農村の生活 飛び魚と毒薬(7)|石田英敬

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webゲンロン 2024年7月11日 配信

 私たちは、直近の4回の連載(第3回−第6回)では、〈68年5月〉の出来事を歴史的に語ってきた。その間、ベルナールを1968年5月3日金曜日の午後3時半頃セーヌ河岸のジベール・ジュンヌ書店の店頭に置き去りにしてきてしまった(連載第3回を参照)。そこで、今回は彼個人の物語に戻ろうと思う★1

 モリエールの古本を探していた16歳になったばかりのベルナール君の背後で、機動隊の催涙弾が炸裂し、振り向くともうそこには〈68年5月〉の光景が拡がっていた。

 映画『存在の耐えられない軽さ』を見た人は分かるだろう★2。ジュリエット・ビノシュ演じる写真家テレーザが、プラハに侵攻してきたソ連軍の戦車に出くわす場面を想い出してほしい。あんな風に、個人の物語が、記録映画のなかに入るように、歴史の出来事の場面に突然入り込んでしまうことが起こるものなんだ。

 そして、ソルボンヌ広場の方へ駆けだしていって以後、三週間の間、ゲイリュサック街を中心としたバリケードを離れることはなかったと彼は述懐していた。その三週間、具体的にどのような活動をしていたのかは不明だ。しかし、映画『三十歳にして死す』★3の高校生活動家たちと同じようなトロツキズムの高校生運動だったといっているからおおよその見当はつく。

 そして、すでに語ったように、その後、フランスでは〈68年5月〉の出来事の高揚と敗北があり、翌年には、国民投票の信任を得られなかったドゴール大統領は退任。この戦後フランスの大立役者は、1970年にひっそりと世を去る。

 

 他方で、現代史の激動は続いていた。

 ベトナム戦争は、ニクソンの時代(1969年-)になって「ベトナム化 Vietnamization」が進められたが(米軍の撤退をこう呼んだのだ)、中ソの介入や、アメリカのカンボジア侵攻(1970年)へと続いていた。

 68年は、ソビエト連邦を初めとしたワルシャワ機構軍によるチェコ介入による「プラハの春」の弾圧と動乱の日々があり、日本でも69年の東大安田講堂事件を頂点とする学生反乱があり、歴史は1970年代へと容赦なく向かっていったのだった……。

革命の後の「二日酔い」

 歴史の奔流が怒濤のように押し寄せて、それまであった世界の前提をまったく変えてしまった。もうなにも元には戻らなくなっていたはずだった。だが、事件は瞬く間に過ぎ去り、すべてが変わってしまったはずなのに、何ごともまったく起こらなかったかのごとく、奇妙な秩序が元の木阿弥のように戻って鎮座していた。

 

 〈1970〉年は、そのような歴史の分水嶺ともいうべき〈壁の年〉だ。

 それまでの世界がどんな表情をしていたのか、もはや誰も想い出せないくらいの大きな壁として、〈あちら側の世界〉と〈こちら側の世界〉を隔てている。

 なんともいえない虚無感がこの時代の人びとを捉えていたのではないか。その物憂い停滞の日々の感覚は、みんながよく知っている村上春樹で言えば『風の歌を聴け』の1970年の夏だろう。8月8日から8月26日の間に、主人公たちはビールをわけもなく、たぶん65回は飲んでいる。

 フランスでは、〈68年5月〉の後には、革命の後の「二日酔い gueule de bois」の歳月がやってきたと言われる。それを「ポスト・フェストゥム(post festum 祭りの後)」と表現してもよいかもしれない。

 

 駆けだし極左トロツキストの高校生として、あのゲイリュサック通りのバリケードの夜をはじめとする革命の三週間を過ごした後、ベルナールは「二日酔い」の日々について、詳しい話は残していない。

 彼の場合、高校リセからは、事実上の放校状態だったし、5月の出来事でそれは決定的になった。フランスでは、高等教育に進むにはバカロレア試験に合格することが条件だが、16歳の時点で、バカロレアを取得することなく高校を退学した彼は通常の学業コースからは決定的にドロップアウトしたことになる(のちに、刑務所のなかで勉強をしてバカロレア資格を取得することになるが、それはこの連載の何回か先で語られることになる)。

 

