想像力を権力に! 1968年5月20日 飛び魚と毒薬(5)|石田英敬

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webゲンロン 2024年4月9日 配信
石田英敬さんの人気連載「飛び魚と毒薬」。2024年10月4日書店発売の『ゲンロン17』ではいよいよ連載第10回をむかえ、ある衝撃的な事件の顛末が語られます。このたび『ゲンロン17』の発売を記念して、「飛び魚と毒薬」のこれまでの回をすべて期間限定で無料公開します。ぜひお楽しみください!(編集部)
 
「飛び魚と毒薬」連載ページはこちら
URL=https://webgenron.com/series/ishida_01

 前回詳しく語った5月10日夜から11日朝にかけての「バリケードの夜」の衝突は多数の負傷者を出し、警官隊の暴力的な弾圧は人びとの義憤を買うことになった。メディアの論調がこの夜を境に大きく変化した。大学だけの問題ではもはやなくなったのだ。

 コーン゠ベンディットらの学生指導者たちはゼネストを呼びかけ、週が明けた13日月曜日には、じっさいに労働団体も合流してゼネストが行われた。大学生、高校生、労働者、会社従業員が全国各地からパリに集まって、街頭に50万人、フランス全国でも100万人規模のデモ隊が出た★1。その後も巨大なデモがさらに続き、フランス各地に労働者のストや工場の占拠が拡がり、異議申立ての動きはますます拡大していく。

 これ以後、〈68年5月〉の研究では、第二の局面、「社会期」に入ったとされる★2

都市と革命

 パリは、街全体が劇場といってもよい都市だ。

 ヨーロッパの都市(シテ)は政治空間(ポリス)でありかつ劇場でもある。石造りのパリの街を本に喩えたのはヴィクトール・ユーゴーだ。彼の『レ・ミゼラブル』でちびっこガヴロッシュが活躍する、1832年の六月蜂起のバリケードを思い起こしてほしい。「革命」は、この劇場都市が好んで定期的に上演する人気のスペクタクルだ(フランスという国のソフト・パワーの源泉といってよいかな)。

 高校で勉強した世界史を思い出そう。フランス革命(1789年バスチーユ襲撃、1792年フランス第1共和政成立)、7月革命(1830年)、2月革命(1848年)、パリ・コミューン(1871年)、人民戦線(1936年)、パリ解放(1944年)……。その都度、この首都は人民蜂起による政体の転換──だから「革命」──の舞台となってきた。1世代分(つまり30年ぐらい)ここで生活していれば、革命騒ぎには必ず出くわすことになる。

 そして、世代を超えてその物語は語り継がれる。共和国の方でも7月14日の革命記念日(東洋のさる国では、それを「パリ祭」などという甘ったるいおフランス味にして政治的に脱色してお祝いしているが)を国家の祝祭の中心に据えているし、ちょっとした政治問題となれば人びとはデモしにバスチーユ広場に出かけていく。

パリ・コミューンとは何か。それはまず巨大で雄大な祭りであった。フランス人民と人民一般の精髄であるパリの人民が、自分自身に捧げ、かつ世界に示した一つの祭りであった。シテ島における春の祭り、財産を奪われた者とプロレタリアの祭り、革命的祭りであるとともに大革命の祭り、現代のもっとも大きな全体的祭りであったこの祭りは、何よりもまず壮麗と喜びのなかでくりひろげられる。
[中略]
ついで、あるいは同時に人民は自分自身の祭りに満足し、それを見世物(スペクタクル)に変える。人民は思いちがいをし、誤りをおかすことになる。なぜなら人民が自分自身にあたえる見世物は、それ自体が人民をまどわすからである★3

 とつぜん引用したが、ナンテール校の教授だった都市社会学者アンリ・ルフェーヴル Henri Lefebvre(1901-1991)の『パリ・コミューン』の一節だ。原著は1965年に刊行されているが、「コミューン」という文言を置き換えれば、そっくりそのまま〈68年5月〉の記述と見まごうばかりだ。じっさい、同じく社会学者のエドガール・モーラン Edgard Morin(1921 -)が、68年5月にルモンド紙にリアルタムでこの出来事について連載したときのタイトルは、「学生コミューン」だった★4

