道理の前で 飛び魚と毒薬(11)|石田英敬

ここでは、他の誰も、入ってよいなどとは言われん。なぜなら、この入り口はただお前のためだけに用意されたものだからだ。
──フランツ・カフカ「道理の前で」[★1]
これまで連載を読んで来られた皆さんはお分かりと思うが、第8回で語ったベルナールの事件、第10回で語った私の事件、この二つの出来事を物語ることで、このクロス・バイオグラフィーの第一部はひとまず語り了えたことになる。
今回からは、第2部へと進むことにしよう。
ぼくたちが今いる歴史の時間は、だいたい1970年の半ばから1980年代の初めにかけてだ。
日本では首相が「三角大福」(分かるかな「三木武夫・田中角栄・大平正芳・福田赳夫」のこと)から中曽根康弘へと移り変わった時代。英国ではマーガレット・サッチャーが1979年に首相になり、米国ではロナルド・レーガンが1981年に大統領に就任する。現在にいたるネオリベラリズムと結びついた「保守革命」の基調が作られていく時期にあたる。
東側(社会主義諸国)ではブレジネフの末期からアンドロポフ、チェルネンコへと、ソ連の社会主義体制が老いた巨象の死を迎えようとしていた。
1976年9月9日に毛沢東が死んだ。そのとき、ぼくはパリのオルセー劇場にいて、日本から来た観世寿夫の「世阿弥座」の能公演を観ようとしていた[★2]。幕が上がる直前、「中国で毛沢東が死んだ」という緊急ニュースが場内アナウンスされて客席がどよめいたことを憶えている。中国は、4人組から鄧小平の「改革開放」の時代へ[★3]。
経済世界は、戦後復興期(フランスでいう「栄光の30年」)が完全に終わり、ヨーロッパは石油ショックから永い長い経済停滞期へと沈んだ。石油ショックを乗り越えた日本だけが、バブルへの道を歩み始めた頃だ。
フランスでは、中道のジスカール・デスタン大統領(1974-1981)から左翼連合政権の樹立(1981年)へと歴史は動いた[★4]。ミッテラン大統領が1981年5月21日の大統領就任式の日、赤いバラの花束を抱えてパンテオンへと入っていった。それについては、いずれ多少詳しく書くことにしよう。
文化状況については、これから徐々に語っていくことにする。
この連載を始めたときに言及したシャンタル・アケルマンの実質的デビュー作「Je Tu Il Elle」(1974)がカルチエラタンの小映画館にかかっていたのが1975年末から1976年春にかけて。今では映画史上の名作に必ず挙げられる彼女の代表作『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)を観たのも76年だ[★5]。
当時、ジャズのスペシャリストだったベルナールは、ジャズバー「日々の泡」で、いったいどんな選曲で客たちに聞かせていたのだろうか? ぼくの貧弱なジャズ知識でいえば、例えば、キース・ジャレットの『ザ・ケルン・コンサート』が1975年、彼がアルバム『サンベア・コンサート』に結実する日本演奏ツアーを敢行するのが翌1976年だ。
ロックではセックスピストルズの『God save the Queen!!』が1977年。女王エリザベス二世の即位25周年を祝う「銀婚式」の年にNo futureを叫んだ。「神よ、女王を救いたまえ/彼女は人間ではない/神よ、女王を救いたまえ/ファシスト体制だ/君には未来がない」というのがその歌詞[★6]。戦後復興の資本主義の時代が終わり、世界の行き止まりが見えてきた時代。ベルナールがよく言っていたことだが、パンクロックの出現は、まさに、サッチャー政権の登場、つまり、保守革命の日付と符合している。セックスピストルズのようなパンクのニヒリズムはおそらくそれと無関係ではない、若者たちは自分たちを傷つけることで消費を否定しどん詰まりの世界にプロテストし始めたのだ、と。
すでに述べたことだが、この時代は極左運動においては「鉛の時代」。西ドイツ、イタリアと同様、フランスでも、「直接行動(アクション・ディレクト)」のような極左グループがテロや銀行襲撃を繰り返していた[★7]。刑事犯事件でもメスリーヌの事件のような派手な出来事が耳目を賑わしていた[★8]。
マクロに見れば、ベルナールの銀行強盗事件など、ほんのささやかな(というべきなのか)コップの中の嵐だったろう。しかし、当事者にとっては、話は別である。
トゥールーズ、サン・ミッシェル刑務所
1978年6月、最後の銀行襲撃では現場に徒歩で向かい、数百メートル離れたカフェのテラスで逮捕されたベルナールは、裁判で禁固8年の刑を宣告される。15年の刑になってもおかしくなかったのだが、弁護士が有能だったのでこの量刑ですんだ、とのちに述懐している。
最初に収監されたのは、トゥールーズ市内のサン・ミシェル刑務所だった。