 ベルナールは、私との付き合いのなかでもしばしば言っていたことだが、〈68年5月〉についてかなり否定的な評価を持っていた。自分たちはあまりにナイーヴだったのではないか。むしろ権力に操られていたのではないのか。レイモン・マルスラン★4という強硬派の内務官僚が68年5月からドゴールに内相に任命されて秩序の回復にかかるのだが、彼が次々と左派団体を解散させ、極左運動は急速に無力化されていった。そうしたなかで、極左運動はむしろ権力の掌中で踊らされ権威的体制を強化する口実として利用されていく。傍目にははなばなしい街頭闘争は、じつはそうした警察権力にマニピュレートされたものだったと、ベルナールは考えていた。

 

 高校生運動では急ごしらえのトロツキズムに身を投じていた彼は、〈68年5月〉以後は、むしろ、共産党に入党するという、逆説的とも見える動きをすることになった。トロツキスト運動では北京版のマルクス主義教科書で勉強していたが、入党後はモスクワ版のマルクス・エンゲルス全集で勉強するようになった。彼は、自分は「党の学校」で勉強したのだ、と語る──自分は学生運動や共産党の活動のなかで、ヘーゲルやマルクスを勉強した、大学に進学したわけではない自分が、思想や哲学を勉強したのは左翼運動のなかでの教育によってだ、と。

 

 連載第2回第3回で紹介したように、サルセルでの青春時代に周囲にいた知人・友人たちの何人かは共産党系のグループに属していた。フランス共産党は、「モスクワの長女」と呼ばれるぐらい親ソ連だったが、他方で、知識人・文化人の裾野は広かった。いろいろあっても、「同伴文化人」には、アラゴンやピカソを初めとした大芸術家・詩人、哲学者が多数いた時代だ(彼ら以降の世代になると、みんな一度は入ってみたが、自分の場所ではないな、とやめていく人がほとんどだった、というようなことではないかと思う)。

 ベルナールにとって、とくに重要だったのは、『ヌーヴェル・クリティック』という共産党系の雑誌だ。のちに、2008年に共産党の機関紙『ユマニテ』が開催した講演会で「新しい批判ヌーヴェル・クリティックのために」★5というタイトルで講演をしたときなど、1960年代にずいぶんこの雑誌を読んでおり、デリダやラカンやフロイトやソシュールを知ったのはこの雑誌をとおしてであると語っている。この講演では、68年当時のフランス共産党書記長ワルデック・ロシェ★6の対応を称えてもいる。ドプチェク書記長の書簡に答えてチェコスロバキア問題に関するヨーロッパの共産党による会議を呼びかけ、ソ連によるチェコ介入を批判した人物だ。

 共産党への接近も、ひとつの〈68年5月〉の若すぎた高揚が引き起こした「二日酔い」からの覚め方だったのかもしれない(その後、共産党をやめたのは、ロシェに続いて書記長に就任した親ソビエト主義者のジョルジュ・マルシェ★7に嫌気がさしたからだと語っている)。

新しい生活

 そして、突然人生が新しい段階へと進む。

 

 19歳で、父親になったのだ。 

 最初の妻マルレーヌと出会い、1970年に結婚、1971年に長女のバルバラが生まれた★8

 「子どもが生まれるという出来事は、まったく突然、有無をいわさず大人としての責任を果たすことになるわけですね。突然、大人になる。これは大変なことです」。そう、ラジオでのインタビューに答えている。

 

 これは、子どもを持った人なら例外なしにみんな経験してきたはず。

 そして、みんなの親たちも例外なくそれを経験したはず。

 あまりにもありふれている(なぜなら、生物学的に言って、親のない子どもはいない)から、それがどんなに大事件かみなふだんは忘れている。

 

 でも、これは大変な出来事だ。

 ゼロが一になって新しい世界が目の前で誕生する。二人だった世界が(初めての子の場合)三になる。どうしようもなく大変な存在論的ジャンプだ。

 親になった。君/あなたは、この日以後、いやおうなしに、その子と一緒に新しい生のステージに上がり、大人にならなければならない。大人にならなければならないが、大人になれない親もいる。「自分も本当に完全に親になれたのだろうか」、ベルナール自身、そう自問している(そして、子どもを二人もつ、このナレーターの私も、70歳になったいまでも、同じように、そう自問している。現代において「親である」とは、「自分は本当に親になれているのだろうか」と自問し続けることなのではないか)。

 

 人口統計を見ると、フランスでは、平均結婚年齢は第二次世界大戦以降1970年代まで下がり続ける。1960年代末の時点で、男性は25歳、女性は22歳。早婚が増え、結婚件数は増えるが、同時に、「自由な関係」や「お試し婚」、「若者の同棲」も増えていった★9。経口避妊薬(ピル)は、1967 年12 月19 日のヌヴィルト法によりフランスでも承認され、人工妊娠中絶は1975 年1 月15 日のヴェイユ法で認められた★10。これは、女性の社会進出を進めた。