 革命には、バリケードが付きもの(「バリケード」もパリの発明品)。オーギュスト・ブランキの『武装のための指南書』(1866)には、「バリケード1立方メートルあたり25センチ角の舗石が64個必要」で、全部で「144立方メートル9168個の舗石」をつかって、バリケードを築け、と図面付で「標準的バリケード」の作り方が詳しく説明されている★5。前回写真を紹介した、ゲイ・リュサック街で整然と舗石をリレーする若者たちは、こうした”伝統芸”を忠実に再活性化させたというわけなのだ。

 

 そして、革命の祭りとなるとこの街の人びとは昂揚する。

 じっさい、「社会局面」に入って出現したのは、人びとを隔てていた垣根が取り払われ、街角のいたるところで、見知らぬ市民同士が、賛否様々、侃々諤々、百論噴出で、あらゆる問題について議論をたたかわせる光景だった。

 具体的にその様子を知りたいと思う人には、例えば、このリンク先の映像を見てもらいたい★6。著名なアメリカ人写真家のウイリアム・クラインが制作した『大いなる夜々、朝まだき。1968年5月あなたが現場にいたとすれば』という映画だ。出身も社会階層も雑多な人びとが、街角でいかに言葉を交わし議論したか、その様子を目撃することができる。映像のなかには高校生行動委員会(CAL)の高校生たちも出てくるから、ベルナールもまだあどけなさの残るこんな10代の若者のひとりだったのだろうと思わせる場面も見つかるはずだ★7

 

 5月15日からは、ソルボンヌから徒歩で5分ほどの国立劇場オデオン座が「革命行動委員会」の学生市民たちに占拠されて、中心的なシンボルとなった。まさしく革命の祝祭の劇場になったわけだ。それもこの劇場の歴史を知っていればまたうなずける。

 新古典様式のこの建物、フランス革命前夜の1782年に竣工、王妃マリー・アントワネットがオープニング・セレモニーを主催。1784年にボーマルシェの『フィガロの結婚』が初演されたが、貴族支配を痛烈に批判する内容に、のちに断頭台の露に消えることになるルイ16世が「唾棄すべき作、これがまかり通るならバスチーユなど潰すべし」と激昂したことは有名。逆に、ダントンは「フィガロが貴族を殺した」と喝采したというし、ナポレオンは、「これぞまさに革命劇」と宣うたそうだ。 

 1968年当時の劇場支配人は、文化大臣のアンドレ・マルローが1962年に推挙した演劇界の巨星ジャン゠ルイ・バロー Jean-Louis Barrault(1910-1994)★8。なかなか人の良いひとだったし、2年前にジャン・ジュネの『屏風』上演が極右の団体に妨害されたときに学生から支援を受けてシンパシーもあった。「失望させる人たちはいるかもしれないが、もう支配人はやめだ、私は一俳優にもどる。バローは死んだ」と宣言して、占拠する学生たちの排除を拒否。これ以後、劇場を討論の場にすることに同意し、連日、様々な市民たちが集まってきて、自分たちの人生を語り議論に花を咲かせることになった。このオデオン座占拠に一役買ったのは、ハプニング劇の導入で知られたアーチストでアクティヴィストのジャン゠ジャック・ルベル Jean-Jacques Lebel(1936 - )や、のちに、『速度と政治』などで知られることになる都市計画家のポール・ヴィリリオ Paul Virilio(1932-2018)などだった。

巨大な文化祭

 この頃には、カルチエ・ラタンは、無名の大衆も作家や文化人も巻き込んで巨大な文化祭のような活況を呈したというわけだろう。

 街角の壁にはさまざまなグラフィティが書かれ、美術学校(ボーザール)の学生たちのアトリエが制作したポスターが刷られ貼り出された。

「美は街頭にあり «La bouté est dans larue»」(このポスターはすばらしい、芸術品ものだ。★9
「禁止することを禁止する «Il est interdit d’interdire»」(有名なグラフィティ)
「現実主義者たれ、不可能を要求せよ « Soyons réalistes, demandez l’impossible ! »」
「想像力が権力をとる «L’imagination prend le pouvoir»」(このスローガンについては後述)、等々……