ここがどんなところかは、例えば仏語版ウィキペディアのページを見てもらうと概要が少し分かる[★9]。1872年開設。第二帝政末期に建設が始まり、普仏戦争からパリコミューン、第三共和政への移行期にかけて作られた。いまは市の歴史記念物として公開されていて、トゥールーズの中世の城塞を模したレンガ造りの正面が聳え立っている。ガロンヌ川を隔てて、ベルナールたちが最初にレストラン「狂った鍋」を構えたクロワ・ド・ピエール地区とちょうど対岸の位置、市の中心部にあったジャズ・バー「日々の泡」からは南へ三キロほど下がったところだ[★10]。いまだと旧市街に属する地区だが、創設当時は市の少しはずれた場所だっただろう。
正面はいかにも厳めしいが、門をくぐると、表敬広場と名づけられた石畳の広場があり、さらにその奥にフィラデルフィア制刑務所と呼ばれるいわゆるパノプチコン様式の監獄の翼舎が拡がっている。19世紀には通常の住居以上に暖房設備が完備されていて、とても近代的な施設だったという[★11]。
フランスでは、革命期から1939年までギロチンによる公開処刑が行われていた(死刑自体の廃止は1981年)。この刑務所でも1923年までこの門のまえで、それ以後は表敬広場で1948年まで執行されたと記録には書かれている。
第二次大戦中には、後にドゴール政権の文化大臣となる作家のアンドレ・マルローAndré Malraux(1901-1976)をはじめ、多くの対独レジスタンスの闘士たちが収容され拷問・処刑された歴史の場所でもある(マルローは脱獄に成功)。
2009年に最後の受刑者30人が別施設に移されて、刑務所の機能は完全に移転している。最終期となった2003年に「刑務所最後の日々として」撮られた記録写真が、次のサイトに載っている[★12]。だいぶ大変なところという印象だ。
ただし、刑務所生活も時代によって、大きな変化があったことは、私たちは知っておく必要がある。
刑務所改革の時代
とくに、ベルナールが収監された1970年代は刑務所改革が進められた時期にあたる。奇妙な言い方になるのだが、刑務所に入るには、ある意味で、最も好条件に恵まれていた時代(!)と言えそうなのだ。
どういうことかと言うと、具体的には次のような要因が挙げられる。
①社会の自由化・民主化
②犯罪の増加と刑務所過密化
③国際的な人権意識の高まり
④社会復帰の重要性の認識
順に見ていこう。まず①、〈六八年五月〉の学生運動や労働運動を契機に、フランス社会では人の権利と自由に対する意識が高まり、国家権力や制度に対する疑問が広く提起された。刑務所制度も例外ではなく、刑罰においても人道的な扱いを求める声が強まった。
学生や活動家たちは街頭闘争などで逮捕投獄され、監獄の現実に触れる機会が増えたし、受刑者たちの間にも彼らとの交流を通じて人権や生活改善の要求が広まった。さらに国家権力の側も1969年にドゴールが国民投票で敗北して退場し、ポンピドゥーが大統領に就任。首相に任命されたジャック・シャバン゠デルマスは新政権のための総合的な国家政策「新しい社会」を掲げて現代化に取り組む姿勢を打ち出していた[★13]。
そして②。フランスの刑務所は第二次世界大戦後から収容者数が増加傾向にあり、1970年代初頭には全国の刑務所が定員を大幅に超え、受刑者1人あたりの生活空間が極めて狭小化していた。老朽化した施設も多く、特に短期刑の受刑者が多い施設(Maison d’arrêt)では、過密状態による衛生状態の悪さ、暴力、教育や医療へのアクセス不足といった劣悪な環境が問題視されていた。そうしたなかで受刑者の不満が高まり、各地で暴動や抗議行動が多数発生した。
代表的な事例として、1971年にクレルヴォー刑務所の受刑者クロード・ビュッフェとロジェ・ボンテムが、看守と看護師を人質に取り、最終的に殺害したという事件がある。この施設は1115年に設立された修道院を1808年にナポレオンが刑務所に転用したもので、歴史的に多くの政治犯や重罪犯が収容されていた。事件の結果、両名は翌年ギロチンで処刑された。人質殺害も、また早々とした裁判による受刑者のギロチン処刑もショッキングで、世論は沸騰した。
あるいは1972年、パリ近郊に位置する大規模な収容施設フルネー刑務所で、受刑者たちが過密状態や劣悪な環境に抗議。処遇改善を求めて組織的な行動を起こし、施設内での破壊行為や放火が発生した。 クラヴァル刑務所では1971年、過密状態や劣悪な環境に対する抗議として暴動が発生し、施設の一部が破壊された。 パリ14区に位置するサンテ刑務所でも、1974年、処遇改善を求める受刑者と治安部隊との衝突が発生した。
