68年5月10日 飛び魚と毒薬(4)|石田英敬
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リンク先の写真を見て欲しい[★1]。画面をスクロールして5番目に出てくるモノクロの写真だ。モロッコ出身のフランス・スイス人の写真家ブリュノ・バルベイ Bruno Barbey (1941-2020)の業績を紹介するページだが、「バリケードを築くために列をつくって舗石をリレーする学生たち 1968年5月10日 パリ」とキャプションが付されている。説明がなければ、まるでミュージカルかなにかの舞台写真かと思ってしまいそうな優雅な写真だ。バルベイはカルチエ=ブレッソン等に出会うことで写真をはじめ、フォトジャーナリスト集団マグナム・フォトのメンバーとして戦争や紀行の写真、政治家・芸術家の肖像写真を残した優れた写真家だが、〈68年5月〉[★2]についても傑作を幾つも残している。
で、このリンク先の写真なのだが、潜在的にはベルナールが写っているはずなのだ。撮影されたのは、前回語った5月3日から一週間後の5月10日の夜から11日の未明にかけて。場所は、ソルボンヌから100メートルほどに位置するゲイ=リュサック街。サン・ミシェル通りをリュクサンブール公園の方に行き、左に折れたところからパンテオンの建つサント=ジュヌヴィエーヴの丘をまわり込むようにゴブラン通りの方へ上がっていく、中ぐらいの幅のまっすぐな道路だ。夜に撮られた写真の奥では、煙か靄のようなものが立ちこめていて(催涙ガスか火炎瓶の煙だろうか)、後ろの方の隊列がよく見えないが、だいぶたくさんの若者たちが──バケツリレーの要領で──剥がした舗石のリレーに参加しているようだ。かれらの足元では土の路面がむき出しになっていて、パリの石畳の街を知っている読者なら「あれ〜」と思うはず。道路工事の場面とかを考えれば分かると思うのだが、石畳が敷き詰められたパリの街も、ひとたび舗石を剥がせば、このように土が露わになって「砂浜」みたいになっているわけなのさ。いま語っている〈68年5月〉のあとで有名になったスローガンのひとつに「舗石の下は砂浜だ! Sous les pavés, la plage!」というのがある。みんながあくせく働く「疎外された」近代産業都市の足下には、ほんとうはバカンスの海岸が波打っているんだぜ!、っていう意味だ。若者たちの足下にはいままさにその砂浜が出現したところなのだ[★3]。
パリ・ソルボンヌ地区とその周辺の地図。編集部制作
前回、5月3日の夕刻、サン・ミシェル河岸のジベール・ジュンヌ書店の店頭でモリエール全集の古本を買おうとしていた場面に取り残してきた16歳のベルナールだが、「催涙弾が炸裂した音で振り返ると、ソルボンヌ広場へ直行した。そこではもう〈68年5月〉が始まっていた」と語っている[★4]。「それから三週間、〈68年5月〉の街頭から離れることがなかった」、「とくに、自分がいたのはゲイ=リュサック通りのバリケードのなかだった」、と。
そのゲイ=リュサック街のバリケードは、5月10日金曜日から11日土曜日の夜半にかけて「バリケードの夜」と呼ばれるようになる警官隊との華々しい衝突となった現場だ。ベルナールは、若い頃に参加した学生運動のことをまるで自慢話のように得意になって話すような(残念ながら、日本の団塊世代とかにはときたま見かける)インチキ知識人タイプの人ではなかった。〈68年5月〉の経験はかれにとってはどちらかというとネガティブなものと捉え返されていて、その分、多くの言葉を残していない。同じ時代を生き、やや似た経験をもつぼくにもその気持ちはよく分かる。ラディカルな意志のスタイルを示すことは若者の特権で大切なこととは思うが、その後の人生は長く、ひとは世界の複雑さをだんだん学んで自分の思想を育てていくものだからね。