 後世の記憶に刻まれることになる、幾つもの「壁の言葉」が残された。イエズス会士であり、神秘主義研究で知られた精神分析家で哲学者のミシェル・ド・セルトー Michel de Certeau(1925-1986)は、イエズス会の思想誌『エチュード』の6月号に、「5月、ひとびとは1789年にバスチーユを奪取したように、言葉(パロール)を奪取した。[……]バスチーユの奪取とソルボンヌの奪取という、二つのシンボルの本質的なちがいは、囚われていた言葉が解放されたことだ」、と書いた。

 

 ソルボンヌの中庭にはピアノが運び込まれジャズが演奏された。

 ユーゴーやパストゥールの像には赤旗や黒旗(分かるかな、アナーキストの旗だよ)が掲げられ、構内には壁新聞が張り出された(中国では文化大革命の最中だったから、その影響もあったのかもしれない)。マルグリット・デュラスやモーリス・ブランショやその他多数の文化人たちが参加して「学生‐作家委員会」が結成されて巨大なカルチャースクールが出現した。学生たちは「自主管理」を敷いて、討論のためのフォーラムを組織、連日、延々と討議が続けられた。

 これ以後、この巨大な文化祭は一ヶ月ほど続けられた。(すでにお断りしたように)この連載は、「5月革命」についてではないから、事実経緯の詳細については。今回はこの辺で切り上げることにしよう。)

サルトルの登場

 ここで現代思想の問題として、少し立ち止まって考えてみたいのは、サルトルの登場とその意味だ。

 断っておくが、私はサルトルには詳しくない。高校1年ぐらいから大学2年ぐらいまで(要するに、この連載でこれからおいおい語ることになる、哲学や思想や政治に目ざめ、学生運動へのささやかなコミットで大きな挫折を経験する頃まで)、一生懸命に読んだのだが、その後は、だいぶ遠ざかってしまった人なのだ。でも、尊敬はしていますよ、もちろん。20世紀の歴史のなかの大思想家。「自我の超越 La transcendance de l’ego」(1936)という初期の現象学の論文があって、いまでも鮮明にその思考の切れ味の鋭さを覚えている(サルトル全集〈第23巻〉『哲学論文集』人文書院)。その論文はいまでも内容を思い出せるぐらい読み込んだはず。駒塲の1年のとき、山崎正一教授(カントのご専門で、谷中興禅寺のお住職、東大退職金で『山崎賞』が創設され多数の若手哲学者が顕彰された)の哲学概論の最終試験でこのサルトルの非人称コギトとランボーの「私とは一個の他者 Je est un autre」を組み合わせて論述して「優」を採ったのはよい思い出だな。

 ジャン゠ポール・サルトル Jean-Paul Sartre(1905-1980)は、5月20日の夜に午後10時頃から占拠中のソルボンヌ「大講堂 le Grand Amphithéâtre」にやってきて、学生たちと対話を行った。何人の聴衆が集まったのかは正確にはわからないが、ソルボンヌで一番大きなこの講堂の座席数は1000人規模だから、立錐の余地なく詰めかけて立ち見や地べたに座り込んだ学生たちを見込むと数千人ぐらいの聴衆だったようだ★10。その対話の様子は、不完全な録音だが、以下のYouTube★11で聴くことができる(ノイズが多く聴衆の質問は遠くて聞こえにくいからそれなりのフランス語聞き取り力が必要)★12

 その録音の中でも言及されているが、同じ5月20日付で出た『ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』誌にサルトルはコーン゠ベンディットへのインタビュー(その2日前に収録された)を掲載していて、そのタイトル「想像力を権力に L’imagination au pouvoir」は、〈68年5月〉を集約する言葉として以後引用されるようになった★13。もうひとつのスローガン「想像力が権力を取る L’imagination prend le pouvoir」に比して、「想像力を権力に l’imagination au pouvoir」という表現は日本語ではかなり分かりにくい★14。どういう意味かというと、「想像力を権力の位置に置け mettez l'imagination à la position du pouvoir」という意味。想像力に政治的イニシアティヴを与えよ、という命令が込められている。