こうして刑務所の劣悪な環境や制度的な矛盾が社会問題として浮上するなか、知識人や左派の活動家が監獄問題に取り組むようになる。代表的なものが、ミシェル・フーコーらの「監獄情報グループ Le Groupe d’information sur les prisons (GIP)」(1971年発足)の活動だ[★14]。フーコーにとってその経験は、1975年に刊行される『監視と処罰──監獄の誕生 Surveiller et punir: la naissance de la prison』に結実することになるのだが、GIPについては今後、別の箇所で詳しく論じることにする[★15]。
③に移ろう。ヨーロッパ人権条約などの影響もあり、国際社会において人権尊重の理念が普及し、フランスもその影響を受けた。ヨーロッパ人権条約は1950年にヨーロッパ評議会(Council of Europe)によって制定され1953年に発効した国際条約で、締約国の市民の基本的な人権と自由を保障することを目的としている。フランスは条約採択時からの加盟国であり、この条約を国内法に優越するものとして扱っている。刑務所改革や受刑者の人権保護政策に関しても、個人の基本的自由を守るための強力な枠組みになっている(現実はいつも規範から逸脱し続けているから、いわば「外圧」として、現実を矯正する役割を果たし続けているわけだ)。
これらを背景に④、犯罪者を社会から排除するのではなく、更生させて社会復帰させることの重要性が認識されるようになった。フランスでは1972年に、過密化や劣悪な環境に一定の対策を講じることを目的に、刑務所法が改正された[★16]。主な内容としては、受刑者の生活環境改善、収容条件の緩和、食事の改善、医療サービスの強化など。また教育と再社会化、受刑者への教育プログラムや職業訓練の提供が謳われ、面会や通信の制限を一部緩和するなどの権利拡大が盛り込まれた。刑務所内で良好な行状を示し社会復帰への努力が認められる受刑者に対して、刑期の減刑を認める「模範囚に対する減刑に関する法律」もこのとき制定された。更生と社会復帰を制度趣旨とする「拘置センター Centre de détention」という刑務所のカテゴリも一九七五年に創設され、実際にベルナールも拘置されることになる。
だいたい、以上が、1970年代半ばの刑務所をめぐる法制度上の状況なのだが、法律面でのテクニカルな問題の整理は本稿の範囲を超えている。
ここでは、むしろ、ラジオインタビューでのベルナールの証言を聞こう。
1973年か1974年か、どちらか想い出せませんが、フランスでは刑務所で幾つも大きな暴動が起こって、たくさんの死者も出ました。そこで、刑務所の改革が行われたのです。
私が入獄したのは、刑務所の歴史のなかでも刑務所での生活がいちばん過酷でない時期だったのです。服役した刑務所の所長は聡明な人で明確な考えの持ち主でした。受刑者に最大限の苦痛を与えようなどというのではなくて、囚人たちを社会復帰させてもう刑務所に戻ってこないようするにはどうしたらいいかと考えている人でした。信念をもった人だったと思います。その所長には一度も直接会ったことはなかったんですが、彼のポリシーは身に沁みて経験することができました。[★17]
ベルナールが哲学に目覚めていくには、刑務所の状況がそれを許すものでなければならなかった。そして、おそらく、この1970年代後半から1980年代初めが、その意味では、最も恵まれた状況だったのだ。
この時期を過ぎると、刑務所の状況は、再び劣悪化していく。1972年刑務所法改正は大きな前進だったが実施は不十分で、1970年代末には再び過密化が深刻化。1980年代には、ヨーロッパ人権裁判所がフランスの刑務所環境を非人道的であるとする判例を出し始め、実質的な改善圧力が強化された。それでも刑務所の過密状況は(フランスに限らず)今日までいっこうに改善の兆しが見えない。数多くの出版物やドキュメンタリーがフランスにおける劣悪な刑務所の状況を扱っている[★18]。
ミュレ拘置センター
ベルナールは最初3年間サン・ミシェル刑務所で過ごし、その後2年弱ミュレ拘置センターで過ごしたと書いている[★19]。
フランスの刑務所は、収容者の刑期、犯罪の重さ、社会復帰の見込みなどに応じて区別分類されている。
「中央刑務所 Maison centrale」は、長期服役者や重罪を犯した高リスクの収容者が対象で、厳格な管理体制が敷かれている。長期刑に対応するため、特に厳しい監視と制限が設けられている。社会復帰よりも、治安維持と隔離が重視される。
「拘置所 Maison d’arrêt」は、未決拘禁者(裁判待ちの被告人)及び刑期が短い(通常2年未満)の受刑者を対象として、一時的な拘留に特化している。短期間の収容が前提のため、リハビリや再教育プログラムは限定的である。施設は都市部に多く、近接性が重視される。収容の課題として、定員超過が頻繁に発生する。