しかし当時は16歳でまだ若くあったわけだし、この連載の第二回で少し書いたように、高校生運動にコミットし始めていた頃で、デビュー早々の高校生「活動家」としては、水を得た魚状態となったことは想像に難くない。コンドルセ高校のロマン・グーピル君(第二回に登場)の処分反対集会で千人規模の高校生たちが集まって警察の車両をひっくり返す出来事が起こったのが68年の1月。ナンテール校舎の大学生たちの「3月22日運動」に劣らず、この時期、フランスの高校生たちの運動はかなり盛り上がっていた。のちに映画人になったグーピル君が当時から撮りためていたスーパー8mmフィルムを編集して作ったデビュー作に『三十歳にて死す Mourir à trente ans』という1983年のカンヌ映画祭カメラ・ドールに輝いたドキュメンタリ作品がある[★5]。当時のトロツキスト高校生運動の中心人物で〈68年5月〉では高校生の代表的組織者だったミシェル・ルカナティ Michel Recanati (1950-1978)との出会いと別れを軸に構成した自伝的作品なのだが、ちょっとトリュフォーの『大人は判ってくれない』を思わせるような瑞々しい映像世界のなかに、1960年代の若者たちの青春群像が捉えられている。そんな若者たちの動きの近くにベルナールもいたというわけだろう。
前回語った5月3日のソルボンヌ中庭の出来事以来、学生たちの騒ぎはバタフライ効果的にみるみる拡大していった。ナンテール校での学生処分の撤回や5月3日のカルチエ・ラタンの騒動での逮捕者の解放を求めていた学生たちが、5月10日の18時半にパリの南のダンフェール・ロシュロー広場で集会を開いた。この日「高校生行動委員会 CAL」の高校生たちが巨大な集団となって学生たちの運動に初めて合流した[★6]。高校生たちは、パリの高校を次々と回って参加を呼びかけながら会場へ向かったのだが、大きなライオンの銅像が中央に鎮座する広場に着いたときには、かれらの隊列は5000人規模に膨れ上がっていた。
その集会とその後のデモの参加者は全体で二万人規模になったようだ。19時半ごろから、近くのサンテ刑務所の前を通って、拘留されている仲間を「激励」した(しかし、留置された学生たちはじつはそこではなく郊外の拘置所にいたようだ)のちカルチエ・ラタンにやってきてソルボンヌ周辺を占拠して座り込んだ。
この頃にはすでに地方の大学へも騒ぎは波及していて、学生たちの動きは全国的な話題になっていた。前々日の水曜日のデモはめずらしく平穏で、国民教育大臣のアラン・ペイルフィットは学生たちが暴力的な動きにでなければ翌日からソルボンヌでの講義を再開すると国民議会で述べていた。にもかかわらず、結局、その約束は果たされなかった。学生たちの方ではだまされたという思い、おとなしくしていると権力にいいようにごまかされてしまうという思いがつのっていった。
この金曜日の夜20時30分には国営テレビ局1チャンネルの定番報道番組「Panorama」で学生たちの問題についてのルポルタージュ特集が予定され、大学関係者や高等教育組合責任者、全学連委員長らのインタビューが収録され準備さていた。しかし、放送45分前になって政府の横やりでストップがかかった。そういう「検閲」事件もまた、権力に抗議する学生たちの戦う機運を盛り上げていた(「68年5月」は権力がやってはいけないことをすべてやった結果、大火事になった失敗学の範列的な事例だったといえる)。
ところでこの時代、フランスのテレビ・ラジオ放送局(ORTF)が国営放送として国家の独占下にあったのに対して、国外から電波を届けている周縁ラジオと呼ばれる民放放送局が存在していた。その代表的なものが、Europe1とRTLという民放ラジオ局で、それぞれドイツとルクセンブルクから発信していた。1950-60年代はラジオ放送技術に革新が起こった時期で、ナグラ Nagraと呼ばれる携帯録音機[★7]、トランジスタの普及によるポータブル受信機の小型化、LPレコードの発明によって、ラジオがいつどこからも実況放送が送受信でき、また長時間の録音を放送できるようになっていた。とくにEurope1はこうした技術革新を活かして、生番組放送を行い、Salut les copains!(邦訳すれば「みんな、トモダチ!」ぐらいか)という音楽番組にロック歌手ジョニー・アリデー Johny Halliday(1943-2017)やアイドル歌手シルヴィー・ヴァルタン Sylvie Vartan( 1944-)を登場させて成功を収め、1963年6月22日にはナシオン広場でこの音楽番組から派生した同名音楽誌(いまならメディアミックスというだろう)の刊行一周年記念に20万人の聴衆を集める野外ロックコンサートを開いて、興奮した若者たちと警官隊との衝突が起きるなどの騒ぎを起こしていた[★8]。このとき社会学者のエドガール・モーランEdgar Morin (1921-)はこの出来事をふまえて、十代若者たちの世代を「yé-yé世代」と命名している[★9]。