「学生たちとの対話」

 まず、「大講堂での対話」の様子を簡単に紹介しよう。 

 ソルボンヌでの学生たちとの対話の録音をYouTubeで聴いてみると、サルトルのダミ声の発話はとても聞き取りやすい(以下の発言は石田による訳出)。

  「だいぶ前だけれど、自分は高校で教えていたことがあるんだが、今日は講義をするわけではなく、皆さんは大学を変えたいと言っているわけだから、私が一方的に語りかけるのではなく、みんなの輪の中に入れてくれたまえ」、「自分たち[学生-作家委員会の]作家は、学生との対話のためにやってきた。みなさんの役に立つためには、皆さんの批判を受け対話する必要があるのだよ、ここは批判的大学というわけなのだから」とじつに柔軟に語りかけている。ものすごい数の聴衆がいっせいに声を上げたり叫んだり、拍手したりしているのだが、よく通る声でゆっくりとはっきりと発話し、みんなに分かるように話すことに慣れている教師の発声法だ。「Je pense que... 私が思うには……」というのが口癖みたいで、多用している。まず、「Je pense われ思う」と言う人なんだね。

 

 録音のノイズが大きく内容を完全に聞き取れているとは思えないのだけれど、発言の幾つかを箇条書き的にまとめてみよう。(括弧は石田による補足。ここではオーラルな雰囲気を伝えるために基本的に口語調にしている。最後のマルクーゼについての発言は録音が欠落しているので、日本語訳を引用させていただいた。)

 1 大学は万人に開かれていないといけない。そのためには若い労働者がすくなくとも週二日の休暇をもち、大学に通えるようにすることだ。

 2 この運動はブルジョワやプチ・ブルジョワの子供たちが、抑圧されてきた多数派の労働者と結びついたものだ。しかも最低限の経済的要求ではなくて、革命のプログラムまで掲げたところにこの反乱の大きな挑戦がある。

 3 右にせよ、左にせよ、既存の権力による諸要求闘争路線の轍に陥ってはならない。その点で、異議申し立てというラインを維持することが肝心と主張するコーン゠ベンディットを強く支持する。

 4 現在のストライキの動きは、学生の動きが突破口になり、若い労働者がプロモーターとなった(じっさい、山猫スト★15とか、このころ起き始めていた)。その動きはCGTのような労働団体の「制度」を脅かすものだ(社会が硬直化した状態が「制度 institution」と言い表されている)。

 5 学生の反乱のさきに、真のデモクラシーに基づいた社会が構想されつつある。社会主義と自由との結合、平等と自由とのリエゾンがめざされつつある。この会場の大聴衆がだんだん落ち着いていったように、 デモクラシーは自律的な秩序として作り出される。それこそが直接民主主義なんだ。

 6  見習い工も機械工も学生も、みんなそれぞれが「疎外」されている。この疎外の体制(システム)を如何に脱却するか肝心だ。

 7 知識人と農民の関係が西洋と違うチュニジアのような国では、それぞれの国に適した革命のモデルが目指されるべきだ。

 8  プロレタリア独裁なしに社会主義デモクラシーは可能か。私はプロレタリア独裁でなく独裁に陥った多くの社会主義国を知っている。しかし私は、社会主義とデモクラシーとは一心同体で、社会による個人の自由の実現、個人による社会の自由の実現が重要だと考えている(たぶん、このあたりが、すでにハンガリー動乱の経験を目の当たりにし、そしてこの68年に進行中のプラハの春を注視しているこの時代の人びとのもっとも関心のあるところだったのではないか。「社会主義と自由とは分離できない」、とサルトルは強調している。けれども、結局、この問題がどうなったのかは、いまではみんなもう知ってしまったことですね。この問いなしに、20世紀におけるサルトルの存在はないし、その解答の不可能性それ自体がサルトルの存在だったのだろうと思う)。

 そしてサルトルは最後に「マルクーゼの『一次元的人間』についてどう考えるか」という問いに対しては以下のように答えている(ここは、私が聴いている録音にはない部分で、オリジナルの録音も原文テクストも手元にない。サルトルに詳しくない私は不明にして、サルトルが別の機会にマルクーゼについてどんなことを書いたり言ったりしたか分からないのだが、とても貴重な発言だと思う。だから、★12の日本語訳から書き写しておこう。