「拘置センター Centre de détention」は、中期刑を受けた収容者(通常2年以上の刑期)を対象として、社会復帰プログラムが重視される。生活の自由度が比較的高く、教育や職業訓練が提供される。受刑者の再社会化を目的としているため、精神的・教育的支援が行われる(これ以外にも、複数の施設を併せ持つ「総合刑務所」や、「未成年用施設」などがあるが、ここでは説明を省く)[★20]。
サン・ミシェル刑務所は「拘置所」に当たるから、ベルナールは刑が確定するまで、そこに拘置されていたと考えられる。そして、その後8年の判決を受けて収容されたのが、「拘置センター」にあたるミュレ拘置センターだった、ということなのだろうか。詳細は不明である。
トゥールーズ市内のサン・ミシェル刑務所から南西に約20キロ離れたオート゠ガロンヌ県のミュレ郡に所在している[★21]。フランスでは栄光の30年を代表する建築家と呼ばれたりする高名な建築家ギョーム・ジレGuillaume Gillet(1912-1987)の設計で1966年に中央刑務所として開設された、当時としては新しい刑務所だった[★22]。1975年に「拘置センター」に改組。長期拘置者638人収容でフランス最大の拘置センター、目下600名の収容能力増員計画が進行中との記述がウィキペディアにはある[★23]。
さきほど引用した刑務所長の改革努力の話は、むしろ、この拘置センターでのことだったのではないかと思われる。長期の服役者を対象とした施設だし、社会復帰のための教育や職業訓練が規定されていて、個別監房(つまり個室)が原則だった。房から施設内の他の場所(運動場や食堂など)への「外出」も可能であるようだから、この面でも、ベルナールの孤独な思索生活にとっては好条件であったと言えるだろう。皮肉なことだが、長期刑囚となったことにより「恵まれた」環境を手に入れることができたというわけだ。
ただし、完全に恵まれた環境だったかというとかならずしもそうとはいえないようだ。ベルナールの過去の事件と収監はよく知られたことだったから、私も幾度か、フランスの刑務所で勉強はできるのか、と質問してみた。答えは「自分の時代にはまだ可能だった、だが、いまではもう可能ではない」ということだった。
とくに重要なポイントは、刑務所内で、反省=省察するために一人きりにさせてくれるかどうか、という点だ。 じつは、「個別監房の原則l’encellulement individuel」は、じつに1875年6月に制定された「県立刑務所の運営に関する法律」にすでに謳われていたものだ[★24]。この法律では、「一年と一日以下の懲役刑に処された者は、個別監房に収容される」と規定されており、その目的は未決拘禁者や短期刑の受刑者を隔離することにあった。
しかしながら、この原則はむしろ中央刑務所や拘置センターのような長い刑期を宣告された服役者にはおおむね適用されるようになったものの、拘置所のような未決あるいは短い刑期の服役者には、ほとんど実行に移されることはなかった。そして、現在に至っても、この原則の実施は遠い未来へと先延ばしされ続けている[★25]。
だから、ベルナールは、個別監房での生活を手に入れるために、ハンガーストライキをして戦わなければならなかった、と回想している。
三週間ハンストしました。ひとりにしてくれなければハンストをすると。そうするとしばらくはひとりになれました。そうしたら、また誰かと一緒にすると言われたので、また三週間ハンストをする、と、そういうふうに、何度も独居房に入れられることになりました。それは、懲罰ということではなくて、単純に刑務所には場所が不足していたということなのです。私にとっては、 誰かと一緒にされるより、独居房に閉じ込められる方がましだった。あのQHS(高度監視房)に入れられたことも何度かあります。完全隔離状態に囚人を閉じ込める場所です。看守とさえ、かれらが複数でないかぎり、鉄格子を通してしか顔を合わせることもない完全隔離です。大変に厳しい環境ですけど、それでも独りでいられる方がよかった。[★26]
このようにハンストをした話は、幾つものインタビューで語っている。私との会話でも、「僕は頑固だから、独りにしてくれるまでは何も食べないといって頑張って要求を貫徹した。2ヶ月だれとも話さなくても平気な性分だからね」と笑っていた。
「大いなる閉じ込め」と「内省」
さて、今回、語り始めたベルナールの獄中生活だが、すでに幾度も繰り返したように、初発においていくつもの好運に「恵まれていた」ということはいえる。しかし、問題の本質は、その先にある。
逮捕投獄されて、すぐに(数週間で)、反省と更生への道を歩み始めた。
最初に頭に浮かんだことは、どうやって自殺しようか、というようなことでした。それは(私のようなケースの場合)皆が考えることだと思う。だけど、自分には二人の子供たちがいた。で、いや、自殺はいけない、自分はここから出なければいけないんだと考え直しました。
