et repris dans Traditionis Traditio (Paris, Gallimard, 1972).グラネルの論文がフーコー・デリダ論争の伏線となった経緯については、ディディエ・エリボンの『ミシェル・フーコー伝』(邦訳は新潮社、1991年)第2部第2章「書物とその分身」に詳しい。
★14 ドイツ在住でチリ出身の哲学者、ヴィクトル・ファリアスが1987年フランスで『ハイデガーとナチズム』(Victor Frarias, Heidegger et le nazisme, Verdier, 1987)を出版したことをきっかけに、フランスでは(ドイツではすでによく知られていたことだったが)ハイデガーのナチス時代の仕事、および彼の哲学とナチズムとの深い関係について、さまざまな論争が繰り広げられた。フランスの戦後思想界はハイデガーの強い影響下で発展したから、騒ぎは大きかった。グラネルはハイデガーのナチへの加担の過去については認めたうえで、それを裁くこととその問題を思想的に受けとめることとの違いを説き、思考することと時代との関係を深く考えようと諭している。Gérard Granel, “La guerre de Sécession Tout ce que Farias ne vous a pas dit et que vous auriez préféréne pas savoir,” Le débat, 1988 No48 janvier-février.
★15 このバンドの詳細は以下のWikipediaを参照。URL=https://fr.wikipedia. org/wiki/La_Souris_déglinguée グラネルが支援したアルバムは以下。URL =https://fr.wikipedia.org/wiki/As-tu_d%C3%A9j%C3%A0_oubli % C3 % A9 _ %3F
★16 だが、この件について証言を残しているかは、私の知る限り、不明だ。一般に、そういうことは公的には語らないと思う。それが分別ある人間の良識というものだ。
★17 Bernard Stiegler, Dans la disruption: Comment ne pas devenir fou?, Les Liens Qui Libèrent, 2018, p. 301.これまでの連載では、ラジオインタビュー番組からベルナールの自伝的事実を追うかたちで語ることが多かったが、思想的な経験については、最後期の著作などから内在的に追うことがこれから増えていくと思う。いかにベルナールにおいて哲学が「現勢化」していったのか、その軌跡を哲学的に捉え返すためだ。
★18 Ibid., p. 100.
★19 この節の見出し「〈読む〉という、この実践」はマラルメ『ディヴァガシオン』所収、「文芸の中の神秘」(Mallarmé, “Le Mystère dans les Lettres,” Divagations.)の、「Lire─[……]Cette pratique─」という一節から取っている。URL= https: // fr. wikisource. org/wiki/Divagations_(1897)/Le _ Mystère_dans_les_lettres
★20 Ibid., p. 301.
★21 Ibid., p. 100.
★22 Ibid., p. 302.強調は原文。
★23 フッサール『論理学研究』の第1研究「表現と意味」については、フッサールの当該巻を読むのが良いが、同時に、デリダの『声と現象』は、この第1研究「表現と意味」についての脱構築の出発点になった重要な考察だから一緒に読むと良い。そうするとデリダが思考や言語についてどのような問いから出発したかがすごくよく分かるはずだ。
★24 マラルメ「詩句の危機」。Stéphane Mallarmé “Crise de vers,” Divagations. URL=https://fr.wikisource.org/wiki/Page:Mallarmé_-_Divagations.djvu/263ここでの訳文は石田による。
★25 Stiegler, Dans la disruption, p. 94.
★26 Ibid., p. 303.強調は石田。エリザベト・リガルÉlisabeth Rigal (1950-)は、ジェラール・グラネルの生涯の妻だった哲学者で翻訳家でもある。ヴィトゲンシュタインを専門とする。詳しい業績については、Wikipediaを参照してほしい。URL=https://fr.wikipedia.org/wiki/Élisabeth_Rigal
★27 Ibid., pp. 96─97.
★28 デカルト『省察・情念論』、井上庄七他訳、中公クラシックス、2002年。Kindle版より引用。
★29 Passer à l’acte, p. 30. 邦訳44頁に対応。


石田英敬
1 コメント
- TM2025/05/30 22:10
芽吹きの可能性、それに気が付き適切な栄養を導ける良き先生グラネルの存在がいかに大きいか、ひしひしと伝わってきました。 どんな可能性に満ちた芽吹きも出会いという外部要因の影響を強く受ける。ドラマだなと感じます。 また監獄が現象学の実験室になるといるのも環境をネガティブ色に染めきれないからこその発想かもしれません。実験室での思索の軌跡。次回も楽しみです!