 なおこの質問については「そんなこと知らない人もいるぞ!」と野次があったようだ。どんな集会にも無知を他人に押しつける輩はいるからね。で、以下が、サルトルの答え。

 君たちがマクルーゼを読むことによって、あるいは君たち自身の力で考え出した考え方がひとつある。この考え方によると、現代社会は、これほどの自己恢復力、つまり己れに不利になりかねないことを有利に変え挽回する方法を、充分にもつように構築されているので、この社会に対するどんな形の反対でも、それが社会内部にあるかぎりは結局は社会に有利なように転進してしまう。今日のテクノクラート社会は、反対者というマイナスすら回収してしまう社会なのだ。己れの為した悪すらも回収してしまう。つまりマルクーゼが実にうまく言っていることだが、ヘーゲルがやましい意識[『精神現象学』に出てくる 自己疎外の意識のこと]と呼んでいるもの──人びとが自分のなすことに多少は苦痛を感じるという事実──を、満ちたりた意識に変えてしまったのだ。現代社会の人間とは、苦悩の大海のうえでも、満ちたりた意識というほんの小さな岩礁があれば、それにすがって生きてゆける人間なのだ。社会が、こんなふうにできているためにどんなものでも回収されてしまう。だからマルクーゼは言っている。社会に対して真の異議申立てができると期待される人びととは、社会の周辺部にいる分子であり、入ってこれもしない分子であると。「われわれの希望とは、希望のないところからしかやってこない。」なるほどいいだろう。実はわたしも個人的に彼と同意見であるばかりでなく、今日ここにいる多くの人びとも同様に考えているとわたしは思う。わたしが言いたいのは、学生反乱のひとつの意義は、君たちがあの社会に入っていくまいとしていることだ。そこへ入ってしまえば君たちは仕立てあげられる。鼠のように仕立てあげられ、その後は馬車馬のように走り、君たち自身管理者になってゆくと考え、そこへ入るまいとしているのだ。だからわたしはこう君たちに言おう。「管理者ほど疎外されたものがあろうか」と。君たちの拒絶、それは『一次元的人間』という題で出たばかりのマルクーゼの著書のなかに、いってみれば、その理論を見いだしている視点からの拒絶なのだ。★16

 ここは、フランクフルト学派のマルクーゼによる管理社会批判、文化産業批判とサルトルの拒絶と無化の実存哲学とが出会っていることを明確に表明したとても重要な発言なんだ。高度資本主義の管理社会と消費社会の「人間疎外」を乗り越えよう。もはや、労働者たちが底辺なのではなくて、より周縁的なマイナーな分子的グループにこそ抵抗と解放の希望が託されるべきだ、というテーマが明確に述べられている。

 

 以上が、ごく粗い要約なのだが、サルトルはとても誠実な人なんだなと思う。それぞれの質問の輪郭をなぞりながら問題の姿を浮かびあがらせて丁寧に答えている。

 しかし、たぶん、現在の若い人びとにはだいぶピンとこない議論の前提がたくさんあるのではないか。

 なんといっても、ブルジョワ、プチブルジョワ、労働者、といった、マルクス主義用語がなんとも古めかしく聞こえることでしょう。そう受けとめられることはこの僕にもよく分かる★17。でも、それはですね、僕たち現代人がもっと全面的に「疎外」されてしまっていて、みんながじつは生活世界の根元からより深く「プロレタリアート」化されてしまっている結果なのかもしれないのだよ。

 たしかに、いまの世界(この68年5月のころから顕在化し、ポスト産業社会から情報革命をへて知識産業社会へと変移してきた資本主義社会)は、19世紀のマルクスやエンゲルスが描いた階級社会の姿も、20世紀に広まったフォーディズム資本主義社会の姿も全然していない。このフランスの1960年代のように、カルチエ・ラタンの学生街から10キロほど西に歩いてルノーのブーローニュ・ビヤンクール工場まで行けば、そこは労働者の街であって、プチブルの子弟でソルボンヌに通う大学生の君が、これまで一度も顔を合わせたことがないような見習い修理工の若い労働者に会ったりする、なんてことは起こらないだろう★18

 それでもね、問題となっていることがらの本質に迫るには、歴史のアングルを広くとることが必要なんだ。

 たしかに、いまのプロレタリアは、エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』で描き出したような悲惨な姿をしていないだろうし、フォーディズム型の資本主義による労働力の搾取という意味でのプロレタリアは現代では像を結ばないだろう★19。この当時でさえかなり無理な捉え方だったかもしれない。しかし、人びとが消費者になったり、メディアの情報の受動的な受け手になっていくというのは、また別の意味での「プロレタリア」化なんだよ。そういうことを言っていたのが、この連載の主人公であるベルナールなんだが、その理論についてはまた追々詳しく話していくことにしよう。