[……]
数週間のうちに、お前はここから出て世界に戻らなければいけない、と考えるようになったのです。子供たち、音楽、人生をあんなに愛していたのに、こうして自由を奪われてしまった、それは自分の犯した銀行強盗の結果なのだけれど、と、多くの受刑者と同じよう反省したわけです。自分には突然、世界が失われてしまった、と強く思ったわけです。[★27]
これから、この話は、かれの内省生活に踏み込んでいくのだが、そこにも、哲学者ジェラール・グラネルGérard Granel(1930-2000)とのあらかじめの出会いと友情を初めとして、幾つもの「好運」が関与していることが語られることになるだろう。
他方で、ベルナールの軌跡は、歴史的にも社会的にも幾つもの「好運」に恵まれ、本人も例外的な(カッコ付きの)「天才」の持ち主であったので、その後の「かれ自身」となった、というオハナシ──ある種の好奇なサクセスストーリー──としてまとめられてよいのだろうか? という視点は、つねに確保しておきたいと思う。
それは、たぶん、監獄と内省、というような、普遍的なテーマに関わる問題だ。
「大いなる閉じ込め」によって、正常化社会を近代が生み出していくさまを『狂気と非理性──古典主義時代における狂気の歴史』で描き出したフーコーは[★28]、この時代、GIPの運動をへて、『監視と処罰』を書いていったのだが、それに接続する(ほぼ)同時代に、監獄に実際に入った(将来の)哲学者が、刑務所のなかで、彼なりの「デカルト的省察」(フッサール)を開始し、自身の独房を「現象学の実験室」に変えていく。
その展開を追うのは、次回以降となる。
★2 オルセー劇場とは、パリ7区、現在のオルセー美術館の位置にあった鉄道オルセー駅の上階(というか屋根裏というべきか)に仮設テントのように作られていた劇場。〈68年5月〉に学生たちと連帯してオデオン座を開放していたジャンルイ・バローが、政府から睨まれてオデオン座支配人をクビになった。そこで彼の劇団である、ルノー・バロー劇団が1972年から1979年までテント劇場風の舞台(といってもかなり大がかりな施設)を構えていたのだ。詳しくは以下のウィキペディア項目とINAアーカイヴを参照。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Théâtre_d'Orsay/ https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/annees-70-la-gare-d-orsay-abrite-le-theatre-le-plus-original-de-paris
★3 四人組は、1960年代から約10年続いた中華人民共和国の文化大革命を主導した4人の政治家、江青・張春橋・姚文元・王洪文を指す呼称。毛沢東の死去後に失脚し、華国鋒が中国共産党中央委員会主席に就任。その後、復権した鄧小平が1978年から中国を共産主義経済から資本主義経済に転換させる「改革開放」を掲げ、今日の中国の市場経済の基調をつくった。
★4 フランスでは〈68年5月〉ののち、1972年に社会党と共産党を中心として「共同綱領」にもとづく政府をめざす左派の動きが結集。1974年の大統領選挙ではジスカール・デスタンの中道・右派連合が勝利したものの、1981年の選挙では左翼連合の社会党書記長のフランソワ・ミッテラン François Mittérand (1916-1996)が大統領に選出された。後出のミッテランの就任式の様子はyoutubeで見ることができる。URL= https://www.youtube.com/watch?v=NDIaGSoNwjQ
★5 Chantal Akerman, Jeanne Dielman, 23 quai du Commerce, 1080 Bruxelles, 1975. 「Je Tu Il Elle」については、連載第1回を参照されたい。URL= https://webgenron.com/articles/gb080081_01
★6 以下のオフィシャルサイトを参照。歌詞部分訳は石田による。Sex Pistols - God Save The Queen Revisited. URL= https://www.youtube.com/watch?v=g-38GX2YQig
★7 西ドイツではバーダー、マインホフのドイツ赤軍、イタリアではアルド・モーロ元首相誘拐暗殺事件の「赤い旅団」が有名だが、フランスでも極左テロ組織「直接行動 Action directe」が1978年以降、財界首脳を誘拐、政治家を銃撃するなどのテロを多発。1986年にはルノー財団総裁を殺害するなどした。