これらの周縁放送局は、中継車を走らせて学生デモの様子を同時中継、デモの指導者たちもラジオインタビューを通じてデモへの参加を呼びかけたから、群衆の数は増えていった。この観点から見れば、〈68年5月〉は、出来事が次々とメディアによって同時中継されそれに伴って渦が大きくなっていったメディア革命という側面が見えてくる[★10]。
デモ隊は、サン・ジェルマン通りとサン・ミシェル通りの交差する地点まで来て、警官隊がブロックしていなかったサン・ミシェル通りをソルボンヌの方へ流れた。学生の一部は、周囲に展開した警官隊の様子を見て敷石を剥がしたり、街路樹を覆う鉄柵や看板などを引っこ抜きはじめた。いやそういう暴力的なやり方には反対だという平和主義者の学生たちもいたようだが、防衛のためだとかなんとかいいながら舗石をはがしにかかった。ノンポリの学生たちもいたが、いわゆる過激派(トロツキストとかアナキスト)の学生たちのなかにはひと騒ぎという傾向が強かっただろうことは想像に難くない。街路のあちこちにバリケードを築いて一戦まみえる準備を始めたのだった。
それから、ちょっと面白いことが起こった。
前回紹介したトリックスター的指導者ダニエル・コーン=ベンディットは、デモ隊に対してソルボンヌを警備している警官隊を平和的に取り巻いて待機してくれるように言った。彼は運動の指導者たち(全学連委員長のジャック・ソバージョ〈前回登場〉、高等教育教員組合〈SNESup〉書記長のアラン・ジェスマール Alain Geismar〈1939-〉など[★11]、この後5月革命の指導者と見なされるようになった人たち)とともに、大学当局(ロッシュ総長と、クロード・シャラン Claude Chalin 総長代行、など)、国民教育省の責任者、果ては国民教育大臣ペイルフィットなどを相手に、膨れ上がった学生デモをバックに、学生処分の撤回、逮捕者の釈放、ロックアウトされた大学の再開を交渉しようとした。
先ほどリンクで紹介した写真や動画を見てもお分かりのとおり、この68年の学生たちはジャケットを着て、ネクタイしていたりして、(いまの感覚からみると)随分とおしゃれでしょう。ジーンズとかじゃないですね。それはひとつにはまだ世界がアメリカン・ファッションになっていなかったということがあるのだけれど、同時に、この頃の学生たちはまだだいぶ社会のエリートでブルジョワジーの子供たちだったのだ。この点は重要で、警官たちを含め、政治権力の側でも、次の時代をになう社会のエリートたちを相手にしているという感覚がとても強かった。だから対立はしていても、大学当局及び政府と学生たちとの間には、一定の相互リスペクトが成立していてコミュニケーションが可能だったのだ。日本の1960年安保闘争もそうなのだが、学生たちの数はまだ圧倒的に少なかったし、大学はエリート機関で、大衆化する以前だったのだ。そうした古典的な大学が終わっていくのが、西欧諸国でも日本でもこの1960年代だった。日本でも東大紛争は「知性の叛乱」とか呼ばれたのだが、21世紀の今、大学で学生が騒いだとしても、だれも”知性の叛乱”などとは呼ばないだろう。学生たちが大学の管理者や政府・大臣と直接交渉しようとしたことにも、そのようなコミュニケーションの前提がはたらいていたと感じられる。両者の亀裂はまだ決定的ではなかったのだ。
この夜、デモの代表者たちは、座り込んだ多数の学生たちの声をバックに、大学当局や政府関係者と交渉しようとした。
そして、さきほど紹介した周縁ラジオ局が活躍する。
22時頃、RTL放送のラジオ中継車の電話にシャラン総長代行が登場し、教員組合書記長のジェスマールに向かって呼びかけた──「ジェスマールさん、いまどこにいるんですか? 話し合いのために私個人が現場に出向いて話し合う用意があります。そうしませんか?」。ジェスマールは、「それはたしかに可能です」が、先週から拘留されている4人の仲間の解放が前堤条件で、「それができないようでは、総長代行にご足労いただいても意味がないように思います」と応えた。総長代行にもちろん逮捕者を解放する権限などなかったから、シャランは、「ジェスマールさん、お分かりと思いますが、私はそうした約束をできる立場にありません。