 ソルボンヌの討論の最後で、サルトルが、管理者の「疎外」について語り、マルクーゼの『一次元的人間』について返答しているのは、その意味で、じつに、とても興味深い。そこは、ある意味で、1972年のドゥルーズ・ガタリ『アンチ・オイディプス』など、その後の資本主義批判・社会批判を予告するものでもある。ベルナールの仕事も、明確にこのときすでに、その問いの始まりを指示されていたともいえるだろう。

「想像力を権力に」

 ソルボンヌ大講堂での学生たちとの討論の2日前に行われたサルトルによるコーン゠ベンディットのインタビューは、そのタイトル「想像力を権力に」が永く記憶されることになった。

 コーン゠ベンディットは、この当時、赤と黒、すなわち、共産主義とアナーキズムとの交点に位置するような思想の持ち主だったようだが、かれの素晴らしいところは、まったくドグマチックでなく、まさに自由な想像力の持ち主であったことだ。この人物なしに〈68年5月〉はなかった、とは、運動の側でも、また、権力の側でも、衆目の一致するところだ。ドグマチックな人が多い極左運動とか、頭の硬い伝統的左翼の組織では、広範な自然発生的な動きは起こらなかったことは確実だ。

 

 その彼にサルトルの方がインタビューしたわけだが、コーン゠ベンディットは、いかんなくトリッキーなアナーキー自由主義者の素養を十分に発揮した答えを返している。

コーン゠ベンディット:この2週間に起こったことは、大衆運動の指導勢力としての〈革命的前衛〉という例の理論にたいする一つの反証となっていると思う。[……]「われわれの目標は以上これこれであり、以下のようにしてこれらの目標に到達する」と世間に告げるなら、ポンピドゥーを筆頭に、みんな胸をなでおろすだろう。誰を相手にしているのかがわかり、防御措置を講ずることができるだろう。[……]われわれの運動の力は、まさしく、この運動が《コントロールしえない》自発性に依拠し、衝撃を他に与えながらも、行動を誘導したり、自己の利益のためにこれを利用しない、という点にあるのです。★20

 この会話が、ソルボンヌ討論の2日前におこなわれたとすると、サルトルは大分、コーン゠ベンディットの主張を繰り返すことで擁護したのだと分かる。

 そこで、キーワードの「想像力」が語られるのが、最後のやりとりなのだけれど、目立たないかたちで、重要なことがじつは語られている。

サルトル:学生というのは、じっさいには、ひとつの階級ではなくて、年齢および知との関係によって定義されるわけだね。学生は定義上いつか学生であることをやめねばならない人なわけだからね。どんな社会においても、われわれが夢見ている社会においてさえ、そうなんだよね。

コーン゠ベンディット:ところが、まさしく、それこそを変えないといけないのです。現在の体制(システム)においては、こういうことが言われる。労働する人間と勉学する人間とがいる、と。そして、社会的分業──たとえ賢い分業であっても──にとどまっている。けれども、これとは別の体制、すべての人が生産の課す責務──技術の進歩のおかげでそれは最小限に減らされるだろう──に応じて労働し、かつ各人が、これと平行して、いつまでも勉学をつづけていく可能性を保持しているような体制を想像することができる。生産のための労働と勉学とが同時におこなわれるような体制だ。[……]画一的な規則を制度化しようというのではない。そうではなく、変えなければいけないのは基本原理なんだ。出発点において、学生と労働者の区別を拒否しなければいけないと思うんだ。

サルトル:君たちの行動で興味深いのは、想像力を権力の位置に置いていることだね。万人とおなじで、君たちの想像力にも限界があるのだが、君たちには、年寄りに比して、はるかに豊かなアイデアがある。[……]君たちには、ソルボンヌの壁に画かれている言葉が示しているように、はるかに豊かな想像力があるんだ。なにかが君たちの間かから出現してきた。それが人びとを驚かせ、揺り動かし、私たちの社会を今日のような姿にしてしまったすべてのものを否認している。それこそ、私が、可能性のフィールドの拡大と呼んでいるものなんだ。ぜひ頑張ってつづけてほしい。★21