★8 ジャック・メスリーヌ Jacques Mesrine (1936-1979)は、富裕なパリの家庭に生まれたアルジェリア戦争からの元帰還兵。カナダとアメリカ、中南米で犯罪と脱獄を繰り返したのちに、フランスに帰国。1973年ごろから、フランスで銀行強盗をかさねて検挙されても裁判所から脱走、さらにパリのサンテ刑務所から脱獄、不動産王を誘拐して身代金を要求、脱走中に週刊誌記者インタビューに応じるなど、犯罪のメディア化現象を引き起こした。その点では、日本の1980年代のメディア型犯罪、グリコ・森永事件の怪人21面相を思わせる事件。1979年11月パリの北18区クリニャンクール門の路上で恋人ともに信号待ち停車中のBMWが警官隊に包囲され一斉射撃を浴びて死亡した。
メスリーヌについては、本人の自伝を含めて出版多数。幾つかの日本語訳もある。youtubeで見ることのできる本格的ドキュメンタリーもある。例えば、Faites Entrer l'Accusé : Jacques Mesrine, l'homme aux mille visages. URL= https://www.youtube.com/watch?v=OEhNcNqJjsg
★9 Prison Saint-Michel (Toulouse) URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Prison_Saint-Michel_(Toulouse)
★10 ベルナールの店については本連載第8回と第9回をそれぞれ参照。
★11 1929年頃の施設の様子は次のブログで見ることが出来る。
URL= https://www.lebusca.fr/2006/11/prison-st-michel-photographies-des-xixeme-et-xxeme-siecle.html
★12 URL= http://www.dominiquedelpoux.eu/prison-toulouse-saint-michel/
★13 Jacques Chaban-Delmas (1915-2000)は、第二次大戦中のレジスタンス活動家、国家官僚、ドゴール派の中心的政治家。〈68年5月〉の危機を収拾するために「新しい社会」をスローガンに新内閣を発足させた。「新しい社会」は、ジャック・ドロールJacques Delorsやシモン・ノラSimon Noraら気鋭の国家官僚が立案執筆を担当した、総合的な社会政策パッケージで、中央集権的な統制から脱却し、地方分権、行政の簡素化、国民への情報公開を推進することを提言していた。しかし、車番=デルマスは大統領のポンピドゥーとの折り合いも悪く、計画は大方実行に移されぬままに終わった。
★14 ミシェル・フーコー、著述家で『Esprit』誌編集長ジャン・マリー・ドームナック Jean-Marie Domenach, 歴史家ピエール ヴィダル゠ナケ Pierre Vidal-Naquetらによって組織された監獄情報グループ(Groupe d'information sur les prisons: GIP)については、今後、より詳細に述べる場面があるだろうが、とりあえず、次のように紹介しておく。監獄制度の問題点を明らかにし、改善を目指した社会運動体。政治犯と通常犯の区別を超えて、刑務所における大規模なアンケートを実施。 監獄における劣悪な環境や人権侵害の実態を、囚人自身の言葉を通して社会に訴えかけることで、監獄制度に対する批判的な意識を高め改革を促すことを目的とした。
★15 『監視と処罰──監獄の誕生』については、次の拙稿もご参考までに。URL= http://nulptyxcom.blogspot.com/2018/03/20184.html
★16 フランスの刑務所政策の変遷は以下のサイトにまとめられている。URL= https://www.vie-publique.fr/eclairage/269812-politique-penitentiaire-chronologie#_945---1980--mise-en-place-des-grands-principes-qui-régissent-encore-aujourd’hui-la-politique-pénitentiaire
★17 この連載で何度か参照しているラジオシリーズの、第3回放送分を参照。 URL= https://www.radiofrance.fr/franceculture/podcasts/a-voix-nue/un-laboratoire-carceral-9609143