 この観点から見れば、やはり、〈68年5月〉は、女性解放の人口動態的表現という側面を持っていたのだろう。〈性の解放〉のテーマももちろんこうした動きと密接に関係している(革命はやはり頭のなかで起こるわけではないのだ)。

 ベルナールの19歳の結婚もこういう人口動態的背景のなかで起こっていることは知っておこう。

 

 親になるということは、子どもに寝床と食事を保証する責任を持つことだ。学業も途中で放棄し、19歳で親になったということは、まだ十分に準備ができていないで親になったということだろう。

 高校をやめてから、アルバイト的な仕事は不定期でしていたが、バルバラが生まれて親になった以上、定職についてレギュラーな給与を得て子どもを育てないといけない。そう強く思った。

 そこで子ども時代から育ったパリ郊外都市サルセルで、市の公共工事のagent de planning(建設などの予定を立て手配する仕事)をして、懸命に生活費を稼いだ。でも、その収入はとても少なくて、集合住宅(HLM)の家賃を払い、生活費を確保するのに四苦八苦だった。それでも、音楽を愛好し、芸術家をめざす夢を持った生活は続いていたようだ。二年ほどの間は貧しいながらも、比較的平穏な暮らしが続いたという。

 

 しかし、やがて生活は窮乏して家賃を払うこともままならず、1973年、ついに司法執行官からの「青紙」(裁判所が発行した、滞納家賃の差し押さえの令状)が届いた。

 それで、どうしたか。

 集合住宅の6階のアパートから、友人が貸してくれた軽トラックにわずかな家財と、ピアノを積んで —「なぜかピアノを持っていたんだよ」と語っている ──夜逃げ(!)した

農村の生活

 そして、マルレーヌの故郷、南フランスの小さな村モンフランカンに落ち着いた。

 モンフランカンMonflanquinは、ボルドーを中心とするフランス南西部アキテーヌ地方、ロット=エ=ガロンヌ県の小さな村。人口二千人規模で、いまでは「フランスのもっとも美しい村」★11にも認定されている。

【図1】南フランスの小さな村モンフランカン(Author: Bernadg) URL= https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Village_Monflanquin.jpg#/media/File:Village_Monflanquin.jpg CC BY-SA

 (行ったことはないが、)写真を見てもらえば分かるように【図1】、小高い丘のうえに立つ教会を中心に拡がったバスティッドと呼ばれる石造りの要塞都市。この地域では、中世13世紀前半に異端カタリ派とそれを討伐するアルビジョワ十字軍の戦いが繰り広げられた。その戦乱の終結をまって、荒廃した地域の再建のために13世紀から14世紀に造られたのがバスティッドだ。丘を囲むように豊かな田園地帯が拡がっている。牛、羊、ヤギの放牧、ニワトリ、アヒル、ガチョウの飼育の農業がもっとも盛んな地帯だ。

 マルレーヌの父親は農家で牛の飼育をしていたようだ。そこで、最初の数ヶ月は義理の父の仔牛の飼育を手伝った。その後は、小さな農地を借りて農業を始め、次に、農業機械利用組合 Coopérative d'utilisation de matériel agricole(CUMA)に雇用されて、トラクタなどの農業機械の運転手の仕事もした。ベテランの運転手と自分のような見習いの運転手がペアを組んで、耕作、収穫、干し草の管理、などの仕事を一年半ほどしたという。

 農業は、面白い仕事で、自分はすごく好きだった、田舎の生活が本当に大好きだった、と言っている。

 最初は極貧の生活で本当に食べ物がなかった。釣り竿と浮きを手作りして、水車小屋の裏の小さなエリアでギャルドン(鯉科の魚、フライにして食べる)やグジョン(川ハゼ、ワカサギのようにフライにして食べる)を釣って食べていた。

 

 ある日、釣りをしていると、黒塗りのルノー・16★12が通り過ぎるのが見えた。そんな車が通るのは珍しかったし、そっちの方向にはぼくの農家しかないのだが、と思っていると、20分ほどしてその車は戻ってきて橋のうえで停まり、男が降りてきた。そして、「ベルナール・スティグレールさんですか?」と聞いてきた。はい、と答えると、「私は司法執行官です。あなたは財務当局に数千フラン(当時はデノミがあったが、その前の金額)の負債があります。家具を差し押さえに来ました。」と言った。家財を差し押さえに来た廷吏だった。