私にできることは、大臣に連絡をとることで、大臣なら内閣の名においてそうした決定をすることができるはずです」と応えた。ジェスマールは、通りに面した建物住民たちに、窓辺にラジオを通りに向けて置いてくれるように訴えた。そして、「大臣が決定をすれば、大臣は即座にラジオを通じてデモ参加者に決定を伝えることができます」と群衆に語りかけた。これに対して、「すぐに大臣に連絡をとりましょう」と総長代行の返答。ラジオ局パーソナリティが対話を引き取り──「それでは、みなさん、5分から10分待つことにいたしましょう。総長代行に大臣の答えが届き次第、放送局に電話連絡をいただきます。リスナーのみなさん、引き続きをこのニュースをお聞きください」。
と、まあ、こんなふうに、テレビやラジオと街頭がシンクロする時代になっていたのだ。結局、5-10分が50分になり、座り込んだ学生たちの長い長い待機のあと、大臣の回答は届かず、22時52分になって、総長代行は、すでに提案していた学生の代表団とロッシュ総長との会談を再提案、逮捕学生の釈放については無回答だった。それを聞いたジェスマールは、「政府が責任をとれないのなら、民衆が責任を取るべきなのはもはや明らか」と一斉蜂起をうながすに近い発言。ラジオ局も、現場のやりとりに幹部が割って入り、ジェスマールに対して運動に指令を発するのを放送するのは放送局の役割ではありませんから、と遮って、このやりとりは沙汰止みとなった。とはいえ、これらのラジオ局はこの夜以来、「バリケード放送」と呼ばれるようになった。
深夜をすぎて、0時15分から、社会学者でナンテール校教授のアラン・トゥーレーヌ Alain Touraine(1925-2023)の仲介で、デモの代表団はロッシュ総長と会談。カルチエ・ラタンからの警官隊の撤退を求めるも交渉は不調に終わり、会談を終えて1時45分に出てきたコーン=ベンディットは、「交渉にはならなかった。総長に言ったのは、『今夜街頭で起こっているのは、若者たち全体によるある種の社会のあり方に対する異議申し立ての表現なんだ。流血を避けたければ、警官隊は全員カチチエ・ラタンから離れなければいけない』ということ、われわれの要求が受け入れられなければ、デモ隊はバリケード占拠を続けることになる、ということだ。」とメディアの実況取材に応えた。
交渉決裂を受けて、政府の方では、アフガニスタン訪問中のポンピドゥー首相の代理を務めるジョックス法相とフーシェ内相が協議。2時15分に警官隊に突入指令が下された。
残っていた学生たちは数千人で、舗石を剥がして「砂浜」を出現させ、周辺の各道路に60ほどのバリケードを築いて待ち受けていた。もう騒ぎは十分拡がっていたので、ジャン・リュック・ゴダールも駆けつけてキャメラを回すと同時に、学生たちに舗石を手渡したりしていた。
警官隊もだいぶ待たされてじりじりしていたから、手荒な突入で、催涙ガスが打たれ、バリケードは次々に突破され、対抗する学生からは、火炎瓶が投げられ、火が放たれ、自動車がひっくり返され、華々しい攻防戦となった。住民たちも(今の人びとにはやや意外に思えるだろうが)学生たちに同情的で、ゲイ=リュサック街アパルトマンのバルコニーからは植木鉢やら何やら手当たり次第に警官隊の頭上に投げ込まれた! Europe1局のリポーターが叫んだ──「あ、機動隊がアパルトマンの内部に向けて催涙弾を発射しました!」。
攻防は早朝まで続き、ムフタール街の方で最後のバリケードが撤去されたのが、5時半。奇跡的に死者はいなかった。この「バリケードの夜」の主戦場が、ベルナールがいたと証言しているゲイ=リュサック街なのだ。5月11日朝に取られた写真が通りの一夜の戦いのすさまじさを物語っている[★12]。近くのカトリック施設が救護所となって負傷者の世話に当たったし、ジャック・モノーやフランソワ・ジャコブといったノーベル生理学・医学賞受賞の学者までも、救護隊を組織して学生たちの手当に奔走した。
パリ警視庁の発表では、負傷者総数367名で、その内訳は、警官251(18名重体)、学生102(4名重体)、自動車の被害188件(内、60台全焼)、逮捕者460名。特記すべきなのは、〈68年5月〉この初期の段階では、パリ住民たちの反応は、おどろくほど学生たちに同情的で、警官隊の暴力的な弾圧に批判の声が高まる結果となった。