★18 例えば、次の社会学者の調査 Corinne Rostain Une institution dégradante, la prison (Gallimard, 2021)、ベルナールが出演証言しているFrance Interの次のラジオ番組、FRANCE INTER (2006) Bernard Stiegler, philosophe et ancien braqueur, nous parle de la prisonなどを参照。後者は非公式ながら以下で視聴できる。URL= https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=kbxj-XW2cWo
★19 Bernard Stiegler, Dans la disruption: comment ne pas devenir fou? , Les Liens qui Libèrent, 2016, p.93.
★20 以下のサイトとウィキペディアの記事を参照。URL= https://www.vie-publique.fr/fiches/268775-quels-sont-les-differents-types-de-prisons/https://fr.wikipedia.org/wiki/Liste_des_%C3%A9tablissements_p%C3%A9nitentiaires_en_France
★21 1967年の映像は以下のINAアーカイブで見られる。
URL= https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/caf96033131/prison-modele-de-muret
ルモンド紙にミュレ拘置センターの長期服役者の生活を2017年に取材したドキュメンタリー番組についての記事が掲載されている。番組自体には日本からはアクセスできない。URL= https://www.lemonde.fr/televisions-radio/article/2017/10/15/tv-la-vie-derriere-les-murs-ou-l-ordinaire-des-longues-peines_5201222_1655027.html
★22 ギヨーム・ジレについては以下の博物館の紹介が詳しい。URL= https://expositions-virtuelles.citedelarchitecture.fr/GILLET/00-OUVERTURE.html
★23 URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Centre_de_détention_de_Muret
★24 国際監獄監視団フランス支部(1990年に発足したNGO)の次のページを参照。
URL= https://oip.org/breve/encellulement-individuel-cent-cinquante-ans-plus-tard-lapplication-du-principe-encore-repoussee/
★25 理由は、拘置所の慢性的な過密状態で、2021年9月では、収容者の54%が収容率が120%を超える施設で生活しており、1281人の収容者がベッドを持たず、床に置かれたマットレスで寝ていたという調査がある。
2022年10月27日、国民議会は、2023年度予算案の第一読会において、個別監房の原則を例外とする可能性をさらに5年間延長する修正案を採択した。この例外措置は、「施設内の部屋の配置や収容者数がその適用を可能にしない場合」に認められるもので、2022年12月31日まで有効とされていたものだが、このモラトリアムは、2027年12月31日まで延長されることとなった。
★26 France Inter 2006 の前掲番組より。なおQHS(高度監視房)とは、囚人を完全な隔離状態に置く特別な独房。その運用は、非人間的との評価からフランスではミッテラン大統領時代の法務大臣ロベール・バダンテールによって1982年に制度変更され隔離状態が緩和された。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Quartier_de_haute_sécurité
1978年当時の状況については、次のINAのアーカイヴで見ることができる。URL= https://www.ina.fr/ina-eclaire-actu/video/caa7801644001/quartier-haute-securite
★27 同番組より。
★28 『狂気の歴史』の第一版の原書タイトルは、Fol et déraison — l’histoire de la folie à l’ âge classique, Plon, 1961)だった。


石田英敬