 こんなふうに、サルトルは「想像力」を強調しているのだけれど、サルトル自身もかれの仕事の出発点において「想像力の問題」をテーマにしていたことを思い出そう★22。微視的な論点に見えたかもしれないが、コーン゠ベンディットの発想には、古くさい労働者階級というカテゴリではなく、「学生」や「若者」という別の括りで考えようとしているところ。労働と勉学との区別を否定して、社会時間の分節を揺らがせ、労働と勉学を相互に行き来する世界への想像力が述べられている。

 「想像力を権力に」も、「想像力が権力を取る」も、〈68年5月〉を、象徴するスローガンだが、次回、この問題を掘り下げることで、「1960年代の想像力」についての視座を確認することにしよう。

 

★1 デモ参加者人数について諸説あるようだが「パリで50万人(警察発表23万人 国営放送ORTF 17万1千)」、労働組合連合諸団体は「全国で100万」と wikipedia フランス語版の「Mai 68」の「Le 13 mai」の項にある。URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Mai_68
★2 68年5月から6月にかけての〈68年5月〉の出来事は三区分に分けるのが一般的とされる。第1期が5月3日から13日までの「学生運動」期。第2期は労働運動が合流した5月13日から、5月27日にポンピドゥー内閣のもと労働組合連合諸団体と企業雇用諸団体との間で社会的諸項目についてなされた「グルネルの合意」(フランス労働省の所在地、パリ七区グルネル街に由来)までの「社会期」。第3期は5月27日からのドゴール派の巻き返しに始まり6月30日の解散総選挙で右派が圧勝するまでの「政治期」。以下のwikipedia仏語版、” Mai 68“の項を参照。 URL= https://fr.wikipedia.org/wiki/Mai_68
★3 『パリ・コミューン』[上]、河野健二・柴田朝子訳、岩波書店、1967年、15-16頁
★4 Edgard Morin, Claude Lefort, Cornelius Castroriadis, Mai 68 La Brèche, Fayard, 2008, chap.1(この本の初版は1968年 )。
★5 URL= https://www.marxists.org/francais/blanqui/1866/instructions.htm
★6 URL=https://www.youtube.com/watch?v=9znkMEtRWRg
Grands soirs & petits matins : mai 1968 comme si vous y étiez, 1968-78 : 16 mm, 105 min, production Films Paris New York. 邦題『革命の夜、いくつもの朝 』(1968)/ウィリアム・クライン監督 William Kleinはオムニバス映画『ヴェトナムから遠く離れて』の監督の一人でもある。
★7 あるいは、21世紀に入っても、フランスの街頭では、人びとが急に言葉を交わし議論し始める光景はときに見られるのであって、2016年3月31日に行われた「労働法」に反対するデモをきっかけにして、夕刻になると人びとが広場に集まって社会問題を議論する「夜立ち上がる Nuit debout」と呼ばれる社会運動がフランス各地に拡がりしばらく続いた。あるいは、2018年にはガソリン値上げに端を発して街角を占拠して社会的諸要求を掲げる「黄色いベスト運動 le mouvement des gilets jaunes」が全国に拡がるなど、自然発生的で直接民主主義的な意思表示の動きは(パリに限らず)フランスではままよくあることなのだ。
★8 バローが演じた、マルセル・カルネの映画『天井桟敷の人びと』のバチストのパントマイムを皆さんは見ているだろうか。ドイツ占領下でポール・クローデルの『繻子の靴』を上演。様々な国の演劇をフランスに紹介するなど、戦後のフランス演劇界に新風を吹き込んだ。夫人のマドレーヌ・ルノーとルノー・バロー劇団を作った。詳しくは、この日本語のwikipediaの項(https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャン=ルイ・バロー)を見てほしい。〈68年5月〉でオデオン座を開放した件で、その後、マルローの文化省から睨まれて、一時はオルセー駅の ”天井裏 ”にテント劇場を構えていた。ベケットやデュラスなど、とても面白い芝居をたくさん上演していたな。日本にも劇団を率いて三度も来日、日本の能をフランスに紹介したのも彼だ。
★9 このヌーヴェル・オプセルヴァトゥール誌の動画で幾つかの代表的なポスターを見ることができる。URL= https://www.youtube.com/watch?v=-kSFrgguoWo&t=1s