コーン=ベンディットは、Europe1の取材に、「野蛮な弾圧」を非難したうえで、「すべての労働組合とすべての左翼政党は、学生と青年労働者と連帯して、月曜日からゼネストに入るよう」訴えたうえで、その日のデモには解散指令を発した。
そして、じっさい、次の週の5月13日月曜日からは、労働組合が運動に合流を決定し、20万を超える巨大なデモが街頭を埋め尽くすようになっていく。
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今回語ったのは、いまでは、伝説のようになっている、〈68年5月〉のまだ初期の局面である。この出来事は、この後、さらに、週を追って、ますます拡大し続けていく。当時フランスの首相であったポンピドゥーはアフガニスタン外遊中。大統領のドゴール将軍も、翌週の5月14日から18日にかけてルーマニア訪問に出発する。フランス第五共和国の権力中枢はいま拡がりつつある危機をまだ十分には認識していないのだ。
ナレーターとしての私は、いまこの話をどこまで書くべきか迷っている。16歳のベルナール君がバリケードの夜にどんな活躍をしていたのか、どんなことを考えていたのかその詳細は伝わっていない。パリという都市をよく知っている読者なら分かると思うが、ゲイ=リュサック街はさほど道幅広くも道路として長くもなく、高等師範学校やパンテオンに向かうユルム街やソルボンヌの接するサン・ジャック街の狭い通りへとつながっている。このカルチエ・ラタンのどこかで、これからまだまだ続く闘争の夜々をもう3週間ほどの間、政治闘争の昂揚に浸っていたのかもしれない。あのフランス独特の警察車両のサイレンの音が耳底にまだ鳴り響いていそうである。
他方、このぼくはまだ14歳、神戸の中学校に通う、少しだけ政治にめざめ始めたお勉強のよくできるおぼっちゃん風の少年だった。
そうなんだけれど、このパリの5月の騒ぎについては、多くの日本人と同じように、大分よく知っていて興味を持っていた。なぜなら、そのころはもうすでに日常のなかにテレビがあったからだ。ぼくの記憶では、当時のテレビはいまよりずっとマトモなマジメなテレビで、NHKでは海外ニュースなどもよくやっていた。TBS系列のMBS毎日放送にはTBS制作のニュース番組もあった。ルポルタージュやベトナム戦争をめぐる報道番組もさかんに放送されていたと思う。第一次羽田事件で京大生が死亡したのは前の年1967年の10月だし、TBS「ハノイ 田英夫の証言」も同じ月。「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」がアメリカ脱走兵の逃亡を支援したのも同じ頃だった。つまり、世界中でベトナム戦争に関する情報が広く流れて共有され、日本の中学生でも世界事情はよく知っていたのだ。
そのような一般的なメディア状況のなかで、サルトルとボーヴォワールが1966年の秋に来日して講演したことは、同じ年の6月にビートルズがやってきたのと同じようにニュースや新聞で知っていた。そして、1968年5月にパリで学生たちのデモが起こり、街頭で警官隊と衝突し、街路樹が倒されてバリケードが築かれ、ソルボンヌが占拠され、サルトルが学生たちを前に対話をしたというニュースは、たしかに、NHKニュースで見ていたことを鮮明に憶えている。
その年は、チェコの「人間の顔をした社会主義」で知られる「プラハの春」も進行中で、中学三年生のぼくは、フランスの〈68年5月〉の顛末を目撃した後、その年の夏休みの宿題に、「プラハの春」をテーマに自由研究に取り組むことにしたのだった。たしか、岡本(東灘区岡本)のお寺の住職もしていた社会科の先生から、どうしてそのテーマを選んだのかと聞かれたので、自由主義の国の若者たちが社会主義を主張することと、社会主義の国の若者たちが自由を求めることの理由を考えてみたいからだ、などと、例によって、生意気な答えをしたことを憶えているよ。その先生は、ただ、「ほう、そうか」とだけ言った。
この連載は、〈68年5月〉の物語ではなく、ベルナールとぼくを巡るクロスバイオグラフィーの試みなのだから、歴史的事件の全体を物語ることはできない。しかし、二人の人間の軌跡がどこで交錯するかは、リアルな場所を越えて、メディア上でクロスするのが20世紀の世界でもあるのだから、次回は、この点をめぐって、〈サルトル〉と〈想像力〉と〈68年5月〉について書いてみることにしようと思う。
石田英敬