 そこで、釣り竿を差し出して、「農家は家具付き借家でして、これが持ち物のすべてなんです。よろしければ魚もどうぞ」と言った。執行官は、物わかりのよい人で、事情を説明すると、「分かりました。あなたの悪いようにはしませんよ」と言って、家までやってきて、てきぱきと書類を整理して法的手続きを手早く始末してくれた。負債はクリアされた。

 

 モンフランカンでの農業生活は軌道に載り始めていたんだ。近隣のヴィルヌーヴ=シュル=ロットVilleneuve-sur-Lot村にとっても親切な人がいて、若い自分に目をかけてくれた。山羊乳用のヤギを400頭も飼育している人だったのだが、君に安くヤギを譲ってあげるから、やってみないか、と言ってきた。毎年、処分するから安く分けてあげられるよ、支払いは後でいいから、というので、ヤギの飼育を始めた。これは思いのほかうまくいって、最初は30頭だったのが、次の年には子ヤギが生まれ、みるみる数が増えた。その人はまた、ガチョウを4000羽も飼っていて、そのガチョウも譲ってもらい、フォワグラの生産のために飼育し始めた。

 本当に激しく働いていた。一方で、アルコール多量摂取に戻らないように、マリファナを育てたりもしていた。トラクタを運転しながらチャーリー・ミンガスを聴いたり。

 田舎での生活は、充実していて、自然のリズムのなかでよく眠れるようになった。日中の仕事は本当に一生懸命毎日12時間も働いていた。

 動物たちも、世話をすればよく乳を出すようになったし、眠る前に読書、という具合に、自然と調和した健康な生活をするようになったんだ。

 

 ところが、1976年の大干ばつがやってきた。

 ヨーロッパの歴史に残る記録的な大干ばつで1975年の12月から北大西洋高気圧と北米高気圧が北上して居座り、雨が降らなくなった。

 

 彼は証言している。

 「2月からまったく雨が降らなくなったばかりか、朝露もない。これは自分にとってカタストロフィーだった。ぼくの農家では面積が極めて小さいから、他人の牧草地を契約で刈り取らせてもらって飼料にするやり方でヤギを育てていたんだが、五月からもう草は枯れ始めた。麦の飼料も使っていたが飼料価格が暴騰した。牧草を刈り取らせてもらえる農地を探したが、もうなかった。ヤギの飼育はできなくなってしまったんだ。

 それで、これはもうヤギを全部売るしかないというので、売りに出した。そうしたら、奇跡的に買い手が見つかった。この状況で信じられない人だが、当時ぼくが持っていたのは乳ヤギが80頭、電気式搾乳機とかすべての用具を買い取ってくれた。買い手は、奥さんと一緒に農家を始めようとしていた人だったのだ。その売却金で、借金の一部を返した。ヤギを譲ってもらったりしていたから借金があった。

 しかし、後で分かることだが、本当のところ最終的には、売却代金の一部しか支払ってもらえず、だいぶ借金が残ってしまうことになる。でも、このときは、まだ代金を全部支払ってもらえると思っていたので、トゥールーズの食品店の権利を買った」。

 

 ベルナールの農業と牧畜の田園生活は、このように軌道に乗りかかったところで、突然終焉を迎えることになった。

 

 もし、1976年の大干ばつがなければ、その後も農業を続けて、彼のことだから、発展して大農場になっていたのかもしれない。

 人生とはかくも波乱に満ち、偶然に翻弄されるものなのだね。

 

 

 今回は、ベルナールの個人史へとフォーカスを戻して、1970年代の彼の人生の軌跡を辿ってきた。

 農村の生活、すばらしいと思うなあ。それが続いていたらどんなになっていただろうか?

 

 1976年のヨーロッパの大干ばつは、じつは、私も知っている。なぜなら、その年、フランスにいたからだ。1975年に最初にフランスに留学 — というか、「亡命」(それについては、これ以降の回で書く) — したのだが、その年は、本当に雨が降らなくて、これは大変な年だ、ワインもまったくダメだ、農業は壊滅的だ、と人びともメディアも大騒ぎになっていた。その夏私は、しかし、まったく能天気に、カンヌでフランス語の夏期講習を受けつつ海水浴をしていたな。

 そんな身の丈違いのスノビッシュな夏休みを、あのカジノがあるカンヌの海岸で甲羅干しをしつつ過ごしていたことについては、それなりの理由があったのだが、その部分については、この連載の次回以降で書くことにしよう。