★10 このときのサルトルの姿は以下のパリ市のアーカイブで複数のショットを見ることができる。URL= https://bibliotheques-specialisees.paris.fr/ark:/73873/FRCGMNOV-751045102-PH02/A1609173/v0001.simple.selectedTab=record
★11 URL= https://www.youtube.com/watch?v=b8ANsa6wZdw 
★12 この対話は、すぐあとに出てくるコーン゠ベンディットへのサルトルによるインタビューの邦訳(D. コーン=バンディ、サルトル J.P.「想像力が権力をとる〔フランス・5月革命〕」海老坂武訳、『中央公論』1968年8月号、183‐190頁。のちダニエル・コーン-バンディ他 『学生革命』、海老坂武訳、人文書院、1968年に収録)とともに抜粋が訳出され、つづいて次の書籍で全文が飜訳されている。「ソルボンヌにおけるサルトル」(花輪莞爾訳)、サルトル『否認の思想』海老坂武他訳、人文書院、1968年、65頁-81頁。この対話の起こしが全文掲載されたのは、当時のソルボンヌのビラおよびユーゴスラビアの新聞Politikaに飜訳が掲載されたのみであったようだから、この日本語版は貴重な記録だろう。
★13 Entretien de Jean-Paul Sartre avec Daniel Cohn-Bendit, « L’imagination au pouvoir », Le Nouvel Observateur, no 183, supplément spécial, 20 mai 1968.
★14 だから、であろう、このインタビューの邦訳のタイトルは「想像力が権力を取る」となっている。
★15 wildcat strike の訳語で、一部の組合員が労働組合執行部の指令なしにストライキにはいること。小学館『日本国語大辞典』参照。
★16 「ソルボンヌにおけるサルトル」、80‐81頁。なおマルクーゼの『一次元的人間』のフランス語訳は、この発言の前月の68年4月に出版された(Herbert Marcuse L’homme unidimensionnel: un essai sur l’idéologie de la société industrielle avancée, éd: de Minuit 1968)。引用中の「われわれの希望とは、希望のないところからしかやってこない。」という部分でサルトルは同書の結論部を参照している。「ファシズム時代のはじめに、ヴァルター・ベンヤミンはこう書いた――希望なき人びとのためにのみ、われわれには希望があたえられている。」(H.マルクーゼ『一次元的人間 — 先進産業社会のイデオロギーの研究』、生松敬三、三沢謙一訳、河出書房新社、1980年、281頁。)
★17 東大の大学院の文献講読の授業とかで、課題の図書に展開している概念のネットワークをIT空間上で表現するというタスクを出すと、マルクス主義用語を読めない学生が日本の学生には多いということはすでに経験ずみだ。中国からの留学生は、公式マルクス主義的な知識は基礎教育で受けているからその差が見えて興味深い(文献講読の概念ネットワークをトピックマップを使って表現するという授業は、2006年頃にやっていたのですね。まだネット上では関連記事が読めるから、例えばこちらをどうぞ。写真に表示されているのが、バルトとかソシュールとかの名前で概念が指示されている僕の授業の様子。URL=https://xtech.nikkei.com/it/article/NEWS/20061030/252180/
★18 おなじことを日本の例で考えるとすれば、例えば、東京のカルチエ・ラタン、お茶の水駅から旧プリンス自動車(現在の日産自動車に合併・吸収)の村山工場(武蔵村山市)までの距離かもしれないが、35キロはある。
★19 ただし、それは、目に見えなくなっているだけで、じっさいには、工場は第三世界に外だし(オフショアリング)されていて、そこでは、じつにひどい過酷な労働が強いられていたりする。
★20 「想像力が権力を取る」(海老坂武訳)、『学生革命』、110-112頁 (インタビュー原文を参照して、若干口語調に改めた)。
★21 同書、117-119頁 (インタビュー原文を参照して、若干口語調に改めた)。
★22 代表的著作としては、サルトル全集第12巻『想像力の問題』人文書院 1983(『イマジーネール 想像力の現象学的心理学』講談社学術文庫 2020)原著は1940年刊。

 

石田英敬

1953年生まれ。東京大学名誉教授。東京大学大学院人文科学研究科博士課程退学、パリ第10大学大学院博士課程修了。専門は記号学、メディア論。著書に『現代思想の教科書』(ちくま学芸文庫)、『大人のためのメディア論講義』(ちくま新書)、『新記号論』(ゲンロン、東浩紀との共著)、『記号論講義』(ちくま学芸文庫)、編著書に『フーコー・コレクション』全6巻(ちくま学芸文庫)ほか多数。
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