 でも、ベルナールは、えらいなあ、とつくづく思う。19歳で子どもが生まれ、農家を始め、ヤギを育て……、いいなあ、そういう生活。こんどバルバラに会う機会があったら、その頃、どんなだったか、訊いてみたいと思う。

 

★1 今回もフランス文化放送 France Cultureの次の番組の第1回および第2回放送分を基礎にしてベルナールの個人史を追っている:Bernard Stiegler, la philosophie et la vie URL= https://www.radiofrance.fr/franceculture/podcasts/serie-bernard-stiegler-la-philosophie-et-la-vie
★2 『存在の耐えられない軽さ The Unbearable Lightness of Being』、フィリップ・カウフマン監督、1988年。
★3 このドキュメンタリ映画については第3回で言及した。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Mourir_%C3%A0_trente_ans
★4 レイモン・マルスラン Raymond Marcellin(1914-2004)は、1968年から1974年までドゴール政権、ポンピドゥー政権の内務大臣を務め、68年5月の事件後の秩序の回復を体現した政治家。第二次大戦中は対独協力のヴィシー政権の官僚で勲章を受けながら同時にレジスタンスに協力するなど両義的な過去を持つ。「絶対的な反共産主義」を信条として戦後は政界に進出。16の内閣の大臣を務めた。
★5 URL= https://www.humanite.fr/medias/-/bernard-stiegler-le-chantier-du-xxie-siecle-inventer-un-nouveau-mode-de-vie
★6 バルデック・ロシェ Waldeck Rochet(1905-1983)。1964年からフランス共産党書記長、のちに左翼連合を率いて大統領となるフランソワ・ミッテランを1965年の大統領選で支援、1968年にはソ連のチェコ介入を批判し全ヨーロッパ共産党の会議を呼びかけるなど、穏健的なヨーロッパ共産党改革派であったが、68年のモスクワ訪問後に体調を崩し神経性の病気にかかり仕事を続けるのが困難になった。1972年党書記長を退任。共産党員で大詩人のアラゴンはのちに、「彼には、モスクワには行くなと忠告した。生きては帰ってこれないと分かっていた」と言い残している。
★7 ジョルジュ・マルシェ Georges Marchais(1920-1997)。病気のバルデック・ロシェ書記長の補佐として1970年にフランス共産党副書記長に就任、1972年に書記長に選出される。前任のロシェの路線を引き継ぎ、社会党他の左派政党との共同綱領にもとづくミッテランの左翼連合政権の樹立に貢献。他方で、1970年代のソビエト連邦の拡張主義に対して迎合的な姿勢をとり次第に共産党の退潮を招いた。
★8 バルバラ・スティグレール Barbara Stiegler (1971年-)は、1994年に哲学教授資格(アグレガシオン)を取得。2003年にニーチェについての博士論文でソルボンヌ大学博士号取得、現在、ボルドー・モンテーニュ大学哲学科教授。ニーチェについての著書、および、ネオリベラリズムの生政治批判の著作、などを発表、社会・時事問題についても、コロナ下での大学の閉鎖に対して「大学の即時再開を求める」声明(https://www.liberation.fr/debats/2020/11/28/pour-la-reouverture-immediate-des-universites_1806927/)を発表するなど、活発に発言している。
★9 日本でも1970年代に、マンガやテレビで「同棲時代」とかのテーマがはやったのは同じような人口動態と関係しているだろうか?
★10 ヌヴィルト法は、「避妊、とくに経口避妊薬の使用をみとめた1967年12月19日付のフランスの法律」のこと。提案したドゴール派議員リュシアン・ヌヴィルト Lucian Neuwirthの名から「ヌヴィルト法」と呼ばれている。ヴェイユ法は、「人工妊娠中絶に関する1975年1月17日付のフランスの法律」。ジスカール・デスタン政権の厚生大臣シモーヌ・ヴェイユSimone Veilが法案を起草し提案したので、「ヴェイユ法」と呼ばれる。
★11 「フランスのもっとも美しい村 Les Plus Beaux Villages de France」は、「質の良い遺産を多く持つ田舎の小さな村の観光を促進する」1982年に設立された協会で、この協会の選考基準を満たして認定を受けた村は、以下のwikipediaのページで確認できる。URL= https://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/fr/nos-villages/ 現在176村が認定を受けているようだ。
モンフランカンの紹介ページは以下。URL= https://www.les-plus-beaux-villages-de-france.org/fr/nos-villages/monflanquin/
★12 「ルノー・16」については、こちらのウィキのページを参照。URL= https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%BB16

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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